1  山手線グルグル【悪の秘密結社オテフセ団】

文字数 9,935文字

 灰色の空から舞い落ちる細かい雪は駅に着く頃には盛大なぼたん雪となった。
 深皿を持って立っていれば数分でかき氷がつくれる勢いだ。
 柴浦鉄は頭にのっかった雪をかじかんだ素手で払い落としダッフルコートのポケットからSuicaをだして改札をぬけた。
 白い息を吐きながら階段をあがり、すべりこんできた山手線に乗りこむ。座席はすべて埋まっていた。
 鉄は溜息をついた。
(なんで座れないんだ。平日の昼間なのに)
 鉄は座りたくて仕方がなかった。熱があるわけでもないのに座席に腰を埋めたいという欲求にかられて、それは我が儘なような気もするが今日だけは頼むからと神でも仏でもなく座っている人々に拝みたい。
 しかし二十歳の彼に席を譲ろうなんて考えを起こす人は当たり前のようにいない。おしゃべりに興じるおばちゃんたち。眠りにつくおじさん。マスカラをつけている女性。本を読む学生。大音量で音漏れしているのもお構いなしの革ジャンの男はシルバーシートに座っている。
(今だけでいいんだ。だれか座らせてくれ)
 脳裏をよぎるのは初詣のとき受験の神ともてはやされている神社で600円出して書いた絵馬。こういう事態におちいったときに座れますようにと書いておくんだった。
 そういえばあのときおみくじをひいた。末吉だった。おみくじのランクなんてしらないが「たぶん出る」とか「5割方よし」とか「まあ現れるでしょ」とか、中途半端な内容にいっそのこと凶のほうがいさぎよかったんじゃないかと……。
(空いた!)
 次の駅は人の出入りが多い。電車が駅に着く前にドアに立つ人の気配を見逃さない。鉄は座ることに成功した。前に座っていた人のお尻のぬくもりが残っているが気にしていられない。
(これからどうしよう、おれ)
 やっと脱力ができた。とたん今朝の出来事が思い出される。

「発表もK医大だけになっちゃったねえ」
 祖母の一言で朝の食卓が沈黙に襲われた。妹のあえんが声を押し殺して笑いはじめる。
「お、おばあちゃん、お茶いれましょうね」
 といいつつ見事に急須をひっくりかえす母。あえんは顔をそむけて肩を震わす。
「鉄、大丈夫? お茶かからなかった」
 母の泣きそうな顔はお茶 認知症と診断された祖母に怒りの感情をむけることはできない。否定もできないのだから。
「お母さん、鉄は頑張ったんです。そんなことをいわないでください」
 と気の効いたことを言ったつもりが墓穴を掘る父。あえんは笑いを我慢できなくなったようで。
「最後の合格発表が一番の難関K医大なんてお兄ちゃん可哀想すぎる」
 優しさのかけらもないセリフ。
「黙れ、おさげメガネブス」
 鉄は滅多に怒らない(と思う)。あえんの兄に対する口の悪さは物心ついた頃からで聞き流していれば気にすることなど……。
「あたしは来年ストレート合格するから」
 亡くなった祖父から譲り受けた黒縁メガネの奥で自信満々の目。
「まだ合否わかんねえのにいい加減なことぬかしてんじゃねえよ」
 鉄はたくあんとご飯を勢いよくかきこみあえんを睨む。
「無理だね。鉄は子供の頃からそういう子だ」
 どういう子だよ。と認知症とは思えない祖母の黒い目を見つつ鉄はたくあんを噛む。カリコリといい音がした。
「なあ鉄、無理強いはしないから医大にこだわることはないぞ」
 普段は恐竜のような威圧感のある父の声が感情をおさえている。
 あきらかに昨今の「医大に入れなれなかった子供が起こした一連の身内殺人事件」に思いを馳せていた。
「お母さんもね、鉄は肛門科にはむいていないと思うの」がひっかかったかの心配ではない。
「もうだめだね、鉄はだめだね」
 母の解析しがたいフォローにあえんの笑いがさらに大きくなる。しかしそれを怒れない。この妹のほうが頭はいいし肛門科にもむいている気がする。なにせ子供のころから犬や猫や小動物の尻を眺めてはニヤニヤしていたのだから。
「おれなんかより変態のあえんのほうが肛門科向きだよな」
