4  幼稚園プルプル

文字数 13,804文字

 麻柚ちゃんは生まれつき両足がなかったのだそうだ。
 それでもふさぎ込むことなく、臆することなく外出も積極的にする。
 普通の幼稚園で学ばせたい。そして普通の小学校、中学、高校、大学にも行かせてあげたい。
 それは本人と両親の切実なる願い。

「それはわかったけどさ」
 鉄は眠っていないのか目の下にくまがみえる。
「勉強か。まあ頑張るにこしたことはないけど」
 翌日の昼過ぎ、鉄は再び木越家の床暖房でぬくんでいた。クロはリビング出入り口が定位置のようでそこでお座りをして動かない。
「妹がうるさいのなんの」
「山手線に乗っていた気の強い子か」
 昨日と同じくソファーに体をあずけて天井を眺める木越である。
「大変だったんだぞ」

 昨日帰宅したところ。
「お兄ちゃんお帰り」
 あえんが笑顔で玄関まで鉄を迎えに出るなんて薄気味が悪い。ありえないことが起こっているということはろくなことがないということだ。
「どうだった、木越様の様子」
 両手を合わせて瞳をきらきらさせる。
 とたんに様々なことが思い起こされる。だがそれを言うわけにはいかない。
「熱は下がってた、元気そうだった」
「ずいぶん長くいたんだね」
「積もる話があったんだよ」
「そんな仲よくなかったんでしょ」
「仲よくなかったなりにあるんだよ」
「なんで怒るのよ」
 あえんは唇をとがらせている。
「お兄ちゃん不機嫌ね」
 今日起こったいろんなことが思い起こされる。こちらに戻る寸前、傍観していただけだった群衆の誰かが「犬を捕まえろ」と騒ぎだし、それに乗っかった奴らが犬怪人を追いかけはじめたのだ。こっちは路上喫煙者を抱えているのに行く手を阻まれ、取り囲まれ、押し潰されそうになって、木越に助けを求めたところで目を開けたのだ。まるで悪夢を見たようだった。
 あの現場では犬怪人たちの姿はパッと消えたはずだと木越は言った。
 たのしかったと手放しでは言えない。
 でも、木越が無防備な笑顔を見せたのが鉄には驚きだった。
「そんなことないよ。普通に会話できたし」
 あえんの目を見たらウソと見抜かれてしまう。鉄は極力目をそらした。
「ふ~ん」
「鉄、ごはんできてるわよ」
 奥から母の声がして「食べる食べる」とあえんをスルーすることに成功した。
 しかし、それだけで終わるあえんではなかった。夕食の最中、
「またでたんだって、オテフセ団」
 危うく味噌汁を気管に流し込むところだった。
「今度は吉祥寺で歩きタバコの取り締まりだって」
 一家5人の食卓で、あえんの言っていることを理解したのは鉄だけであった。
「なんだ、そのオテフセ団というのは」
 父が眉間にしわをよせる。
「ネットで大騒ぎになってるの。悪の秘密結社なんだけどいいことしているんじゃないかとも言われてる」
 あえんは両親と祖母にオテフセ団が昨日今日なにをしたかを話した。
「そいつら携帯に写んないの。シャッター押したときはたしかに映ったと思うのにデータひらくと映ってないのよ。だから証拠がなくて集団催眠とかまぼろしだとか言われてる。カキコミサイトじゃ大論争になってるよ。オテフセ団のやることを支持する派と取り締まるべき派と」
 鉄はなにを食べているのかわからなくなってきた。ミートボールがドッグフードにみえる。
「お兄ちゃんも昨日見たもんね」
 機械的に動かしていた箸が止まってしまう。
「なにを」
 どきまぎしてしまう。カンのいいあえんが兄の反応に疑問を抱かないわけがない。
「お兄ちゃん、やっぱり木越様の家でなにかあったんでしょ」
「えっ?」
 冷たい汗が背中にしたたる。あえんにはオテフセ団の話をやめてもらいたかったが、なにを言っても逆に攻められそうだったし、「木越様の家でなにかあったの」なんて言うものだから父の目が厳しくなっているし、母はうつむくし、なにもわかっていない祖母はニヤニヤするし。
