8  華麗なる最後の悪事

文字数 13,087文字

 木越は一生全身の関節があげる悲鳴に耐えながら生きて行かなくてはならない。副作用の強い薬と付き合いそれによって調子を崩すこともあるという。免疫力が低下し、熱もでて思うように動くことができないこともある。メスを握るどころかハサミを持つのも困難な指の痛み。
 グルコサミンは関節によいと言われるサプリメントだが、気休めにしかならないのではないかという意見もネット上にはあった。
 鉄は夜が明けるまでネットサーフィンして膠原病、主に関節リウマチについて。患者さんのブログなどをみてまわった。原因は不明だが男性より女性のほうが発症する確率が高いようだった。鉄が驚いたのは想像以上に若い人も発症することと出産後に発病したという女性が多くいたことで、過去ログで「子供を抱き上げることもできない」と自らの命を絶った知識人のことも書かれていた。
(そういえば、そんなニュースもあったな。あれは膠原病を苦にしてだった……そんなに、辛いんだ)
 関節が腫れて固まって歩くことも難しくなったり、関節リウマチから同じ膠原病で失明の危険もあるベーチェット病や全身が乾いて涙もつばも出ないシェーングレン症候群を併発してさらなる治療の一歩を踏んでいる人も少なくなかった。
(おれは、こんなことも知らずに医大受けてたんだ)
 優秀な外科医になるのが当たり前だと思っていた木越が、病気の進行によっては注射器すら持てなくなるかもしれない危機に瀕している。
(そんなときおれはもう医大は無理だって負け犬オーラ出しまくってた)
 ネットサーフィンを続けると、患者にとって家族の支えというものがいかに前向きに取り組むバロメーターになっているかもわかった。病気の辛さや医療費への不安を中心に書いている人には家族の話題が少ないことを発見し、辛くとも外とのつながりを求めて行こうとし愚痴はこぼさない人には必ずといっていいほど家族への感謝やありがたみの言葉が添えられていた。
(家族……)
 いまになって、木越がどういう気持ちで自分に付き合っていたのかを考えはじめた。
 病気の進行の不安、狭くなった将来。そして自分のことしか考えていない家族。
(生殺しだ)
 なんで木越がそんな病気になる。
 鉄に受かって欲しい。必ず受かると言い続けた木越。
(それを助けるのが医者だ)
 鉄はパソコンを閉じて参考書を開いた。

 眠れぬ夜があけ、洗面所で父にすがりついた。
「父さんはどうやって木越の親父さんの暴走を止めたの」
「なんだ藪から棒に」
 父はヒゲをそっている。
 木越が大変なことをしでかすかもしれない。参考までに父が木越の親父さんをどうやって助けたのか聞いておきたいのだ。
「誠一郎が親父さんとケンカして暴走……あったかな、そんなこと」
 父はジョリジョリいわせながら考えた。
「あれかな」
「それだよ」
「まだなにも言ってないぞ」
「いいから、なんだったのそれ」
 父はカミソリの電源をオフにして言った。
「誠一郎が心臓外科に行くと決めたとき。脳外科医だったやつの親父は激怒した。心臓外科の教授と仲が悪かったんだ。あのとき誠一郎はかなり大喧嘩をしたらしくて、私は電話でよびだされた」
 鉄はごくりとノドを鳴らした。大病院内部抗争勃発か、これはカルテや灰皿を浮かせるだけでは済まなかったのだろう。
「男ふたりで由比ヶ浜に行って」
 おしゃれな鎌倉のデートスポットだ。
「浜辺で体育座りをして夕日をながめた」
 想像すると恥ずかしい光景だがそれが暴走なのか。
「それで?」
「誠一郎が言うんだよ、「親父はオレのことなにもわかっていない」って」
 鉄は黙って続きを待つ。
「私は黙っていた。そうしたらはるか遠くで物凄い水柱が上がった。銭湯の煙突くらいあったな。あれは綺麗だったな。くじらがはねてもああはならないぞ。一瞬のことだったから目撃者は少なかったと思う」
