第7話 サイレントマン

文字数 50,113文字

 ある日、正義がいつものように従業員用の駐輪場に自転車を停めていると、誰かがいることに気が付いた。恐る恐る近づいてみると、そこにはしゃがんだ状態の葛野がいた。
「あ、どうも、おはようございます・・・。」
と、言うと、そそくさと従業員用の通用口へと走り去っていった。葛野の妙な素振りが気になった正義は、葛野がしゃがんでいた場所を確認してみることにした。葛野が座っていた場所には、正義が見覚えのある自転車が止まっていた。青色のロードバイクで、ハンドルはスポーツタイプの自転車特有のツーリングバー状になっていて、銀色の泥除けが付いていた。フレームはおそらくオールクロモリで、見たところ、十万円以上はしそうな自転車であった。正義はこの自転車が他人のものではあるが、とても気に入っており、駐輪場においてあるのを見かけると、喜々として眺めていたものであった。そんな自転車に葛野は一体何の用があったのだろうかと正義は思った。葛野の自転車だろうか。いや、この自転車は彼が入る前からここに停めてあったのを見ている。大方、彼もこの自転車を格好良いと思って眺めていたのだろうと、それ以上気にすることなく、正義は駐輪場を後にした。
 特にこれと言って変わったこともなく、正義はいつものように仕事に取り掛かっていた。
いつも通り小島と青山は遅刻であった。変わったことと言えば、カタクリの件でお客さんともめ事を起こし、米子や瀬戸に言いたいことをぶつけてしまった為に職場での居心地がより一層悪くなったことくらいであった。さて、こちらもいつも通りの光景であるが、米子は例のおばさんと話し込んでいた。先日の件もあり、正義は二人に近寄りがたいと思っていた為、彼らに気が付かれないように、素早く売場の通路を走り抜けた。おばさんが着ているカタクリの花びらを想起させるかのような紫色のパーカーに、正義は思い出したように苛立ちを覚えた。自分の居心地がこれまで以上に悪くなったのも、元はと言えばこのおばさんのせいではないかと正義は逆恨みのような感情を抱いていた。ふと、その横の米子を見ると、ジミ・ヘンドリックスの顔がプリントされたTシャツを着ていた。まさにパープル・ヘイズだと正義は思いながら、ペットボトル飲料を補充した。
 時間が過ぎ、それぞれが自分たちの作業を進めている中、小島が米子を呼ぶ声が店内に響き渡った。慌てて駆け寄って行った米子に対して、小島は大声で叱責を始めた。内容が少し離れた所にいた正義にも聞こえる程であった。どうやら、商品の陳列の仕方について怒られているようであった。豆腐や牛乳などが近頃、日付の新しいものが手前になっていて、古いものが奥に並べてあるために、棚の奥から賞味期限の切れた商品が見つかったらしく、宮本に注意を受けたというのだ。そこで小島はその犯人が米子だと決めつけて米子を吊るし上げているようであった。小島は、青山や神田、葛野、瀬戸、大山らに聞いたが皆そのような陳列の仕方はしていないと言っていると主張していた。正義は自分だけその件について聞かれていないことにドキッとしたが、自分もそのようなことはしていない、何も後ろめたいことはないと自分に言い聞かせた。とはいえ、米子がそのような雑な仕事をするとは正義には思えなかった。むしろ、雑な陳列の仕方をするのは小島や青山たちの方で、要冷蔵品を常温で陳列するなど、保健所に通報されたら一発でアウトになるような仕事をすることも日常茶飯事ではないかと、正義は思った。そして、これもまた、米子への嫌がらせなのだろうなと正義は理解した。
 午前七時、終業時刻になりやっと居心地の悪いこの空間から離れられると、正義はほっとした。瀬戸と大山が八時までのレジ番を志願してくれた為、正義もこの時間に帰ることができる日が増え、負担が減り、内心とても喜んでいた。正義はタイムカードを押すと、レジカウンターに立っている瀬戸に対し、挨拶をした。無視はされなかったものの、気が抜けたような挨拶が返ってきただけで、目を合わせてはくれなかった。それを受けて、あのつぶらな瞳が自分に向けられることはもうないのだろうと正義は感じた。
 正義が傷心をいやせぬまま、トボトボと駐輪場に足を運ぶと、米子が突っ立っているのが目に入った。途方に暮れたような様子であったが、何となく声をかけ辛い状態であった為、正義はさっさとその場を去ることにした。そこに、大山がやってきて、米子に声をかけた。すると、大山が驚いたような声をあげた。正義がその声に釣られて彼女らの方を見ると、米子の自転車の後輪が刃物のようなものでズタズタに切り裂かれているのが目に入った。心配する大山に対し米子は力なく笑いながら大丈夫だと言い、自転車を右肩に担ぎ上げて歩いて行ってしまった。あのまま自転車を担いで帰るつもりなのだろうかと、さすがに正義も心配になった。
 
 その夜、正義が駐輪場に自転車を停めていると、隣に米子の青いロードバイクが停まっていることに気が付いた。後輪を見ると、どうやらタイヤを交換したようで切り裂かれた痕は無かった。それを見て、何故かホッとした正義が下を向きながら心なしかニヤニヤしながら通用口まで歩いていると、後ろから怒気を含んだような「おはようございます」が聞こえてきた。振り返ると、黒のライダースジャケットに黒いタートルネックのニット、黒のミニスカート、黒いブーツという全身黒ずくめの瀬戸が立っていた。辺りに街灯もなく、真っ暗な中から突然姿を現したような格好となった為、驚いた正義は思わず「ひゃっ」という声を出した。すると、
「そんなに驚かなくても・・・。相変わらずかっこ悪いですね・・・。」
と言って、瀬戸はさっさと通用口の扉を開け、中へと入って行ってしまった。正義はあっけにとられてその場に立ち尽くしていた。黒でまとまった瀬戸のコーディネートに対し、正義の思考は咄嗟のことに、全然まとまっていなかったが、やがてだんだんと腹が立ってきた。だが、それでも、無視されるよりはいくらかマシだろうと思い直し、一度深く深呼吸をして通用口の扉を開けた。
 始業時間が過ぎ、正義がペットボトル飲料の在庫を確認する為に二階へ上がると、休憩室から笑い声が聞こえてきた。気になって中を覗いてみると、そこには小島と青山、神田、そして葛野がいた。彼らは正義に気付くと、気怠そうに休憩室から出て行った。小島たちの就業態度に対してあれだけ愚痴をこぼしていたのにもかかわらず、結局、楽をしたい為に長いものに巻かれた葛野の様子を見て、人間なんて所詮はそんなもの、あれが当然の選択なのだろうと正義は思った。売場に戻った正義は、その後もペットボトル飲料の補充を続け、納品のトラックが到着するとカゴ台車を店内へと引き入れ、それが終わると台車に積まれた商品のダンボール箱をそれぞれその商品が陳列してある棚の前へと運んだ。いつもこなしているルーティーンであるが、作業中、正義はずっと気になっていたことがあった。休憩室から出て行ったはずの葛野を、あの時以来、一時間程度の間、売場で見ていなかったのだ。小島と神田が事務所に入って行ったのは目にしたし、青山は自分と米子と一緒にカゴ台車を引いていた。一体、彼はどこへ消えたのか、どこかでさぼっているのだろうかと少し気にはなったが、正義はいつもより多い納品物の方が気になって、考えることを止め、仕事に集中することにした。
 いつもより多めの納品に焦りながらも何とか無事に一日の仕事を終えた正義は、レジカウンターに立つ大山に挨拶をしてタイムカードを切った。帰り支度を済ませ通用口を出て駐輪場に着くと、前日同様、米子が途方に暮れながら突っ立っていた。もしやと思い、正義が彼の自転車を見ると、案の定、パンクしていた。正義と目が合い我に帰った米子は、バックパックから何かを取り出した。どうやらパンク修理用のパットと工具のようだった。すると、帰り際に通りがかった瀬戸が、米子に声をかけた。瀬戸は自転車のパンクに気が付いたようで、何か手伝うことはないかと米子に言った。だが、米子は力なく笑い、大丈夫ですと言ってその申し出を断った。断られたものの、瀬戸はまだ心配そうに米子を見つめ、その場を離れなかった。正義からしたら、一番気まずい組み合わせであった。いたたまれなくなった正義は自転車を残したまま咄嗟にその場を去ってしまった。さて、どうしたものか。とても気まずいぞ。あの二人の間をかいくぐって自転車に乗って帰るのはかなり難易度が高いし、あのまま、特に手伝うようなそぶりも見せず自分だけさっさと帰るのも気が引ける。それに、そのまま彼らを素通りして帰ろうものなら、また瀬戸に何を言われるか分かったものではない。だからと言って、手伝おうかと声をかけようにも話しかけづらい状況であるし、下手に手伝うことになってしまったらそれはそれで面倒くさい。ああ、早く帰りたいのだが、一体どうしたものか。正義はそのような思案をしていると、無意識のうちにお客様用のトイレの前まで来ていた。そういえば、大便まみれになったトイレを結局一人で米子がきれいにしたのだと、正義は数日前のことを思い出していた。中に入り、個室のドアを開け、すっかり元通りになったトイレを見ていると、正義は、少しくらい手伝ってやっても良いかという気持ちになった。個室のドアを閉め、無造作にトイレの中を見回していると、掃除用具入れの扉が開いていることに気が付いた。正義は扉を閉めようとするが、なかなか閉まらなかった。何かが使えているのかもしれないと思った正義は扉を開けて中を調べた。すると、どうやらデッキブラシの柄の部分が扉の上部に引っかかっているようであった。原因を解消し、扉を閉めようとした正義だったが、ふと、あるものが目に留まり、扉を閉めようとしていた手が止まった。それは、どこにでもあるような青いバケツであった。正義はそれを見つめながら、何となくひらめいた。正義は自転車のパンクを直しに自転車屋に持って行った際、店員が桶やバケツのようなものに水を張り、そこにタイヤのチューブを入れて、穴の開いた個所を確認していたことを思い出したのだ。そこで彼は水を入れたバケツを米子に持って行ってやろうと思いついたのだった。そうすれば、とりあえずは手伝ったという体裁は整うし、後ろめたい気持ちもなく帰れるではないかと彼は考えた。早速、正義はバケツに水を入れて駐輪場へと持って行った。すると、憔悴しきったようだった米子の顔がパッと明るくなった。正義に感謝の意を伝えると、米子はタイヤのチューブを水に沈めパンクの原因を探った。どうやら、釘のようなもので刺されたようで、チューブには穴が何か所も開いていたようだ。米子もさすがに修理しきれないと諦め、またしても自転車を担いで帰って行った。その姿を二日連続で見送った正義は、もの悲しい気持ちになった。正義が隣を振り向くと、瀬戸も同じようなことを思っているのだろうと想像できるような表情を浮かべて、米子の後姿を見送っていた。昨日のみならず今日までも自転車をパンクさせられていたということは、もはや、ただ単に無作為に自転車を選びパンクさせたというわけではなく、明らかにあの自転車を狙ってパンクさせたということだろうと正義は推測した。あの自転車が割と高価なものだから狙いをつけたのか、それとも、持ち主である米子に何か恨みでもあって、嫌がらせの為にパンクさせているのか。そんなことを正義が考えていると、急に肩を叩かれた。正義が振り返ると、瀬戸の指が正義の頬に当たった。
「少しはいいところもあるんですね。まあ、一緒に米子さんのお家まで運んであげることまではしないところが、齋藤さんらしいですけど。」
そう言うと、瀬戸は青信号が点滅しかけた横断歩道に向けて走って行った。正義は偶然のひらめきに少し感謝した。

 翌出勤日、珍しく早めに職場に着いた正義が駐輪場に自転車を停めていると、米子が例の青い自転車に乗ってやってきた。正義が自転車について米子に聞くと、あの後、自転車屋に替えのタイヤチューブを買いに行くと、在庫がなく、注文しても届くまでに一週間ほどかかるということだったそうで、結局、十か所程度にも及ぶ穴の開いた場所に、全て自分でパンク修理用のパッドをハンマーで貼り付けて応急処置をしたのだそうだ。にこやかに説明をする米子の着ているTシャツが、ザ・クラッシュの名盤、『ロンドン・コーリング』のジャケット写真がプリントされたものであることに気が付いた正義は、そんな「パンク」なTシャツに嫌な予感を抱いた。
 そんな不安を胸に正義は米子と共に更衣室へと向かった。正義はロッカーへ荷物をしまい、エプロンの紐を結んでいると、隣で米子が突っ立ったままでいることに気が付いた。正義が声をかけても、上の空のような返事しか返ってこなかった為、米子に近寄ってみると、米子のロッカーの中が生卵まみれになっていることに気が付いた。一つや二つというレベルではなく、無数の卵がロッカーの中に投げつけられたようになっていた。それはあたかも数日前、米子が掃除したトイレの個室のようであった。正義は何となくであるが、これをやった人間は、あのトイレの一見に着想を得たのではないかと思った。で、あれば、このような嫌がらせをした人間は、トイレの件を知っているナイト部の人間ではないだろうかと、正義は推理した。数日前に見た葛野の駐輪場での怪しい行動もそう考えると、何となく説明が付くような気がした。
 とりあえず、米子は汚された自分のロッカーを雑巾で拭き始めた。正義も一部始終を見ていた手前手伝わないわけにもいかず、渋々掃除の手伝いをすることにした。そういえば、「ポストにマヨネーズ」という曲があったが、「ロッカーに生卵」もなかなか酷いものだなと正義が思っていると、勢いよく、更衣室の扉が開いて、見知らぬ男が入って来た。ロッカーの掃除に悪戦苦闘する二人を気にすることなく、二人の背中越しに、
「今日からお世話になります川崎と言います。宜しくお願いします。」
と一方的に自己紹介をして、さっさと更衣室を出て行ってしまった。正義と米子は突然のことに呆然として顔を見合わせた。正義は、何てマイペースで空気の読めない奴なのだろうと思った。そして米子の表情を見て、きっと彼も同じことを考えているに違いないと確信した。二人はまだ川崎の顔すらまともに見てはいなかった。
 ロッカーの掃除が終わり、売場へ向かった二人は、改めて川崎と言葉を交わした。彼は南国育ちのような濃い顔立ちに、飄々とした雰囲気を持った男であった。ところで、妙なことに、珍しく始業時間に出勤している小島の彼への態度がおかしいと正義は感じた。小島の態度は川崎に取り入ろうとしているように正義には映った。それもそのはず、後で正義が聞いた話によると、川崎の母が他店舗の社員として働いている縁で入って来たようなのだ。一応、葛野が入って来た時点で、ナイト部の従業員の人数はほぼ元に戻った状態であり、アルバイトの募集も終わっていた為、このタイミングでの新人の加入はおかしいなと正義も少し感じていた。要はコネ入社のようなものだ。正義はまたいつものように米子に研修を押し付けると思っていたが、自分に任された為、驚きから動揺を隠せなかった。
「まあまあ、落ち着いて。」