「まさかお兄ちゃん」
 なにかを突き止めたといわんばかりのあえんの目。
 どんな詰問をされても言えないことはある。鉄にできることは味噌汁の湯気を見つめることだけ。
 あえんは鉄の顔をじっと見て言った。
「女の子にモテないからって木越様に色目使ったんじゃないでしょうね」
 あえんは祖母と一緒にニヤニヤ。血がつながっているだけにとても似ている。
「そんな気色の悪いことするわけないだろ」
 しかし、あえんの勘違いは安心して反論できるものだったので、鉄はホッとした。
「キレた?」
 あえんはまだニヤニヤ笑って言う。
「当たり前だ」
「ならいいんだけど」
「まったく、なにくだらないこと言ってんだよ」
 ようやくミートボールがドッグフードから豚肉100%のデミグラスソースがけに戻った。
(よかった、あえんはオテフセ団とおれらのつながりはまるで考えていない)

「あえんのやつ、木越の家でなにがあったのかってしつこく聞いて困ったよ。今日は図書館に行くと言って出てきたんだぜ」
「そいつは大変だったな」
 悪の首領は落ち着いている。
「でさ」
「なんだ」
 鉄はテーブルを指さした。
「昨日のオレンジ」
 それは穴の空いたオレンジのオブジェでは決してない。
「食べれなかった」
 親指の形に穴の空いたオレンジはそこから水蒸気を抜かれてうるおいをなくしていた。
「せめて捨てておけよ。人の親切なんだと思ってんだ」
 母が熱をだした木越のために渡してくれたオレンジ。いくらなんでも失礼だろう。親切で持ってきたものを。
「すまん。わかったから早くその問題解け」
 この日、鉄は昼間から呼び出されていた。オテフセ団の活動の前に勉強をみるといわれたのだ。
 鉄はむくれつつ目の前の英文に向かった。
 鉄は理数系はそこそこ得意だった。数式をあてはめて正確な数字を出すのは名探偵の謎解きのようで楽しいと思っている。
 しかし、会話の場合文法が多少間違っていても外人に通じるのに定められた正解がある英語は自分のなかで納得が出来ない故に苦手であった。
(だいたい、発音なんてだれが決めたんだよ。なまりまくって発音記号無視してんのは外人のほうじゃねーか)
 と鉄はふてくされる。
 その間、木越はソファーから腰をあげた。
 だらしなくもたれていたのをお尻を動かして深座りに直し、一息ついてから両手をソファーの両脇について「ウッ」と腹に力をいれるような息をだして立ち上がり、ローテーブルのオレンジに手をのばし、つかんで足をひきずるようにゴミ箱にむかって、真上から落とした。オレンジが落ちるボスッという音がした。よく見るとゴミ箱はコンビニ弁当の容器であふれている。
(おふくろさん出て行ってからろくなモノ食べてないんじゃないか)
 父親も滅多に帰って来ない。一人で住むには広すぎる家。木越が料理を作るのはイメージができない。どちらかというと曜日ごとに違う女の子がやってきて日替わりメニューを楽しんでいるというあくまでイメージがする。
(それなのにコンビニ弁当なんだ)
「そうだな、包丁握れないし」
 男が料理できなくても恥じることはないのに木越はゴミ箱のまえで寂しそうに佇む。
「でも心配するな。学食では栄養のバランス考えて食べるようにしているから」
 学食、鉄にはあこがれの場所だ。
「学食か、いいなあ」
「来年一緒に食おう」
 鉄は返答に困った。
「大丈夫、オレを信じろ。問題解けたのかよ」
 木越は家庭教師に戻った。
「もうちょっと」
 あわてて取り組む鉄。
 木越は足裏に床暖房のぬくもりを確かめるように歩き、これだけ暖房きかせているのに冷えるのか両手をこすりあわせグーパーグーパーを繰り返しながらふたたびソファーに腰を埋めた。
(冷え性か?)