 父は遠い目をして過去を懐かしんだ。
「船とか人は巻き込まれなかったの」
「幸いそれはなかった。誠一郎は「サッパリした」と言って、私たちは帰った」
「……」
「誠一郎も親父さんとは険悪な時期があったからな」
「……」
「どうした」
「うん、ありがと」
 木越が鉄を由比ヶ浜に誘い出して浜辺を犬怪人と走り出すとは到底思えない。
「鉄、膠原病はいい薬がでているが、それらは治すものではなく症状を抑えるものだ。治療を続けていても痛みやだるさが完全に消えるものではないと思っていい。鬱にもなりやすい。患者に対して間違っても頑張れだのきっと良くなるだの言うなよ」
 鉄はうなずいた。
「あいつのとこ行ってくる」
「そうだな、そのほうがいいだろう」

 前もって連絡してから行ったら逃げられるような気がしたのでアポなしで行った。
 呼び出しのチャイムを鳴らすがいつまで待っても出てこない。
(逃げられたか……大学かな)
 昨夜あんなことがあって何事もなかったかのように大学に行けるだろうか。今頃木越父がK医大病院の教授陣に「息子を診てやってくれ」とすがりついているだろうし、そうしたら大学にもあっという間に知れ渡る。
(おれだったらとても行く気にはなれないな)
 では居留守なのだろうか。と溜息をついたら玄関のドアが少しだけ開いた。
「木越」
 フェンスから首を動かして隙間を見ると手招きをしている者がいる。それはオテフセ団ブラックタンのスムースコートチワワ男であった。
 わずか5センチの隙間からうるんだ瞳をむけてふるふる震えている。
 鉄はフェンスを開けて玄関ポーチまで走った。
「いらっしゃいでしゅ」
 とスムチー男は言った。
「木越は」
 スムチー男の後ろにはおなじくふるふる震えるロンチー男もいた。
「もうだれにも首領を止めることはできないでちゅ」
「冗談じゃない」
 鉄はあわててスニーカーを脱いであがりこんだ。フローリングに足をとられながらもリビングの扉を開けた。
 開けたとたん、絶句した。
 紫色Tシャツのシベリアンハスキー男、藍色Tシャツのボクサー男、青色Tシャツの土佐犬男、赤色Tシャツの黒ラブラドール男、橙色Tシャツのゴールデンレトリーバー男。そして緑色Tシャツのスムチー男に黄色Tシャツのロンチー男。
(囲まれてしまった)
 犬怪人のそろい踏みに鉄は木越の姿を確認することができない。
「おい木越助けてくれよ」
 トイレの水が流れる音がした。
「全員お座り」
 トイレから戻ってきた木越が声をかけたら犬怪人は全員体育座りになった。視界が開け、木越の無事な姿が確認された。
「なにホッとしてんだよ」
 木越はソファーに腰を沈める。
「するよ、昨日の今日だぞ」
「心配なんかするなよ」
 と木越は言うが、それは無理というものだ。
「なんで犬怪人が全員集合してんだよ」
 鉄は木越の正面に座った。
「それは、クロが大きくなってしまったからだろ」
 テレビの脇にクロはいた。
「……柴犬、だったよな」
 クロは秋田犬になっていた。ハッハッハと笑顔のような表情で息をきらしている。鉄の背中に冷たいものが流れ落ちた。
「お前の親父さんショック受けてたぞ。息子は心を閉ざしたって」
 木越はこめかみを痙攣させた。
「クソッ、ふざけやがって」
「なに言われたんだよ」
 木越はうつむいてしまった。言いたくないと言われてもそれが原因でオテフセ団に暴走されたらご町内の日常が大パニックに陥ってしまうのだ。
「筋をおかしくしたんだと思ってたんだ」
 声のするほうを見たら語り出したのはハスキー男だった。
「最初痛くなったのは肩で、スポーツのやりすぎかピアノの弾きすぎと高をくくってた。そのうち服を着るとき肩をあげると痛くてしょうがなくなった。市販の鎮痛剤と湿布でなんとかしてた」
 次はボクサー男。
「高校の卒業式の日柴浦に肩を叩かれて脳が痺れるほどの激痛が走った。思わず怒鳴ってしまったわけだけど、筋をおかしくしたにしては変だなと思い始めた」