と他人事のように言う川崎。
「なんかテンパってますね。ちゃんとできるか心配。また怒っちゃだめですよ、先輩。」
と正義の近くでつぶやいて去って行く瀬戸。正義は二人に何かしら言い返したい気持ちでいっぱいであったが、事務所に連れていかれる米子と、またしても姿の見えない葛野のことが気になって、言いたいことを忘れてしまい、出かかっていた言葉は飲み込まれた。
 川崎に倉庫にある在庫品の補充について説明していた正義であったが、川崎はコネ入店のわりに感じの悪そうな人間ではないなと感じていた。会話の後に一言余計だよと言いたくなるような発言をする男であったが、説明自体は真面目に聞いている様子であった。
 説明がひと段落して川崎と共に納品のトラックを待っていると、正義は小島に呼ばれ事務所へと向かった。事務所から出てきた米子の横顔をすれ違いざまに見た正義は、何やら良からぬことが起こりそうだと直感した。正義は一体何事だろうと思いつつ恐る恐る事務所に入ると、小島から出勤日を減らすことを通告された。話はそれだけであったが、彼にとっては生活にかかわる問題である為、たまったものではないと思った。おそらく米子にも同じことを言ったのだろうと正義にも大体見当がついた。また、その原因が多分、川崎が入店したことによるというのも予想ができた。社員の息子である彼を優先的に出勤させて、米子と自分の出勤日を優先的に減らすというのは、今まで通りの小島のやり方であり、正義も薄々そうなるのではないかと感じていた。人手が足りないときは平気で馬車馬のように働かせる癖に、用済みになったら容赦なく切り捨てるというなんとも小島らしい考え方であったが、さすがに今回ばかりは正義も腹が立った。出勤日を減らされることに抗議した正義に対し、小島は渋々、一日分だけ減らしてくれという譲歩案を出してきた。それでも納得できないと抵抗した正義に対し、小島も引き下がらず、正義を納得させるために彼女は米子のことを引き合いに出した。小島が言うには、彼女は米子の出勤日を三日分減らすことを提案し、米子は何とその条件を呑んだというのであった。さすがに、そのような事案を引き合いに出されては、正義もうまく議論ができなくなり、嫌々ながらも小島の決定に従うしかなかった。小島への不満で心中穏やかでないまま事務所を出た正義の視線の先には、数日前にケガしたはずの足を痛がる素振りもなくカゴ台車をいつも通りに運ぶ米子の姿があった。もう頑張らなくていいではないか、ここまで嫌がらせをされて、何故まだ貢献とか言っていられるのだよ。俺には嫌がらせをする方の気持ちも、あんたの気持ちも両方わからないよ。正義は心の中でそう叫んだ。ところで、出勤日の件も余程酷い仕打ちではあるが、米子の自転車のパンクやロッカーの生卵など、近頃多くなってきた米子への嫌がらせの数々もおそらく、小島らの仕業であろうと正義は考えていた。他人事には立ち入らない、気にしないという性分の正義でさえ、いくら何でもやりすぎであろうと感じていた。そう考えているのは、おそらく自分だけではないだろうとも正義は思っていた。
米子が嫌がらせを受けているのを見聞きして知っている人間は他にもいたのだ。彼らも少し考えれば一連の嫌がらせが小島らによるものであることはわかるはずだ。だが、誰も何もしない。自分も含め、ただ米子が嫌がらせをされているのをただ見ているだけだ。結局、人間というのはそういうものなのだ。だから、自分も周囲の人間と同じようにすればいいのだ。自分が損をしないように生きればいいのだ。正義はそんなことを考えていた。
 商品の陳列が始まってからも、畳みかけるように小島は米子を理不尽な理由で注意し、神田や葛野は自分たちのミスを米子へ擦り付け、小島は真偽の確認もせず彼らの主張を受け入れ米子を叱責した。嫌な雰囲気の中で仕事は進み、納品物の陳列も一段落して、時刻は午前四時を過ぎていた。後はパンの納品があるものの、ほぼ終業時間を待つだけというような時間帯であった。売場全体が明け方恒例の静寂に包まれていた頃、それを切り裂くように、青山の絶叫が響き渡った。何事が起きたのかと、売場にいた、米子や瀬戸、大山、川崎は青山の下へと駆け寄った。それを見て正義も彼らに続いた。事務所からも小島、神田、葛野が出てきて、青山の前に集まった。小島が青山に何があったのか聞いたところ、どうやら、青山の財布がなくなったとのことであった。正直、関係ないからどうでもいいやと思った正義はそれを聞いてその場を離れようとしたが、小島に引き留められた。正義を引き留めた小島は、覚えたての川崎のみをレジに残し、その他の全員に二階の更衣室前に来るように指示し、二階へと向かった。正義は何故二階に行かねばならないのかと不可解に思った。周りの人間たちもそのような表情をしているのが見て取れたが、小島についていく彼らを見て、正義も渋々それに続いた。二階の男女の更衣室、それぞれの前に皆が集まると、小島が口を開いた。彼女の話はこうだ。青山に聞いたところ、自分の身の回りや店舗の思い当たる場所は全て探したが財布はないと言っている。ということは、財布は誰かに盗まれた可能性が高い。客に盗まれたのであれば、後で防犯カメラなどを調べるとして、ナイト部の人間が盗んだという可能性も少なからず存在する。そこで、誰が人のものをとったりするような人間かを考えた時、神田や葛野、そして社員の息子である川崎はそのようなことはしないだろう。それに対し、自分は米子と正義が前々から信用ならなかった。この二人がどうも怪しい。瀬戸と大山にも可能性があるが、それ以上に米子と正義が怪しい。よって、米子と正義の二人は今すぐに皆が見ている前で自分の荷物を更衣室から持ってきて、その中身を皆の前で見せてみろ。もし自分たちが盗っていないというのなら、それができるだろう。それができないのなら、自分たちの疑いは晴らせないし、無実の証明もできない。仮にそれができないというのなら、犯人だと思っても構わないということになる。それが嫌であれば今すぐに荷物を見せること。以上が、小島の話した内容であった。いきなり財布を盗んだ犯人だと疑われることになった正義は寝耳に水であった。別に自分にやましい部分は何もなかった為、荷物を見せることなど造作もないことではあったが、正義は自分が一方的に疑われたことへの反発心から小島の命令に従うことを躊躇っていた。隣の米子を見ると、特にいつもと変わらないような表情をしていたことに正義は少々驚いた。なぜこのような状況で平然としていられるのだろうかと正義が不思議に思っていると、青山が二人に早く荷物を見せるように迫った。仕方がないと、渋々、正義が更衣室の方に向き直ろうとした時、突然、瀬戸が声を上げた。
「小島さん、いい加減にしてください。ご自分が気に入らないからと言って、二人を犯人だと決めつけるのはおかしくありませんか。二人だけにそんなことをさせるのはおかしいと思います。そもそも、私たちが盗ったと疑われることも正直納得いきませんが、荷物を見せろというのなら、二人だけでなく全員にそれを求めるのが道理ではありませんか。」
瀬戸の剣幕に小島も気圧されたのか、別に瀬戸に対して荷物を見せろと言っていないのだから、何もそんなにムキにならなくてもよいではないかと小島は慌てて瀬戸をなだめようとした。それでも瀬戸の勢いは変わらず、二人に荷物を見せることを強要するのを止めるか、もし二人に荷物の開示を要求することを止めないのなら、自分も荷物の中身を見せると小島に対して突っかかった。正義は自分の手の及ばないところでだんだんと問題が大きくなってしまっているのではないかと感じ狼狽していたが、瀬戸が自分たちの為に熱くなってくれていることに少し感動していた。そんな彼女を見て、独裁政権に抵抗したアウン・サン・スー・チーのことを少し思い出していたが、あんなに自分のことで熱くなってくれている瀬戸に対し、まるで他人事のように、そのようなことを考えている自分の冷静さを自覚し、軽い自己嫌悪に陥った。そんな正義を現実に引き戻すかのように、瀬戸の抗議の勢いは止まらず、今度は大山もそれに同調した。それを見て、正義はまたも現実逃避のようなことを考えていた。正義は二人の姿を眺めて戦う女性の勇ましさを感じ、ジャンヌ・ダルクやラクシュミー・バーイーのことを思い出し、そうかと思うと、先頭に立って小島に意見する二人は、フッテンとジッキンゲンのようでもある、はたまた、彼女らが激しく小島に意見する熱さは米騒動の発端になった富山の漁村の女性たちの熱にも似たものなのではないか等と、今起こっていることとは全く関係のない、学生時代の歴史の授業を回想し、彼女たちのやり取りを一歩引いたところから眺めていた。正義が再び現実に戻ってくると、小島と瀬戸、大山の言い合いは平行線となり、全く埒が明かなくなっていた。すると、それを見かねたのか、米子が、自分は荷物を見せることは構わないと言い出した。そして、自分が荷物の中身を見せる代わりに、瀬戸や大山に荷物の開示の要求はしないで欲しいと小島に訴えた。女性が自分の荷物を見せるのは苦痛であろうと米子は言い、小島も初めから自分は米子と正義の荷物の確認が出来さえすればそれでいいと、米子の要求を受け入れた。正義は自分の存在を無視してどんどんと話が進んでいることに多少なりとも腹が立ったが、こんな状況でも積極的に自分から発言することもできず、ただ状況を見守ることしかできないでいた。そんな自分に益々嫌気がさしたが、今度こそ現実逃避だけはするまいと自分を奮い立たせ、状況の進展に刮目した。
 米子は男子更衣室の扉を開き中へ入った。小島はどこかに財布を隠すことがないようにと、更衣室の扉を開け放ち、米子の動作を注意深く監視した。今お前が見つめているロッカーは、お前が卵をぶちまけたロッカーであり、俺たちが掃除したロッカーだぞと、正義は心の中で小島に言い放った。米子はロッカーからぼろぼろになった黒いリュックサックを取り出すと、それを持ったまま休憩室に向かった。そして、休憩室の長机の上に、恐竜か何かのキーホルダーの付いたリュックを置くと、その中身を机の上に並べて行った。
 ペットボトルの水、小さく丸められた無数のビニール袋と紙袋、青いニトリルゴムの手袋、軍手と掌部分にゴムのついた作業用手袋、消毒薬や包帯、絆創膏などの入った薄汚れた巾着袋が順番に長机の上に並べられていった。その一つ一つを、小島が手に取り入念に確かめていた。もし潔癖症の人間であったら、このようなことをされるのは絶対に嫌だろう。特に米子の怪我の原因になった潔癖女のような奴は発狂するだろうなと、またしても正義が余計なことを考えているうちにも、米子は次々と自分の持ち物を机に置いていった。着替え用と思われるTシャツにポップ用のマーカーセット、自転車の修理セット、雑巾にペーパータオルの束、ウエットティッシュ。そういえば、生卵の掃除のときもリュックから雑巾を取り出し使っていたなと正義は回想した。お団子やお饅頭、大量の飴玉、さらには缶に入った猫の餌が並べられたときは、緊迫した空気ではあったが、怒り心頭であったはずの瀬戸と大山も思わず笑っていた。当事者の一人であるはずの正義も、うっかり、また、米子は和菓子が好きなのかとか猫好きなのかとか、おばちゃんのカバンの中身みたいだなとか、つい余計なことを考えてしまった。ところで、米子が並べる持ち物の中には、正義が何の為に持ち歩いているのだろうかと疑問に思うものもいくらか存在した。鉄製のトングにシャベル、それにペンライト。あれは、いつ使うのか。マスクの後に机に置かれたチューブのついたマスク。あれはそもそも、何に使うためのものなのか。それにしても、持ち物が多いなと正義が思っていると、リュックの中は空になったようで米子はそれを小島に知らせた。小島はリュックの脇に着いた小さなポケットも開けるように指示した。米子はポケットのファスナーを開け、中から紙袋を取り出した。白い紙袋には病院の名前と思われる文字が書かれていた。どうやら中身は薬のようであった。すかさず、小島は紙袋の中も見せるように言うと、米子は紙袋を逆さにして長机の上に中身を落とした。机には錠剤のようなものが散らばった。これで持ち物は全部だという米子をよそに、小島は、疑ってかかった手前このままでは終われないという気持ちがあるのか、米子の持ち物を未だに一つずつ凝視していた。そして、最後に机にばらまかれた薬を見ると、小島はそれを手に取った。
「メトロ・・・ニダゾール・・・」
そう呟くと、小島はポケットから携帯電話を取り出し、いじくり始めた。どうやら自分が呟いた言葉を検索して調べているようだ。小島は携帯電話の画面をのぞき込みながら、しばらく黙り込んでいたが、数分経つと、その表情はニヤニヤとした不気味な笑顔へと変貌していった。そしてその画面を神田に見せ、何やらひそひそ話を始めた。すると神田の顔からは笑顔が消えていった。そして小さく「気持ち悪い」と言った。しばらくすると小島は、今度は瀬戸と大山にそれを見せて二人に何か耳打ちをした。正義は一体何が起こっているのかわからず、様子を窺っていた。そうしていると、大山の顔が引きつっていくのが見て取れた。あの薬がどうかしたのかと正義は気になって薬を見てみると、そこには「メトロニダゾール錠」と書いてあった。正義にはこの薬が一体何に使われるものかわからなかった為、謎は深まるばかりであった。
「よくわからないですけど、他の病気にも使われることはないんですか。」
瀬戸がそう言うと、小島は、
「ココニハ、ソウカイテアルヨ」
と言うと、神田と顔を見合わせた。小島はまたも嫌な笑みを浮かべていた。そして、二人が、ヤバいとか、気持ち悪いとか小声で話すのが、静まり返った更衣室に響いていた。一体、何について話しているのかさっぱりわからなかった正義は、一番近くにいた大山に、まずあの薬が何に使われるものなのかを聞いてみることにした。すると、大山は言い辛そうにしていた為、正義は大山を諦め、今度は瀬戸の方に向かおうとした。直後、大山が正義の腕を引っ張り、やっぱり自分が話すと正義に伝え、耳を貸せと言って正義の耳に口を近づけた。
「実は、あの薬、トリコモナス症っていう病気に使われるみたいだけど・・・。」
そう話す大山に、間髪入れずに、それがどのような病気なのか、正義は聞いた。話し辛そうにする大山を正義が急かすと、大山は恥ずかしそうな顔をした後、少し正義を睨んでから、再び正義の耳に口を近づけた。
「お、女の子の、大事なところが、痒くなったり、痛くなったりする、病気に使うみたい・・・。」
それを聞いた正義は、しまった、まずいことを聞いてしまったと思うと同時に、何となく恥ずかしい気持ちになり、頬を赤らめながら下を向き、とりあえず大山に謝った。正義はとっくに成人しているいい年をした男が、こんなことぐらいで恥ずかしがっていてどうすると心の中で自分に言い聞かせ、何とか平静を装おうとした。正義がそのようなやり取りをしていると、神田が青山と葛野に何やらひそひそ話をしているのが目に入った。おそらく、神田は二人にあの薬のことを教えているのだろうと正義は思い、様子を見ていると、小島がまた余計なことを言い出した。