 男のくせにと思ったら。
「だまって問題解け」
 おこられた。

「柴浦さ」
 問題の答え合わせをみて木越は真顔だ。
「なんだよ」
 息を飲む鉄。
「よく高校卒業できたな」
 胸にぐっさり刃がささる。
「そこまでじゃないだろ」
「なんで英語がこんなにダメなんだよ」
 さすがに鉄も眉間にしわがよった。
「先生が嫌いだったせいもある」
 高校の英語教師は竹刀を持って、答えを間違うと容赦なく黒板を叩いていた。本当は生徒を殴りつけたかったのだろうが保護者がうるさいから黒板で我慢しているのがありありとわかる態度だった。
「ああ、テンパーか」
 天然パーマだったのと名字が天野だったからテンパーと皆にいわれていた。
「テンパーは小児マヒで車椅子生活の弟を抱えていた。両親はテンパーがガキのころ父親の暴力が原因で離婚していてかなり苦労したみたいだ、オレらが入学する頃に母親が癌で亡くなってひとりきりで弟の面倒みていた。弟のことを理由に女性にはことごとくふられ続けて結婚もできずにいた。ストレスもたまってたんだろうな」
 すらすら語る木越。
「え、そうだったの」
 鉄はまったく知らなかった。高校生活のなかでそんな話はウワサにも聞いたことがなかった。
「なんでそんなことしってんだ」
 木越はだるそうな目を天井に向けている。
「介護が必要な弟の世話を押しつけられると思ったとたん女性にさようならされた回数を思うとテンパーのこと嫌いにはなれなかった。それを生徒に八つ当たりするのは大人のすることじゃないけどさ」
 木越がだれに聞いたのかはしらないが、突っ込んだプライベートだ。
「……安易に嫌って悪かったかな」
「仕方ないさ、知ってしまったオレも誰にもいわなかったことだ」
 木越は自分のことのようにうなだれる。
「ということだから、英語嫌いをテンパーのせいにするのはここで終わりだ。正しい文法覚えてもらうぞ」
 木越は改めて言い切った。
「うっ」
 鉄は二の句が継げない。

「じゃ、今日の勉強はここまで」
 木越はテンパーと同じく容赦がないところが共通していた。つめこまれるだけつめこまれた鉄の脳細胞は水蒸気をあげていた。
「ケーキでも食べるか」
 と木越は冷蔵庫をあごさすが、そのケーキを買ってきたのは鉄である。

「なあ、まじで幼稚園襲うのか」
 マンゴーショートケーキをほうばりながら鉄が聞く。
「ああ、クラリス幼稚園は高飛車なせんせいが多すぎる。こらしめたほうがいい」
 知ったような口をきく木越も同じマンゴーショートをほおばる。
「なんでそんなこと知ってるんだよ」
「元カノがせんせいやってるから」
 へ~、そうなんだ~。と軽く返せればいいのだろうが。
「どうやって知り合うの」
 身を乗り出してしまった。
「紹介してほしいのか。やめたほうがいいぜ、クラリス幼稚園のせんせいというブランドだけを武器にしているようなのは」
 だから、どうやって知り合ったのかと聞いているのに。
「麻柚ちゃんにはもっといい幼稚園があるとオレは思っている。だけど奥さんがこだわってるんだな」
 昨夜お会いした坂田麻柚ちゃんのお母さん。しっかりした凛々しい人にみえた。
「ここらへんって高級住宅街っていわれてるだろ。だから近所の子供たちはみんなクラリスなんだ」
「ご近所付き合いか? そんなもんどうでもいいじゃないか」
「そうはいかないみたいだぜ、奥さまの世界は」
「ふーん、面倒臭いんだな」
「ご近所のなかにも麻柚ちゃん入園賛成派と来て欲しくない派があるから間にはさまれた奥さんと麻柚ちゃんはあとにひけなくなっているところもある」
「おまえ、主婦並みにくわしいな」
 木越は白い歯をみせて、
「麻柚ちゃんのお母さんとはよく話すから」
(主婦もターゲット内なのか)
 男として羨ましいことこの上ない。
「断っておくが、オレは主婦には手はださないからな」
「えっ」
 心を読まれたような気がして驚いた。
「えってなんだよ」
「深い意味はないよ。それよりさ、襲うって子供になにかするわけじゃないだろ」
 念のため聞いておく。子供に罪はないと思うからだ。
「犬怪人を見て泣き出すのがいるくらいだろう」
 それは複雑な心境になる返答だ。
「そのへんは考えるよ」
 気楽に構える木越である。

