7  真実にガクガク

文字数 9,417文字

「今夜優希君うちに連れてらっしゃい」
 それから1ヶ月たったとある日曜の朝、突然母がにこやかに言った。
 驚愕する父と息子。頬を赤らめる娘。
「な、なんで」
 鉄はうろたえた。
「なんでって、あえんがお世話になったうえに鉄も勉強みてもらっているんでしょ。お礼しなきゃって思ってたんだけど、昨日神戸の家からお肉届いたでしょ」
 神戸の家というのは母の実家だ。クール宅配便ですき焼き用の肉が届いた。
「うんうん、それとてもいいと思う、みんなで食べたほうが美味しいもの!」
 あえんの鼻息が露骨に荒くなった。目もキラキラといいうよりギラギラ燃えている。
「そうよね、お母さんもカッコイイ子とご飯食べたいもの」
 くったくのない母の言葉に過剰反応するのは当然父だ。
「おいおい、相手の都合だってあるだろう」
「それなら大丈夫よ。さっき電話しておいたから」
「えっ?」
「そういうことなら伺いますって」
「マジで? っていうかなんで母さんが木越の電話番号知ってるんだよ」
「なに言ってるの。高校まで同じ学校だったのは誰? 名簿があるでしょ」
 携帯ばかり使っていると家電の存在を忘れてしまう。
「どうしよう、なに着よう」
 あえんのはしゃぎようは異常を通り越して異様だ。
「なんであえんはそんなに取り乱しているんだ」
 ようやく父は娘のおかしさに気付いた。
「あたし、迎えに行ってくる」
 しかし娘はまったく聞いていない。
「いや、今日はおれ木越の家行くから」
「あたしも勉強教えてもらう」
「お前は頭いいんだから教えてもらうことなんかなにもないだろ」
「それはそれ、これはこれよ」
 兄の言うこともまったく耳に届いていないようだ。
 しかもあえんは即友人にメールを打って送信していた。鉄がチラ見したところによると『今日ダメになった、ゴメン』という内容だった。それには即レスが3通来て『なにそれ~、信じらんない~』『友情より男をとるって言うわけ?』『全員にアイスゴチだからね』と書いてあった。
「食事中に携帯はやめろと言ってるだろ」
 自分のことをたなにあげて父がかなり不機嫌に言い放った。

「大変だったよ、あえんを振り切るの」
「べつに一緒でもよかったのに」
「あいつが来るとおれの馬鹿さ加減が際だつから恥ずかしいんだよ」
「ああ」
 そうだよな。という言葉が明らかに続く返答だ。
「勉強が終わる頃迎えに来るってさ」
「ああ」
 そうか。という了承が続く言い方だ。
「でもよかったなお前」
 豆乳スープから1ヶ月。木越のまんじゅう顔はかなりひいていた。ほとんど元の顔といっていい。色男復活だ。
「恥ずかしくて学校行けなかったよ」
 色男スマイルはスッキリしていなくてはいけない。木越も自分のペースを取り戻したようだ。
「どのくらい休んだんだ」
「3週間くらいかな、まあちょうど春休みだったしたいした影響はないが」
「これに懲りたらオテフセ団はやめろよ」
 それがオテフセ団を出現させることによる副作用だなんて。
 しかし鉄の心配をよそにそれには笑い飛ばす木越。
「オテフセ団を出すと気持ちが楽になる」
「なにお気軽なこと言ってんだよ、世間に与えている影響わかってんのか」
 クラリス幼稚園以来オテフセ団の出動は控えているようだが、世間様の反応は首領を置いてけぼりにしてありとあらゆる方向に枝葉が分かれてしまっていた。
 偽オテフセ団団長を名乗る者がテレビに出てきて「弱者を守るためにやって来た」と言ってみたり、オテフセ団を崇める団体が現れ「弱者いじめの社会をどうにかしてください」とデモ行進をはじめたり、動物愛護団体が政府に「オテフセ団に対する生き物虐待調査(オテフセ団は犬を不法に改造して無理な労働を強いている)」の依頼書を国に提出したり、ネット上では相変わらず虚しいすれ違い口論が続いている。