 土佐犬男が引き継ぐ。
「親父とお袋の仲が悪くなっていることはわかっていた。イライラしてたお袋が可哀相でさ、気持ちも落ち着くだろうと思って犬飼おうって提案した。ロッキーって名前はお袋がスタローンのファンで、ボクシング映画からいただいた。子犬は可愛くてお袋も積極的に散歩をさせて近所に犬好きの友だちができたって笑顔を見せるようになったんだ。なのに、ロッキーを死なせてしまった。指の関節まで痛くなっていてリードをつかめなかったんだ」
 と黒ラブ男。
「ロッキーが死んでお袋は家を出て行った」
 ゴルデン男が呟く。
「その直後症状が悪くなったんでしゅ。微熱ひかないしだるいし、手足がこわばってベッドから出れなくて、さすがにおかしいって思って調べてみたらヤバイんじゃないかって思ったでしゅ」
 スムチー男の緊張感のない言葉遣い。
「K医大とゆかりのない病院を探して受診したら思った通りでちゅ」
 ロンチー男が話をしめた。
「えっと……」
 鉄はなんといったらいいのかわからない。
 するとなに男が言ってんだかわからないほどのマシンガントークが炸裂しはじめた。
「じっとしてても体のどこかが常に痛んだ」
「だけど見た目健康そうだろ、柴浦も気付かなかったんだものな」
「あきらかに健康なやつが電車で座ってるのを見ると腹立たしいでしゅ」
「電車で5分立っているもの辛いんだ。腕が上がらないからつり革も持てないし」
「肺が痛むんでちゅ」
「呼吸苦しいところに歩きタバコされて煙吸わされて丸1日呼吸困難に陥った。こんなこと言っても信じられないだろう」
「どんな症状がでてくるか予測できないでしゅ」
「薬は効くときと効かないときがある。痛くて眠れない夜もある。でもどこが痛いのかわからないんだよどこもかしこも痛すぎて」
「医者にケンカ売るようにステロイド増やしてもらった」
「顔ふくれていい男が台無しでちゅ」
「こんなに痛いのに関節の腫れがたいしたことないから今以上の薬はださないほうがいいんだと」
「関節腫れて動けなくなったらものすごく高い注射を自分で打つんだ。保険3割で1回5000円する。それを毎週とか」
「でもそれはまだ使うべきじゃないって言われた。強い副作用が起きることがあるからステロイドとリウマチ薬で今の症状を維持させれば軽いほうなんだってさ。なにせ先長いし、死ぬまで薬漬けだし」
「柴浦も医者になるなら覚えておくことでしゅ」
 鉄は頷くしか術がない。
「男としてもショックなことがあった」
「自信なくしたでちゅ。麗花に捨てられたでちゅ」
「麗花?」
 誰だそれ、と鉄は聞く。
「元カノでクラリス幼稚園のせんせい」
「麗花の男基準はそれだけか、ふざけやがって」
「クラリス襲撃は麗花が泣いたので成功でちゅ」
 犬男らは肩をいからせた。
「え、じゃああれは麻柚ちゃんを入学させるためじゃなかったの」
 鉄は目をむいた。犬怪人たちが一斉にうなずく。当然だといいたげに。
「女の子を泣かせるなんて」
 しかし鉄の言葉は犬怪人らの「却下却下」という共鳴で打ち消された。
「外科医になりたかったんでしゅ」
 スムチー男がしゅんとした。
「木越誠一郎以上の外科医になれると思っていたんでしゅ」
「だけどメスも握れない病気でちゅ」
 チワワ男らの目は湖のようにうるんで、いまにも水があふれ出そうだ。
「それなのに、は心配するなっていいやがった」
「心配するなと言ってくれたならいいんじゃないのか」
 鉄はすっかりオテフセ団員と会話していた。
「親父は「私の後釜は春斗君に任せるから、お前は無理をして医師になることにしがみつかなくてもいい」と言いやがったんだ」
 ボクサー男が両手拳を握りしめて怒りをまき散らす。胸の筋肉がもりあがりTシャツがはち切れるのではないかと思った。
「春斗君ってだれ?」
「母方の従兄弟でなにかというと突っかかってくるイヤミなヤツ」