 赤柴犬のクロがフローリングに円を描けば光の輪とともに犬怪人がその姿をあらわす。
 力仕事はお任せあれといわんばかりの猛者どもが趣味がいいとは言えないTシャツとビキニパンツ姿で登場するのだ。
 しかし、今回現れた犬怪人は。
「こ、こんにちわでしゅ」
「あくじをはたらきまちゅ」
 鉄は目をこすった。二匹の犬怪人は身を寄せ合うようにプルプル震えていた。
「たのむぞ、スムチー男にロンチー男」
 木越が声をかけたのは緑色Tシャツを着たブラックタンのスムースコートチワワと黄色Tシャツを着たブラウンのロングコートチワワだった。小型犬なので、怪人といっても小学生くらいの背丈しかない。
「が、がんばりましゅ」
 とスムチー男がいい。
「にんげんどもにけいしょうをならしまちゅ」
 とロンチー男がいった。
「こいつら大丈夫なのか」
 鉄が不安に駆られたのは言うまでもないことであるが木越は、
「犬怪人最強のペアだぜ」
 そんな馬鹿な。これではのりこんだとたんつまみ出されやしないか。
「頼りないなあ」
 と鉄はチワワ男をながめた。
 二匹は小刻みに体を震わせてこちらをみている。大きな黒い瞳がふるふると波打つように揺れている。
 ぷるぷる。
 ふるふる。
 やわらかくてデリケート。舌触りなめらかなプリンのようだ。
(か、かわいい)
 鉄はお花畑で彼らと追いかけっこをしている妄想にかられた。
「待てよう、チワワちゃ~ん(ハートマーク)」
「つかまえられるならつかまえてくだしゃ~い」
「はやくきてくだちゃ~い」
(ヤバイ。スゲーかわいいぞ、こいつら)
 知らぬ間に、鉄は犬怪人の可愛さに身悶えしていた。連れて帰りたいほどだ。
「どうだ、凄いだろ」
 木越の誇らしげな声で我にかえった。額にうっすらと汗をかいていた。
「ある意味凄い」
 こうしてオテフセ団最強の刺客。スムチー男とロンチー男は手をつないでクラリス幼稚園へ襲撃にむかったのである。

 木越はブラックタンのスムチー男に、鉄はブラウンのロンチー男にを預けた。
「ベルサイユ宮殿かよ」
 鉄はあっけにとられる。クラリス幼稚園は5年前にできたばかりの幼稚園でセレブなイメージを全面的に押し出していた。
 毎日デパ地下のお総菜だけで夕ご飯を用意できるほど金持ちではないが、月に2~3日は外食ができるほどのご家庭に、ホンモノのセレブに負けない礼儀正しいお嬢様おぼっちゃまを作り出しましょうというコンセプトのもと、せんせいもたとえ人工的なものでも笑顔をたやさないいかした男と美しい女(バイセクシャルな園長の趣味とも言われている)を選び、園児の制服に至ってもIT企業の若社長と結婚をした売り出しどきの女優にデザインを頼んだりで、クラリス幼稚園という名のブランドはセレブと庶民の間をさまようプチ高額所得者層の心を引き寄せた。
「園長がやり手なんだな~」
 ロンチー男のなかにいる鉄が感想を述べる。
「K医大に入る前に入園してみる?」
 スムチー男のなかの木越がおおきな瞳をうるませて言う。
「なんだよそれ」
 鉄は中途半端に怒った。
「よし、行くぞ」
 と、スムチー男は軽々と閉じられた門扉をジャンプして飛び越えた。
「ええっ、そんなことできちゃうの」
 驚く鉄に、
「これくらいのことできなきゃ怪人とは呼べないだろ」
 木越は早く来いと促した。

 そのとき、幼稚園の一室では父兄と園長らによる坂田夫妻を招いての会議が繰り広げられていた。
 はじまったばかりなので麻柚もいかに自分がクラリスに入りたいかを訴えるために同席していた。
「じゃあ麻柚ちゃん、みなさんにあいさつをして」
 大人たちの視線が一斉に麻柚に集まる。いや、正確には麻柚の義足をつけた両足に集まった。
 麻柚はノドになにかがつまったかのように声が出せない。家で「クラリスでみんなとなかよくあそびたいです」と練習したのにいろんな思惑が混入した視線の矢に耐えられる力は麻柚にはなかった。
「麻柚、お母さんがついているから、あいさつしようね」
 母親が手を握る。でも車椅子の麻柚はますます固くなる。
「麻柚ちゃんびっくりしちゃったのよね、おとなばっかりいっぱいいるから」
「だいじょうぶよ、みんなやさしい人ばかりだからね」
