第3話 名前をつけてやる

文字数 19,873文字

 「面倒くさい」
気が付くといつでもこの言葉が正義の頭の中を渦巻いていて、無意識のうちにこの言葉を呟いていた。無造作に衣服がカゴに入れられ、それがうず高く積み上がっている。その一番上には、ついさっきまで来ていた服が置かれている。窓際のくず入れはゴミで溢れかえり、食べ終えたばかりの弁当の容器が、収まり切れずはみ出している。冷蔵庫の上のカレンダーは、未だに去年の日付を知らせている。どれも、「面倒」という言葉が、正義から行動する気力を奪い取った結果生み出された光景で風景だ。余力を残すことばかりに神経を使って働いているにもかかわらず、正義は毎朝家に帰り着くと疲れ切ってしまう。荷物を床に降ろし、椅子に座り込むと、しばらく立ち上がることができなくなるのだ。正義には、自分の手や足に、鉄の重りでも取り付けているかのような気持ちになるのだ。子どもの頃に好きだった漫画の主人公が、「修行」と称してしていたことのように。ようやく重い腰を上げて、長いこと洗われていない部屋着に袖を通し、だらだらと時間をかけて食事を摂る。そこまでが終わると、毎回電池切れになり、再び何もできずにボーっとするだけの時間が訪れる。そのまま寝てしまえばいいのだが、ベッドに横たわるまでの一連の動作をする気も起きないのだ。また、歯を磨くなど、寝るまでのルーティーンに固執してしまい、それらをすべて終えないと気持ちが悪くて眠れないのだ。そうこうしているうちに、スムーズに眠りに入れるタイミングを逸してしまうため、なかなか眠ることもできなくなる。そうしてやっとの思いで床についても、眠りにはつけない。それでも、横になっていなければ気が済まず、遅刻ギリギリの時間までベッドの中にいることになってしまう。休みの日にもなると、一日中、ずっとベッドの上で横になって過ごし、外出する気など、とても起きないのだ。いわゆる、過眠といわれる症状である。これを抱え続ける限り、正義の時間の浪費とそれに付随する葛藤もまた続いていくことになるが、正義には、もはやこの現状を自らの力で解決することは無理だとあきらめていた。どうせ、病気なのだから仕方ない。医師の力も借りず自分だけで治せるはずがないという思いに至ったのだ。数々の「無駄」のせいで国民健康保険の保険料を払っていない彼は、保険証を持っていなかった。

 正義の体に、大きな体調の異変が起こり始めたのは、彼が高校一年生の時、十六歳の秋頃からであった。それまでも、毎日のように下痢はしていたし、常に微熱もあった。体調がいい日などは、あまり記憶にない程であった正義だが、高校生になって初めての夏休みが明けた辺りから、自分の中で明らかにそれまでとは違う異変が起きていることを感じ始めた。朝、目を覚まし、これから学校へ行く支度をしなければいけないというときに、一向に布団から起き上がることができなくなった。体が重く、まるで、自分のものでなくなったかのように自由が利かなくなった。また、学校へ行こうとする以前に、布団から出ようとか、トイレに行こう、服を着替えよう、歯を磨こう、朝ご飯を食べよう、といった生活における当たり前の行動に対して、一切の意欲が湧かなくなった。そうして、布団の中に留まっていると、いくら寝ていても寝足りないような感覚に陥り、再び眠りにつこうとしてしまうため、布団から離れられなくなってしまったのだ。正義は自分でも訳が分からず、どうすることもできないまま、学校を遅刻、欠席する日が続いた。教師は、正義を怠惰だと責め、学校へ来て真剣に勉学に勤しむ意欲がないのならば退学しろと脅した。家族も、だらだらと寝て過ごし、学校へも行かないのであれば、高校など辞めて、働いて家に金を入れるように、彼に迫った。正義は、自分に起きていることや自分の現状が全く理解できていなかった。何故、自分は学校へ行けなくなってしまったのだろうか。皆が言うように、自分が本当にだらしなく、無気力でダメな人間なのだろうか。自分でもよくわからないので、周囲が言うことが真実であるように思えて、自分を責めた。どうして、今まで当たり前のようにしてきたこと、周囲の人間が当たり前のようにしていることが、できなくなってしまったのだろう。自分が悪いのだ。皆が言うように、自分が全ていけないのだ。だから、ちゃんとしなければ。もっと頑張らなければ。ダメな人間は、他人よりだらけている暇などないのだ。人一倍努力しなければ。彼はそう自分に言い聞かせた。だが、その後も、体の異変は続き、生活は乱れた。正義はますます自分を責めた。周りからの叱責もどんどん大きくなった。学校のみならず、アルバイト先でも、遅刻や欠勤を起こすようになり、ただでさえはじめから強かった周囲の風当たりは、どんどんと強くなっていった。何とかしようと気ばかり焦っても、体はまるで自分の言うことを聞いてくれなかった。
謎の体調不良の原因を突き止めるのは困難を極めたが、自分の体の症状をもとに、正義は図書館でそれらの症状を引き起こす病気をしらみつぶしに探した。来る日も来る日も探した。そして、一つの可能性にたどり着いた。自分は精神病なのではなかろうか。十代後半の少年には、精神病の詳しい知識などあるはずもなく、正義自身、自分とは縁のない病気だと思っていた。正義は、精神病について、まるで、頭がおかしくなることのような、偏った認識を持っていた。自分は、狂ってしまったのかと怖くなった。病院へ行き、その答えを聞くことも怖くなった。そして、もし自分が本当に精神病なのだとしたら、周囲は自分のことをきっと気持ち悪いと思うに違いないと思った。精神を病んでいることが周囲に知れてしまうことが怖くなった。ただでさえ、冷ややかな周囲の目や態度が、より受容しがたいものに変わることは想像に難くなかったし、家族にしてみても、自分が厄介な病気にかかっていることがわかったら、面倒ごとが増えたと今以上に自分をやっかみ、より一層、家庭内で、肩身の狭い思いをすることになるだろうと考えられた。とりあえず、自分が本当に心の病気かどうかはわからないが、周囲にそれを悟られるのは避けなければと思い、彼は病気に関して断固として口を閉ざす決意をした。