 ゴルデン男が舌を出す。
 K医大病院の木越父の部屋を訪れたとき、従兄弟と名乗る印象の良くない男にであったことを思い出した。
「春斗はオレが外科医になれないことを知って今頃飛び上がって喜んでいるよ」
 ようやく木越本人の口から言葉が出た。
「そんなことないだろ、身内じゃないか」
「柴浦の身内ならそんなことないんだろうな」
「寂しいこと言うなよ」
 と言いつつも、あの従兄弟ならと思うと否定できない。
「オレ、外科医どころか医者になれるかもわからない」
 生気が感じられない。昨夜ネットサーフィンで患者のブログを見て回ったとき『自分以外だれもこの痛みをわからない』と書いていた患者の行間を眺めているような感じがした。
「木越……」
 鉄は言葉を探した。いま木越に言ってやれる最良最善の言葉を。
 犬怪人らがじっと鉄をみている。
「お前、親父さんのあと継ぎたかったんだ」
 父を越える優秀な外科医。鉄でなくても、誰もが疑わなかった木越の未来像だ。
「親父さんのこと嫌いだなんていいながら、尊敬してたんじゃないのか?」
 秋田犬になったクロがワンと吠えふたりの間に割って入った。
「親父はオレの気持ちなんかなにもわかってない。お袋だってわかってない。自分らのことしか考えていない」
 犬怪人たちが一斉に立ち上がった。
「木越、なにする気だよ」
「襲撃に行く」
「襲撃って、どこへなにしに行く気だよ」
 犬怪人が地下鉄丸ノ内線国会議事堂前駅の改札を抜ける図が浮かび上がってしまう。
「気になるならついて来いよ」

 犬の声が間近に聞こえてゆっくり目をひらいた。
 まず自分以外の面子を確認してロンチー男に入ってしまったことを後悔する。いちばん非力そうだ。ウルウルする瞳だけで木越を止めることができるのだろうか。せめてゴルデン男に入りたかった。しかしついて来いと言われたとき目が合ったのがロンチー男だったのだから仕方がない。
(つくずく要領悪いよな)
 さらに自分がいる場所。国会議事堂ではないようだ。
(臭え)
 強烈な獣臭が鼻を刺激する。
 たくさんのやせこけた犬たちが檻のなかからこちらを見つめている。そのほとんどが首輪をした血統書つき。
「ここは、保健……」
「よし、襲撃だ」
 ぼさっとしてたら首領からの指示がとんだ。
「ここを襲うのか」
 と聞くロンチー男に「そうだ」と頷いたのは黒ラブ男だった。
「木越そこにいるの」
「いたら悪いか」
 鉄は中途半端にほっとした。怪力を振るいそうな怪人でないから頑張れば暴挙は止められるかもという自信が湧いてくる。
「襲撃ってなにを」
 聞いている途中なのにハスキー男とボクサー男と土佐犬男が檻の鉄棒をつかんだ。
「おいおいおいおい」
 プルプル震えてしまうロンチー男。こいつらは素手で檻を引きちぎろうとしているのだ。
 メキメキともギイギイとも聞こえる音がして檻が広がった。ちょうど犬一匹通れる広さに。
「みんなでておいで」
 黒ラブ男の一声で縮こまっていた犬たちは生気を取り戻し、勇んで檻から飛び出した。そのなかに、昨日捕まっていた赤い首輪の柴犬も含まれていた。シッポを振って、とびきりの笑顔をむけている。
「なにをどうしたいんだよ」
 うろたえるロンチー男の質問をあえて目をそらして受け流す黒ラブ男。
 そのとき、廊下と外をつなぐ扉が開いた。陽差しが入り込んできてまぶしい。
「うわあああ!」
 悲鳴をあげたのは、モニターで異常を察知して飛んできた職員たちであった。画像には取り込めない犬怪人であるからモニターには犬たちが勝手に檻の外に出たとしか映らなかったのだ。
「怪物」
 定年を間近にしたおじさん世代はオテフセ団が有名であることを知らない。
「主任、しっかりしてください。あれは、たぶん、オテフセ団です」
 そこは若い職員らがフォローしたが檻から出れた犬たちが開きっぱなしの扉を見逃すわけがない。
「きゃああっ!」