「ヨナコ、トコロデ、コレハ、イッタイ、ナニニツカウンダ。」
ニヤニヤしながらそう言うと、神田がそれに続いて「ホント嫌だ」と真顔で言い放った。正義も何故、米子がそのようなものを持っているのかは少し知りたい気がしたのは確かだが、もう荷物のチェックは終わり、米子の荷物からは青山の財布は出てこなかったのだから、わざわざそのような質問をすることはないではないかと思った。
「セイビョウノクスリダロ、コレ。ソレモ、オンナガツカウンダヨ、コレハ。」
と、小島が続けた。正義は、心底、小島は意地が悪いなと思いながら様子を見ていたのだが、小島の質問に対して、米子は押し黙るだけで何も答えることはなかった。
「何も言えないってことは・・・。うわぁ。無いわ。一緒に働くの嫌。あり得ない。」
神田が、汚物でも見るような目で米子を見ながら言った。それを聞いた小島はケタケタと笑いだした。それを見て、青山と葛野もはやし立てた。それでも、米子は押し黙ったままであったが、彼は何を言われても黙ってはいるが、前をすっと向いて小島達をただ見つめていた。これ以上言っても米子が反応しないので面白くないと思ったのか、小島はようやく米子に机の上を片付けるように言った。机の上の荷物をリュックに入れ終えた米子は、つかつかと歩き出した。近づいて来る米子を神田が不潔なものを避けるように慌てて後ろに一歩下がると、見るからに不快そうな表情を浮かべ、「マジでキモッ・・・」と呟いた。おそらく米子にも聞こえただろうが、彼は特に気にする様子もなく、リュックを自分のロッカーへと仕舞い直していた。念のためにと、小島は米子のポケットの中も探ったが、小銭入れやカッター、メモ帳、ボールペンなどの仕事に使用するもの以外は何も出てこず、小島はやや不満そうな顔を浮かべた後、今度は正義に荷物を見せるように命令した。
 基本的に正義の持ち物はいつも少なかった。それこそ、自分が誰かに貴重品を盗られることを警戒している為、仕事に使うものと、その日の分の食糧しかバックパックの中に入れてこないのであった。ほぼ空の状態のバックパックのチェックはすぐに終わり、正義にかけられた容疑はすんなりと晴れた。小島はやはり不愉快そうな顔をしていたが、何も出てこなかったからにはそれ以上米子と正義に対して何かを要求することもできず、渋々、二人の身の潔白を認めた。二人を疑ったことに対して謝罪することもなく、階段を下りていく小島に続いて、一同はそろって階段を下りて売場へと戻って行った。コソコソと小声で話しながら笑い合う青山、葛野と対照的に瀬戸と大山は小島に食って掛かって行った時の勢いが幻であったかのように、すっかり沈黙していた。正義は彼女たちも自分と同様に、何故、米子があの薬を持っていたのか、そのことが気になってしまい、論議の争点を完全に見失ってしまったのだろうと考えた。最も、今回もまた、ただ突っ立って小島に言われるままに従うだけであった自分がとやかく言えることでもないなと、正義は自虐した。
 売場に戻った正義に、レジカウンターから出てきた川崎は、
「ひどいじゃないですか。僕を一人にするなんて。まだレジにも慣れてないのに。一時間くらい売場に一人だけでしたよ。」
と言った。正義は自分のせいではないと川崎に言ったものの、彼の立場からしたら確かに不安で、とても理不尽な状況であったに違いないと思い、全員を代表するような気持ちで、とりあえず彼に謝った。すると彼は、
「まあ、この一時間のうちに、レジに来たお客さんは一人だけでしたが。」
と言って、不敵な笑みを浮かべた。何ともつかみどころのない男だと正義は思った。そして、謝って損したなと思った。二人がそのようなやり取りをしている間に、青山と神田、葛野の三人は十五分休憩の為に外へと出て行った。彼らは家が近いこともあり、休憩の時間にはほぼ毎回家に帰っていた。その為、時間通りに休憩から仕事に戻らないこともしばしばあった。彼らを見て、正義はどうせまた長時間戻ってこないのだろうと思った。何かの話題で盛り上がっていたようであったが、どうせ米子の件であろうとも思った。余談ではあるが、前にも述べた通り、正義にとって「どうせ」という言葉は「面倒くさい」という言葉と同じくらいの頻度で頭の中に浮かぶ言葉であった。それは今になっても変わらず、どんなことに対しても、「どうせ」と否定的で悲観的なイメージを持って臨むようになっていた。たとえば、もしも、この世の中の人々全員の苗字が、落語家の亭号のように○○亭というものであったとしたら、自分の苗字は「どうせ俺なん亭」になるだろうと、正義はよく、そのようなつまらない想像をしていたぐらいであった。
 それはさておき、残されたメンバーの中には何とも言えない微妙な空気が漂っていた。その空気を作り出した張本人であるはずの米子だけが、納品されたパンをひたすら黙々と陳列しているような状態で、正義や瀬戸、大山は特に何か発言をするわけではなかったが、どこか仕事に集中していないような、散漫な動きが目立った。そんな空気を察したのか、川崎が皆に何かあったのかと聞くが、誰も彼の質問に対し反応しなかった。いや、反応することができなかったのだった。一般的に考えると、このような状況に出くわした人間は、これ以上聞いてはいけない問題なのだなと察する、いわゆる「空気を読む」という行動をとり、一度質問を投げかけて帰ってこなかった時点でそっとしておくのがパターンであるが、川崎に対してはそのようなパターンは当てはまらなかった。ただならぬ空気を察することはできても、どうやら空気を読むことはできない人間のようであった。いや、読まないだけかもしれないが。川崎はもう一度皆に聞こえるように同じ質問をしたが、「別に」や「特に何も」と女性陣が歯切れ悪く答えるだけで、川崎の求めるような回答はなかった。すると、今度は、川崎はおもむろにレジから出て、女性陣の方へと歩み寄って行き、直接一人一人に同じ質問をし始めた。内容を知っていた正義は、あの恥ずかしい回答を強要しているこの状況は、何かのプレイなのかと思ったが、彼は少し得したような気持ちでもあった。何とかはぐらかそうとする彼女たちに対し、川崎の方もどんどんヒートアップしていき、ついには大山の両肩を掴んで揺らすようにして、何があったのかを聞き出そうとし始めた。それに根負けした大山は、
「はい、はい、わかった、わかった。言いますから。言いますから、これやめてくださいよ。言いますけど、後ででもいいですか。もう・・・。」
と言って、川崎に二階での出来事を伝える約束をした。満足げな川崎と対照的に、大山は、
「どうしてあんな話を一日に二度もしなきゃなんないのよ。まったく。」
と、吐き捨てるように言った。正義は大山の気持ちを察した。最初に大山に恥ずかしい思いをさせたのは他ならぬ正義であった。大山も既婚者とはいえ若い女性であるので、そう言った話題もまだ気恥ずかしいのであろうと考えられた。それに、そう言った話題が苦手かどうかは、年齢や性別でどうこうという話でもない。
 結局、異様なムードが漂う中で終業時刻となり、レジに正義だけを残し、皆が一斉にタイムカードを打刻し、バックヤードへと引き上げて行った。米子が何故あの薬を持っていたのか、また、何の目的で持っていたのかということが、おそらく他の者と同様に正義も気になっていた。最も、瀬戸と大山は同じ疑問を持つだろうが、小島の一派はそのような疑問などはどうでもよく、それをネタに彼の陰口を言ったり、彼を貶めるようなことをしたりということに専ら興味があるようだと正義は感じ取っていた。米子の件を考えながらレジでボーっと突っ立っていると、レジから、自転車を担ぎながら表の通りを歩いていく米子の姿が見えた。
 一時間が経ち、正義は米子にとっては散々な一日だったであろうと思いながらタイムカードを切り、二階へと上がって行った。更衣室に入ろうとすると、何やら、休憩室が騒がしいことに気付いた正義は、聞き覚えのある声にまさかと思いながら、休憩室へと向かった。その、まさかであった。そこには、一時間前に帰ったはずの小島や青山、神田たちがいて、パートの女性陣とキャッキャしながら何か噂話をしていた。もはや何の話題で盛り上がっているのかは、正義にも明らかだった。早速、彼女たちは米子のネガティブキャンペーンを始めたということであろうと正義は察した。正義が無意識のうちに侮蔑の目を小島らに向けていると、あるものが目に入った。自分の目の前に、自分に背を向けて座っている青山の尻のポケットが膨らんでいたのだ。そして、それをよくよく見ると、これはどうも財布なのではないかと思い、正義は、
「青山さん、ちょっと、お尻のポケットの、それ。財布じゃないですか。」
と尋ねた。すると、青山は、
「あ、そう、そう。さっき、一旦家に帰ったら、玄関の下駄箱の上に置き忘れただけでしたよ。勘違いでした。」
とへらへらと笑いながら答えた。何。あっただと。あんなに大事になったのだぞ。自分も疑われて、荷物や衣服までチェックされて、それを笑って済まそうというのか。そんなことで収まるわけがないだろう、ふざけるなと、正義が思っていると、
「マッタク、オッチョコチョイダネ。」
と小島が言って、周りの人間たちも一緒になって笑っていた。いやいや、待てよ。謝罪の一言もないのかよ。そもそも、お前が人のことを犯人と決めつけたから、このようなことになったのだろう。特に米子は、疑われたことに加えて、かかなくてもいい恥をかかされたのだ。しかも、その恥をネタに、自分は妙な噂をばらまいて、それを聞いた人間たちも一緒になって笑っているのだ。何という気持ちの悪い空間なのだろうと正義は思った。もはや狂気の沙汰に思えた。米子のピンク・フロイドのTシャツが何故だか頭の中に浮かんだ。正義は怒りを通り越して、もうこの場に居たくはない、一刻も早くこの場から立ち去りたいという気分になり、青山に特に何か返事をすることもなく、そそくさと更衣室へと戻った。正義はその勢いのまま、素早く帰り支度を済ませて通用口を出て行った。自転車にまたがり、少し走り出してからも、まだ心の中に残った気持ちの悪さを払拭できないままでいた。正義は視界に入った小さな公園で少し休憩することにした。
 正義が公園の脇に自転車を停めてベンチの方へ向かうと、見覚えのある顔が座っているのが見えた。ベンチでボーっとしている、ワッペンの付いたカーキ色の長袖シャツに丈の長いTシャツ、デニムのショートパンツ、黒と赤のボーダー柄のレギンスという装いの女は、正義に気が付くと、ブーツで走り辛そうにしながらも、正義の下へ駆け寄ってきた。瀬戸だ。彼女が言うには、大山が川崎との約束を果たす為、どこか話ができる場所を探していると、休憩室でたむろしている小島達の会話が聞こえてきて、大山は気分が悪くなったようで店舗の外で話そうということになったとのことであった。それに自分も付き合わされることとなり、この公園に来たのだが、大山と川崎は話が終わると先に帰ってしまい、結局、自分だけがボーっと考え事をしてしまい、最後までここに残ってしまったのだそうだ。正義はどこか元気がなさそうな瀬戸に、少し意地悪をしたくなり、つい余計なことを言った。
「瀬戸さん、なんか元気ないですね。やっぱり、あれですか。米子さんが、何て言うか、そういう、女遊びとかしているとわかって、ショックを受けてるわけですか。」
言い終わってから、何てデリカシーのないことを言っているのだろうと正義は我に帰った。もし、本当に米子のことが好きで、それ故に落ち込んでいるのだとしたら、目も当てられないではないかと思った。
「いやいや。前にも言いましたよ、違うって。」
その言葉を聞いて、正義は少しほっとした。瀬戸が続けて話し始めた。
「恋愛どうこうではなく、気になりませんか。齋藤さんも。何で米子さんがあんなものを持っていたのか。なんか、米子さんっぽく無いと思いませんか。何となくというか、うまくは説明できないですけど・・・。」
瀬戸の言うことに、正義も確かにそう言われてみればそうだと思い、頷いた。
「それに、私は米子さんが小島さんに追及されて黙っているのを見て、米子さんが後ろめたいことがあるから黙っているようには見えませんでした。何かもっと別の・・・、深い、何かがある気がしました。齋藤さんはどう思いますか。」
瀬戸の発言から、外見のわりに彼女が、ちゃんと自分の価値観で他者を見ていることが窺えて、正義は少し感心した。それですっかり正義は彼女の質問を忘れていた。
「ちょっと。人の話、ちゃんと聞いてました。ねえ、どう思います。」
正義は意見を求められるとは思ってもいなかった為、考えがまとまらず、それに加えて、瀬戸ほどに米子の件に対するはっきりとした意見があるわけでもなかったので、
「ああ、まあ、そうですね・・・。」
と、適当に返事をすることしかできず、それを見透かされたのか、
「もういいです。」
と言って、瀬戸は不機嫌そうな顔をして、話すのを止めてしまった。これはいかんと思った正義は何とか話題を変えようと思った。
「そういえば、なくなった、盗られたって騒いでいた青山さんの財布。まあ、盗った奴がいるって言いだしたのは小島さんでしたけど、あの財布、見つかりましたよ。本人が結局家に置き忘れてきただけとか言ってました。ほんと、人騒がせですよ、まったく。」
「え、本当ですか。見つかったのは良かったかもしれないですけど・・・、でも、そのせいで、あんな大ごとになって・・・。齋藤さんはそうでもないですけど、米子さんはあの荷物検査のせいで、すごく嫌な気持ちになったはずなのに・・・。」
「いや、俺だって犯人扱いされて、検査もされましたから。あれは一体何だったんだよって思いますよ。あんな仕打ちを受けて、勘違いでした、で終わりですよ。小島なんて謝りもしないし。」
「ふ~ん。それで、齋藤さんは、ちゃんと小島さんに抗議したんですよね。」
「いや、その・・・。」
「まあ、無理ですよね。齋藤さんには。」
「・・・」
再び会話は途切れ、正義が自分のふがいなさに自己嫌悪に陥っていると、瀬戸が口を開いた。
「ねえ、齋藤さん。私、やっぱり気になります。米子さんのこと。」
「まあ、それは俺も気になりますけど・・・。本人が黙ったままで、話したくないようですからねえ・・・。」
正義がそう言うと、瀬戸はしばらく下を向き、黙って何かを考えているようだった。そして少しの間を置いて再び瀬戸が口を開いた。
「そしたら、私たちで米子さんの謎を解明しましょうよ!」
瀬戸の突飛な発言に正義は驚いたが、それ以上に、「私たちで」という言葉が気になり、
「それは、瀬戸さんが勝手に頑張ってくれればいいと思うんだけど、今、瀬戸さんが言った『私たち』には、もしかして、俺も含まれてますか。」
と正義が尋ねると、
「当たり前じゃないですか。だって、齋藤さんも気になるって言いましたよね。」
と瀬戸が答えた。
「いや、気になるとは言ったけど、何も人が黙ってることをわざわざ暴こうとしなくてもさ。本人が黙っていたいなら、そっとしとけばいいんじゃないですか。」