 あえんは変態といわれることに怒ったことがない。なぜなら女子高生とは思えない人体模型や骨格模型(理科室にあるあれだ)を飾っている部屋をみればわかる。だからそれに対してはだれも文句は言わない。だが、
「鉄、お前は肛門科を馬鹿にするのか」
 しまった、と思ってからでは遅い。父は自分の仕事に生き甲斐と喜びと誇りを持っている。たいがいの大人にはそうあってほしいものだが。手にした箸を折り曲げるほどパワーを注ぎ込まれるのも困るわけで。
「お父さんが肛門科医を目指した理由、何度も言っただろう」
 こめかみに#マークがでるほどの怒りよう。恐竜が咆吼しようとしていた。
 鉄は小学生のころ「肛門科~、おまえのオヤジ肛門科~」とはやしたてられ、いじめの対象になった。泣きながら家に帰ると父は鉄とあえんを並べて座らせ、いかに肛門科の仕事が尊いものかを語った。全告白を述べると長くなるのではしょっていうと「痔で苦しんでいた父のおじいちゃん(鉄のひいじいさん)を助けたく、産婦人科医だった父親(鉄のおじいさん)を説得して柴浦医院を肛門科に改造した」だ。最初から最後まで聞くと涙も感動もありの物語なのだが拷問にちかいくらいの時間説教されるのでそれを聞かされるくらいならクラスの奴らに「肛門科」と笑われてもひたすら耐えるほうがましかもしれなかった。
「ごめん父さん、わかってるよ」
 しおらしくなった鉄に見た目も恐竜に似ている父は「ならいいんだ」と落ち着いてくれた。一応息子の現状の辛さをわかってはいるようだ。
 そのとき、父の携帯電話が『燃え上がれ燃え上がれ燃え上がれ』と歌い出した。ファーストガンダムの主題歌で特定人物からのメールを知らせていた。
「困ったやつだ」
 そう言って食事中だというのに父はメールを開いた。この着メロは週に最低2回は鳴る。相手は木越誠一郎というK医大付属病院で心臓外科医として自慢の腕を振るっているという男だ。父とは子供の頃からの友人だ。
「エルメスにしとけ!」
 吐き捨てることをそのまま即レスする父である。
「また女がらみだ」
 と母に言う。母も知り合いであるので苦笑いを返している。
 木越誠一郎は子供の頃からなに不自由のないおぼっちゃま街道を突き進んだ貴族の風格とルックスを生かしていまもなお看護師、病院に出入りしている医療関係者(女子)をとりこにしているという。そんな人がなんでオクテで恐竜な父に女性問題のメールをするんだろう。いまだもって謎だ。
「鉄は木越のようにはなるなよ」
 携帯をたたんで父は言う。湯飲みにお茶を注ぐ母の手が一瞬止まった。
「あなた」
「すまん」
 祖母が「奥さんも浪費家だからねえ」と意味深な笑いを浮かべる。父と母が困った顔をした。
「いい人たちですけどね」
 と溜息まじりに母が言う。
「やることが派手なだけだ」
 父も諦めているように言う。
 名前はよくのぼるが実際の木越誠一郎には会ったことがない。
 そのかわり、その両親が生み出した息子にはいやというほど会ってきた。それが鉄に更なる重圧となってのしかかるのだ。
「御子息はすでにK医大ストレート合格なんでしょ」
 あえんが楽しそうにほくそ笑む。
「あいつは、出来すぎなんだよ」
 木越御子息、はじめての出会いは小学4年生。肛門科の息子といじめられていた鉄を助けた転校生は大学病院で心臓外科のホープと言われる男を父に持っていた。
「君たちのお父さんやおじいさんお母さんまで。柴浦肛門科にはずいぶんお世話になっているじゃないか」
 というセリフで鉄をからかう男子を黙らせ、さらさらの髪と涼しい瞳で女子の心をわしづかみにした。
「木越君、なんでぼくの病院のこと知ってるの」
 転校してきたばかりなのに。不思議に思って鉄が聞くと。
「だってオレ超能力者だから」
 木越優希は茶色がかったさらさら髪を風になびかせ男でも赤くなってしまう微笑みを惜しげもなく放出した。
(すげー、木越君超能力者だよ)