 いくら専門の職員でも匹近い野良犬に走って来られたら恐怖を感じないわけはない。
 腰をぬかしたり硬直する職員らを尻目に犬たちは一目散にわきを駆け抜ける。
「いくぞ」
 黒ラブ男を先頭に犬怪人らも外へ出て行く。
「だ、だれか、警察に」
 職員のだれかが言った言葉でロンチー男はこのままにしてはいけないと思った。職員たちの前に立ちふさがり両手を合わせた。
「警察はやめてくだちゃい」
 一生のおねがいとばかりにうるむ瞳は語る「いじめないでくだちゃい、ぼくデリケートなんでちゅ」と。
 フルフルするロンチー男に職員たちは「なんなんだ、やすらぎと萌えを誘うかわいいさは。そんな態度とられたら逆らえないじゃないか」とつぎつぎに魂を抜かれた。
「みなしゃん、ちょっと待っててくだちゃい」
 職員の方々をあとにしてロンチー男は仲間の後を追った。

「待ってくだちゃい!」
 急いでもチワワの足ではなかなかみんなに追いつけない。
 幸い保健所の門扉は開けっ放しではなかった。
「待って!」
 ロンチー男の訴えに先を行く同胞と野良犬たちは一斉に振り返った。
「こんなことをしたらダメでちゅ」
 ロンチー男は焦っていた。
「野良犬にがしてどうするんでちゅか」
 小さな肩をいからせて門扉の前に立って行く手を阻んだ。
 首領は答えない。
「それでどうなるんでちゅか」
 ロンチー男の目は潤みっぱなしだ。
 赤い首輪の柴犬がシッポを振って黒ラブ男にすり寄っている。
「その犬のせいでロッキー死んだんじゃないんでちゅか?」
「こいつのせいじゃないよ」
 病気のせいで指の関節がいうことをきかなかったから。というのだろう。
「病気のせいもあるけど。こいつを野良犬にした人間が最も悪い」
「犬を捨てた人間にいやがらせでちゅか?」
「そうだ」
「大々的に間違っていることがありまちゅ」
 ロンチー男は目ウルウルしだけでなく体のプルプル度も増してきて柔らかな毛並みが総毛立ってきた。
「犯罪はいけないでしゅ」
 ロンチー男というか鉄は必至だ。
 黒ラブ男は腕を組んだ。
「犯罪か……そうなのかな」
「そうでちゅ」
 首領の心に亀裂が入り、かすかな光がさした、ような気がした。
 檻からでれた犬たちは久しぶりに味わう自由の空気を吸い込んではしゃぎまわっている。でも、可哀相だからといって放置された犬を野良としてそのままにしていいのか。それくらい野良犬のせいで愛犬を亡くしたのだからわかるんじゃないのか。
「処分されてしまうのは可哀相だけど、でも仕方ないじゃないでちゅか。それより野良犬たちがうろつきまわって人やペットを噛んだりするほうが」
「お前、基本的なこと忘れてないか」
 黒ラブ男、もとい木越はウルウルするロンチー男の瞳をなだめるような言い方で遮った。
「基本的なこと?」
 黒ラブ男のなかの木越がフッと笑ったような気がした。
「オテフセ団は、悪の秘密結社なんだよ」
 その言葉を合図にするかのようにハスキー男、ボクサー男、土佐犬男が門扉をひらいた。

(これで、野良犬は自由の身なのか)
 しかし、犬たちは門扉が開かれたことに気付いていない様子だった。犬怪人らの周囲から離れない。
「え? 出ていかないんでちゅか」
 ロンチー男は首をかしげた。
「あんたはなにをする気ですか!」
 そこへ職員らが総出で走り寄ってきた。
(これで、The Endじゃん)
 ほっとするところなのに残念がっている自分を発見してしまいあたふたしてしまう。
「犬を返しなさい」
 果敢にも職員を代表していちばん偉いと思われる年配の男性が歩み寄ってきた。
 野良犬たちに囲まれた黒ラブ男。あわてふためき犬怪人に近寄れない職員を見た。
「我々はオテフセ団です」
 挨拶をはじめた。
(我々って、おれも含まれているのか)
 と鉄は思う。
 犬怪人に人間たちはあからさまにひるんだ。
「我々は悪の秘密結社なのでこれから悪事を働きます」
(これから?)