自分が精神病かどうか聞くこと。また、もしそうだった場合に、その事実を受け入れることを恐れていた正義だったが、その間にも自分を悩ませる心身の不調に耐え兼ね、ついに病院に行く決心をした。正義にとって、病院に行くことはただでさえ嫌なことであった。母親に保険証を借りる際、毎回必ず、保険料について小言を言われることに辟易としていたのだ。過去には、保険証を借りるのが嫌で、ただの風邪で高額な医療費を請求され、泣く泣く月のバイト代の多くをつぎ込んだこともあった。そんな思いを経て訪れた病院で、医師から告げられたのは、自分は自律神経失調症である可能性が高いということだった。医師によれば、テレビや本で目にしたり、耳にしたりする自律神経失調症という言葉は、あくまで正式な「病名」ではなく、様々な身体症状、心身の異常をきたしている「状態」のことを言うらしい。ただ、そういった医師の説明も、正義の耳にはまるで入らなかった。何かしらの病気であることには変わりなく、それを治していくためには、定期的に通院して、投薬治療を続けていかなければならないと医師は語った。その事実に、正義は愕然としたのだ。一回病院に行くだけでも、大きなストレスが降りかかるのに、それを何回も繰り返さなければならない。かといって、保険証なしで通院を続けるとなると、いったいどれだけの費用がかかるのだろうか。とても、自分には払うことなどできない。つまりは、自分にはもう、この病気を治す術はないのだと悟り、彼は途方に暮れたのだった。ただ、少し時間をおいて、正義は、「セカンドオピニオン」という言葉を思い出した。自律神経失調症という診断も、他の病院の、別の医師の見解では違う診断が出るのではと、彼は考えた。さすがに、一軒目の病院で自律神経失調症と言われた時点で、自分が何らかの病気であることは、彼も覚悟していた。ただ、別の病気であれば、もしかしたら、通院しなくても治すことができるのではと、精神疾患の治療に対する知識が浅かった正義は考えたのだ。そして、彼は、なけなしの金でいくつかの病院を受診した。そうして、二軒目に受診した病院で彼は適応障害と診断された。彼は前回とはまた別の病名が告げられて混乱した。納得できなかった彼は、また別の病院に行くが、今度はパニック障害ではないかと診断された。またしても異なる病名に困惑し、彼は、更に別の病院を訪ねた。その病院の医師は、彼はうつ病ではないかと言った。そこで彼は、何が本当のことで、どれが本当の自分の病気なのか、訳が分からなくなり、途方に暮れた。彼は、結局、自分が何らかの精神疾患かもしれないということはわかったが、自分が何の病気なのかを特定することはできなかった。ここまできたら、もう精神疾患を受け入れる心の準備もある程度できていたが、肝心の病名がわからない状態であった彼は、自分はなんだかわからないが精神がおかしいらしい、という何とも中途半端な状況を、中途半端に受け入れることしかできなかった。また、彼は、行く先々で異なった診断をする医者という存在そのものに対して不信感を抱くようになった。彼の病気に対する知識が乏しかったことや、彼の自分の身に起きていることを的確に伝える能力が未熟だったことなどから、医師に正確な病状がうまく伝わらず、その様なバラバラな診断結果が出されることになったことも考えられるが、当時の彼は、そこまでの考えには到底至らなかった。そして、やはり、金銭的な負担の存在も彼を苦しめていた。その結果、彼はいずれかの病院に通って、そこで診断された名前の病気を治すことを諦めてしまった。彼は、病院で得た自律神経失調症や適応障害、パニック障害、うつ病などの病名を頼りに、再び、図書館の本などから、わずかな望みではあるが、病院に行かずとも症状をよくすることができて、あわよくば治すことができる方法を探すようになった。図書館で借りた本には、自律神経を整える方法などが載っていたが、どれも、生活習慣の改善や、継続を要する方法で、意欲や気力を失った正義が、それらを実行し、持続していくことは難しかった。次第に彼は、病状を良くすることを諦め、病気に身を委ねるようになり、今に至ってしまっている。今であれば、自分の保険証を持つことは可能であるが、毎月ギリギリの生活を送る彼にとっては、決して安くはない保険料を納めることは、死活問題に近いものがあった。病気をどうすることもできないまま、これからも病気がもたらす悪循環になす術なく、それを受け入れ続けていかなければならないのだろうと、正義は自分の現状を嘆き、絶望し、諦めていた。

 ところで、正義は大学生の頃から一人暮らしを始めた。大学に入学し、自分の希望とは違う場所ではあったが、初めのうちは、正義も少なからず、意欲的に生活をしようとは思っていた。まずは体調を在学中に何とか昔のように良くしようと考えた。また、体調が良くなれば、あまり好きではない大学の勉強も、何とか身を入れてできるのではないか、頑張れるのではないかと思っていた。だが、正義が考えていた以上に、大学での生活は忙しく、アルバイトも継続して行っていたため、それまでの生活や体調を改善することはできなかった。そうして、精神力や体力が削がれていくにつれ、正義の大学生活への意欲も、次第に無くなっていった。そんな彼を、周囲の人間、特に家族はまたしても、怠けている、真面目に生活する気がないと非難した。そうした中で、家族と共に生活することに息苦しさを募らせていった正義は、とうとう大学二年生の時に家を飛び出した。はじめのうちはネットカフェをはしごしたり、夜中は二十四時間営業のファストフード店やファミリーレストランで仮眠をとったりしていたが、体を横たえることができない場所も多く、疲労の蓄積から、保証人不要で借りることができ、敷金礼金も不要の安アパートを借りてみたこともあった。世間的には事故物件が予想されるような住居だが、元来霊的なものと縁のない正義には、それはさほど気にはならなかった。だが、月々の家賃や水道代やガス代、光熱費の積み重ねは、正義が思っていた以上に負担となり、じわじわとボディーブローのように正義の懐を圧迫していった結果、生計が立ち行かなくなりアパートも引き払うこととなった。そうして、より生活費を抑えて暮らせる場所を求めてたどり着いたのが今住んでいる宿だった。それが数か月前のことだった。