「じゃあ、このまま米子さんが変な噂とか流されてもいいんですか。ただでさえ小島さんに目の敵にされてるのに、余計、職場に居辛くなっちゃいますよ。私、米子さんに辞めて欲しくない。だから、せめて、本当のことがわかれば・・・。」
「でも、もし仮に、本当にただの女好きだったら、どうする。」
「・・・。何ですか。さっきから私が言うこと否定して。結局、私に協力するのが面倒で、モチベーション下げるようなこと言ってませんか。」
「いや、そういうことでは、無いけどさ・・・。」
十分にそういうことであった。
「可能性の問題として、ほら、大山さんも言ってたけど。やっぱり、その、女の人の病気に使う薬だっていう情報があるし、本当にそういうことだって可能性もあるわけじゃないですか。そういう意味で言ったわけでね、あくまで、可能性の話で・・・」
「さっきも言いましたけど、私にはどうしても米子さんがそういう人には思えません。見た目がどうこうっていうわけじゃないですよ。確かに、あまりモテそうな感じには見えないけど、そういうことじゃなくて、人柄的にというか・・・」
「まあ、言いたいことはわかりますけど、やっぱり、そうっとしておくのが一番ですよ。」
正義がそう言って話を終らせようとしたのを感じ取って、瀬戸は、意を決したかのような表情で、話の終わりを阻止した。
「あんまり他言しないようにと思って、誰にも言わなかったんですが・・・。前に話した、私が米子さんに髪留めをあげた理由ですけど・・・。何の気なしに、米子さんに前髪が邪魔じゃないですかとか、何で髪を伸ばしてるんですかとか、色々聞いてしまったことがあって・・・。その時に、髪を伸ばしている理由を教えてくれて・・・。
米子さんは、ヘアドネーションと言って、病気の人の為に医療用のウィッグを作っている団体に、自分の髪の毛を寄付したいから髪を伸ばしてるって言ってました・・・。」
瀬戸の言葉に、正義は米子のいろいろな姿を思い出していた。手話を使って運転手と会話をする姿や、カタクリの件で自分の考えを語る姿、おにぎりの売場が覚えられないおばあさんに毎朝同じように接する姿などが思い浮かんだ。そして、それを想うと、髪を寄付するために伸ばしているというのは彼らしい理由だなと、正義は思った。加えて、瀬戸の言う、彼らしくないとかいう部分、「米子らしい」というのは、うまく説明できないが、何となく、こういった部分の事なのだろうと納得し、理解した。
「人の秘密みたいな部分を出してくるのは、卑怯ですよ、まったく。面倒くさいから協力したくないとか簡単に言えなくなることを聞かせてさ。」
「あ、やっぱり面倒だって・・・。ひどい。ちゃんと協力してくださいよ。途中で、やっぱり面倒だからやめるとかっていうのは認めませんから。」
正義は、久しぶりに瀬戸の口元に銀色の輝きを見たような気がした。
「さて、とりあえず、私は学校に行くことにしますね。」
「え、これから学校に行くんですか。」
「そうですよ。私、大学生ですから。今日は午前中の講義だけしか受けない日ですけどね。やっぱり、夜勤明けは眠いですから。バッグの中も教科書ばっかり。そうそう、小島さんが荷物検査するって言った時も、私は見せても全く問題ありませんでしたよ。ほら。」
そう言って、瀬戸は、バッグからおもむろに教科書を出して、ベンチの上に置き始めた。正義はそれらを手に取ると、パラパラとページをめくった。フロイト、ユング、アドラー。開いたページから目に入ってきた人名に、正義はふと思った。フロイトについては学生時代教わったが、いまいち、よくわからなかったし、自分にはフロイトよりはピンク・フロイドとかフロイド・ローズとかの方がまだ理解できるな。ユングは名前だけしか聞いたことがないし、アドラーに至っては名前もあまり聞いたことがない。自分が知っているアドラーなんてスティーブン・アドラーくらいのものだ。瀬戸さんは、結構、難しい本を読んでいるのだな。正義は手に取った教科書を眺めながら、くだらないことばかり考えていた。
「フロイト・・・。心理学が好きなんですか。」
「好きというか、私、心理学専攻ですから。」
瀬戸の発言は正義にとっては、またしても意外なものだったので、彼を驚かせた。
「じゃあ、私は学校行きますね。齋藤さんは、ちゃんといいアイデアを考えておいてくださいよ。どうやったら、米子さんの秘密に迫れるか。私も考えますから。お願いしますね。」
そう言い残すと瀬戸は駅に向かって歩いて行った。彼女が去ると、正義はベンチの背もたれに深く腰掛け、ふっと一回、大きく息を吐いた。何となく公園内を見回した正義は、地面に落ちた沢山の桜の花びらに目が行った。満開の時期を過ぎた桜の木には、きれいな花びらはごくわずかの状態になっていた。正義は今年もまた花を愛でるような心の余裕のなかった自分を想い、地面に落ちた花びらたちを満開の状態で見ることができなかったことに、若干の後悔ともったいなさを感じていた。いつもの正義ならば、そこで自分を責めて終わってしまうのだが、この日は、わずかな花びらでも見ることができたので、それだけでもよかったと感じた。こうして公園でベンチに座ることがなければ、このわずかに咲き残る桜にも、自分が花を愛でる余裕がなかったことにも気が付くことはできなかった。そう、こうしてここに座ることがなければ。瀬戸とここで座って話すことがなければ。結局、厄介なことに巻き込まれた正義であったが、この日に限っては、こういう厄介であれば、あってもいいかもしれないと少しだけ思った。
前言撤回。正義は心の中で叫んだ。結局、やっぱりこうなるのだ。ついていない人間というのは、何をしたってこういうことになるのだ。正義は自分の不幸を嘆いた。
 正義は公園を出た後、春のG1皐月賞の馬券を事前に買う為に場外馬券場に来ていたのだ。レースによっては、平日の金曜日に前売りという形で馬券を買うことができる場合があり、正義は、まさに「決戦は金曜日」というつもりで、必死に自転車のペダルを漕いで、鼻息荒く馬券場にやってきていた。馬券を買い終え、自転車を停めた馬券場近くの有料駐輪場に戻ると、馬券を買っていたほんの十分もしない間に、停めておいたはずの自転車がなくなっていたのだ。正義は、はじめは事態がうまく呑み込めず、辺りをキョロキョロと見回していた。確かにここに停めたはずだと、自分の誕生日の番号と同じ数字という理由から自転車を停めた駐輪ラックを何度も確認したが、そこには自分の自転車はなく、別の自転車が停められていた。どうして・・・。確かに停めたはずなのに・・・。正義は冷静さを欠きながらも、もしかしたら自分が停めた場所を間違えたのかもしれないと思い、駐輪場内を歩き回り、自分の自転車を探した。だが、やはり彼の自転車は見つからなかった。前述の理由で、しっかりと意図があってそこに停めることを決めた駐輪ラックであった。彼の記憶違いである訳がなかった。
 彼はその後も何度も駐輪場内を探し回り、ようやく、自分の自転車がなくなったという事実を受け入れた。そして、自分の自転車がなくなった理由や経緯を推測してみることにした。まず、おかしいのが、自分が停めていたはずの番号の駐輪ラックに、他人の自転車が停められていることであった。そこで彼は考えた。おそらく、この自転車の持ち主が、自分の自転車をラックから出し、代わりに自分の自転車をそのラックに駐輪したのだろう、と彼は推測した。有料駐輪場の精算、自転車の出庫、開錠は、駐輪場に設置された機械によって行われ、番号を入力するだけで行えるので、使い方によっては、別に他人の自転車をラックから出庫することも可能であると考えられた。また、それを裏付ける状況的な証拠として、彼がこの駐輪場で自転車を停めようとした時には、もう既に駐輪スペースは満車状態に近く、空いているラックもほぼ見当たらないような状態であった。そこで、空いたラックを探していたところ、自分と縁のある数字が番号となっている空きラックを見つけ、正義はこれから馬券を買うのにとても縁起がいいと、そこに自転車を停めると、意気揚々と馬券場に向かったのだった。だからこそ、やはり、番号を間違えるわけがなかったのだ。
 だが、ラックの場所を横取りしたと思われる、目の前の自転車の持ち主も、まさか、彼の自転車をどうこうしようとまでは思わなかったであろうと、彼は思った。場所を横取りした後で邪魔になった彼の自転車は、駐輪場のどこかに停められたことであろう。何せ、鍵のかかった自転車を持ち上げたまま遠くまで運んでいくのは、割と面倒だと思えた。自分の自転車の駐輪場所を確保することが目的であれば、その目的さえ果たされてしまえば、他人の自転車等には用はないはずだ。
 では、何故、自分の自転車は駐輪場から消えたのであろうか。彼はまた考えた。考えられることは二つだった。一つは、駐輪ラックにしっかりと収まっていない自転車ということで、撤去されてしまったという可能性であった。もう一つは、誰かに盗まれた可能性だ。状況から考えて、前者の可能性が高いと彼は思ったが、違法駐輪ということで撤去されたのか、はたまた、誰かに盗まれてしまったのか、真相は定かではなかった。ただ自転車がなくなったという事実だけがその場に残った。ラックを横取りしたと思われる、正義が駐輪したラックに自転車を停めている人物が、その自転車を取りに来るのを待ち伏せして責任を追及しようにも、彼が正義の自転車の停まっているラックを開錠して正義の自転車をどかし、代わりに自分の自転車を停めたという証拠はどこにもなかった。ただラックが開いていたから自転車を停めただけだ。正義の自転車をどかしたのは自分ではないと言い逃れされれば、それで終わりだ。結局、正義の自転車がなくなったという事実は変わらず、運がなかったと泣き寝入りするより他はなかった。彼は、若い女と長い時間話すようなことがあったから、ツキが逃げたのだと思った。少しいいことがあると必ず、その何倍もの嫌なことがやって来るのが彼にとっては常であった。おそらくこの馬券も当たらないだろうと、彼は直感した。すっかり意気消沈した彼は、うなだれながら駅に向かって歩いた。彼の頭の中では、人気RPGゲームの音楽を担当した人物が作曲したという、関東G1レースのファンファーレが悲しく響いていた。

 結局、一睡もできなかった正義は、特にやることもなく、また、慣れない電車通勤を強いられることとなった為、いつもより時間に余裕をもって宿を出た。それが功を奏したのか、いつもよりも早めに職場に着いた彼は、ふと、今朝もロードバイクを担ぎながら帰って行った米子のことが気になり、米子の自転車が置いてあるかどうか、そしてそれが無事であるかどうかを確かめる為、駐輪場へと足を運んだ。正義が駐輪場へとやって来ると、ちょうど米子が自転車を停めているところに遭遇した。正義は米子に挨拶をしようと思い近づこうと試みたが、昨日の出来事が頭をよぎり、どんな風に言葉をかけて良いものかわからなくなり、そうこうしているうちに、米子は正義に気付くことなくそのまま駐輪場を後にした。米子が去った後も正義は何というのが正解であったのだろうかと悩みながら通用口へと歩みを進めた。正義が下を向きながら歩いていると、突然、後ろから背中を叩かれた。正義が驚いて「キャッ」という声を出すと、
「女の子みたいな声出さないで下さいよ。ダッサ。」
という声と共に、暗闇で何かが光った。
「なんだ、瀬戸さんか。驚かさないでよ。」
「それより、何かいい方法考えてくれましたか。」
そう言われて、正義は、はっとした。自転車を失ったショックで、米子の隠し事をうまく引き出す方法を考えることをすっかり忘れていたのであった。
「いやあ、それが、中々いい案が浮かばなくて・・・。」
「ほんとかな・・・。どうせ考えることすらしてなかったんじゃないですか・・・。」
ズバリ、真相を言い当てられた正義は、瀬戸は結構、勘の鋭いタイプだから気をつけねばと自分に言い聞かせつつ、適当にその場を凌いだ。
「私、結構、真剣ですからね。齋藤さんも真面目に考えてくださいよね。あと、このことは二人だけの秘密ということで、お願いしますね。」
と言うと、瀬戸は女子更衣室に入って行った。正義は、秘密を共有しているという状況に、少なからぬ充足感を感じていた。瀬戸の発した「秘密」という言葉の響きが、自転車がなくなったことで傷を負った正義の心を少しばかり癒し、潤した。
 仕事中、正義は面倒くさいなと多少感じながらも、米子から隠し事を聞き出す方法を考えていた。直接教えてくれと言っても、おそらく無理であろう。では、どうするべきか。
足りない頭を絞りに絞って、何かいい案が浮かばないものかと考えてはみたものの、普段、他人に関することなど全く考えてこなかった正義は、今にも知恵熱が出そうな状態であった。中々いい案が浮かばず、正義の思考回路がショート寸前になっていた頃、店の前の通りで、何かが倒れるような大きな音が響いた。米子や瀬戸、大山に続いて正義が外へと飛び出すと、高校のものと思われる制服を着た青年が、自転車もろともガードレールに衝突した後であった。正義がこんな夜遅くまで部活動でもしていたのだろうか。ご苦労なことだなと、このタイミングでしなくてもよいであろう感心をしていると、米子が急いで、青年の怪我の具合を確認していた。特に米子は頭を打ったかどうかを気にしていたが、頭は打っていないので大丈夫だと青年は答えた。ある程度怪我の確認が終わると、手の擦り傷などの治療の為にと、米子は荷物を取りに自分のロッカーへと向かった。幸い、青年の怪我は見た感じ軽傷で済んだようで、何か運動をやっていると思われる青年は体格が良く、おそらくそれも大けがにつながらなかった要因であろうと思われた。瀬戸と大山は、ガードレールに青年がぶつかったときの音が大きかったので心配した、怪我が軽そうで良かったと言った。だが、青年は浮かない顔をしていた。何やら、青年が焦っているようにも正義には思えた。すると、青年は、「間に合わない、間に合わない」と、小声で繰り返し始めた。大山が優しくどうしたのと青年に聞くが、動揺しているのか、今度は「どうしよう」と繰り返しつぶやくばかりで、大山の質問には答えることができない様子だった。そのやり取りの間に、瀬戸は青年の自転車が壊れていることに気が付いた。正義が青年の乗っていたマウンテンバイクに近寄ると、確かにハンドル部分が外れ、ブレーキのワイヤーが切れてしまっている状態であった。青年は、正義や瀬戸を見て、急に思い出したかのように、
「自転車を何とかしなくては」と言って、急に立ち上がり、自転車の方へと駆けだそうとしたところ、消毒薬や絆創膏、包帯などを持って戻ってきた米子とぶつかった。ひどく錯乱したような状態の青年を、米子と大山はとりあえず宥め、米子は彼の傷の手当てをしようと、大山は彼に事情を聴こうと試みた。だが彼は、「そんなことをしている場合ではない」と、手当をしようとする手を振りほどき、
「すみません、どなたか、自転車を直すための工具、モンキーレンチとか、そういうものを貸していただけないでしょうか。お願いします。急いで行かなくてはいけないところがあって。お願いします。」