 野良犬を檻から出した段階ですでに悪事じゃないのか。
「あなたがたに止めることはできない」
(いまなら間に合うんじゃないか)
 しかし人間たちは常識の範囲で処理できない事態にいまがチャンスという言葉を忘れてしまっていた。
「それでは失礼致します」
 黒ラブ男は丁寧に頭を下げ、開かれた門扉に向かって行く。あとについていく犬怪人たち。
(おれも、行かなきゃいけないのか)
 それは鉄が思うことであったが、ロンチー男の体を借りていることを思うとここにとどまるわけにはいかない。
「待ってくれよ」
 仲間の後を追おうとしてハッとした。
 野良犬たちがついて来るのだ。オテフセ団を慕う熱狂的ファンのごとくすり寄るように歩幅を合わせている。
「お前らは戻れよ」
 と言ってはみるが戻ったところでガス室送りではないのか。
「おい、どこに行く気だよ」
 声をかけるが首領はだんまりだ。
 背後から偉い職員さんが若い者をひとり引き連れてついてくるのがわかった。
「追われてるぞ」
「いいんだ」
 オテフセ団と野良犬たちは小春日和の散歩をはじめた。
 知る人ぞ知るオテフセ団と匹もの野良犬、そのあとをつける保健所の職員。通りかかる人がみたら度肝を抜かれるのは当然のことであろう。誰もかれもが足をとめてすぐさま携帯を取り出して親類縁者に電話をして「大変だ!」と叫んでいる。そして一緒になってあとをついてくる。
 ランドセルをしょった子供、マラソン途中の中学生集団、どこかへ行こうとしていたセーラー服たち、ボーッとしていたフリーター、営業まわりのサラリーマン、おしゃべり中の主婦、ひなたぼっこのおじいちゃんおばあちゃん、次々に行列に加わっていく。その中には飼い犬を連れた人も多数みられた。
 自転車でパトロール中のお巡りさんはオテフセ団を先頭にした大名行列に思わず急ブレーキをかけて倒れそうになってしまった。
「と、止まれ、止まりなさい!」
 と叫んではみたものの、そのときには行列は待ち時間分ほどの距離になっており、たった一人でその波を止めることは不可能だ。うわさ話だと思っていたオテフセ団にただ呆然とするばかり。「逮捕する」と言うのが当然なのに職務を遂行する言葉がでてこない。

 隣町の河原に着くまでに1時間は歩いたと思う。1時間も歩けば列は竜のように長く、デモ行進のような空気を醸し出すようになっていた。
(こんなとこまで引っ張り出してどうする気だよ)
 オテフセ団の行動に警戒心を抱いてついてきているのは真後ろの保健所職員と「止まりなさい」と警告を繰り返す警察の方々だけだろう。
 警察が強硬手段に出れないのは犬怪人に対しどう接したらいいのかわからないこととうねりが大きくなってしまったからで、野次馬根性でついてくる人々は警察のほうを邪魔だという目で見る。無理に行進をとめたら暴動にもなりかねない。
(警察に申し訳ない気がする)
 ロンチー男のフルフル震えは大きくなっていた。警察どころか世間様に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
 先頭を行く黒ラブ男が広場のある川岸を見つけ高台の道路から降りはじめた。
(河原がゴールなのか?)