家族から離れられたことで、正義が受けていた精神的な苦痛は多少和らいだ。金銭的な面に関しても、それまで、家族に渡していたお金、正義曰く搾取されていたお金をそのまま家賃や宿代として支払うことになったため、負担が増えることはなかった。正義にとって、実家を出たことはいい判断であったとも思われたが、他人の監視の目がなくなり、生活の自由度が増したことで、正義の生活は、荒んでいった。それまでは、家族の監視があるため、いかに、布団からなかなか出ることができないとはいえ、ある程度の時間になれば起き上がらざるを得なかったし、どんなにやる気が出なくても、とりあえず、家にいる限りは自由に過ごすことはできないため、仕方なく外出していた。そして、特にやること、やりたいこともないので、仕方なく学校やアルバイトに行っていたという状態であった。逆に言えば、精神的苦痛を被っていたにしても、家族や他者からの監視があったからこそ、気の弱い正義は、何とかそれまでの生活を続けることができていたのだった。その監視がなくなり、彼は、病気に身を任せ、体調に流されるままの生活をするようになり、大学やアルバイトは、欠席や欠勤、遅刻がどんどん増えていった。正義は大学の単位を次々と落とし、卒業は危ぶまれ、留年の可能性もありうるという状況に陥った。そこでようやく、空っぽの心を奮い立たせ、何とかやる気を絞り出し、どうにか大学は四年間で卒業することができた。だが、特にやりたい仕事もなく、当然在学中に熱心に就職活動をすることもなかった正義は、卒業後になって、ようやく、アルバイトをしながら就職活動を始めた。とはいえ、リーマンショック直後の不景気な世の中にあって、何のとりえも資格もなく、おまけに、他の同期生が新社会人としての生活を始めている中で、未だに何処へも就職できていない、いわば、売れ残りのような人間に、興味を示す会社などどこにもなく、正義の就活は、当然のことながら難航した。好きなこと、やりたいこともないため、とりあえず何の仕事でもいいから就職しようと次から次へと面接を受けた。それでも、正義の手元に届くのは、不採用の通知書だけであった。正義は面接に落ちて、また新たな自己PRカードを書くたびに思った。そもそも、自分には長所やアピールポイントなんてものはなく、むしろ自分が教えてもらいたいくらいであると。正義は自己PRカードを書くのが苦手であった。自分を良く表現する言葉を探すために、毎回何時間も費やすことになった。時間をかければかけるほどに、自分には何もないという事実を、まざまざと見せつけられているような気分になった。そんな彼の苦悩も空しく、その後も正義に吉報は届かなかった。そうして面接の不合格が続くうちに、もはや、当面はお金さえ手に入ればいいやという気持ちに変わり、割のいいアルバイトを探す方に行動をシフトしていった。それにしても、さすがに不景気のご時世、割のいいバイトなどそうそうなく、時給の高い仕事は、当然仕事内容もハードなものが多く、正義はすぐにクビになり、アルバイトを転々とする時期が続いた。
 あまり良い印象のない、中学・高校の同級生たちや、アルバイト先の同僚、全く関わりのなかった大学の同期生たち。彼らに対し遅れをとることに少なからず、正義は焦りを感じていたが、うまくいかないことが続くにつれて、正義にはそれもどうでもよくなっていった。彼らが思い思いに、それぞれ自分の山を積み上げていく中、正義は自分がしてきたことは、砂の城を積み上げることのように思えてならなかった。どんなに高く砂を積み上げても、波が押し寄せれば一瞬で崩れ去り、あとには何も残らなかった。また初めからやり直さなければならないのだ。人生はきっと、その繰り返しなのだろうと正義は思った。積み上げたところで、跡形もなく消え去るもののために、もう一度頑張るなど、正義には考えられないことであった。無駄な努力などもう絶対にしたくはなかったのだ。正義はある時期から、決して逃れられない宿命のようなものを感じていた。たとえ、何か思い通りにいかないことがあって、また頑張ればいいと再び新たな道へ走り出しても、またその道でも、思うようにいかないことがあるということが何度も繰り返された。正義にはまるで、自分の未来は既に決まっていて、それ以外の道を進むことは許されていないかのように思えた。その、負の宿命に引き寄せられていると思えば、何をやってもうまくいかず、何事も自分がイメージしたようには決して進まない現状も、説明がつくのではないかと、正義は考えていた。自分には、もう何も残っていない。それどころか、病気という爆弾がずっと残ってしまっている。もし、今後も悪くなる一方の人生を変えることができないのならば、これ以上、余計なものは何も残したくないと、正義は思っていた。
 正義はしっかりと眠ることができない日が続いていた。この日も結局、目を閉じたまま、いろいろなことを考えてしまい、後悔や焦り、怒り、憎しみを思い出してしまい、彼は寝ることができなくなるのだった。何時間もの間、ただ、ベッドに横になっていただろうか。そうしてまた、正義は一睡もできないまま、一日の幕を開けるために、瞼を開くのだった。
「面倒くせえ・・・。」