 麻柚入園支援派の主婦らが加勢する。つかさず反対派が「余計緊張させていませんこと」と薄ら笑いを浮かべた。
「……は……ゆは……まゆは」
 麻柚がようやく声をだした。だけど小さくて震えているから母親の耳にしか届かない。
「麻柚」
 瞳に涙が浮かび上がっている娘に母親は胸が痛んだ。麻柚を普通の幼稚園に入れたいということはほんとうに麻柚のためになるのだろうか。娘にこんな苦しい思いをさせて。ここまできてそんなことを思ってしまう。
「まゆは……」
 そのときドアをノックする音がした。大人たちはだれだろう? とドアを凝視する。
「す、すみましぇんでしゅ」
「麻柚ちゃんはここでちゅか」
 磨りガラスに映るクマのような影がふたつ。戸のむこう側に誰かというよりなにかがいる。
「どなたですか」
 恐る恐る代後半の園長が尋ねた。
 戸が、ゆっくりと開いていく。
「はじめましてでしゅ」
「ぼくたちオテフセ団のチワワ男コンビでちゅ」
 チワワ男たちはPTAの前で頭をさげた。ペコリという擬音が合う感じに。
 大人たちはアゴがはずれるほど驚いた。全員がチワワ男のTシャツに書かれた悪の秘密結社オテフセ団の文字を黙読し、そのうちの何人かはネットで話題になっていたことを記憶していた。
「ウソッ、冗談だと思ってた」
 ネットサーフィンが趣味の奥さまが口を開いたのをきっかけに全員が目の前のチワワ男を受け入れようという気持ちになった。
「本当に趣味悪っ」
 ネットで知っていたせんせいが指をさしてTシャツにビキニパンツをけなしてくれた。
「なんだとこの」
「落ち着け」
 スムチー男のほうが目をつりあげたがロンチー男がそれをおさえつけた。
「なんなの、この着ぐるみは」
 知らない人が怒りをあらわにする。
「園長、なにかのパフォーマンスですか」
 なにもしらない園長は思いきり首を横に振った。
「いま話題なのよ、オテフセ団」
「なんですかそれ」
「悪の秘密結社っていいながらいいことするのよ」
「いいことですかね、余計なお世話をしているだけでしょ」
「なに言ってるんですか、座席は困っている人に譲るべきだし、歩きタバコはガンガン取り締まるべきです」
「しかしこいつらのやることは強引だ。犯罪でしょう」
「あんた、自分の子供にタバコの火があたってもいいんですか」
「そういうことを言ってるんじゃないんですよ、マナーを訴えるならもう少しやりかたってものがあるでしょ」
「じゃあなんだ、非力な人間が歩きタバコを罪と思わない人間にやさしく注意したらやめてくれるというのか。席をゆずってくださいと言ったらゆずるのか」
「言い方さえちゃんとしてればな」
「言い方? そういう図々しいやつはどんな言い方しても余計なお世話とキレるんだよ」
「そういうてめえがキレてんじゃねーか」
「喫煙者に言われる筋合いねえぞ」
「そういうアンタは電車のなかで年寄りがきたら寝たふりしてたろ。おれ見ていたんだぜ、7時分当駅始発電車でな」
「駅から家まで5分もないくせに歩きタバコする神経が信じられないよ。どうしてたった5分が我慢できないのかね」
「5分もだ、それもこれも世間が喫煙者に優しくないからだろ、どこもかしこも禁煙って、喫茶店の漢字の意味わかってんのか、世間は愛煙家を閉め出す気か」
「百害あって一利なしなんだよ」
「ケンカする元気あるなら老人に席譲れっていう話なんだよ」
「サラリーマンがどんなに疲れているか主婦にはわからないだろう」
「まあ! 誰のおかげで家庭があると思ってんのよ」
「本当よね。妊娠中にどんなに席ゆずってほしいと思ったことか」
「若者に疲労がないとでも?」
「疲労と妊娠はちがうわよ」
「妊婦が歩いているのに路上喫煙なんてのもありえないわよね」
「妊婦なら出歩かなきゃいいだろ」
「買い物行かなきゃご飯はどうするのよ」
 大人たちはチワワ男を放り出して論議をはじめてしまう。その内容はネット上の論争とおなじである。
 麻柚の両親はその光景にあっけにとられてしまっている。
 そんななか、麻柚だけはチワワ男をかわいいという瞳でみつめていた。
「チワワちゃんかわいい」
 スムチー男が頷いて言う。
「いまのうちに麻柚ちゃんはお友だちのところにいくでしゅ」
 麻柚の車椅子を押して論議の部屋を出て行った。
「誘拐でちゅ」