「ああ」
 世間ではそんなことも起こっているのだなあ~。まるで他人事の返答だ。
「ああじゃねーよ。お前の親父さんもこれ以上オテフセ団をだしたら黙ってないと言ってたんだからな」
「ああ」
 父親のことはまるで相手にしていないようだ。
 そのとき鉄は視線を感じた。久しぶりに背中を舐められるような視線。
「ゲッ、クロ」
 ここ最近はその姿を見なかった赤柴犬のクロがリビングの入り口に立っているではないか。
「どういうつもりだよ」
 鉄は木越をにらんだ。
「あいつはオレの不満メーターだからな。そろそろ現れるんじゃないかとは思ってた」
 なんだ、不満メーターって。と鉄が思うと、
「柴浦にとって悪事ってなんだ」
「またその質問かよ」
 もう出せる答えがない。木越はしょうがないなと溜息をついた。
「最近のオレはオレのなかのクロを押さえられなくなっているんだ」
 そんなに嫌なことがあるのか、と聞こうとして一人で住むには広すぎる家に居ることに気がつく。
「オレにとってオテフセ団は必要なものみたいだ」
「それはよくないって言ったろ」
 鉄は即木越の考えを否定した。そんな考えで世間を騒がせていいわけがない。
「ほかに方法ないのか」
「方法って」
「モヤモヤしたものを発散させる方法」
「ああ」
 それきり勉強タイムになってしまった。
 クロがじっと見ている。
「話はちがうけどさ」
 鉄は気まずくなって話を変えようとした。
「なんで今夜おれん家に行くのオッケーしたんだ」
「すき焼きだろ」
 木越ははっきり言った。
 鉄はうなずく。
「すき焼きに誘われて断る理由があるか」
「……」
(食い物につられたのか? まじで?)
「すき焼き大好物なんだ」
 草食動物を狙う虎の目をしていた。

「こんにちわ~」
 午後4時。あえんが迎えにやってきた。
 髪を下ろしてピンクの小花をあらったヘアピンで前髪を留め、あわいピンクのワンピースに白いジーンズを組み合わせていた。靴もスニーカーでなく白いパンプスを素足に履いていた。
「いつ買ったんだそんな服」
 家のなかで見たことがない。
「春っぽくて可愛いじゃないか」
 あえんは嬉しそうだ。そんな顔も家では見たことがない。
「お兄ちゃん、モテたかったら木越さんを見習うのね」
 鉄は憎まれ口を叩くあえんこそモテるわけがないと口をとがらせた。
「どうですか、お兄ちゃん(の勉強は)?」
 と兄のふてくされを無視してあえんは木越に尋ねる。木越はアゴに手をやって少し考えてから、
「ああ」
 と言う。続けて「順調だよ」とか「大丈夫」とか言って欲しいのだが。
「また犬飼い始めたんですか」
 あえんがクロに気付いた。柴犬は大型テレビの前でに動してお座りをしていた。
「その犬は、預かりものなんだ」
 木越は余所の犬ということにした。無難な答えだと鉄も思う。
「お散歩は、大丈夫なんですか」
 あえんは幻覚の犬に散歩の心配をする。でもなにも知らないのだから仕方がない。
「散歩は、してくれる人がいるから」
「よかった」
 そんなにホッとすることなのだろうか。鉄には理解できない。木越が散歩させたっていいだろうに。
(いくら愛犬死なせた過去があるっていっても。これからはしっかりリード握っていればいいだけの話じゃん)
「撫でてもいい?」
 あえんは聞くがやめたほうがいいだろう。クロはいくら鉄が呼んでも来ないし、いつも遠巻きに見つめるだけだ。
「おいで」
 あえんはしゃがんで「おいで」と手をのばした。
 クロはしばらくあえんを見つめていたが、そのうちゆっくり近づいていき、背中をむけてお座りした。
「ねえ、これどうしたらいいの」
 とあえんが聞くので木越が、