睡眠が足りず、疲れの取り切れない足腰が、開口一番、正義にお決まりのセリフを吐かせた。近頃では、毎日ベッドを出て初めに口にする言葉は、大体これであった。実際、正義にとしては、職場に行くのが嫌で仕方がなかった。この、毎日の「面倒くさい」の繰り返しに辟易としているにもかかわらず、正義の足は、再び、同じような時刻に、同じ場所へと向かってしまうのだった。正義は、それはきっと、この繰り返しを止めたところで、それ以外にやるべきことや、する価値のあることがないからだろうと、自分の行動を分析していた。彼にとっては今の職場へ行くことはただの妥協であった。他の職場を探したり、新たに行動を起こしたりする気力がないので、現状維持で済ませているのだった。彼には職場を変えてまた新たに一からやり直すことの方が、理不尽で劣悪な職場環境で、それ以上を望まず、ひたすら我慢していることよりも、よっぽど精神的に苦痛を感じることであった。体を襲う倦怠感と職場への嫌悪感を何とか乗り越えて、正義は自転車にまたがった。そして、春の兆しがまだまだ見えない寒空の下、冷たい夜風を満遍なく体に受けて、がちがちと歯を鳴らしながら、職場へと急いだ。
 職場へ着いた正義だったが、既に始業五分前を過ぎていた。相変わらず、遅刻ギリギリの出勤であった。とはいえ、他のナイトメンバーの姿はどこにも見られなかった。そんな自分がこの日は出勤一番乗りで、日によっては、始業時間に誰もナイトの人間が来ていないこともあるというから、改めて酷い勤務態度だなと、正義は半ば自分のことを棚に上げて思った。この点だけをとっても、他の部門や時間帯の従業員からの評判が悪いのも仕方がないことだなと、正義は静かに納得した。そこでふと、あの米子のことを思い出した。
 彼がナイト部に加わってから、早いものでもう二週間ほどが経過していた。出勤日が正義と被ることがないので、彼はすっかり米子のことを忘れていたのだった。余談ではあるが、正義と米子の出勤が被らないのは、バイトリーダー小島の策略であった。一週間のうち、正義が出勤する日を四日、米子の出勤日を三日と割り振り、一日のうちの面倒な仕事、作業をすべて、二人にあてがうように考えられたシフトであった。それにより、週五日勤務を希望して入ってきた米子は、強制的に週三日の出勤になり、元々、週に五日勤務していた正義も出勤日を一日減らされることとなった。小島が気に入らない人間の出勤日を、自分の都合で勝手に減らすことは、よくあることらしく、正義は生活費が減ることに危機感を覚えたが、それでも、小島に抗議をすることや、新たな仕事を探すこともしくはもう一つ仕事を増やすことが、無駄な努力に思えて、億劫に感じられたため、特に何もせず、ただ言われるがままであった。
 そういうわけで、出勤日が重なることなく、あまり米子のことを考える機会もなかった正義であったが、新川が米子について語ったことを思い出していたのだった。新川が言うには、米子は毎日始業の十五分前程度には出勤してきて、その場にいる従業員たちに対して、何か連絡事項はないか聞いて回っているとのことだった。新川は米子のことを、仕事ぶりは一生懸命で、仕事に対する姿勢も良いと評価していたが、周囲の評価はいまひとつのようだ。見た目の印象から抱いていた彼の印象とは異なり、真面目で礼儀正しい部分には、期待を裏切られた様子だったようだが、それが彼の容姿や風貌などの、否定的な要素を払拭するまでには至らず、従業員の間では専ら気味悪がられ、冷たい視線を送られていると、新川は周囲の米子への反応に対する印象を話した。また、新川は、結局ナイト部自体が嫌われているので、どんな人が入ろうと、冷たい目で見られるのかもしれないとも語った。正義は、仮にもそのナイト部所属の自分に対して、よくそのようなことが言えるなと、新川の馬鹿正直さに驚いたが、彼の言うことが最も過ぎて、何も言うことができなかった。
 正義が米子のことを思い出しながら、ナイト部従業員が嫌がる、重いペットボトル飲料の陳列をしていると、何ら悪びれるそぶりもなく、へらへらとした態度で、次々とナイト部の面々が売場に顔を出し始めた。そして、遅れてきたにもかかわらず、とくに遅れを取り戻そうという様子もなく、いつも通りだらだらと仕事を始めた。さて、そんな彼らの最近の話題は、専ら米子の話であった。仕事中であってもお構いなしで、店内で彼の話をしていた。そして、それらの話の内容は、ほとんどが悪口であった。正義は、自分も含め、余計な労力を極力使わずに働きたいと考えているナイト部にあって、新川の言うように一生懸命頑張る米子は、鬱陶しく、迷惑だと思われているのだろうと推測した。また、米子は物忘れや無駄な動きが多いらしく、売場をウロチョロとする彼の姿を真似て、嘲笑っているのだった。いい大人が、子どもでもしないようなことをするものだと、正義は思った。正義は、確かに自分がろくな人間でないことは自分でも認めていたが、それでも、その場にいない人間のことを悪く言ったり、人の懸命な姿を笑ったりする人間の心理は理解できないと思った。かつて、理解することができなかった者たちを彷彿とさせるナイト部の面々とは、この先も根本的に分かり合えないだろうと、正義は直感した。その後も、彼らの聞きたくもない悪口を通して米子の情報が入ってくる状態が続いた。青山の毎度おなじみの学歴・職歴批判により、米子が大卒で、会社勤めをしていたこともあるというのがわかった。それならば、なおのこと、このような場所で働く必要などないのにと、正義は感じた。他のメンバーも、他人の悪口を言っているときは決まって生き生きとしていた。小島の日本語も、悪口を言っているときに限っては、毎回流暢に聞こえた。陰気で何をしでかすかわからない風貌で、能面のように表情がなく、目の奥が凍っているなど、その後も彼らは米子の悪口を喜々として語った。正義は、彼らの発言を不快に思うのと同時に、米子はなぜ、この仕事を続けようとしているのか、未だに続けているのか、不思議に感じた。本来であれば、あのひどい仕打ちを受けた初日で、きっぱり見切りをつけて辞めるのが普通ではないか。わざわざこんな場所で意地を見せたところで馬鹿馬鹿しいではないか。一生懸命仕事をしていても、同じナイト部の連中からは、陰で散々悪口を言われ、煙たがられているし、他の従業員からも冷ややかな態度をとられているようではないか。一体この職場のどこに彼がこの場所に留まる理由があるというのだろうか。正義には全く理解ができなかったし、納得もできなかった。