 ロンチー男もあとを追った。

 障害のある子を受け入れるか否かの論議は気になるけれど、とびきり美人と評判の麗花せんせいは子供たちをどこにだしても恥ずかしくない教育をしなければならないのです。
 ホワイトボードに模造紙に描いた電車内のイラストをマグネットで貼り付け、椅子に座って両手を膝の上にのせる子供たちに言いました。
「さあ、みんなよくみてね。ここは電車のなかです。みんなは座席に座っていますよ。空いている席はありません。と、そこへ、おばあさんが乗ってきました」
 おばあさんの切り抜きイラストを新たに貼り付けます。
「さあ、みんなならどうしますか? わかる子は手をあげて」
 茶髪に軽いウエイブをかけたロングヘアーの麗花せんせんの笑顔に人いる園児の手が少し前へ倒れるようなかたちであがった。一列5人が3列。前の園児の頭にまっすぐ伸ばした腕が当たらないように距離を測った椅子の位置は床に印がついている。その印からは決して動かしてはならない。そのように教育している。
「じゃあ、みんなで答えてみようか。せんせいがハイって言ったら答えようね。ハイ!」
「せきをおばあさんにゆずります」
 答えはわめくような声をだせばいいというのもではない。なんでも元気よくというのはときに下品になることもある。なので物語を朗読するように、ハッキリと聞き取れる発音と耳障りでない音量をクラリス幼稚園では子供らにしつけていた。
「はい、よくできました。みんなその優しい気持ちを忘れないでね」
「はい、麗花せんせい」
 子供らは一言一句間違うことなく声を揃えて言った。
 麗花せんせんは笑顔でうなずく。ロボットを相手にしているようで違和感はあるが、幼稚園が用意したマニュアルどおり教育していれば子供らは素直に従うし(というか従わない子はいずらくなってやめていくし)、いい給料もらえるし、クラリスのせんせいというだけで玉の輿ロードに乗ったも同然でモテる。一度に3人以上と付き合うのはあたりまえ、そのうちから死ぬまで楽させてくれる人を選ぶのだ。
 そのうちのひとりだが、2ヶ月前まで付き合っていた医大生はかなりの格好良さで将来有望と思っていたのに、使えなくなったせいでお別れることになってかなりの舌打ちものだ。
 でもまあいい、歳の麗花に声をかけてくるセレブはたくさんいるのだから。結婚相手は歳までに決めれば勝ったようなものだ。
「それではおゆうぎにはいりますよ。みんなイスを片づけましょうね」
「はい、麗花せんせい」
 子供らは自分が座っていた椅子を持って教室の後に寄せ集めた。
 麗花せんせいは電子オルガンに座る。おゆうぎの振り付けは副担任の潤せんせいに任せる。潤せんせい歳は今年入ったばかりの新人だが男性専門アイドル事務所にいたことがあり武道館やドームでも踊ったことがあるという経歴が園長のお眼鏡にかなって、おゆうぎとクレームにおしかけるお母様がたのお相手なら任せてというポジションについている。
「さあみんな、いっしょにクラリス体操をしようね」
 潤せんせいは人なつっこい笑顔で子供とお母さまがたのハートをギュッとつかむ。麗花はなんとなく元カレを思い出し、潤せんせいよりいい男だったわと思うが、元カレは自分からふったのだ。なにを今更だ。
「麗花せんせい、曲、違ってます」
「え?」
 潤せんせいのあわてぶりより子供たちのミスを責める目つきのほうがプレッシャー。
「やだ、ごめんねみんな。せんせいまちがえちゃった」
 クラリス幼稚園マニュアルより抜粋。
『自らのミスは素直に謝り笑顔を添えて間違いは誰にでもあることを教えること。素直に間違いを認めた人物には寛大な心で許してあげるよう教えること』
 相手が子供だからと見下さない。同じ視線で正直にミスを謝る。そうすれば子供たちも一斉に、
「まちがうことはだれにでもあります。麗花せんせい、もういちどばんそうをおねがいします」
 となんの感情の起伏もなく言う。麗花に2度目の失敗は許されない。大きく息を吸い込んで園長作詞作曲によるクラリス体操の伴奏をはじめた。
「おおきくうでをのばして~」
 と前奏にあわせて潤せんせいが声を上げたと同時に扉がスライドした。
「よい子のみんな、こんにちわでしゅ~」
「あくのひみつけっしゃオテフセ団があそびにきたでちゅ~」