「それは背中を撫でて欲しいって言っているんだ。撫でてやってよ」
 そういわれて撫でてやる。
「なんだよ、おれが呼んでもシカトだったのに」
 おもしろくない顔をする鉄に、
「女性に撫でられるとモヤモヤが癒えていくんだ」
 と木越がおもちゃを与えられた子供のように言う。
「なんかそれ意味シンだな」
 クロは木越の不満のかたまりで、それは女性に撫でられることによって癒されるとは。
「いいじゃないか、人類に対する危険度が減るんだぜ」
 クロは耳が下がってうっとりと目を閉じている。
「かわい~」
 クロはすっかりあえんになついている。なんとひっくりかえってお腹をさすれと催促してきた。
(本当に幻覚なのかよ)
 手触りまで表現できるっていう構造がまったく理解できない。なんて思っていたら、
「オレにも説明できない」
 と他人事のように木越に返された。
「え? なにが」
 あえんが振り返ったので、鉄と木越は「なんでもない」と声を合わせた。

 そして3人はすき焼きのために鉄の家に向かう。
「お兄ちゃん歩くの速いよ」
 なんで怒られるのかがわからない。普通に歩いているだけなのに気がつくと木越とあえんははるか後方だ。
「お前らが遅いんじゃん」
 しばらく立ち止まってふたりが追いつくのを待つ。
「ふたりして牛のマネか?」
 とからかったらあえんが目を吊り上げた。
「あたし、まだ傷が痛むのよ」
 それには鉄も青くなる。
「まだ痛むのかよ、退院して結構たってるじゃないか、医者には診てもらったのか」
 あえんはちょっと目をそらした。
「過剰に心配しないでよ。恥ずかしい」
「ごめん」
「病人に気が使えないようじゃ、医者としてダメだからね」
 言葉はきつかったが諭されているような感じがした。
「あえん?」
 妹は涙ぐんでいるようにもみえた。
「どうしたんだ、ゴミでも入ったか?」
 鉄はいたって真剣にいたわったのだが。
「お兄ちゃんにはデリカシーがない、何度言わせればわかるの」
 なんで怒られるのか。しかもそういうときに待ってましたとばかりにジェントルマン木越が「あえんちゃん、大丈夫だから」となんだかふたりにしかわからないようなフォローを入れて株をグングンあげてしまう。
(クソッ、なんか面白くねえぞ)
 言い負かされたような感じがする。
 鉄はふたりに合わせ普段の半分ほどの速度で歩いた。
(じれったいな、この速度)
「柴浦、なんだったら先に行っててもいいぞ」
 木越は親切のつもりなんだろうが、じゃあお先にと言ってふたりをふたりきりにしていいのか。
(ふたりきりになりたくておれを先に行かそうとしているのか。いやいや、木越ほどの男があえんなんかに興味は示さないだろう)
 父の心配症が移ったみたいだ。
「あ」
 木越が声をあげた。
「なんだよ」
「あの犬」
 児童公園の前に保健所の野良犬回収車が止まっていた。今まさに一匹の犬が連行されんとしているところ。
 木越はゆっくり近づいていく。あえんが追いかけて行くので鉄もついていく。
「すみません」
 薄いグレーのつなぎを着た職員は不機嫌そうに「なに」と言った。
「その柴犬、見せてもらっていいですか」
 職員は「飼い主ですか」と聞いてきた。木越はそれを受け流して捕まってしまったやせぎすの赤柴犬をみた。口輪をはめられた犬は明らかに怯えていてシッポはお尻のなかに入ってしまい腰がひけている。顔を背けるように震えてこれ以上近寄ったらうなり声をあげそうで、赤い首輪をしていた。
 木越は犬をいろんな角度からみつめた。
「なんなの、君の犬でないなら連れて行くよ」
 犬は軽々と抱きかかえられて車のゲージに入れられてしまう。車にはほかにも犬が2匹入れられていた。犬は2匹とも首輪をした洋犬だった。カプセルホテルのようなゲージのなかで犬たちは震えていた。