 あとになって親父同士が知り合いということを知ってなーんだと思ったが、このときは本気で超能力なんて少年マンガだけのことだと思っていたから一気に木越優希という少年に一目置いてしまった。
 その後、鉄と木越は同じ私立の進学中学、高校と進んだわけだが。
 木越は勉強だけでなくスポーツもそつなくこなしピアノも弾ける。唯一誰が見ても人並み以下だろうと思えたのは美術だけだったが、かえって弱点があるのが個性だと女の子が寄ってくる。教師からの信頼も厚い。木越のまわりには常に熱い視線が集まっていた。
 私立中学には補欠合格で滑り込んだ鉄は木越の生まれついての素質というか神々しさにとてもそばに寄ることができず、ろくに口をきかなくなった。でもそういう男子は鉄だけでなくて、ひそかに『木越君にはうかつに近寄れない会』なんかが結成されたりもした。
 小学校4年生以来同じクラスになったのは高校3年になったときだ。
 しばらく別クラスだったおかげか、木越の人間的レベルはチョモランマほど高いところにあって、木越に話しかけることができる(肩を並べることができる)人間は数少なかったように思う。
 すべてにおいて低空飛行を続けていた鉄は木越のあまりのまぶしさに視界に入れることさえ辛くなっていた。
 その頃鉄は昔話を口にすることが多くなってきた祖母に「木越(父親のほう)は色男でものすごいプレイボーイでね、あんたのお母さんも犠牲者のひとりだったんだよ。お母さんのことずーっと好きだった銅助(お父さん)が、引きこもったお母さんをひっぱりだしてやったのさ」と聞かされた。なるほど、木越のモテぶりは父親ゆずりかと納得したのと同時に、親の代にはそんなドラマがあったのかとも知らされた。
 優秀な木越優希はあっさりK医大に合格して華々しく高校を去っていった。浪人が決まった鉄はその悔しさも手伝ってか、卒業式に思い切って声をかけることにした。
(そうだ、肩にぽんと手をかけて元気でな、って言おうとしたんだ)
 山手線はいい具合に揺れている。
 うつらうつらしていて考え事をしていたのか夢をみているのかわからなくなっていた。
 高校生活最後の日、鉄はもう二度と会わないかもしれない貴公子に別れを告げようと駆け寄った。いままでろくに話をしていなかったから気合いをいれて行った。そもそも、親同士は仲がいいのに息子たちは会話らしいことをしたことがないっていうのはどうなんだ。
 ところがだ。
 走り寄り、肩にぽんと手を置いたとき、振り返った木越は……。
(あのとき、木越はなんであんな反応を)
 嫌なことを思い出してしまった。
(クラスメイトとも思われてなかったのかな……)
 今日のK医大発表であえん相手に賭けをしなかったのは良かったと思う。あえんのことだから「落ちてたらいつかお兄ちゃんの痔の手術させてもらうから」と瞳をらんらん輝かせ言ってたろう。
(おれ、ダメダメじゃん。そもそもおれの頭脳で医大を受けたのが間違いだったんじゃないのか)
 山手線はいまどこの駅に着いたのだろう。どこで降りたらいいのか、どこにいけばいいのかがわからない。
(医大以外に滑り止め受けておけばよかった……、いやそれは周囲が許してくれないのか……、かといって悔しさのあまり暴れるほどパワーもないってどうなんだよ)
 このままゴールのない山手線と一緒にいられたら。
 電車はどこかの駅に着いて激しい雪と冷気を招き入れる。乗客も凍り付いたように静かになった。
 静かに雪は降る。視界が見えなくなるほどに。
(二浪か)
 一度は静かになった乗客らがざわつきはじめた。
(うるさいな、だれかゲロッたのか、終電によくある風景じゃあるまいし)
 小さな悲鳴も聞こえる。これは目を覚まさないといけないのだろうか。なんて思っていたら急に体が軽くなった。背中に羽が生えたのかなと思ったが違う。誰かに両脇を捕まれて持ち上げられているのだ。
「え?」
 鉄はここで目をひらいた。
 女性の悲鳴が生々しく聞こえる。
「なんだ!?」
 現実に戻ったはずだ。なのに鉄は疑問符なのか感嘆符なのかわからない声をあげていた。