 潤せんせいと子供たちは腕を真横に広げたまま固まった。
「ひえーっ!」
 麗花の伴奏はハチャメチャになるが、それを責める目はなかった。
「バ、バ、バケモノッ!」
 うわずる麗花をスムチー男がチラッとみた。その瞳は泣きそうなくらいにうるんでいる。
「かわいい」
 チワワを飼っている潤せんせいがゆっくりと手をおろした。小刻みに震える全体像、水分を芳醇に蓄えた瞳。そよ風にもよろけてしまうか細い手足。
「チョーかわいい、スムチーロンチー夢の競演」
 チワワ好きの潤せんせいは身悶えはじめた。
「かわいい!」
「チワワだっ!」
 着ぐるみと思ったのか子供たちも騒ぎ出した。みるみる笑顔があふれ一斉にチワワ男に近寄ろうとしたのだが、
「ちょっと待ったあ!」
 スムチー男が片手を突き出して全員の動きを止めた。
 だるまさんがころんだ、のようなストップモーションの子供らにチワワ男は車椅子の麻柚を紹介する。
「坂田麻柚ちゃんです。麻柚ちゃん、みんなにあいさつして」
 麻柚はみんなに見つめられていることに体がかたくなってしまう。
「麻柚ちゃん、ぼくらがついてるよ」
 ロンチー男もはげました。麻柚はチワワのおおきな黒目からやすらぎと微笑みを受け取った。
「坂田麻柚です。みんなみたいにあるけないけど、みんなとともだちになりたいです」
 チワワ男達がよく言ったと拍手を送る。
「みんな、麻柚ちゃんとなかよくしてくれましゅか?」
「麻柚ちゃんもいっしょにおゆうぎしてくれまちゅか?」
 チワワ男のウルウルした瞳がドルビーサラウンドのように襲いかかる。
「もちろんだよ、当たり前じゃないか」
 先頭をきって潤せんせいがスムチー男の手をとった。それを合図に子供たちもチワワ男と麻柚を取り囲んだ。
「かわいすぎだ」
 潤せんせいの目がうっとりしている。
「まゆちゃん、どうしてあるけないの」
 ダイレクトな質問をする子供もいた。でも麻柚は気丈に答える。
「うまれたときから。でもね、麻柚こまってないよ」
 麻柚はしっかり言った。
 子供らより息を飲むのはオルガンから動けない麗花せんせい。潤せんせいも子供らの反応に神経をとがらせた。
 ロンチー男はスムチー男に目をやった。スムチー男は親指を突き立てて笑みを浮かべていた。
「みんなでおゆうぎしよー!」
「みんなでおゆうぎ~!」
 子供らはみんな笑顔で大騒ぎ。麻柚も楽しそうだ。
「よ~し、チワワ男さんも一緒におゆうぎだ!」
 いちばんはしゃいでいるのは潤せんせいのような気もする。
「冗談でしょ、こんなの、クラリスの授業じゃない」
 ただひとり、現実を受け入れられないのは麗花であった。顔面蒼白のまま首を横に振っている。
「園児は無事か!」
 そこへ現れたのはようやく麻柚が拉致されたことに気付いた大量のPTAであった。
 子供たちは麻柚を取り囲んで元気いっぱいだし、潤せんせいはチワワ男にメロメロになってなついてしまっている。
「みんな、ちゃんといすにすわりなさい、あやしい人にちかずいてはいけないとおしえられているでしょう」
 園長が胸をはって子供らによく通る声で言い放つ。
 子供らはおびえたようになり、瞬時にしてうなだれた。
「あやしい人ではないでしゅ」
「みんなのおともだちでちゅ」
 チワワ男は小刻みにふるえながらゆれる瞳を親世代にもむけた。犬を飼っていたり犬好きの人間は頬の筋肉がゆるんでしまい「かわいい~ん」と身をよじる。是非とも手をつないでお遊戯して欲しいと顔に書いてある。
「なに騙されているんですか!」
 しかし犬嫌いか可愛さの誘惑に打ち勝とうとする親たちは子供らを守るようにチワワ男の前にたちはだかった。
「麗花せんせい、あなたがいながらどういうことですか!」
 園長の叱咤は麗花にむかった。いきなり自分に責任を振られて麗花はさらに青ざめる。
「そうですわ、だれよりも子供のことを思う教育熱心な麗花せんせいがいながら不法侵入者のいいなりになるなんて」
 父兄はさらに麗花を責めた。
 麗花はたったひとりで出没地不明のチワワ男を撃退できるわけがないだろうと泣きべそになった。
「そんなこと言ったって、マニュアルにないことわからない」
 そう返すのが精一杯であった。