 時刻が午前六時を回り、遅番のレジ打ち役以外の面々の勤務が終了した。一日中続いた米子の悪口大会からようやく解放されることに、正義は安堵した。それにしても、よくもまあ飽きないものだと正義は思った。仕事を終えてもまだなお、何人かの者は米子の悪口を続けていた。仕事が一段落した午前5時前からの時間帯には、全員が売場の一か所に集まり、一時間以上の時間を使って、米子本人に気が付かれずに彼の悪口が言えるように、彼のあだ名を考案していた。その間、レジ打ちとパンの検品を一人でやることになった正義は、余計に腹が立ったものだった。「キモロン毛」、「犯罪者」といったような、見た目の特徴をからかうあだ名や、「よく見ると老け顔」、「ロンリネス」というようなあだ名ともいえないようなもの、抽象的なもの、さらには、彼の仕事ぶりを皮肉った「ロボット」、「忠犬 米公」などのものが提案され、その度に、ガラガラの売場に馬鹿笑いが響き渡った。
 ところで、正義は自分にも陰で妙なあだ名がつけられていることに気が付いていた。彼はナイト従業員の間では、「司令塔」や「控え投手」の名で呼ばれていた。直接聞いたわけではないが、正義には何となくその呼び名で呼ばれる理由が想像できたし、心当たりがあったので、その言葉を聞いたとき、すぐに自分のことではないかと思い当たった。
 接客業全般に良く見られるものだが、従業員同士で意思の疎通を図る際、とくにお客さんに聞かれるとあまりよくない事柄や、都合が悪い事柄に関して言及するときは、隠語というのを使う場合がある。この職場にもそれは存在していて、例えば、万引きを発見した際には、「七番、お願いします」というように従業員同士で連絡を取り合うという具合に使われる。この職場では、主に、番号によって、それぞれの事柄を割り振っている。他にも、防犯上、レジ内の一万円札を一日に数回回収しているのだが、その際には八番の番号を使い、休憩に入る際には九番を使う、というように一から十までの番号に、それに対応する事柄、意味をもたせているわけだ。そして、十番を使うときは、トイレに行くためにその場を離れることを、他のメンバーに知らせるときである。正義のあだ名は、この十番に由来している。だが、ただ単に、あだ名を「十番」としたところで、何も面白くはない。そこで、サッカーにおいてはチームの中心選手が背負うことの多い背番号であることから「司令塔」というあだ名がつけられたと推測される。また、野球、とりわけ、アマチュアの高校野球などにおいては、十番という背番号は控えの選手がつけることが多く、その中でも、十番は控えのピッチャーがつけている番号であることが多い。それが、「控え投手」というあだ名の由来だろう。正義は、以前からおなかを下すことが多く、一日に何回もトイレに駆け込むということも少なくない。一日のうちに必ず複数回、大便をするためにトイレに行くのだ。ナイト部の面々が、正義がトイレに行く回数が多いことを良く思っていないのか、はたまた、単純に面白がって馬鹿にしているだけなのかは定かではないが、十番というあだ名は、正義のそうした習性への皮肉の意味が込められたものである。正義は、学生時代からトイレに行く回数が多いことをからかわれていたため、その事実に気づいても、さほど驚きはしなかったし、それによって傷つくこともなかった。正義は、慣れていたのだ。正義は人にどう見られているかを気にし、悪口などには敏感に反応するところがあるが、反面、一度悪口を言われ始めると、それを気に病んで傷つくようなことはなかった。なぜなら、悪口に対し反論することや、撤回させようとすることが何より面倒だったからであった。自分が耐え忍びさえすれば、とくに面倒なことが起きないのであれば、正義は我慢することを優先的に選択するのだった。だが、やはり、馬鹿にされることは気持ちのいいことではないし、また、正義自身は、馬鹿にされることへの耐性があまりないことを自覚していた。その呼び名を耳にする度、内心は腸が煮えくり返りそうになっていた。だからこそ、正義は思った。そのような屈辱を受けてまで頑張ることに、一体何の意味があるのだろうかと。米子は一体何を考えているのかと。そして、俺のこの、もやもやとした胸糞悪い気持ちにも、どうか名前をつけてくれと。
それからまた数日が経ったある日、相変わらず始業時刻ギリギリで、売場に顔を出した正義は、休みのはずの米子がレジに立っているのを見つけた。米子は正義に気が付くやいなや、「おはようございます」と大きな声であいさつをした。正義がその声量に驚き、何も言えないでいると、続けて、米子が話し始めた。
「他の方はまだ来ていらっしゃらないようですね。齋藤さんは、飲料の補充があると思いますので、よかったら他の方がいらっしゃるまで、私がレジをやりましょうか。」
正義は、米子の思いがけない提案にも驚いたが、何よりも、米子が入店してきた日以来、全く接点のなかった自分の名前を覚えていたことに驚いた。正義は、短時間の間に、米子に驚かされっぱなしであった。ナイト部の連中が遅刻して、レジに入る人間がいないときは、大抵、残業しているレジの女性社員が代わりに入ってくれていることが多いが、この日は、彼女もいないらしく、正義は、米子の好意に甘えることにした。そして正義は二階に上がり、倉庫で補充用のペットボトル飲料を台車に積んでいると、誰かに後ろから肩を叩かれた。正義が振り返ると、そこに立っていたのは、新川だった。いつものように人のよさそうな笑顔を湛えて話しかけてきた男に、正義は、何故、休みのはずの米子がいて、レジを打っているのか聞いてみることにしたのだった。