と言って、何度も頭を下げ、米子の胸に両手で縋り付いていた。何かよっぽど急いでいる理由があるのだろうと正義は思ったが、青年の「モンキーレンチ」という言葉と、米子が来ているTシャツがフー・ファイターズのものという偶然の一致に気を取られて、この場でただ一人真剣味に欠けていた。これだから、瀬戸に真剣にやれなどと言われるのだな、こうして真剣に物事を考えていない時というのは、周囲で見ている人間には気づかれているのだなと思い、正義が目の前のことに集中しようと思った、その時、米子が口を開いた。
「お急ぎなのですね。では、私の自転車を使ってください。怪我もひどくはなさそうですし、頭も打っていないようなので、自転車には乗れると思いますから。ただ、もし、何か頭が痛いとか、体に異変があったら、ちゃんと病院に行ってくださいね。そうでなくとも、一応受診されることをお勧めしますが。」
そう言うと、米子は駐輪場から自分のロードバイクを持ってきて、そのハンドルを彼に握らせた。
「あの、これは、一体・・・。本当に借りていいんですか。高そうですけど、いいんですか。それに、いつ返せば・・・」
青年が動揺していると、米子は
「別に、最悪返さなくても結構ですよ。最近故障が多くて、処分しようかと思っていたくらいですから。私のことは気にせず、行ってください。お急ぎなのでしょう。さあ、ほら。」
と言って、青年を送り出した。米子達に感謝を告げてペダルを踏みこむ青年を、米子は笑顔で見送っていた。その様子を見て、瀬戸が正義に目配せをしてきた。正義は瀬戸の伝えようとしていることを何となく察して、気怠そうな表情で頷いた。そこで、ふと、正義は閃いた。いつもなら米子はあのロードバイクで颯爽と帰ってしまい、自分が自転車に跨り少し進んだ頃には、もう既に米子の姿は周辺にはなくなっているが、自転車がなくなった今、米子は歩いて帰らなくてはならない。となれば、米子を尾行することができるはず。うまくすれば、彼の家や、彼に関する情報などを得られるかもしれない。ナイト部の人間も、情報通の新川でさえも、彼に関する詳しい情報を持ってはいなかった。そうだ。これは千載一遇のチャンスではないか。正義がそんなことを思いついて、それを瀬戸に伝えるために彼女に近づこうとすると、後ろから、背が高く、すらっとしたスタイルの良いモデル体型の女性が正義にぶつかってきた。女性はぶつかったことなど気にも留めず、ずんずんと歩いていき、米子のところまで来ると、突然、彼の両肩を掴んでこう言った。
「やっと見つけた。やっと会えた。やっぱり変わってない。誰にでも優しいのね。」
米子の肩を掴みながら満面の笑みを浮かべる彼女に対し、米子はさっぱり状況が理解できないというような顔をしていた。
「そう・・・。残念・・・。私のこと、忘れちゃったの。ま、いいわ。私、あなたに何かお礼がしたいと思ってるの。まさか、引っ越してきた先で会えるなんて思ってもみなかった。このお店で働いてるのね。今度また来るわ。その時、またお話ししましょう。」
彼女は一方的に話し終えると、その長身をさらに目立たせているハイヒールで夜道に靴音を響かせながら、颯爽と去って行った。正義は、米子と女性とのやり取りを見て呆然としている瀬戸と思わず顔を見合わせた。いよいよ、雲行きが怪しくなってきた。とりあえず、長身の女性のことは一旦置いておいて、先程思いついた考えを伝えようと、正義は瀬戸に近づき、
「あの、ちょっと思いついたんですけど・・・。」
と声をかけると、瀬戸はボーっとしたままの顔で正義の方に顔だけを向ける格好で、話は後で休憩の時にしようと、心ここにあらずというような声色で正義に言った。四人が店内に戻ると、一人レジに取り残された川崎が、
「何かあったのですか。」
と皆に投げかけた。ただ、米子も含め、全員が青年とのやり取りよりも、その後の女性の事の方が気になってしまっていた為か、誰一人として川崎の質問に反応できずにいると、川崎は突如、大山の腕を掴み、
「何かあったのですか。」
と大山に向けて言った。大山は、前日の事を思い出したのか、早い段階で、
「はい、はい、わかりました。後でお知らせしますから。」
と川崎に言った。デジャヴかなと正義は思った。
 午前零時が過ぎ、通常のルーティーン通り一時間の休憩を取ることとなり、青山、瀬戸、正義の三人が先に休憩をとることになった。自宅に帰った青山に対し、瀬戸と正義は二階の休憩室に向かった。そこで、正義は米子を尾行してはどうかという考えを瀬戸に伝えた。
コソコソと人の後をつけて、こっそりと人のことを覗き見るような卑怯なやり方を自分はしたくはないと、瀬戸は正義のアイデアに難色を示し、もっと他の考えを求めたが、正義にも、瀬戸にも特に良い案はなかった。そこで、正義は米子の為にすることなのだから、多少やり方は汚いかもしれないがそれでも良いではないかと話し、瀬戸の説得を試みた。実際は、正義はただ、尾行みたいなことを一度はしてみたいと思っていただけだったのだが、瀬戸は不服そうではあったが、渋々、正義の出した案に賛成した。やり方が汚いと言えば、小島たちはこの日も、米子を笑い者にしていた。以前から色々と陰口を言われたり、明らかに他の従業員に比べ待遇が悪かったりということはあったが、それにも増して、侮辱や軽蔑が米子本人に投げかけられている。そんな現状に、正義も少なからず憤りを感じていた。
 そして、午前七時、終業時間が訪れると、正義と瀬戸の二人は示し合わせたかのように、ダッシュでタイムカードを打刻し、素早く帰り支度を済ませて通用口を出ると、通用口の正面にあるマンションの出入り口の陰に隠れて米子が出てくるのを待った。数分後、米子が出てきたが、何かおかしいと二人は感じた。米子はてっきり駅に向けて歩いていくものだと思いきや、何故か一向に通用口の前から離れようとはしなかった。何やら、米子は両手を組んで手首をぐるぐる回したり、足首を回したり、アキレス腱を伸ばす動作をしていた。二人が不思議そうにその様子を見ていると、米子は腕時計をいじり出し、それが終わるとまっすぐに前を見据えた。そして、次の瞬間、彼は勢いよく走り始めた。不意を突かれた二人は慌ててマンションの出入り口を出て、米子の後を追った。だが、いくら走っても、どんどん米子との差は広がるばかりであった。正義に至っては、女の子であり、尚且つ走りにくそうなブーツを履いている瀬戸にさえ置き去りにされる始末であった。結局、瀬戸も米子を見失ってしまい、正義の計画は失敗に終わった。
「齋藤さん、足遅すぎですよ。もう少し頑張ってくださいよ。」
「すみません・・・。」
「米子さん、私たちが尾行しようとしてるの、気付いてたのかな。私たち、巻かれたんですかね。」
「どうですかね・・・。米子さんにも、誰にもばれていないと思うんですけどね。特に仕事中に話したりもしてないし。米子さん、時計いじってましたよね、走る前に。あれ、多分、タイムを計ってるんじゃないですか。それにあの走るスピードの速いこと。きっと、普段からランニングをしてるんでしょう。今日走って帰ったのは、俺らのことに気が付いたからではないと思いますよ、きっと。」
「なるほど。意外と鋭いですね。」
「意外と、ね・・・。」
「それじゃあ、明日はどうなりますかね。米子さん、明日も走って帰るのかな・・・。もし、明日も今日みたいに巻かれてしまったら、まずいですよ。米子さんのシフト減らされたみたいなんで、私たちが尾行できる機会も減りますから。何としても、明日はちゃんと尾行しないと。」
「え、明日もやるの。今日失敗したし、もういいんじゃ・・・」
「良くないですよ。まだ何もわかってないでしょ!また面倒くさいって思い始めてるんじゃないですか!」
まったく、痛いところを突いてくるなあ。大体、尾行にあれだけ難色を示していたくせに、自分が一番ノリノリではないか。と正義は思った。
「いいですか。明日もやりますからね。明日はもっと頑張って走ってくださいよ。」
「え、いや、そんな、一日で劇的に走るスピードが速くなるわけないでしょうよ。」
「知ってますよ、そんなの。明日は自転車を使って追いかけましょう。では。」
「あ、ちょっと・・・」
正義は、自転車を失ったことを瀬戸に告げようとしたが、それを伝える間もなく、瀬戸は交差点の信号を渡って行ってしまった。
 その夜、正義が出勤すると、休憩室の椅子に腰かけながら、新川が飲み物を飲んでいた。そして、正義を発見すると、勢いよく椅子から立ち上がり、正義の方に近づいてきた。
「ちょっと、齋藤君。米子っち、大丈夫なの。なんか、色々変な話、聞いてさ。俺は信じてないけど。米子っち、良い奴だしさ。真面目だし。でも、さすがに今の状態だと本人が居辛くなるよ。宮本さんも心配だって言ってた。あと、シフトも減らされたし、仕事も頼めなくなって、痛手だなって。齋藤君もちょっとでいいから、気にかけてあげてよ。」
そう話す新川対し、正義は、
「まあ、そうですね。でも、米子さんの方が俺より年上なので、俺がどうこうできるとは思わないですけど・・・、ええ、少し気にしてみるようにします・・・。」
という具合に歯切れの悪い返事をするので精一杯であった。話が終わると新川は帰り、正義はまた負担が増えるのかと思い、ハアと深くため息をついた。その瞬間、バチンと誰かに背中を叩かれた。
「やっぱり齋藤さんって格好悪いですよね。どうして、あそこで『わかりました。俺に任せてください』くらいのことが言えないんですかねえ。ダッサいなあ。」
声の主は瀬戸であった。
「痛いから。背中。何、今の話、聞いてたの。」
「立ち聞きするつもりはなかったんですけど。偶然です。でも、やっぱり、何としても米子さんの誤解を解いてあげないと。頑張りましょうね。」
朝の状態にも増して気合十分の瀬戸に対して、正義は圧倒されながらも力なく同調した。

 さて、この日も米子に対する小島らの悪態は続いていたが、それ以外の業務上の問題は無く、正義はすんなりと終業時刻を迎えていた。レジに大山一人を残して、ナイト部のメンバーは各々タイムカードを打刻し、家路につくためにバックヤードへと引き上げて行った。もちろん、瀬戸と正義はダッシュで支度をして、駐輪場で落ち合った。
「全く。なんで自転車に乗って来てないんですか。言いましたよね、私。」
「すみません・・・。いや、あの、盗まれましてね、自転車・・・。昨日、話そうと思ったんですが、言おうとしたら瀬戸さん、さっさと帰っちゃったから・・・。」
「え~、何、その言い訳。それ、本当に盗まれたんですか。いい加減な場所に停めて撤去されたんじゃないですか。齋藤さんのことですから。ほんと、全然役に立たないわ。」
正義は、瀬戸の発言に、またも確信を突かれて、内心ドキッとしていた。実際、見抜かれているのではないか。現に、日に日に、瀬戸の自分への扱いがどんどん雑になっていくのを正義は感じていた。
「そしたら・・・。私の自転車で二人乗りするしかないですね。もちろん私が後ろで。いいですよね。」
「はい・・・。」
「よろしい。じゃあ、自転車ごと隠れられる場所で米子さんを待ちましょう。」
そう言って自転車を引いていこうとする瀬戸だったが、その直後、動きを止めた。
「うわぁ。何で・・・。噓でしょ・・・。」
「ん。瀬戸さん、どうしました。」
「来るときは平気だったのに。多分、来る途中で釘を踏みつけたみたいで、後ろのタイヤが見事にパンクしてます・・・。」
と言って、瀬戸は釘の刺さったタイヤを正義に見せた。二人が沈黙のまま立ち尽くしていると、背後から誰かが彼らに声をかけた。
「お二人とも、何かお困りですか。」
声の主は川崎であった。
「いやあ、実は瀬戸さんの自転車がパンクしてしまったみたいで。」
正義は、二人の計画がばれないように受け答えをしなければと考えた。
「このままだと、瀬戸さん、帰れなくて困ってしまいますよね。どこかに変わりの自転車があればなぁ・・・。」
「代わりの自転車ですか・・・。齋藤さんは自転車で来ているそうですが、今日は自転車で来られていないのですか。」
「すみません。生憎、今日は電車でして。僕が自転車で来ていれば、真っ先に瀬戸さんにお貸しするのですが・・・。あぁ、どこかに、瀬戸さんに自転車を貸してあげるような心優しきお方はいないかなぁ。・・・。瀬戸さんも困っていますよね。」
正義が瀬戸にパスを出すと、瀬戸は、
「あ、まあ、はい。」
と、答えた。完全なトラップミスではないか。ここは、普通、「はい、本当に困っていて」とか言って、愛嬌振りまきながら、色仕掛けで自転車を貸してもらうという場面ではないか。その為の絶妙なパスをなぜしっかりと受け取らないのだ、と正義は地団駄を踏んだ。その後も押し問答を続ける二人に痺れを切らしたのか、瀬戸が割り込むように声をあげた。
「もう、長い。何、この不毛なやり取り。日が暮れますよ。齋藤さん、もういいです。」
と言うと、瀬戸は川崎の方へ向き直り、
「川崎さん。お願いします。自転車を貸していただけないでしょうか。」
と普通に川崎に頭をさげて頼んだ。すると、川崎は、
「ええ、いいですよ。僕の家はここからそんなに遠くないですから。歩いても帰れますし。」
と、あっさり瀬戸に自分の自転車を差し出した。あまりにあっけなく目的を達成し、正義はそれまでに要した無駄な時間は何であったのだろうと嘆いた。結局、直接頼むのが一番早いだなんて。それにしても、やはり川崎はよくわからない男だ、と正義は思った。川崎の自転車を借りた瀬戸は、先に帰るふりをして物陰で正義を待った。正義が合流すると、二人の視線の先には、昨日の朝と同じように準備体操のような動作をしている米子の姿があった。絶好のチャンスとばかりに、二人は無言で顔を見合わせた。正義はそれを見ながら川崎のママチャリに跨り、ペダルに足をかけた。瀬戸はそれを見て、自転車の荷台に乗った。その直後、米子が腕時計の操作を終えて走り始めた。それを確認して、米子とちょうどいい距離を保ったところを見計らって、正義はペダルを踏みこんだ。だが、何かおかしい、と正義は思った。妙にふらふら、くねくねしてしまう、と思いながら必死でハンドルを取り直し操作しようとするが、ハンドルが安定しなかった。思えば、正義は、ママチャリのようにハンドルが曲がってついているタイプの自転車に慣れていなかったのだ。自転車に乗っているにもかかわらず、どんどん米子に離されていく状況に、瀬戸が、
「もう、下手すぎ。信じらんない。」
と言ってため息をついた。
「仕方ないですね。私が漕ぎますから、後ろで大人しく座っててください。」
と言って、正義と運転を代わった。正義は、瀬戸に怒られた上に、女の子がペダルをこぐ自転車の後ろに乗せてもらっているという二重の恥ずかしさで、しばらく黙ることしかできなかった。瀬戸の操縦により、ようやくペースを掴んだ川崎号は、やっとのことで米子が見えるところにたどり着いた。
「それにしても、米子さん、やたらと足速いですね。齋藤さんにもあれくらいの脚力があれば私は楽なんですけど。あ、坂になったら下りてくださいよ。」