 赤い首輪をしたやせた犬は恐怖に支配された瞳をむけて人間はすべて敵といわんばかりに悲鳴のような声をあげている。
「すみません、犬違いでした」
 木越は職員にあやまった。
 赤い首輪の柴犬はゲージに押し込められて連れ去られていった。
 鉄たちは排気ガスが見えなくなるまで車を見送った。
「木越さん、今の犬」
 あえんがおそるおそる尋ねた。
「あんな痩せて……首輪がなかったらわからなかった」
 あの犬が吠えかかったせいで木越のロッキーは追いかけようと無理にリードを引っ張った。うっかりリードを離してしまったせいで、ロッキーは車にはねられて死んでしまった。
「あの犬も可哀相だな。なんで捨てたんだ飼い主は」
 木越は悲しそうだった。

「いらっしゃい優希君」
「こんばんわ、お母さん変わらず綺麗ですね」
「そういうところもお父さんそっくり」
 と母は笑う。木越も苦笑いを返した。
「あがってあがって」とあえんが促す。靴をぬぎかけたとき、大きくて黒い影が真っ正面に立った。
「やあ、優希君」
 グリズリーかとおもう勢いで柴浦父が仁王立ちしていた。
「こんばんわ」
 木越はひるんだ。鉄はそれを見逃さない。
「今日はゆっくりしていきなさい」
 不敵な笑みを浮かべる父。
「はい、ご馳走になります」
 あとで木越に聞いた話だが、このとき父は完璧な防御(時代劇の替え歌エンドレス)をしつつその隙間に『娘ニ手ダシタラタダデハ済マサン』と思っていたそうだ。だてに木越父と長い付き合いはしていない。
 父は家にあがろうとしている木越を凝視している。
 木越はその視線に負けまいとするかのようにゆっくり上がりかまちに足をかけた。そのときちょっと顔をしかめたのだがそれは柴浦父の睨みが効いたのだろうと鉄は思う。
「優希君」
 父がふいに声をかける。
「なんですか」
「ヒザ痛いのか」
「……」
 言い返さない木越はさらにビビッているように鉄にはみえた。
「ちょっとお父さん、木越さん見つめるのやめてよ、気持ち悪い!」
 あえんが間に入った。妙な緊張感が走る。
「まあまあ、こんなところじゃなんだから」
 我ながらいいフォローだと鉄は思った。
「こっちよ」
 あえんが木越の手をひっぱって奥へ連れて行く。
「鉄」
 それを見送り父は鉄に声をかける。
「なに」
「彼におかしなところはないか」
「おかしなとこだらけだよ」
「それじゃない。顔がむくんでないか」
 自分がなにかをしたわけでもないのに鉄までもうろたえてしまった。あれでも1ヶ月前よりはよくなったんだが。
「そうかなあ。おれにはわからないけど」
 鉄はすっとぼけることにした。木越は副作用だと言っていた。能力のツケだなんて知られないほうがいい。
「あえんが手術した日に会ったときはもっとシャープだった……そういえば、あのときも足をひきずっていたな」
「え、そうなの」
 鉄は間抜けな声をだした。なんで週に1日は会っている自分が気付かず父がそんなところにツッコミをいれるのか。
「プロの医者だからな」
 人間の細かい変化が気にかかるというところか。
「そういや歩くの遅かったけど」
 でも、あえんが自分の傷が痛いと言っていたし。
「お父さんお兄ちゃんなにやってるの」
 あえんに呼ばれて鉄と父は食卓にむかった。

 父にいわれて気にはなったものの、すき焼きがはじまってからは即座に忘れてしまう。
 すき焼きに対して木越は上品という単語のない食べっぷりをみせたからだ。
「おい、しらたきとかネギとかも食えよ」
 木越は鉄が突っ込むほどの肉好きだった。
「弱肉強食のすき焼きになに言ってるんだ」
 人の家に来て遠慮というものを知らないのか。長いこと同じ学校にいたのにこんな面まであったとは驚きを通り越して呆れてしまう。