 しかし広場に降りたらもう逃げ場はないじゃないか。
 しかし、ここでひとつのアクションがあった。
 広場に降りる階段をオテフセ団と野良犬たちが降りたあと、当然のようについてこようとした保健所職員であったが、ゴールデンレトリーバー男に通せんぼをされ、
「人間はここまでだ」
 と言われた。
「なぜだ」
 1時間も歩かされやっとなにかが起ころうとしているのに立ち入り禁止を命じられるのは理不尽であろう。
「ふざけるのも大概にしたまえ」
 さすがに警官も踏み込んできた。しかしゴルデン男はしれっと、
「人間は、ここから見ていろ」
 と返す。それどころか、
「後ろに伝えてください。犬を連れている者はしっかり抱きかかえるかリードを放さないように。犬を愛しているのならなにがあっても手放すなと」
 ゴルデン男は黒ラブ首領の補佐役的ポジションだ。ロンチー男が「こんなことやめるでちゅ」とじたばたするより言葉に重みが感じられた。
「警察のみなさん協力をお願いします。家族がいる犬を巻き込むわけにはいきませんから。抱きしめて、絶対に放さないように呼びかけてください」
 悪の組織が保健所の職員と警察官に協力を求めようというのか。
「なにをいっているのかわかっているのかね」
 しかしはいそうですかと折れたら警官という職業に傷が付く。ここは噛みつかねばならない。
「ここからは先我々に近づくのは危険です。ここから見ていてください」
 しかしゴルデン男の返答はそれだけで、きびすをかえして河原に降りてしまう。
(いいのかよ。それで)
 ゴルデン男は人間と犬怪人の狭間でうろたえるロンチー男のシャツを引っ張って、
「ボサッとするな、行くぞ」
 と引きずられてしまう。
「どうしたらいいでしょうか」
 と保健所職員は警官に尋ねた。
 警官は改めて後ろを見た。立ち止まられてブーイングがおこりはじめていた。犬を連れた人が多いことも確認できる。
 前方の様子がおかしいことに気付いた列の合間に付き添っているほかの警官らが駆け寄ってくる。「どうしたんだ」と言われこのように言われたと返す先頭の警官。一同は考えこんだが、この行列を河原に降ろすことは危険を呼ぶであろうことからも一般の人は降りないほうがいいだろう。もし、犬怪人らがおかしな行動をみせたらそのときは……と腰にさした防衛用具を見つめた。
 警察と保健所職員は集まった多くのギャラリーに河原に降りてはいけないこと。犬を連れている者は犬が逃げないよう放さないようにと叫んでまわった。
 意外にも人々は素直に従った。それはオテフセ団に引き寄せられたこと自体に集団催眠作用があったからと推測される。河原に降りて間近でなにをするのかを見たいと思っても体が思うように動かないということなのだが、人間たちはそれに気付かないでいる。
 左隣右隣を見ても誰も降りてオテフセ団に近づこうという暴挙にでないからみんなと一緒にこれから起こることを見守ろうという気にもなっていた。
 人間たちは行儀良く岸に降り立ったオテフセ団と野良犬たちを見下ろしている。犬連れの人は、抱きかかえたりリードを強く握って。

 正面は河、真後ろには多くのギャラリーがいて逃れることはできない。
 野良犬たちは行儀良くお座りをして犬怪人を見上げている。
(どうする気だよ)
 ロンチー男のなかの鉄はただ不安だった。
「全員着け」
 黒ラブ男が犬怪人に号令をかけた。すると黒ラブ男の左隣にゴルデン男が立った。その隣にスムチー男、その隣に土佐犬男、その隣にボクサー男、その隣にハスキー男。河を見つめる格好で立っている。
「え、ええ?」
 どうしたらいいのかわからない鉄であったが、ゴルデン男とスムチー男が隙間をあけて、
「黄色はここ」
 と言うのでわけも分からず黄色いTシャツを着ているロンチー男は橙と緑の間に入った。
「全員オテ」
 犬怪人は一斉に右手を地面と垂直になるようにあげた。
 すると河の中央から噴水のように7つの水柱がたったのだ。最初は水道の蛇口をひねった程度だったが、徐々に横幅が広がっていき隣の水柱とくっついて滝ほどの規模になった。
 背後でギャラリーの歓声が聞こえる。
「全員フセ」
 犬怪人は手を下ろした。大量の水しぶきを受けた河岸に色のついた光が立ち上りはじめる。