正義はこれに対しても何も言うことができず、沈黙を継続した。
「ちょっと、齋藤さん。ずっと黙ってないで何か話してくださいよ。私ばっかり疲れてる。せめて何か楽しい話でもして盛り上げてくださいよ。」
だが、急にそんなことを言われても、正義には荷が重すぎる役目であった。普段から、生きていてもあまり楽しいことがないと思っている彼にしてみれば、楽しい話というものが一体どのようなものかわからなかった。また、他人への興味も薄くなっていた彼には、他人が何に対して楽しいと感じるのかもわからなかった。とはいえ、しばらく押し黙っていた為、これ以上、沈黙を続けるわけにもいかず、無意識に下を向いた正義は、視界に入ったものをそのまま口にした。
「あ、タンポポだ・・・」
「タンポポですか。見たかったなぁ。そうだ、齋藤さん、知ってますか。タンポポって在来種と外来種の二種類あって、セイヨウタンポポとかの外来種の方が在来種より多いの。夏場に咲いてるタンポポもありますよね。あれって、ほとんどがセイヨウタンポポらしいですよ。って、あれ。なんか今、私、ちょっと米子さんみたいでしたね。」
そう言って、瀬戸は笑った。いつもの線路沿いの道。いつもは負の感情しか持ち合わせずに通るこの道を、今日は女の子と笑いながら通っていた。その事実を急に意識してしまい、正義は何かまた余計なことを言いたい衝動に駆られてしまった。
「そういえば、瀬戸さん、カタクリの時も花言葉を知ってましたよね。見かけによらず、
花に詳しいですね。あんまり花とか好きそうなイメージないですけど・・・。」
と正義が言うと、突然、瀬戸が自転車を止めた。正義は、まずいと思った。やめておけばよかったと後悔した。自分が言ったことで彼女が怒ってしまったのではないかと思い焦った。すると、瀬戸は振り返って口の前に指を立て、「静かに」というジェスチャーを正義にした。そして、物陰に隠れると、
「米子さんが止まって何かしてます。様子、見ましょう。」
と瀬戸は正義に言った。正義はどうやら怒ってはいなかったようだと少し安心した。それから、瀬戸と共に米子を観察していると、何やら、リュックからビニール袋とトング、ペーパータオルを取り出し始めた。どうやら、道端の植え込みのゴミや犬の糞を拾っているようであった。荷物検査の時に不思議に思った、大量のビニール袋やペーパータオルの束、そしてトングの使い道はこれであったのかと、正義は思った。正義はふと思った。彼はこのようなことを日常的にしているのだろうか。それについて、瀬戸に聞いてみると、当然そうでしょう。だからこそ、ああやって毎日道具を持ち歩いているのですから。と、もはや、米子シンパとも思えるような発言をし出したので、正義はそれ以上、この件を深く掘り下げることはやめようと思った。しばらくすると、米子はまた、ビニール袋とトングを片手に持ったまま走り出した。それを見て、瀬戸も再びペダルを踏みこんだ。
「悪かったですね。花に詳しそうじゃなくって。」
「え、うわっ、聞こえてたんだ。いや、冗談ですよ、冗談。」
瀬戸は本当に油断のならない人間だなと正義は思った。
 だが、油断がならないのは、何も瀬戸だけではなかった。前方を走っていた米子が、自転車に乗る女子高生か、もしくは女子中学生の集団とすれ違った際であった。おそらく駅の方面に急いでいる彼女らの方を突然振り返り、猛スピードでダッシュして、今来た道を
戻って行き、彼女たちを追いかけ始めたのであった。慌てた瀬戸は、自転車ごと、線路の高架下の陰に隠れ、何とか米子に気が付かれずに済んだが、米子はまだ彼女たちを追いかけていた為、二人も米子を追った。追いかけながら様子を見ていると、どうやら、彼女たちも米子に追われていることに気が付いたようで、「怖い」とか「何、あいつ」とか叫びながら、よりスピードを上げて米子から逃げていた。米子との差が開くかと思われたところで、ちょうど踏切に差し掛かり、彼女たちの前で遮断機が下りた。ようやく彼女たちに追いついた米子はその中の一人の肩をポンと叩いた。振り返った女学生は、恐怖で硬直しながら、
「何ですか・・・。触らないで下さい・・・。」
と、震えながら声を絞り出していた。すると、周りにいた彼女の仲間が、
「何こいつ!痴漢だよ!痴漢!誰か来て!」
と大声をあげた。朝の駅前に、少女の叫び声が響き、周りの人々が彼女と米子の方に注目した。そんな状況の中、米子が口を開いた。
「あの、先程、これを落とされましたよね。」
と言って、米子は右手で何かを差し出した。正義が視力の落ちている目を凝らして、遠くから必死に見てみると、米子が差し出したものはハンカチであった。少女は一瞬、固まって、黙ってしまったが、少しすると、
「それ・・・、気持ち悪いので、もう要りません・・・。捨ててください・・・。」
と吐き捨てて、遮断機が上がるのと同時に、自転車で走り去っていった。取り残された米子は、駅前を行きかう人々にじろじろと見られながら、困ったように笑っていた。正義は見ているだけの自分でさえも胸が痛くなるような状況で、彼は今、何を思って笑っているのだろうと考えていた。ただ、この気持ちを米子シンパの瀬戸には話すと面倒なので話さないでおこうと心に決めた。米子は線路の脇に立ち尽くしていたが、しばらくすると、また、駅とは反対方向へと走り始めた。それを見て、正義たちも再度物陰に隠れ、米子と距離を取ったところから米子を追った。隅田川沿いの土手に差し掛かった米子は、また立ち止まり、ビニール袋にゴミなどを拾って入れていた。そうして少しの間周辺のゴミ拾いをすると、米子は再び走り出した。アップダウンの激しい道に差し掛かり、正義は強制的に自転車から降ろされた。それにしても、米子のペースは全く落ちなかった。一キロにも満たない走行距離であったが、正義は、例の俳人ゆかりの橋を渡り切る頃には疲労困憊でバテバテの状態であった。正義はそのまま自分の宿へと帰ろうかと思ったくらいであった。「がんばれー」という、瀬戸の心のまったくこもっていない声援では、枯れ果てた正義のエネルギーをもう一度満たすことなどできるはずもなく、橋を渡り切ったところで、正義は無言で自転車の荷台に跨った。
「ほんと、情けないですね。まだそんなに走ってないですから。あっちはずっと走っているのに。齋藤さんが遅いから、結構離されちゃいましたよ、もう。」
自転車のペダルを漕いでもらっている分、文句など言えないという立場もあるが、それ以上に疲労で声が出なかった為、正義はもはや何を言われても黙っていることしかできなかった。米子はというと、駅を超えて、日光街道を変わらぬペースで北上していった。正義は、彼は一体どこまで行くのだろうか。そもそも、どこに住んでいるのだろうか。もしかして、まだまだ遠くまで行かなければならないのではないか。と、終わりの見えない不安のようなものを感じ始めていた。ただ、自転車の荷台に乗っているだけだというのに。さらに街道沿いを北に向かって、しばらく走っていると、米子が横道に逸れて、路地に入って行った。狭い道ながら、銀行があったり、商店が立ち並んでいたり、朝から人通りの多い道であった。そこでまた、米子が急に立ち止まった。コンビニエンスストアの前の自転車が、何かのはずみでドミノ倒しの状態で倒れており、狭い道は自転車で塞がれたような状態になっていた。米子はちらりと前を見ると、急いで六台ほど倒れていた自転車を全て起こし、何事もなかったかのように走り出した。数秒後、米子は、白杖を手にした、おそらく盲目であろう男性とすれ違った。それを見て、正義はおそらく米子は自転車が路上の点字ブロックの上に乗っかっていたので、あんなに慌てて自転車を直していたのだなと思った。今のところ、何も彼の隠し事についての革新のようなものは得られてはいなかったが、瀬戸が言っていた「米子らしさ」のようなものに関しては、大分わかってきたように正義には思えた。しばらく、その狭い道を米子が走っていると、前方を若いカップルが横に並んで歩き、道を塞いでいた。それを見ると、米子は、車道側へと降り、車道の一番端を走っていた。すると、夜中に降った雨によりできた水たまりの泥水を、米子の横を通っていく車が次々と彼に向かって跳ね掛けた。米子のズボンが泥水でビシャビシャになり、ドロドロに汚れているのを、後ろから自転車で米子を追い越していった女子高生たちが罵った。
「うわっ、何あれ、きたなっ。」
「てか、なんか気持ち悪くなかった、今の人。」
「誰か、あの人に付き合って下さいって言ってきたら、私の貯金、全部あげるよ。」
「え、嫌だよ。てか、あんた貯金なんてしてんの。」
「してるわけないじゃん。」
「ないんかい!だと思ったわ。」
などと言って、キャッキャッして、笑っていた。米子はいつも、仕事の時以外でも、このような貧乏くじを引いたり、損をしたりしているのであろうか、と正義は考えた。貧乏くじばかり引いているところも、「米子らしい」と考えればそうなのかもしれないが、それにしても虚しすぎるではないか。誰が見ていてくれるでもないし、誰が褒めてくれるでもない。そればかりか、人に馬鹿にされたり、罵られたり、後ろ指を指されたりまでしている。そんな思いまでして自ら損を引き受ける意味が一体どこにあるのだろうか。正義はそんなことを思いながら、米子の汚れたズボンを遠くからじっと見つめていた。そんな彼の姿に、正義は一瞬とてつもない虚しさとやるせなさを感じた。誰にも感謝されない、喜ばれない米子の思いやり、彼の気持ちは一体どこへ行くのだろう。それを考えると、正義はたまらなく虚しい思いになったのだった。だが、それでも米子は走ることを止めなかった。瀬戸も何か思うところがあったのか、下を向いて押し黙ってしまい、自転車は止まったままであった。しばらくして、ようやく米子を追いかけようとしたが、どこかの路地に入ってしまったようで二人は完全に彼を見失ってしまった。
「今日が一番のチャンスだと思いましたけど、結局、米子さんの家すらわかりませんでしたね。」
「まあ、今日わかったことは、米子さんは若い、十代くらいの女の子にはモテないということくらいでしたしね。」
「齋藤さんは、今日お休みですよね。」
「ええ。シフト減らされましたんで。米子さんと一緒。」
「それなら、また明日も集まりませんか。」
「え、なんで。」
「なんでって。せっかく、米子さんがこの辺りを通って家に帰るとことまではわかったわけだし。この辺で張り込んでれば、また米子さんを見つけられるかも。」
「いや、でも、米子さんがうまく見つかるとも限らないよ。もしかしたら、シフト減らされてダブルワークしてるかもしれないし。それが、もう一つの仕事が深夜の仕事とも限らないし。俺たちがこの辺をウロチョロしてても、肝心の米子さんが別の場所で働いてたら、俺らの労力が無駄ですよ。」
「また、面倒くさがってそういうこと言って・・・。ちゃんと協力するって言ってくれたのに。もし無駄骨でもやりましょうよ。張り込みはそんなに甘くないですよ。たった一日張り込んだ程度でそう簡単に有力な情報は手に入らないですから。現場百回ですから。」
「何それ。刑事ドラマの見過ぎじゃないですか。そんな前時代的な価値観を押し付けられても困るし。営業は足で稼ぐみたいな。それに、瀬戸さん、初めは尾行なんて卑怯な真似したくないとか言ってたけど、今やノリノリで、張り込みとか言って。面白がってません。」
「それは・・・。だって・・・。齋藤さんも見たでしょ。やっぱり、ああいう人が誤解されてるのは、私は辛い。何とか、誤解を解いてあげられればと思って・・・。その為なら、手段は選んでいられませんから・・・。わかりました。もう、いいですよ。やっぱり、面倒くさくなったんですね。それなら、私一人でやります。今日は、手伝っていただいて、ありがとうございました。」
そう言うと、瀬戸は自転車のハンドルを元来た道の方へと向けた。正義は、ヤバいと思った。また、余計なことを言って、彼女の機嫌を損ねてしまったと後悔をした。彼女が行ってしまう。何か言わなければ。何でもいいから話して、彼女を引き留めなければ。そう思って、正義が言った言葉は、
「あ、あの、瀬戸さん、今来た道を戻るんですよね。・・・実は、俺の家、そっちの方向でして・・・、もしよかったら、後ろ、乗せてもらっても、良いですか。」
という最悪なチョイスであった。それを聞いた瀬戸はしばらく呆れていたが、ため息をつくと、口を開いた。
「はあ。いや、もう、ありえない。このタイミングでよくそんなこと言えますね。私、ちょっと怒ってますから。わかりませんか。」
「それは、わかってましたけど・・・。ごめんなさい。色々と、すみませんでした。あの、俺も瀬戸さんが言ってた『米子さんらしさ』みたいなものが今日でより理解できたような気がしていて・・・。俺は誤解を解いてあげたいというほどのことが言えるような人間ではないけど、俺も彼の噂が誤解だっていうのを、しっかりと自分の目で確かめたかったから、協力することにして・・・。だから、あの、何ていうか、まだ誤解だと確信を持てていない以上、まだ、その、やめられないと言いますか・・・。その・・・。」
「要するに、手伝ってくれるということですか。」
「・・・はい。」
「で、あれば、はじめからそう言ってくれればいいのに。面倒くさいな。」
「・・・はい。すみません。」
「ほら、早く乗ってくださいよ。乗らないの。それならこのまま帰ります。」
「いえ、すみません、乗ります。」
「乗せてあげますけど、齋藤さんのお家には行きません。」
「えっ、どうして。」
「今日、これだけ後ろに乗せてあげたんですから、その分、しっかり働いてもらいますよ。」
「えっ、どういうこと。」
「駐輪場に戻って私の自転車を取りに行きます。パンクの修理、してください。」
「えっ、できるかな、俺に。あんまり、やったことないからなぁ。」
「でも、この間、米子さんの自転車の修理を手伝ってたじゃないですか。米子さんの自転車は直して、私のはやってくれないの。」
「いや、そういうことでは・・・。」
「大丈夫ですよ。できますよ。きっと。お願いしますね。」
「・・・はい・・・。」
「それで、直してもらった私の自転車は、齋藤さんが明日乗ってきてくださいよ、ここまで。私、明日も川崎さんに会いますので、何とか自転車、もう一日借りられるように頼んでみます。ダメなら、明日は一回帰って、お母さんの自転車乗ってきますから。」
「なんか、色々お手数おかけして、すみません。」
「いいえ。その代わり、ちゃんと役に立ってもらいますから。」
「では、駐輪場まで行きましょうか。途中、百均でパンク修理用のセット、買いましょう。」
そのようなやり取りを経て、二人は来た道を折り返していった。
「ところで、齋藤さん。ちょっと聞いても良いですか。」
「え、あ、はい。何でしょうか。」
「齋藤さんはなんであの店で働いているんですか。あと、齋藤さんって、学生さんですか。米子さんも自分の事はあまり話さない方なので情報がないですけど、齋藤さんも同じくらい謎というか、あまり情報がないので・・・。」