 新川の話は以下のようなものであった。最近、夕方勤務でレジを担当していた女子高生二人が、示し合わせたかのように無断欠勤をして、そのまま連絡がつかなくなっていた。そこで、レジの女性社員、通称レジチーフが、他の時間帯に勤務している従業員や、休みの従業員などに、手当たり次第に連絡し、その都度、何とかシフトの穴を埋めていたようだ。だが、この日は、どうしてもその穴が埋まらなかったのだ。基本的に、こういった緊急事態において、普段から勤務態度がいい加減でだらしのないナイトの面々は、選択肢に入らないため、穴埋めの当てがなくなり、レジチーフが途方に暮れていたところに、店長が米子ならあてになるのではないかと彼に思い当たったのだった。それを受けて、レジチーフが米子に電話をしてみたところ、当日での連絡にもかかわらず、二つ返事で快諾し、今に至っているとのことであった。ただ、新川が言うには、レジチーフの大杉は、米子に感謝するというよりは、彼のことを「便利屋」や「鴨」と呼んで目を付けたらしく、今後も新たな夕方勤務のスタッフが補充されるまでは、米子が酷使されそうな気がして心配であるとのことだった。米子は米子で、大杉に対し、シフトの埋まらないところがあったら協力するので、遠慮しないでどんどん連絡してくれといったというのだから、それに付け込まれることは必至だろうと、新川は思ったのであった。それを聞いて、またあだ名が増えているなと正義は思ったが、そんなことよりも、何故米子がわざわざ貧乏くじを引く必要があるのか理解ができず、正義はますます米子のことがわからなくなった。大杉に利用されているにもかかわらず、それでも、夕方も働きたいというのは、もしや、米子は金にでも困っているのではないかと、正義は考えた。おそらく、多額の借金でもあるから、急に仕事が増えても問題がないのだろう。いや、むしろ、働きたくて仕方がないのではなかろうかと、正義は思い至った。となると、金の無心などをされると、とても面倒だし、米子とは少し距離を置いて接した方がよさそうだなと、正義は思った。
 そんなことを考えながら、正義が倉庫で作業を続けていると、休憩室から誰かの話し声が聞こえてきた。彼が休憩室を覗くと、目に入ってきたのは米子と新川だった。新川の心配そうな表情から察するに、おそらく、先程の件を話しているのだろうと、正義は感じた。
米子の長い前髪から辛うじて見える、眼鏡の奥の目は笑っていた。だが、正義は、彼が着ている、人が殴られている姿がプリントされたTシャツが、なんだか彼の本心のように思えて、彼の薄気味悪い笑顔も合わさって、米子のことがとても怪しい人間のように思えた。後々になって、米子の怒りが爆発して、何らかの事件にでも発展するのではないかと心配でさえあった。ただでさえ不気味な米子の笑顔であるが、その気味の悪さをTシャツがより際立たせているように、正義には思えてならなかった。後でよくよく考えてみると、正義は例のTシャツの柄を見たことがあることに気が付いた。今でこそ、音楽を聴く気にはならないが、かつては、いろいろなジャンルの音楽を聴き漁った正義であったため、すぐに思い出すことができた。あれは、アメリカのメタルバンド、パンテラのジャケット写真ではなかったか。よく思い出してみれば、しっかり、Tシャツの上の方に、アルファベットでパンテラと書いてあったような気もする。そして、さらに、米子は、その時もそうだが、初めて会った日も、くそ寒い中、半袖Tシャツ一枚で仕事をしていなかったか。正義は、同時にいくつかのことを思い出していた。そして、米子について考えた。彼が新川と仲良くなったのは、彼も音楽が好きだからなのではないか。いかに、新川が誰にでも分け隔てなく接するといっても、あんな容貌の人間とは、あまり積極的に話したりしたくはないだろうと、正義は分析した。それにしても、あんな陰気な奴がメタルを聴いているのが怖い。やはり、衝動的に何か事件でも起こすのではないかと、正義は思った。また、奴は何故、半袖一枚で仕事をしているのだろうか。寒くないのだろうか。太っているため暑いのか。正義は米子に関する思索にふけった。この頃、正義は無意識のうちに米子のことを考えることが多くなっていた。よくも悪くも、謎の多いあの男が、正義は気になって仕方がなかったのかもしれない。

米子のことばかりを考えていたわけではないが、それからまた数日が経ち、三月を迎えていた。節分が過ぎ、暦の上ではもう春だというのに、夜風はまだまだ冷たかった。夜風どころか、世間はもっと冷たく、それは、春だろうと夏だろうと変わらない。ましてや、自分の心の雪解けなど、未来永劫訪れないことだろうと、正義は、とめどなく流れ出てくる鼻水をすすりながら考えていた。未だ春の訪れを実感できないこの時期ではあるが、正義とスギ花粉との闘いは、本格化していた。正義にとってそれは、くしゃみや鼻水、目のかゆみといったスギ花粉による直接の症状との攻防の他に、それらの症状によりさらさず得ない醜態に向けられる、周囲の侮蔑の目との闘いをも意味していた。それにしても、今年は一段と花粉が舞っている。去年の夏が暑かったからであろうか。例年よりも三割増しで垂れてくる鼻水の対処に困りながら、正義は感じていた。忘れられない春になりそうだと、彼は何となく思った。