「たくさんあるからいっぱい食べてね」
 母はどこかうれしそうだし、あえんなぞはわざわざ肉を取ってやったりしている。
「豆腐とか春菊も食えよ」
 このままでは自分の肉がなくなってしまう。
 食卓はにぎわっていた。
 が、
「お父さんビールは」
 母にうながされ「あ、ああ」と曖昧なうなずきをかえしてグラスを差し出す父。あまり箸がすすんでいない。
「すてきなおにいさんねえ」
 それまで置物のように座っているだけだった祖母が木越に語りかけた。
「ありがとうございます」
 木越もにこやかに返事をする。
「おばあちゃんも木越さんの良さがわかるのね」
 あえんが喜んでどうする。と鉄は思う。
 祖母は鍋と木越を交互に見つめて目を糸ミミズのように細めてにっこり言う。
「あなた、うでがあげずらそうなのねえ」
 木越の動きが止まって、あえんが「おばあちゃんなに言ってるのよ」と声をあらげた。
 父がいったん差し出したグラスをひっこめた。
「お父さん」
 母が首をかしげた。父の顔がみるみる険しくなっていく。
 どうしたのかと鉄は父をみた。父は木越しか見ていない。
 いまにも襲いかからんとする恐竜の目をむけられた木越は条件反射で柴浦父の頭を覗いてしまった。
 とたん木越は箸を落とした。まるで父が放ったスマッシュを額に受けたかのように。
「ビンゴか」
 呟いて父が席を立った。
「親父?」
「お父さん?」
 鉄とあえんの疑問符をはね飛ばし木越の背後に立った。逃がしはしないといいたげに。
 父は箸を落とした木越の手首をつかんで持ち上げた。
「お父さんやめて」
 とあえんが叫んだのと同時に、
「いてええ! なにするんだ!」
 と木越が絶叫した。
 鉄はあの日の記憶が鮮明に浮かび上がった。
 高校の卒業式の日。最後くらい気軽に声をかけようと肩を叩いたとき、木越は「いてえんだよ!」とキレた。今みたいに。
「なんてこった」
 父は手を放し肩を落とした。
 あえんが木越にすがりついてボロボロ涙をながしはじめた。
「なに、なんなわけ」
 わからないのは鉄だけなのか。
 いや、母もわからないようだし、きっかけをつくった祖母はひたすらニコニコして豆腐を口に運んでいる。
「医者の目は誤魔化せませんね」
 肩と手首をさすりながら木越は白旗をあげた。
「あたりまえだ。何年やってると思ってる。うちにも膠原病をもった患者さんは来るんだよ」
「こうげん……」
 鉄は青空とみどりの牧場を思い浮かべてしまった。しかしその高原ではなくちゃんとした漢字が浮かんだところでようやく気が付いた。
「関節リウマチ、発症して1年……ひょっとしたらもっと前からだったのかもしれません。シェーングレンの疑いもあるそうです」
「はあっ?」
 鉄は若者を対象にしたとは思えない病名に気の抜けた声をあげてしまった。
「冗談だろ、リウマチって、じいさんばあさんがなる病気じゃないのかよ」
「オレもそう思ってたよ」
 自分が発症するまでは、と木越は手をさする。
「膠原病に年齢など関係ない、よく覚えておけ」
 父が叱咤した。
「寒がりじゃなくてこわばりと痛みが酷いんだ」
 寒がりだと言ったのはあえんではなかったか。それでグルコサミン……グルコサミンって寒がりのサプリメントではなかったのか。
「あえん、知ってたんだ」
「だからお兄ちゃんは、ダメなのよ」
 真っ赤な目で言い返された。
 これもあとであえんに聞いたのだが、見舞いに来た木越に「もう結婚できない」とあたってしまったら、木越に「メスが握れない」一生ものの病気のことを聞かされて自分が泣いている場合ではないと思い知らされたという。
「顔がむくんでみえるのはステロイド剤の副作用ね。なんかおかしいとは思ってたのよ」
 つかさず薬剤師の母が言う。