「あ、そうですか・・・。そうですよね。俺、人と話したり関わったりするのがあまり、好きじゃない・・・ではないな、何というか、苦手でして・・・。コミュニケーションをとるのも下手なんで、さっきみたいに人を怒らせてしまうことも多くて・・・。」
「いえ、そんなことは・・・。まあ、たまに頭に来ることあるけど。」
「・・・。だから、本当は、米子さんみたいに、お客さんとコミュニケーションが取れることに憧れるというか、本当はすごいなと思うところがあるけど、なんか、変に羨ましく思ったり、嫉妬したりして、何度か米子さんに八つ当たりして・・・。
あ、すみません。学生かどうかでしたね。俺はこの春で大学を卒業して一年が経ちました。就活に失敗して、ずっとフリーターをやっている・・・、二十三歳です。」
「へえ、二十三なんだ・・・。」
「瀬戸さんは大学一年生でしたよね。ということは、十九歳ですか。」
「いえ。私、一浪してるので、今年で二十歳です。頭悪くって。」
「いや、でも、中々勘が鋭いというか、頭の回転が速いと思いますよ。」
「何ですか、急に。気持ち悪いです。やめてくださいよ。」
「まあまあ。ちゃんと前見て。えっと、それで、なんで、この仕事をしてるのかでしたね・・・。特に理由はないのですけど・・・。実は学生の頃からちょっとした病気でずっと具合が悪くて・・・。家族とか、身近な人間にはどうも俺は怠けて見えるみたいで、意見がうまくかみ合わなくなって、結局、家を出てしまったんですけど・・・。
で、まあ、夜のバイトの方が給料もいいし、接客するお客さんも昼に比べて少ないし、それに、何故だか夜の方が昼間よりも体調がいいというか・・・。そういう部分で選んだので、正直、この仕事が良くてとか、この仕事が好きだからやっているわけではないです、恥ずかしながら・・・。だから・・・。」
「だから、何ですか。」
「だから、正直、小島さんとか、あの職場の雰囲気が苦手で、本当は入ってすぐに辞めようと思ってたんだけど、やめたら生活にも困るし、嫌々続けてたら、何か、店の雰囲気と全然合わない人が入って来て・・・。それこそ、俺よりもよっぽど店とか従業員の雰囲気に合ってなくて浮いている人が。でも、そのおかげで、自分のことが気にならなくなったし、周りも俺が浮いてることを気にも留めなくなって。それで、まだこうして仕事を続けられてるのかもしれない・・・。」
「その人って、絶対、米子さんですよね。」
「まあ、そうですけど。別に、米子さんのことが好きとかいう訳じゃなくて、何となく、ずっと気になってて、ふとしたときにあの人のことを考えてたり・・・。どうしてあんな行動とるのだろうとか、どうしてああいう風にふるまうのかとか、気が付くと目で追っていることもあって・・・。」
「え、何、その、恋する乙女のセリフみたいなの。まあ、私は悪くないと思いますよ。BLとか。」
「いやいや、ちょっと、そういうんじゃないから。どこかで羨ましかったんだと思う。俺、本当に面倒くさがりなんで、他人の為に何かとか、全然考えたことない人間ですけど、それが今こんなことをしてるのは、やっぱり、そういう部分があるのかなとか、思います。」
「そっか。意外と色々考えてたんですね。普段、全く何も考えてなさそうで、なんか、考えるのも面倒くさいって感じで仕事してるように見えましたけど。」
「あのね・・・。」
「・・・少し立ち入ったこと、聞いてもいいですか。」
「・・・何ですか。」
「病気って言ってましたけど、それって、どんな・・・。」
「ああ・・・。えっと、精神の病気みたいなんだけど、はっきりしなくて・・・。色んな医者に色んな病名を言われました・・・。精神の抑うつ状態がどうとか、自律神経がどうとか。難しいことばっかり言われて、あんまり頭に入ってこなかったし、結局、自分が何の病気なのかもわからなかった・・・。」
正義は、無意識のうちに、今まで他人に話したことがなかったことを話していた。今までも本当は、自分について話さないようにしていたわけでもないのかもしれない。ただ、そのようなことを聴いてくれる人間、自分に興味を示してくれる人間が、今まで一人もいなかっただけなのかもしれない。自分が他人のことなどどうでもよいと思っているのと同様に、他人も自分のことなどどうでもよいに決まっていると、ずっとそう思ってきた。それでも、たとえ、ただ話題がなかっただけにしても、自分のことを知りたいと思ってくれる人間がいることがうれしくて、こんなにも余計なことをべらべらと話してしまっているのかもしれない。正義は自分について語りながら、そんなことを考えていた。また、正義は、珍しく本音で話していた。元来、馬鹿にされるのが嫌いで見栄っ張り、あまり他人に弱みを見せたくない、いい恰好しいのはずの正義が、自分の病気に関して、素直な気持ちを吐露していた。それに気づいた正義は、そんないつもの自分らしくない行動を少し不思議に感じていた。なぜ、俺はこんなことを話しているのだろう。そんな正義の言葉に、瀬戸は、
「そうですか・・・。」
とだけ答えた。特に今までの受け答えと変わらないように思えた、彼女の「そうですか」の響きに、何とも言い難い違和感のようなものを、この時、正義は抱いた。正義には、その瀬戸の声の響きに、妙なもの悲しさのようなものが滲んでいたように思えたのだ。
「・・・瀬戸さん、心理学部ですから、そういう分野、詳しいでしょう。」
「いえ、私はまだ入学したばかりですから、全然。これから頑張らないと。勉強苦手ですから・・・。なんか、色々聞きすぎて、嫌な気分にさせてたら、ごめんなさい。」
「いやいや、別にそんなことないですよ。ところで、瀬戸さんは、なんで、この職場に来たんですか。別にわざわざあんなとこで働かなくても、瀬戸さんなら、もっと他の選択肢だっていっぱいあるでしょ。不思議だったんですけど、面接のときに、小島から髪型とか髪色がどうこうって怒鳴られて。普通、あの時点でこの職場はやめておこうってなりますよ。他にも派手な髪色の人とかいたのに、なんで自分だけって思うし。わざわざ黒く染めてきてまで働こうとはならないよ。そんな価値ないじゃん。」
「齋藤さん、他人に興味ない割には、私のこと覚えてくれてたんですね。意外です・・・。
・・・私、学生の頃からずっと、大人しい、いい子みたいに周りからは思われていて、ずっと。今はこんなですけど。それをみんなは私にも求めてるんだろうなっていうのが、私にもわかってたので、ずっと大人しいふりをしてました。でも、本当は、私にも言いたいことや、やりたいことはいっぱいあって・・・。ある時、そういうことを全部我慢しているのが、どうしても嫌になってしまって。なので、そこからは、言いたいことは言う。やりたいことはやるっていう風になれればいいなって。変わっていきたいなって思って。髪の毛、黒に戻すのは嫌でしたけど。でもなんか、あんなこと言われて悔しかったんで、逆に、絶対、ここで働いてやろうって思いましたよ。髪の毛引っ張られたし・・・。
・・・それと、私のお父さん、昔、スーパーで働いてて。子どもの頃、お父さんのこと大好きだった・・・。お父さんがスーパーで働いているところを見たことがあって、それで、お父さんがしていた仕事を、自分もしてみたいなって。なんか最近、お父さんのこと思い出すことが多かったので・・・」
「・・・なんか、俺の方こそ、立ち入ったことを聞いてしまったみたいで、すみません。」
「いえいえ。では、お互い様ということで。」
「ですか、ね。」

 そんなやり取りをしながら、二人は駐輪場へと戻った。正義は駐輪場の片隅に瀬戸の自転車を移動させると、あくせくしながら何とかパンクの修理を終らせた。途中、中々パンクの修理がうまくいかない正義の下に、珍しく朝から出勤していた新川がニヤニヤしながら近づいてきた。正義と瀬戸に飲み物を差し入れると、二人がそれを飲んでいる間に、新川が一人でパンクの修理をほぼ終わらせてしまったというのが、実際のところであった。修理の済んだ二人は、明朝会う約束をして、そこで別れた。
 ふと、正義が無意識に上を見ると、空には雲一つなく、どこまで見渡しても澄み切っているような青一色が広がっていた。正義にはこの日の空の色がとても美しく見えた。思えば、昼間の空をじっくりと見て、そしてその色を美しいと思うことなど、もう何年なかったことだろうと正義は考えていた。もう何年も夜型の生活を送ってきて、たまに昼の間に外へ出ても気分は重く、とても空の美しさに気が付くような余裕は彼にはなかった。彼は自分の目の前に広がる青空の鮮やかさを愛でるとともに、自分が数年間見ることが、気が付くことができなかった今日と同じように美しかったはずの数々の青空に思いを馳せた。すると、彼の心の中はすぐに悔しさでいっぱいになった。病気やそれをコントロールできないでいる自分に対する怒りや、空だけでなく色々なものを自分は見落としてきたのだという後悔が、彼の心に襲い掛かって来たのだった。片や、すっかり夜の住人と化していた正義にとっては、眩しくて鬱陶しいだけの存在であった太陽の照り付けでさえも、この日は心地よくさえ感じていた。それでもやはり、今まで自分が見逃してきた太陽の暖かさを思い浮かべると、彼はたまらなく悔しくなった。自分がこの美しい光景を、もう何回見ることができずに、見逃して、生きてきたのであろうこと感じ、彼は自分の人生を後悔した。
愛憎裏返しとはよく言ったものだ。その対象は何も人に限ったものではないのかもしれないと正義は思った。正義は青空や太陽の美しさを愛でたが、同時に、後悔や悲しみ、怒りを与えるそれらが、自分の病気や辛く苦しんできた日々を象徴するようなそれらが、とても憎らしく思えた。未だに眠ろうと思ってもなかなか寝付けず、一旦眠ると起き上がることができず、睡眠に執着してだらだらと布団にしがみついてしまう自分のことを正義は思い出していた。正義は未だに病気も自分の人生でさえも自由にコントロールすることができないでいた。自分の手からも離れてしまった、誰のものにもならない、宙ぶらりんの自分の人生が、いつか自分の手に戻ってくることはあるのだろうか。春の空を見上げて、正義はそんなことを思っていた。

 翌朝、正義は、勢いよく宿の扉を開いた。いつもは、それが薄いベニヤの合板でできているとは思えない程に開き難いドアが、この日は確かにべニアであると感じられるほどに軽く感じた。気分もいつもよりは軽いように思えた。
「あら、珍しいね、あんた。今日はこんな早くから出かけるの。さては、デートとか。」
いつもなら鬱陶しいと感じるおばさんの言葉にも、自然に反応し、返事をすることができた。普段ならば、「珍しい」とか「今日は早い」という言葉に反応して一人で勝手にイライラしているものだし、「デート」などというワードは火に油を注ぐようなものであるが、正義は、おばさんに二言、三言返し、挨拶をして、宿を出た。すると、さわやかな風が正義の頬を撫でた。今日はいい日になる気がするなと正義は思った。
 世の中そんなに甘いものではなかった。昨日、修理に成功したと思っていた瀬戸の自転車のパンクであったが、正義が自転車に乗ろうとしてみると、修理前のぺたんこの状態に戻っていた。どうやらちゃんと修理できていなかったようだ。正義は、「ちゃんと直っていないし」と、修理を手伝ってくれた新川に責任を丸投げするような恨み言を口にした。人間、そう簡単に変わるものではなかった。他に方法もないので、正義は仕方なく走って昨日の場所まで向かうことにした。到着した時には、正義は汗まみれになっていた。
「遅かったですね。あれ、ていうか、私の自転車は。やだ、なんか、汗臭いですよ・・・。」
と言う瀬戸に、事情を説明すると、彼女は渋々、自分の自転車の荷台に乗るように、正義に言った。二人は前日、米子を見失った辺りの路地を、あてもなく入って行った。とりあえず、周囲を自転車でうろうろとしていると、二人は小さな商店街へと出てきた。午前八時程度の商店街は、まだ開店前なのかシャッターが閉まっている店が多かったが、学校や職場へと向かう人は多く見られた。そんな中、汗だくで走ってきた正義は、喉の渇きが限界に達し、瀬戸にコンビニで何か飲み物を買おうと提案した。まだ、何も手掛かりがつかめていないのにと瀬戸に苦言を呈されることになったが、そういう瀬戸自身ものどが渇いていたようで、結局、二人は商店街の中にあるコンビニに寄った。二人がコンビニから出ると、何やら外が騒がしかった。二人がよくよく様子を窺ってみると、商店街に男の叫び声が響いていたのだ。
「ちょっと、待って!待ってください!」
そう叫ぶ男の声に、二人は少なからず聞き覚えがあった。「米子だ。」そう思った正義は、瀬戸と顔を見合わせると、瀬戸は大急ぎで自転車を用意し、正義も急いで自転車の荷台に飛び乗った。二人が声のする方へ走ると、前方に、自転車を走って追いかける米子の姿をとらえた。正義は何となく嫌な予感がしたが、米子が追いかけているのはどうやら女子高生ではなく、子どもを乗せた主婦であった。米子の叫ぶ声が聞こえたのか、主婦が自転車を止めると、すぐ後ろまで追いついていた米子が彼女に黄色い帽子を差し出した。
「よかった。気付いてもらえて。これ、お子さんの帽子ですよね。落とされたのを見かけたもので・・・。」
そう言って、彼女にそれを手渡すと、軽く頭を下げて、米子は自分が走って来た道を引き返した。
「あ、えっと、ありがとうございました。」
背中越しに、主婦の声を聞くと、米子は彼女の方を振り返り、もう一度、頭を下げた。びっくりさせてしまって、申し訳ないとでも言いたいのだろうかと正義は思った。前日とは違って、米子の思いやりがしっかりと相手に感謝されている光景を目にして、二人は思わず、それを感慨深げに見つめていた。ただ、あまりにも長い間、ボーっと見つめ過ぎていたせいで、米子が自分たちのそばまで歩いてきていることに、二人は全く気が付いていなかった。
「あれっ。齋藤さんに・・・、瀬戸さん。こんなところでお会いするとは、奇遇ですね。」
その言葉で二人は我に帰り、自分たちの存在が米子に気が付かれたことを把握した。
「あ、ああ・・・、本当だ、奇遇ですね・・・。ハハハ。」
と正義が白々しく答えた。
「お二人、仲良いのですね。職場では、お二人が話しているところを、あまり見かけなかったのですが・・・。」
米子が二人の関係について触れようとするのを遮るように、瀬戸が米子に話しかけた。
「あ、そうだ、米子さん。米子さんのお家って、もしかしてこの辺りですか。」
「えっ。ああ、はい。ここからすぐですよ。今ちょうど家に帰るところでしたので。」
「そうですか・・・。ねえ、そうだ。米子さん。もしよかったら、米子さんのお家に連れて行っていただけませんか。」
そう言うと、瀬戸は正義の腕に肘打ちを食らわせた。
「あ、そうそう。俺も行ってみたいです。」
「私たち、少し道に迷ってしまって、のども乾いてるし、帰り方もわからなくなってしまって困っていて・・・。もしよければ、米子さんのお家で、少し休ませていただけたら助かるんですけど・・・。」