 黒ラブ男の前には赤い光、ゴルデン男の前には橙の光、ロンチー男の前には黄色い光、スムチー男の前には緑の光、土佐犬男の前には青の光、ボクサー男の前には藍色の光、ハスキー男の前には紫の光。水柱の力を借りて7色の光は徐々にセンターに集まって合体し、美しい虹を形成した。青空に浮かぶ雲に届くほどの長さに人々の拍手が聞こえる。
 ロンチー男の目を通して鉄も(すげえ)と思った。
 野良犬たちがシッポを振ってワン! と1回吠えた。笑顔を見せてオテフセ団に体をすり寄せる。
 そのとき、高台で見物していた飼い犬たちが落ち着かなくなっていた。抱きかかえられていた小型犬は飼い主の腕から脱出しようともがきはじめ、リードでつながれた中型、大型犬は浮かせた前足が空を切った。
 野良犬たちはみんな笑顔を崩すことなくシッポも扇風機のごとく振っている。
  黒ラブ男が野良犬たちにうなずいてみせた。
 最初に動いたのはマルチーズだかシーズーだか。汚れがひどく、どっちだか判別がつかない小型犬だった。
 河に足を踏み入れ、白い雲にむかってゆるいカーブを描く虹に前足をかけた。小型犬は一度だけ振り返って行く末を見守る人間たちにあふれんばかりの笑顔をむけた。
 鉄も驚いたが、それ以上に背後のギャラリーが声もでないほどの衝撃を受けた。
 小型犬は虹の上を歩きはじめたのだ。シッポを振りつづけながら。堂々とした足取りで。スキップをしているようにもみえた。
 小型犬が5メートルほど進んだところで犬種のわからない短毛の中型犬が続いて虹を渡りはじめた。ピクニックに来たかのような軽快さで。
 つぎに足をかけたのは大型犬のハスキーで、そのすぐあとをもう1匹ハスキーが追いかけた。2匹のハスキーはやせ細っていて抜けきらない冬毛がところどころで固まっていたけれど肩を寄せ合ってこれから美味しいものでも食べにいくような調子で虹を渡る。
 野良犬たちの目にははっきりと映っている。雲のむこう側にとの楽しい日々が待っているのだ。
 おとうさん、おかあさん、おにいちゃん、おねえちゃん、おじいちゃん、おばあちゃん。みんなが雲の向こうで待っている。犬たちはもう野良じゃない。虹を渡ればゴミ置き場からエサをあさることも公園の噴水の水を飲まなくてもいい。こわい人間に追いかけられたり石を投げられることもないのだ。
 高台から幸せそうな野良犬たちを見つめていると腕のなかの愛犬が自分も行きたいともがいて仕方がない。でもお前はここにママがいるから行かなくていいでしょ。と飼い主さんは腕に力を込める。河原に降りたがる愛犬にお前はお散歩の途中だろとリードをしっかり握りしめる。
 野良犬たちは次々と虹を渡っていく。虹の上でチンチンをしたりおまわりをしてみせる成犬になりきっていない子もいた。すっかり垂れ下がってお尻の間に入り込んでいたシッポがピンと立った老犬もいる。
 いまボクたちは幸せにむかって行進しているんだ。野良犬たちはみなそういう笑顔をしていた。
 しかし2匹例外がいた。ロングコートのレッドミニチュアダックスと白と黒の混じった中型ミックス。この2匹は虹に前足をかけたとき、長いことギャラリーのほうを振り返り、じっとして耳をそばだてた。
 風に乗って遠くから誰かの声が聞こえているかのようにじっとしていた。高台の人々も顔にクエスチョンマークを描いて首をかしげる。そのうち、2匹はいちどかけた前足を地に降ろしてオテフセ団に頭を下げて猛ダッシュで高台に向かって駆け上る。逃走だ。
「おい、いいのか」
 と尋ねるロンチー男に黒ラブ男は、
「彼らを捜している家族の声が聞こえたんだ」
 と応えた。
 そうして最後に足をかけたのは赤い首輪の柴犬だった。
「ありがとう」
 と柴犬が言ったような気がした。
「被害者が礼を言うな」
 黒ラブ男がポツリ、つぶやいた。
「みんな待って」
 あばら骨が浮き上がった柴犬は仲間を追いかけ虹を駆け上っていった。
 野良犬たちはみんな虹を渡り真っ白な雲の向こうへ吸い込まれていった。
 ギャラリーの人間たちは魂魄を持っていかれたみたいに口をあけて空をながめていた。
「鉄」
 ロンチー男は振り返った。
「鉄」
 群衆のなかから自分を呼ぶ声がした。
「鉄、鉄!」
 どこから? 高台の群衆を見渡す。
「鉄、鉄、鉄!」
 その声はオレンジの日が差す雲間から聞こえてくるような。
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