毎晩のように自転車を走らせる、この川沿いの一本道はアレルギーなど全く関係のない人間が通れば、さぞかしさわやかで気持ちがいいものだろうと、正義は常々感じていた。だが、近頃では、正義にしてみれば、この道はもはや恨めしくてたまらない道になっていた。道の左右には、土手沿いの植え込みやマンション群を覆う植え込みから、たくさんの木々が立ち並んでいた。これも、健康な人間には美しい景色に該当するのだろうが、正義にはそうはいかなかった。この頃の正義は、もう立ち並ぶ木を見るだけで、嫌な気分になり、それらが仮にスギやヒノキのような花粉を飛散させる木ではなくても、それが木であるだけで、無意識的に怒りや憎悪、嫌悪感を抱くようになってしまっていた。そして、さらに正義は、足元に広がるアスファルトさえも憎らしくてたまらなかった。アスファルトは、土の地面とは違い、花粉を吸収しない。それ故に、木々が花粉を飛散させることのない夜にも、昼間の花粉がそのまま残っていて、人通りや車、風邪などの影響でそれらが舞い上がり、一日中常に花粉が飛んでいる状態になっているのだ。本来、舗装された道路が、どれだけ我々の暮らしに快適さを与えているかは言うまでもないが、こと、正義にとってアスファルトは、感謝というよりは、専ら怒りの対象であることの方が多かった。「アスファルト タイヤを切りつけながら 暗闇走り抜ける」という印象的な歌詞も、タイヤを切りつけられるだけならまだしも、アスファルトのせいで舞い上がる花粉を気に病み走り抜けなくてはならないではないかと、正義の中では、怒りの対象になっていた。
それならば、この道を通ることを止め、他の道を選んで出勤すればいいのだが、お分かりの通り、新たな道を探すことは正義には面倒でしかなく、また、一度決めた道順以外の道を通ろうとすると、十中八九迷うほど、正義は方向音痴であった。それはすなわち、しばらくこの闘いは続いていくということを意味していた。
ところで、正義はアレルギー界のユーティリティプレイヤーといっても過言では無いほど、満遍なくいろんなアレルゲンに対し反応していた。季節の移り変わりを、四季折々の風物詩でなく、ゆくゆくはアレルゲンで感じ取るようになるのではないかと思えるほどであった。一年を通して解説すると、一月、ハンノキの花粉から始まり、二月にはスギ花粉が飛び始める。スギ花粉の飛散が最盛期を過ぎると、入れ替わりで今度は、ヒノキ花粉が飛び始める。これが三月の終わりから四月頃。そして、ヒノキの時期が終わろうかという頃、五月辺りには、シラカンバの花粉が飛散する。上記は樹木の花粉であるが、これと並行して、四月から十月辺りにかけては、イネ科のカモガヤなどの花粉が舞い、秋頃には、ブタクサやヨモギなどのキク科の植物も花粉をまき散らしている。正義は、いったい自分がどの花粉に反応しているのかという自覚は全くないが、基本的に、新年早々から、その年の冬場に至るまで、常にアレルギー性のものと思われる鼻炎を発症している。彼自身、それがアレルギー症状であろうということくらいは把握しているようで、年中、市販薬を携帯している。また、ハウスダストやカビなどにも反応することを本人は自覚しているが、部屋や身の回りの掃除を面倒くさがり、後回しにする傾向があるため、家でもアレルギー症状は止まらず、植物由来のアレルゲンが一時的に勢力を弱める冬場でも、結局、彼のくしゃみや鼻詰まりは止むことはないのだ。部屋の汚さは自業自得でしかないのだが。
これから激化していく花粉との闘いを思い、嫌気がさしていると、正義はいつもよりも早く職場へと着いていた。今度は、職場に起因するストレスとの闘いが始まるのかと、正義が憂鬱な気持ちに浸っていると、憂鬱を振り払うかのような大きな声のあいさつが聞こえてきた。声の主は米子であった。近頃では、正義は出勤の度に米子と顔を合わせるようになっていた。深夜の出勤の無い日はもちろん、深夜の出勤がある日にも夕方からきて、そのまま勤務を続けていることもあるとの噂であった。大杉は米子の申し出を良いことに、ほぼ毎日のように米子を夕方のシフトに入れ込んでいるようであった。自分より年上のおばさまたちや、わがままな若い従業員たちよりも、見た目はアレだが、素直に言うことを聞いて扱いやすい米子の方が、大杉にしてみても勝手がいいのだろうと、正義は考察した。それにしても、米子の体は大丈夫なのだろうか。このところ、休みもないようだ。というより、そもそも、勤務時間に関しては、労働基準法に照らして合法だといえるのか、怪しいところではないだろうか。小島の策略により、米子の深夜出勤は週に二日ないし三日程度であったが、こうも毎日のように夕方に勤務していると、使用者は週四十時間を超えて労働させてはならないという労基法の原則に反するのではないか。大杉や店長は、そのあたりのことは、とくに何も考えていないのではなかろうか。だとすれば、相変わらずいい加減な職場だと言わざるを得ないな。正義は、会計待ちのお客さんの列を相手に、がむしゃらにレジを打つ米子をよそに、そんなことを考えていた。
正義は、出勤の打刻をする前に、レジを打つ気にはならなかったため、他の従業員を探すため、とりあえず事務所へと向かった。事務所の扉を開けると、大杉と店長、そして青果の社員が談笑していた。近くにいるならばさっさとレジに入ればいいのにと思った正義は、レジが混んでいることを彼らに伝えたが、「大丈夫」「彼、レジ速いから平気」と、誰一人その場を動こうとはしなかった。彼らの態度を見て、レジのことなどどうでもよくなった正義がレジに目を向けると、七、八人は並んでいたお客さんの姿はもうそこにはなかった。確かに速い。だが、並んで待つことにイライラするタイプの客からクレームが来るのではないか、と正義は懸念した。始業時刻までまだ時間があったため、正義は休憩室で時間を潰すことにした。休憩室に来てみると、先程まで事務所にいた面々が、少し遅れて休憩室に入って来た。もはや、フロアーのことは、米子一人に丸投げの状態であった。今日に限らず、いつもこのような状態なのであろうということは、正義でなくとも容易に推察できる状況であった。そして彼らは再び雑談を始めた。
「いやあ、それにしても彼は良く働くし、便利だねえ。レジ見ながら青果の仕事も手伝うし。良く動くしね。」
青果の志茂が話した内容は、どうやら米子のことであろうと、自販機で買ったジュースを飲みながら正義は思った。
「そうでしょう。良いでしょう、彼。だからこそ、我々がこうしてのんびりできるわけだし。面接のときから、うまく使えるような気がしたのよ。どうよ、この先見の明は。