 マニュアルという言葉に父兄が園長をにらんだ。
「マニュアル?」
 父兄のなかでもいちばんの金持ちが目を光らせる。そうすると金魚の糞のようにほかの父兄もつられてにらむ。
「園長、なんのマニュアルですの」
 今度は園長が冷や汗をかく。
「我が園の教育マニュアルですよ。どこの幼稚園にもあるでしょう、教育方針などを書いた資料ですよ」
「そのわりにはこの緊急時に子供を守れないとはどういうことですか」
 麗花がわっと泣き出した。じっとみていたスムチー男が、
「きょういくほうしんに悪のひみつけっしゃのたいしょほうが書いてあるわけないでしゅ」
 と言った。PTAが静かになる。
「きょう書きくわえるでちゅ。オテフセ団がきたらみんなでおゆうぎするでちゅ」
 スムチー男とロンチー男は手をとりあってフルフル震える。「書き加えます!」と元気よく口にした潤せんせいが園長に頭をはたかれた。
「あくじがおわったのでかえるでしゅ」
 スムチー男はロンチー男と顔を見合わせて頷き合い、手をつないで廊下へ出て行った。
 呆然と見送る人間たちだったが、
「チワワちゃん!」
 大きな声で叫んだ子供たちに我にかえり、園長が廊下にとびだすが、チワワ男達の姿は煙のように消えていた。

 目をあければそこは木越家のリビングだ。
「え、えええーっ?」
 鉄は思い切り奇声を発した。
「いまのどこが悪事なんだよ」
「うるさいな、近所に聞こえるだろ」
 木越はソファーにうずもれたまま疲れ切っている。
「お前のやることゼンゼンわかんねーよ。悪の秘密結社なんだろ」
 麻柚をクラリスに入園させてあげようとする心意気は感動に値することだ。
(悪事というなら園長の弱みを握るとかしておどすとかするのがワルらしいのではないのか)
「柴浦にとっての悪事ってなんだよ」
 ビシッと聞かれた。しかも2度目だ。殺人、窃盗、世界征服、前回と同じことをこの男の前で口にするわけにはいかない。
 麻柚ちゃん擁護でないとすれば。
「……い、いやがらせとしか思えなかったけど」
「少しはわかるようになったじゃん」
 バカにされなかった。よかった……いや、ぜんぜんよくない。
「いやがらせと悪事は違うだろう」
「悪事ってさ、自分さえよければいいってことなんだよね」
 鉄は首をひねった。
「悪い、おれにもわかるように言ってくれ」
「浮気とか浪費とかさ。それによって誰かが被る迷惑なんてどうでもいいんだってこと」
 木越は自分にむけた笑いを浮かべている。
「親がそんなことをしているから子供も好き勝手やっていいってことはないだろ」
「悪魔に魂を売ったのはオレだ。柴浦じゃない」
 放っておいてくれとでもいいたいのか。
「だから、その力をどう使おうとオレの勝手ということだ」
 鉄は頷こうとしてあわてて横に振る。
「それはちがくないか。人として間違っている。自分が正しいと思えばなにをしてもいいといいたいのか」
 木越は溜息をついた。
「だから、それが悪事だろ」
 鉄は頭をハンマーで殴られたような衝撃をうけた。
「ガキ大将かよ」
 そんな考えを認めてはいけない。頭をかかえてしまう。その様を木越はつまならそうにみている。
「少しオレにつきあってくれよ。悪いようにはしないからさ」
「もう悪いようにされてるよ」
「入団したじゃないか」
「退会はできないのか」
 クーリングオフ制度とか。
「来年K医大合格させるって条件飲んだのだれだよ」
 自分は悪に手を染めてしまったのか。いや、ほんとうにそうなのか? それよりも鉄はK医大合格という目の前のエサにシッポを振ってしまったのだ。
「後戻りはできないのかな」
(たとえば、医大にこだわらない生き方とか)
 それに木越はおだやかにこたえた。
「お前は医者にならなきゃ駄目だ。いやなれるんだから受験やめるなんて思うなよ」
(なんか、おれの考えてること見透かされてないか)
「なんでそこまで言ってくれるんだよ」
「できるヤツがへたれたことを言ってるのががまんならないから。あと、ヒマなんだよね」
 木越の断言に鉄は床暖房のフローリングにヒザをついたのだった。
 その姿を赤柴犬のクロがだまって見ている。
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