 なにせ、自分の両腕をつかんで座席から引きはがしたのは眼光鋭い犬だったから。
「おうえいええ?」
 言葉は意味不明の記号と化す。犬の顔をしているから犬と表現してみたが、犬と決めつけるにはあからさまにおかしい点がいくつもあった。
 犬は二匹……いや二人というのか二体というべきか。たいへん筋肉質で大きかった。標準成人男性よりでかい。しかも二足歩行している。
 右側のはシベリアンハスキーで、左側はボクサーみたいな気がする。中学の友人が飼っていたのを見たことがある。二匹とも大型犬だ。でも二足歩行はしないし、身長も190センチを超えることはない。
 犬が後ろ足だけで立っているのを想像してもらえればいいのだが、普通でない点がまだある。犬たちは洋服を着ているのだ。いや、犬が洋服を着るのはあたりまえのように受け入れられていることだ。そういうことではない、ハスキーのほうは紫色Tシャツに黒いビキニパンツ。ボクサーのほうは藍色Tシャツに黒いビキニパンツ。
(パンツはお揃いなんだ)
 そんなことでも考えていなければ現実を受け入れられない。
 鉄はTシャツを凝視した。そこにはちいさい文字で『悪の秘密結社』と妖怪じみた文字で書かれておりその真下に大きな字で『オテフセ団』とケンカを売るように書きなぐられている。
「なんだそりゃ」
 そのときだけ、鉄は自分が二度の医大受験に失敗したあわれな青年であることを忘れることができた。
 が、それは電車の床に放り投げられたことで痛みとなってぶり返す。
「イッテー」
「なにすんだよ!」くらいは言いたいものだが目を見張ったのは鉄だけではなかった。
 どこからか祖母と変わらない年齢のおばあさんが土佐犬に抱きかかえられてやってきた。土佐犬は青色Tシャツを着ている。
(もう一匹いたのかよ)
 鉄をはじめ乗客たちは声も出なければ動くこともできない。
 土佐犬が近づくとハスキーとボクサーは鉄が座っていたところを指さした。うなずき合う三匹。おばあさんは土佐犬の手により座席に案内された。
「どこのどなたかしりませんが、ありがとうございます」
 おばあさんは微笑みを犬たちにむけた。犬たちは親指を突き立てて互いの健闘をたたえた。
(犬なのに、指が五本ある)
 しかし呆然としている場合ではなかった。
 三匹は車内を眺め回している。乗客もうろたえはじめた。二足歩行の犬たちがなに者なのか、なにが目的なのかわからないがこれだけでは終わらないことを感じ取ったのだ。
 まず土佐犬男が動いた。
 息を飲む乗客たち。
 土佐犬男はベビーカーを握りしめたお腹の大きな女性の前に立てヒザをついて一礼した。そして手を差し出す。ベビーカーの子供が手を叩いて喜んだ。
(礼儀正しい犬だな)
 子連れの妊婦は逆らっては命がないと思ったのか震えながら犬の手をとった。それとひきかえに。
「なにすんのよー!」
 女のだみ声が響き渡った。マスカラを必死になって塗っていた女性だ。ハスキー男とボクサー男によって座席からほうり出される。
 空席を指さすハスキー男。女性はマスカラが頬についてしまい乗客たちの失笑をかった。
「なにするのよ、訴えるわよバカ!」
 女性は犬相手に罵声。座席にはいつくばって戻ろうとする。その間にも土佐犬男が妊婦さんを連れてくる。
「アタシが座ってたんでしょ! 妊婦なんてガキ産む体力あるんだから立ってたって死ににゃしないのよ!」
 土佐犬男に連れられた妊婦さんは露骨に嫌な顔をした。それは妊婦さんだけでなく、鉄も「そこまで言うか」とつぶやいたくらいで、マスカラ女性は乗客たちの冷たい視線の集中放弾を浴びた。
「それじゃああんたは座ればいい。わしが妊婦さんに譲る」
 マスカラ女性のとなりに座っていたおじいさんが怒り露わに立ち上がった。しかしそれはボクサー男がなだめて座らせる。
「なによ、なんなのよ」
 マスカラ女性は髪をかきむしって金切り声をあげた。
「あ、悪の……ええ? 読めない、オテフセ団ってなに、バカじゃないの!」