あの見た目だから不採用にしてもおかしくないところを、彼の適性を見抜いて、採用したってわけよ。」
店長は、そう言って、米子を採用した自分の功績をアピールした。
「多少無理なお願いをしても、二つ返事でOKしてくれるし、ほんと使えるよ。」
正義は無意識の内に、米子を褒めているようで実はそうではない彼らの発言を聞いていた。彼らが言う、「便利」や「使える」という言葉からして、結局は、自分たちに都合のいいように動く駒のような存在としてしか、米子のことを見ていないということではなかろうか。彼は「従業員」として評価されているわけではないのではないか。正義のジュースは、全く減っていなかった。
「今日も夕方の忙しい時間でも、レジを見ながら青果の仕事とか、グロッサリーの品出しとか手伝ってたからね。さすがガットゥーゾだよ。」
青果担当社員の志茂と店長はサッカーが好きなようで、純粋に米子のハードワークぶりを讃えているのか、半ば馬鹿にしているのかは定かではないが、イタリア・セリエAのACミランなどで活躍した元イタリア代表のミッドフィールダーの名が、米子にあだ名としてつけられていた。
「休まず動き続けるからね。休まず。全く、ナイト部の皆さんにも見習ってほしいよ。ねえ。齋藤君。」
急に話を振られ、驚きと共に吸い込んだジュースが変なところに入り、正義はむせ返った。咳を抑えながら正義は思った。店長も他の社員も、ナイトに対して何かあるならば、小島に直接言えばいいのだ。いや、言うべきなのだ。それを、小島に言うと後が怖いからと、小島との関係性が希薄な自分に対してばかり注意をしてくるではないか。俺に対してナイト部への苦言を呈して、それで問題が解決されるのであれば、甘んじて受け入れるが、そんなことを俺に言われたところで、今のナイト部の現状を作ったのは俺ではないではないか。俺が何をしたというのか。俺がそんなこと知るものか。考えてみると腹が立った正義は、文句があるならババアに言えよと言わんばかりに、わざとらしく大きな咳をした。
「でも・・・、あの人、何であんなに頑張るのかな・・・。」
ふと、大杉が口を開いた。
「うちの会社、アルバイトからの社員登用制度もないし、社員が言うのもなんだけど、アルバイトがそんなに頑張ったって、あんまり意味ないじゃないですか。なのに、あたしたち社員の命令とか、頼み事とか、絶対に断らないし・・・。」
やはり、そう思うよなと、正義は納得した。この職場の人間と同じ考えというのが、少々気になるところではあるが、米子の様子を見ていれば誰しもがそう思って当然であろうと正義は思った。大杉が言う通り、正義にも、米子には何のメリットもなく、米子の働き方は不可解に思えた。
「何かありそうで怖いですよね・・・。あの人、なんか目が怖いし。何ていうか、ガラス玉みたいな目をしているというか・・・。目の奥が凍っているような感じがするし・・・。」
デジャヴだろうか。どこかで聞いたことのあるセリフだと、正義は感じた。
「まあ、確かに愛想はないし、見た目は暗いけど、文句言わずに働いてくれるし、今のところ害もないし、いいじゃないの。うまく使えばいいの。うまく使えば。」
「でも、店長。あの人の仕事のやり方、結構気になりますよ。」
「そうかな・・・。例えば、どんな風に。」
「あの人、夕方来てもらうときは、基本的にレジ中心でお願いしているのに、ちょっと時間があると、すぐに他の作業をし始めて・・・。そこまではまだいいとしても、別のことに夢中になりすぎて、いざレジが混み始めても、なかなか戻ってこないことがあって。何ていうか優先順位がわかってないというか。あくまでレジを優先してほしいのに。」
「そう言われてみれば、確かに見かけるね、そういうシーン。で、そうやってレジに急いで戻ってくと、大体、頼んでおいた青果の作業がやりっぱなしになってるのね。それで、そのままレジから出られない状況が続くと、青果の作業忘れちゃって、使ったものも売場に置きっぱなしになってたりとかね。まあ、帰るまでには終わらせてくれるからいいんだけど、売場や作業場を散らかすのはどうかと思うわ。」
大杉の指摘に便乗するように、青果の志茂も続いた。
「そういえばさ、この間、お客さんからクレームがあって・・・。」
今度は店長が話し始めた。
「ガットゥーゾ、花粉症みたいで最近、マスク着けてたのよ。そうしたら、お客さんからあの店員怖い、気持ち悪いって、何件かクレームが来てさ。まあ、クレーム入れられたら仕方ないから、本人に直接、マスク着けないように注意して。まあ正直、花粉症なのにマスクもしちゃいけないっていうのが、気の毒でさ。」
気の毒という割には、店長は明らかに笑いを堪えていた。
「マスクをしただけで怪しまれる容姿っていうのも、どうかと思いますよね。」
「本当、あれでちゃんと働きもしなかったら、即解雇ですよね。」
結局、ナイト部の面々と同様、最終的には悪口大会になっていた。正義は、別に、米子に対して尊敬の念もないし、米子のことが好きなわけでもなかったが、さすがに気の毒で居た堪れなくなり、飲みかけのジュースの蓋を慌てて閉めると、それを机の上に残したまま、そそくさと休憩室を出た。彼は今、どんな気持ちで働いているのだろう。どんなに一生懸命仕事をしたところで、周囲の人間は陰で自分の悪口ばかり言っている。彼はそれを知っているのだろうか。やっぱり、思っていた通りではないか。努力したところで何の意味もないのだと。心の中で忠告したではないか。正義の頭の中では、様々な思いが巡っていたが、正義は、何となく彼の気持ちがわかるような気がしていた。正義はこのような状況を過去に体験していたのだ。だからこそ、こんな状況に置かれた人間の心情を知っていた。正義は、かつて人間の冷たさを実感したときのことを、思い出しながらタイムカードに手をかけていた。
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