 膠原病では痛み止めに使われるポピュラーな薬だ。だが使用量が増えると顔が膨れるムーンフェイスという副作用が起こる。
 それをオテフセ団の副作用だと思っていた自分は……。鉄は度重なる己の馬鹿さ加減に倒れそうになった。
「量を減らしたから元に戻ってきましたけど」
 ははは、とカラ笑いを付け加えて木越は言うが、聞かされるほうはまったく笑えない。
「指の関節が痛くてさ、みかんならいいんだけどオレンジの皮は固くてむけないんだ」
 せっかくの見舞いの品になにをすると怒った鉄。
「今日はこれでも調子いいんだ。悪いときはだるくて動けないから」
 ソファーからほとんど動かない木越。鉄がきているのに寝てしまったこともあった。
「なんでそういう大事なこと言わないんだよ」
 うろたえる鉄に、
「気を使われるのが嫌だったから」
 なにも言い返せないではないか。
「医者にはかかっているんだな」
 と父が念を押すように言った。
「K医大病院の息がかかっていないところに」
「ということは、両親も知らないのか」
 木越はうなずいた。
「なんで!」
 鉄は驚いた。一生ものの病気だろう。それを親に隠すなんてどうかしている。
「両親には知られたくない」
「それは無理だ」
 と父は言い切った。
「あと1時間もしないうちにお前の父親はここに来る」
「なんで」
 今度は木越が驚いた。
「すき焼きを食べにだ」
 木越は糸の切れた操り人形のように崩れた。

「すきやきすきやきうれしいな~」
 とメロン持参で呑気に上がり込んできた木越父の態度は秒もしないうちに豹変することとなる。
「馬鹿な息子が迷惑かけた」
 これも馬鹿がつくくらい丁寧に頭をさげられ柴浦家の人々は返す言葉が見つからずうつむいた。
 当の木越は椅子に座ったまま父親の顔をみないようにしている。
「思いっきり殴ってやりたいところだ」
 免疫異常により体のなかで自分自身を攻撃して全身の関節が痛み続けるのが主な症状。関節が炎症を起こしているところに外傷などとんでもない。よってはり倒せない。
「なんで黙ってた」
 しかし木越は答えない。
「どこの病院にかかってる」
 沈黙。
「大学へは?」
 無視している。
 そのうち木越父もだんまりになった。真横から息子をながめ腕を組んで。
 木越父子のだんまりを柴浦家の人々は部屋のすみでハムスターのようにかたまってみている。
 だれもなにもいわないままずいぶんな時が流れた。物音ひとつたててはいけない空気が充満している。
 それを打ち破ったのは木越だった。
「帰ります」
 といって立ち上がった。
 あまりに静かに言われたので出て行ったのにだれも気付かなかったほどだ。
「私も失礼するよ」
 と木越父に言われて催眠術から覚めたように体を動かすことができた。
「鉄君」
 木越父がちょいちょいと手招きをした。
「なんですか」
 木越父に誘われるまま玄関まで。
「優希を頼む」
「頼むって」
「私も父と衝突して暴走したことがあった。そのとき助けてくれたのは銅助だ」
 衝突、暴走。聞き捨てならない言葉だ。
「きついことを言った覚えはないんだが、優希は完全に心を閉ざした。ショックだよ親として」
「……話し合ってないじゃないですか」
「受信しかできない同志がそろえば会話できるだろ」
「あ」
 だからだんまりが長いこと続いていたのか。
「頼む、なにをしでかすかわからない」
「すみませんでした。おれ、木越が病気だったなんてぜんぜん気付かなくて」
 オテフセ団だけでいっぱいいっぱいだった。
「それは気にしなくていい、専門の名医にみせるつもりだ」
 玄関の扉をあけたとき、木越父は額に手をあてていた。
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