 マスカラ女性は秘密結社が読めなかった。
 次の駅に着いてマスカラ女性は逃げていった。そして新しく乗り込んだ乗客がこの光景に白目が血走るほどおどろくこととなる。
 妊婦さんは座ることになり(お礼を言っていた)、犬たちは新たなターゲットを物色し始めた。
 シルバーシートに座る、おまえ老人でもなければ怪我人でもないだろうというTシャツの上に革ジャンという若者はさっきからガムをかんで音漏れするほど音楽を楽しんでいた。犬たちが行動をおこしても見て見ぬふりをして我が道を突き進もうと努力しているようだ。
 若者の前にハスキー男とボクサー男が立ちふさがる。乗客は静かに見守った。一方土佐犬男は酸素ボンベを必要とするおじさんをボンベごと抱きかかえてやってきていた。
「なんだよ化け物、オレッちはゼッテーうごかねーぜ」
 ニヤニヤする若者。
 鉄は息を飲む。
 そのとき。
「なあ、あれどうなると思う」
 とつぜん背後から耳元に熱っぽい息がかけられた。この声は聞いたことがある。携帯の番号も知らないが聞いたことがある。
「木……」
「じょーだんじゃねーぜー」
 革ジャン男が床に足をバンバン打ち付けはじめた。
「おめーイヌっころだからしらねーだろからおしえてやる。オンナせんようしゃはほーりつできめられたんじゃねーんだ。だからオトコがのってもつみにならねーんだぜ。だからよー、シルバーシートつーてもオレッちがすわっちゃいけないつーほーりつはないわけー。わかるかなーイヌっころ」
 ほかの乗客は眉間にしわを寄せるが、なかには革ジャン言うじゃんとダジャレを言ったりする人もいた。
「犬以下だよな、あいつ」
 なつかしい声が鉄の背中にもたれかかるように囁く。おかげで背中が妙に熱い。
「やってしまえ」
 たしかに鉄の耳にはそう聞こえた。
 とたん犬たちが急変した。
「イエッサー!」
 そう言って敬礼したのだ。犬たちの突然のアクションに革ジャンの若者は思わずプレイヤーの音をさげた。
(あの犬たち、しゃべれたんだ。いや、そうじゃないよ)
 ハスキー男とボクサー男は拳をボキボキ鳴らし、肩をいからせパキパキいわせた。
 緊張感が走る。
 ハスキー男が腕をのばして若者のヘッドホンをむしり取った。おにぎりをにぎるかのようにたたんでいき、しまいには砂のように粉々になって床に落ちた。
「なにしやがるべんしょうしろ!」
 若者は脳天から声をすように怒り出した。
 妊婦さんの隣に座るおじいさんが「ええぞええぞ」と犬に声援を送る。
 つぎにボクサー男が5本の指からナイフのような爪をだした。シャキーンという擬音があてはまる。
「なにする気だよ」
 若者はようやく現実を受け止めうろたえた。
 ボクサー男は黙って腕を上げた。目を伏せる乗客もいた。
「やれ」
 と鉄の耳に熱い吐息がかかる。
 このままでは血を見ることになりそうだ。だけど鉄は動くことができない。だれもこんな事態にどうしたらいいかなんて教えてくれなかった。強いていうならここで正義のヒーローが現れて人に危害を加える犬怪人をギッタンギッタンにしてくれるはず。
「うわーっ」
 革ジャンは悲鳴をあげた。
 しかし血は飛び散らなかった。飛び散ったのは何年ものかはしらないけれど襟にウサギの毛がついた革ジャン。たくさんの爪痕がつけられ、いちばん裂けているところは下に着ていたTシャツまで切れている。
 鉄によりかかったままの同級生がまたなにか囁く。
 同時にボクサー男が腕を組んで言い放った。
「革ジャンなら金さえだせば元に戻るだろ」
 革ジャンの若者は次の駅で逃げていった。

 その後、車両は座席の譲り合い会になりはじめた。
「あの、わたし大丈夫なので座ってください」
「いいんですか、ありがとう」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 なかには黙って立ち上がり違う車両に移る人もいた。
「なんなんだいったい」