うまい。嘘も方便だ。さすが、機転が利く。こういうこともやろうと思えばできるのではないか。と、正義が瀬戸に感心していると、
「う~ん。別に構いませんが・・・。私の家、とても汚いですし、部屋も散らかっているので、あまり居心地は良くないと思いますよ・・・。」
と米子は答えた。そうは言っても、そういう前置きをする人間の家はたいてい、それほどまでに散らかってはいないものだ。本当に家が散らかっていて、かつ、その自覚がある人間は間違っても他人を自分の家に入れてもいいというような発言はしないし、自分の家に他人が来ることを頑なに拒むはずだ。正義はそう考え、あと一押しすれば、米子の家に入れるチャンスだと踏んだ。
「いやいや、そんな。ご謙遜を。それに俺らも、少し休ませてもらって、帰り道がわかり次第、すぐ帰りますから。ねっ。」
「はい。そうですよ。ほんと。すぐ帰ります。」
という二人に対し、米子は、
「わかりました。では、案内しますので、ついてきてください。」
と答え、二人を連れて歩き出した。
 案内されたのは、小さな平屋建ての一軒家であった。ブロック塀と玄関の扉の間には、いくらかスペースがあり、そこにはブルーメタリック色のスクーターが置いてあった。ピンク色のナンバープレートが付いた125ccのバイクである。それを見た正義が、
「米子さん、バイク持ってたんですね。だったら、これに乗って出勤すればいいのに。」
と言うと、米子は、
「いや、私は運転があまり好きではないので。得意ではないと言いましょうか。それに、体を動かすことが好きなので。昨日は、走って通勤したのですよ。今もちょうど、家の周りをランニングしていたところでした。それに・・・。いや、すみません、何でもありません・・・。」
と寂しそうに答えた。米子に続いて正義が進んで行くと、玄関の引き戸の横についている赤いポストに何となく目が行った。ポストの上には鳩の置物が置いてあった。一瞬見過ごしそうになった正義であったが、その置物が何となく目に付いた。正義がポストを眺めたところ、そのポストは構造上、引き戸の横の壁に取り付けられている為、ポストの背面から郵便物を取り出すことは不可能なようであった。それでいて、底面が開く構造にもなっておらず、前面には郵便物を入れる為の投函口しか付いていなかった。ということは、上面が開かない以上、このポストはポストとしてしっかり機能しているとはいいがたくなってくるが、見た感じ、天面に取手が付いていて、開く構造になっているようであった。だとしたら、おかしい。なぜ、そんな場所に鳩の置物があるのだ。これでは、郵便物が取れないではないか。ポストはポストとしての機能を失い、意味をなさなくなる。それに、この鳩の置物はなんか変だ。妙にリアルに作ってある。剥製だろうか。今にも動き出しそうな雰囲気すら感じる。ただ、この鳩の置物のくちばし部分だけは、何だか再現に失敗したようで妙に歪んでいた。それに、よく見ると、顔が全体的に腫れぼったく見え、両の瞼は閉じていた。そんなことを考えながら、正義がポストと鳩の置物をじろじろと見ていると、一瞬、鳩の置物が動いたように見えた。びっくりして二度見をした正義は、ゆっくりと置物に近づくと、まじまじとそれを見つめた。すると、確かに、微かに脚や羽が動いていた。
「げえっ、この鳩、生きてるっ!」
思わず、声をあげた正義に対して、
「あ、もう見つかってしまいましたか。さすが、齋藤さん。よく見ていますね。そうです。その鳩、じっとしていて動かないので剥製みたいに見えますけれど、実は生きています。ほら、ここを見てください。ポストの上でフンをしている。掃除したくても、この子がどいてくれないとふき取ることもできません。」
と、米子は笑いながら言った。
「この鳩、なんで動かないの。それに、いつからこの状態なんですか。」
と、瀬戸が聞くと、
「四、五日前でしたでしょうか。私が仕事から帰ってくると、ここにこの子が留まっていました。それから今日まで、ずっとこの調子です。」
と米子は答えた。そして米子は続けた。
「この子の、顔とくちばしをよく見て下さい。瞼がはれ上がっていて、くちばしには黄色っぽくただれている部分があるのがわかりますか。この子は病気にかかっています。だから、ここから飛び立つ元気もなく、ずっとここに留まり続けているのでしょう。」
「この子、何とか助けてあげることはできないんですか。」
見かねた様子の瀬戸が聞くと、米子はこう答えた。
「『鳥獣保護管理法』というものがありまして・・・。それによると、路上などで傷ついていた野鳥を保護することも禁止されています。野鳥を許可なく捕まえたり、保護したりした場合は、一年以下の懲役または百万円以下の罰金です。なので、例えば動物病院などに連絡しても、診てもらえません。傷ついた野鳥を見かけた場合は、行政に連絡するしか方法はないのですが、東京都の環境局はドバトやカラスの受け入れはしていなくて、環境局を通して動物病院に診てもらうことも不可能です。もし、環境局に連絡をして、この子を助けてあげて欲しいとお願いしても、『そうっとしておいてください』とか『放っておいてください』と言われるのが、関の山です。残念ながら、この子の為にしてあげられることは、何も無い・・・。」
それを聞いて、少し悲しげな表情を浮かべる瀬戸をよそに、正義は思った。きっと、米子は色々調べたのだろう。あるいは、以前にも同じような経験をしているから詳しいのだろうか。そんな正義の思考を遮るように、
「まあ、その子のことは、そうっとしておいてあげましょう。ということで、よかったら、おあがりください。汚いですけれど。」
と言うと、米子は玄関の引き戸を開けて、二人を玄関へと誘導した。そこで二人が見たものは、何とも衝撃的な光景であった。ビニール袋に入った紙ごみの束が、玄関の隅に無数に置かれていて、それに混じってティッシュペーパーなどの生活用品の買い物袋が乱雑に置かれていた。玄関にはいつも仕事に履いてきている靴の他に、明らかにもう数か月以上は履いていないであろうぼろぼろの靴も散乱していて、よく見るとカビが生えていた。下駄箱の上のサイドボードにも、買い物袋がいくらか置いてあって、はがきなどの郵便物が無造作に山積みされていた。玄関の時点で、二人はもう嫌な予感がして、家に入って行くのを躊躇しそうになっていた。とにかく汚い。汚すぎる。と二人は思っていた。正義も他人のことをとやかく言えないような部屋の状況ではあり、それを自分でも自覚していたが、その自分をも優に超える程の部屋の汚らしさではなかろうかと正義は感じていた。現に床は埃まみれで足の踏み場はなかった。二人が米子に案内されて玄関を上がると、床のフローリング部分は、何かでベタベタしていた。二人は困惑しながら辺りを見渡すと、玄関の右側にはおそらくトイレのものと思われるドアがあり、その前には、洗い立てと思われる洗濯物が入った大きな透明のゴミ袋が置いてあった。玄関の左側にはキッチンがあり、ダイニングルームが広がっていた。キッチンのシンクには、予想通りと言わんばかりに、使ったままの食器が山積みにされており、空いた食品の袋や缶でキッチンは散らかっていた。
「あ、今お茶でも・・・。」
と言って、食器の山からコップを取り出し、洗おうとした米子に対して、二人は咄嗟に、
「お構いなく!」
と叫んで、難を逃れた。
「あ、ああ、そうですか。では、そこの、テーブルの、椅子に座ってお待ちください。」
と、米子はテーブルを指さしながら言った。そして、彼はダイニングの奥の引き戸を開けて、奥の部屋に入って行った。正義と瀬戸は米子に言われた通り椅子に座った。一方が引き戸側の壁に面している為、椅子が三つしかないが、そのうちの一つには脱ぎ散らかした服が置かれていて、とても人が座れるようにはなっていなかった。また、テーブルの上には、ペンやハサミなどの文房具やメモ書きのようなものが散らかりごちゃごちゃしていて、何かを置くためのスペースはほとんど余っていなかった。二人は唖然として顔を見合わせながら、苦笑いを浮かべ合った。奥の部屋では、米子が何かを引っ張り出そうとする音がガシャンガシャンと鳴り響いていた。正義は、一体この状況でどうして他人を家に入れようなどという気持ちになったのだろうかと、米子の考えていることが、また少しわからなくなった。
「米子さんの家だと考えると、この状況はちょっと意外でしたね・・・。私はもうちょっときれいなお部屋を想像してました・・・。」
「俺もそう・・・。もっとこう質素というか、ミニマリストみたいな、部屋に何もない感じをイメージしてましたよ・・・。でも、あの色んな物が入っているリュックとかを思い返すと、この状況も確かに納得がいくというか、想像はできたかもしれないなと思いますけど。やっぱり人に無関心な分、人を見る目もまだまだ足りないのかな。色々見逃してる。」
二人が小声でそんなことを話していると、引き戸が開き、米子が出てきて、
「あ、よかったら、奥の部屋も案内しましょうか。」
と言った。それに対し、二人は、
「いえ・・・、結構です。」
「あ、ええ。今日は大丈夫です。」
と、それぞれ答えるしかなかった。米子がテーブルの前に立ち、椅子の上の衣類を床にどさどさと置き始めた時、ついにしびれを切らした瀬戸が米子に対して口を開いた。
「あの・・・、米子さん。ちょっと・・・、お部屋、散らかり過ぎじゃないですか。」
それを聞くと、米子は、
「ああ、それ、よく言われます。いろんな方から。私の中では、どこに何を置くかなど決まっているので、これでも整理しているつもりなのですが・・・。まあ、確かに、自分でもどこに何があるかわからなくなって、探し物を延々とすることはありますね。買い置きしてある日用品を新たに買って来ることも・・・。そういうことは、よくありますね。」
と言って、他人事のように笑っていた。いやいや、この家の状況は、そんな笑って楽観視していられるようなものではないぞと、正義は米子の行く末が少し不安になった。
「あ、そうそう。隣の部屋から地図を持ってきましたから、これで、お二人とも迷わず帰れますよ。」
と、言って、米子は話題を変えると、手に持っていた地図を散らかったテーブルの上に、無理やり置いた。正義は、せっかくの米子の好意に対して、今時地図もないだろうと、少なからず思っていた。また、結局、未だ米子の隠し事の核心に迫るような情報は得られていないが、この散らかり放題の部屋にいつまでも居るのも気が滅入ってしまいそうだと考えていた。米子が地図を出してくれたこのタイミングで帰るのがいいのではないかと思い、瀬戸に向かって合図を送った。瀬戸はまだ、納得できていない、満足していないとでも言いたげな表情を浮かべながら、首を横に振ると、正義の合図をスルーした。米子がテーブルの上で、出してきた地図を広げようとすると、カサッと何かが床に落ちる音がした。正義が、埃だらけのフローリングの床の上を探すと、どうやら、落ちたものは錠剤であったようだ。正義はプラスチック素材でできた銀色の錠剤の包装を拾い上げ、テーブルの上に置いた。それを見て、瀬戸と正義は驚いて、顔を見合わせた。そこには、「メトロニダゾール錠」と書いてあった。それは例の薬であった。米子は思わず、まずいというような顔をした。それを見た正義はチャンスとばかりに瀬戸を見ると、彼女も意を決したような表情をしていた。そして、少しばかり間を置くと、彼女は話を切り出した。
「米子さん。もう大体気が付いてるだろうと思いますが、小島さんたちはこの薬の件を面白がって、あることないことを、みんなに言いふらしてるようで・・・。米子さんは、このままでいいんですか。小島さんたちが言ってることは全部、出鱈目ですよね。違いますか。私はそう思ってますけど、米子さんが何も言わないのは、噂が本当のことだからですか。何か言ってもらえませんか。少なくとも、私たちは米子さんが、あの人たちが言うような、性に対してだらしない人間のようには思えないです・・・。」
瀬戸の話が終わると、沈黙が三人を包んだ。数分間の静寂の後、下を向いて何かを考えていた米子が、二人の方を見て話し始めた。
「・・・仕方のないことですから・・・。別に誰にどう思われてもいいというわけではないですが・・・。それに、私、慣れていますから。こういうこと。だから、今回の噂についても、否定も肯定もするつもりはないです・・・。」
そう話す米子に対し、瀬戸が食い下がった。
「じゃあ、一つ教えてください。米子さん、この薬、何に使うんですか。」
そう言うと、米子は、
「皆さんが言う通り、トリコモナス症の治療の為に使っています。」
その答えに、明らかに残念そうな顔をした瀬戸であったが、まだあきらめなかった。彼女はポケットから取り出したメモを見ながら、話し始めた。
「私、その薬が何に使われてるか、ちょっと調べてみました。トリコモナス症だけじゃなくて、ヘリコバクターピロリ感染症、アメーバ赤痢・・・、他にも色々な細菌などの感染症に使われてる。人間にだけじゃなくて、犬とか猫にも使われてて、もっと色んな動物もトリコモナス症になるって書いてありました。私、動物を飼ったことないから知らなかったけど・・・。米子さん、もしかして、ペット飼ってませんか。もし飼ってるなら見せてくださいよ。どこにいますか。見たいです。」
そう言って身を乗り出す瀬戸に対し、米子は言った。
「申し訳ありません。私は動物など飼えるような身分ではありませんし、命に対する責任も取れませんので、ペットはおりません・・・。ご期待を裏切るようで申し訳ないですが・・・。」
米子がそう言うと、またしばらくの間、重たい沈黙がダイニングを支配した。そんな中で、正義には気になったことが一つあった。それは、動物もトリコモナス症になるという瀬戸の言葉であった。正義は沈黙を破るように、瀬戸に話しかけた。
「あの・・・瀬戸さん。さっき、犬、猫もトリコモナス症になるって言いましたね。それって、どうなるんですか。その・・・症状とか。どんな症状が出るとかわからないの。」
正義の質問に対し、瀬戸は面倒くさそうに答えた。
「えぇ・・・。もう・・・。齋藤さん。今、それを聞いてどうするんですか。それがどうかしましたか。」
中々答えようとしない瀬戸に、早く教えるように正義は念を押した。
「何ですか、もう。わかりましたよ。ええと、腸トリコモナスといって、血の混じった下痢をするようになるとか、ですかね・・・。もういいですか。」
とメモを見ながら答える瀬戸に、何かを掴んだような顔の正義は、続けて質問をした。
「それって、犬や猫だけしか、かからないの。他の動物はどうなの。」
「ええと・・・、哺乳類には感染するみたいですよ。食用として飼育されてる牛とか豚にも。あと、鳥にも感染するって。」
それを聞くと、何か確信を得たような顔で、正義は、瀬戸を見た後、今度はじっと米子の方を見た。米子は下を向いたまま、正義と目を合わせようとはしなかった。次の瞬間、正義は勢いよく、玄関の引き戸を開き、家の外へと飛び出して行った。
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