 犬たちはうなずきあって車両を移動しようとした。が、途中座ったままの少女の前で足を止めた。
「女子高生は立ってなさい」
 ところで、彼はいつまで鉄におぶさっているつもりなのだ。
「女子高生は立ってなさい」
 とハスキー男が同じことを言った。
 女子高生は長い黒髪でうつむいたままだがコートと学校指定のカバンには見覚えがある。
(あえんの学校の生徒か)
 私立桜桃女子学園高等科。名前は可愛らしくご令嬢しか入学できないイメージがあるがふたをあければ頭脳さえ明晰なら生まれや育ちや性格は問わないという進学率100%の女子校だ。
「お腹痛いから勘弁してください」
 か弱い声を返した。
「どうせ生理だってんだろ。そんなの女性はみんな平等にあるもんじゃないか」
「それはないだろ」
 思わずつっこんでいた鉄だが、ハスキー男に言ったのか背後の彼に言ったのかわからなくなっている。
「妹は毎月薬飲んでるくらいだぜ」
「生理の痛みは平等じゃないわよ!」
「あえん」
 鉄はのけぞった。犬にケンカを売ったのはお下げをほどいてメガネを外したあえんだったからだ。
「なにやってんだ、学校は」
 いつもとちがうからまったく気付かなかった。犬怪人に襲われたら大変だ。助けなくては。
「あの子は柴浦の知り合いか」
「お前どけよ。妹のピンチなんだ」
 高校卒業以来の再会を喜び合うような雰囲気ではまったくなかった。それどころかずっとよりかかられて重いわ熱いわうざったいわ。
「見た目で健康不健康決めつけるんじゃないわよ! 今日のあたしはメッチャ貧血でお腹も腰も痛くて死にそうなのよ! 立っていられるか、ボケッ!」
 どこでそんな言葉を覚えたのだろう。
「おまえの妹狂犬だな」
「普段はただイヤミなだけなんだ。生理中だけああなる」
 今朝の食卓ではなんともなかったのに、と鉄は思う。女性の体が理解できない男の子である。
「そうか、元気そうだけどな。わからないよな人間の体は」
 彼とハスキー男が同時に言った。
「おい、なんなんだよお前さっきからおかしいぞ」
「お兄ちゃん助けて」
 あえんが鉄をみつけてヘルプを求める。
 そのまま毒舌で倒せ、とはさすがに言えなくて鉄は彼をひきずりながらあえんの元へ急いだ。
「あえん、どうした学校は」
「だって、お兄ちゃんの合否が心配で、それどころじゃなかったんだもん」
 可愛いことを言って泣きべそをかくが100%演技であろう。鉄の二浪決定の瞬間を生で見たかったに違いない。ということはK医大までついてきたということだ。ばれないようにメガネを外してお下げをほどいたのだろう。ぜんぜん気付かず、落ち込む姿を見せてしまった自分が情けない。
「ところでその人だれ」
 二浪の怨霊を背負ってしまったのかもしれない。
「メチャかっこいいんですけど」
「ありがとう」
 鉄の背後でナマコ、もとい木越優希が力無く笑った。
「顔が赤いけど、熱あるんじゃないですか」
 さっきから吐く息は熱いわ背中も熱いわ。
「おい、お前熱あるのか」
「大丈夫、たいしたことじゃない、騒ぐな」
 タイミング良く電車はホームに滑り込んだ。と同時に三匹の犬が行動を起こした。
 鉄の背中が軽くなった。
「木越?」
 なんと犬たちが木越を拉致して電車を降りて行ったのだだった。
 いちばん力のありそうな土佐犬男が背負ってハスキー男とボクサー男が両脇をかためる。あっという間に階段を登って行ってしまった。
 呆然と見送るのは鉄だけではない。犬怪人がかっこいい男をさらって逃走していったのだ。
「明日の一面記事は決まったわね。動画と写真撮ったからどこかに売れるよね」
 あえんのほかにも同じことを考えていた人はいたらしく、撮った動画や写真を確認している、のだが。
「あれ、写ってない」
「いたよな、犬の怪物」
「なんで写ってないの」
 あちこちで不満の声があがった。犬怪人の姿は画像には残らなかったのだ。
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