第6話 嘲笑

文字数 49,382文字

 三月も終わりを迎え、巷には春の訪れを告げる草花の芽吹きが見られるようになり、情緒あふれる光景が広がる今日この頃であったが、正義にとっては生い茂る草花は憎しみの対象でしかなかった。正義にしてみれば春の到来はハンノキ、スギ、ヒノキ、シラカンバと次々と襲い来るアレルゲンとの闘いの日々の幕開けと同義であった。暖かすぎず過ごしやすい気候を心地よく思うような情緒は彼にはなく、唯一、春が来てうれしいことと言えば、プロ野球のペナントレースの開幕くらいであった。運動はあまり得意ではない正義だったが、スポーツに興味がないわけではなく、むしろ、野球やサッカー、相撲など、観るのが好きなスポーツは多かった。野球に関して言えば、特に応援している球団があるわけではなかったが、好きな選手の成績を携帯電話のスポーツニュースでチェックするのが日課であった。生きることが基本的につまらないこと、苦行であると思っている節のある正義にとって数少ない楽しみの一つであった。
 正義はプロ野球のオープン戦の結果を携帯電話の画面で確認すると、いつものように慌てながら部屋を出て行った。もちろんマスクは忘れるわけにはいかず、左手にしっかりと握られていた。自転車にまた上がり走り出した正義であったが、通り過ぎる神社や川沿いの桜の木に目をやり、満開の花を愛でるような心の余裕は全くなかった。ただいつも通りに自転車のペダルをこぐことだけに必死であった。
 そうして店舗の裏口に到着すると、暗闇でよく見えなかったが、正義は見覚えのある黒いライダースジャケットを視界の前方に捉えた。ふと、ライダースジャケットの女が正義に気が付いたのか後ろを振り返った。丈の長いTシャツにデニムのホットパンツとレギンス、黒いブーツに身を包んだその女は、大きな瞳から放たれる鋭い視線を正義に向けて、
「おはようございます。」
と挨拶をした。瀬戸であった。にこりと屈託なく笑う口元を見ると、上の前歯にはいつもと同じきらりと光るものがあった。暗闇だとただでさえ目が悪く、個人を特定し辛い正義であったが、その主張の強いファッション顔立ち、そして前歯の矯正器具を視認し、やはり、間違いない、瀬戸だと確信した。瀬戸に対し、力のない挨拶を正義が返した直後、二人の背後から、正義以上にやる気の感じられない、気の抜けた挨拶が聞こえてきた。二人が振り返ると、後ろに立っていたのは、神田であった。羽織っていたアウターとカバンを左手に持ち、花柄のレーストップスにスカートという何とも華やかな出立にはまるで似つかわしくない挨拶に、正義は、いっそしない方がマシな挨拶というのは、こういうもののことを言うのだなと、自分を棚に上げながら思った。瀬戸は派手な格好のわりに挨拶などはしっかりしている。神田は、今風のキャピキャピした学生風のかわいらしい見た目とは裏腹に、自分が興味のない人間には容赦なくその外見に似つかわしくない肚の中を見せてくる。どちらも同じギャップというものだが、後者は勘弁願いたいなと正義は切に思いながら、二人より先に裏口の扉を開けた。
 正義が売場に出て、青果コーナーに目をやると、イギリスのロックバンド「フリー」のTシャツを身に着けた米子の姿が目に入った。ポール・ロジャースやポール・コゾフの姿はエプロンで隠れているが、その分、エプロンの上から顔を出している「FREE」の四文字が強調されていた。正義が挨拶しようと近づくと、隣にはまたも例のいじわるがいて、米子に矢継ぎ早に質問を繰り返していた。どうやら、米子は出勤早々彼女につかまったようだ。正義は全然「フリー」ではないなと思った。正義はまたも、二人に気付かれないように、青果売場の裏側に回り、そっと耳を欹てた。
「みかんはもう時期も終わりの頃なので、今置いているもので最後になってしまう可能性はありますね。もう一、二回の納品はあるかもしれませんが・・・。あとは、お値段が少し上がってしまいますが、ハウスミカンなどは出回りますね。時期が終わりかけのみかんよりはそちらの方がおいしいかとは思いますが・・・。」
相変わらず、広範囲な米子の知識に驚いた正義であったが、いじわるの質問攻めはまだまだ終わらなかった。
「あ、そう。ところで、産地とか種類はどれがいいの。」
それは、もう、青果担当者でなければわからないだろうと、正義が思っていると、
「当店で扱っているのは主に温州みかんですが、その中でも収穫時期の早い極早生や早生みかんは既に終わってしまいました。申し訳ありません。早生みかんでは、今年は愛媛と和歌山が美味しかったですよ。愛媛は程よく柑橘類特有の酸味があって、和歌山の方は甘みが強くて、どちらもおいしいみかんでしたので、今年また出回る頃に参考にしていただければと思います・・・。
それで、今、当店に置いているものですと、出荷時期の遅い、青島みかんを主に取り扱っております。後は、収穫後に貯蔵されていた三ケ日みかんなども、まだ取り扱いがございます。どれも、産地は静岡と神奈川、関東近郊でございます。」
「あっそう・・・。それで、どれが美味しいの。おすすめは。」
もう自分で勝手に選んで買えよ。というか、もう買わなくてもいいよ、と正義は心の中で叫んでいた。だが、そんな正義をよそに米子は商品の説明を続けていた。
「あくまで私個人の意見、感想ですが・・・、数は少なくなってきていますが、こちらの小田原産の大津みかんは、甘さと酸味のバランスが良く、ここにおいてある商品の中では、一番、みかんを食べているなという感覚を味わえる商品だと思っております。」
どうでもいいが、米子のあの商品知識はどこからきているのだろうか。家で勉強しているのだろうか。みかんの食べ比べなんかもして研究しているのだろうか。ふと、正義は疑問に思った。
「ああ、そう・・・。いつも丁寧にありがとね・・・。じゃあ、それ一個もらってくわ。」
その言葉を物陰で聞いて、正義は驚いた。いつも、従業員に散々説明させた挙句、ニタニタ笑いながら結局何も買わないで帰るのが通例の彼女が、何と、商品を買って帰ると言っているのだ。正義は、これはこの店のちょっとしたニュースではないか、と思い、その場を目撃したことに多少の高揚感と興奮を覚えた。新川や宮本に話したい、知らせたいと少し思った。たかが、一パック数百円ほどのみかんではあるが、彼女が物を購入して帰ることが、正義には歴史的快挙のように思えたのだった。
「毎度ありがとうございます。」
と元気よく挨拶した米子の表情は長い前髪でよく見えなかったが、何となく嬉しそうなのではないかと、正義には思えた。何となく自分も嬉しいような気になり、にやけ顔のままその場を離れようと前を向くと、向かい側の通路で大きな瞳と目が合った。どうやら、瀬戸も今の米子といじわるのやり取りを見ていたらしかった。距離があり、彼女の表情までは見て取れなかったが、瞬間口元がきらりと光ったような気がした。彼女もおそらく笑っていたのではないかと、正義は感じた。
 四人が事務所に集まると、珍しく始業時刻前に来ていた小島が、先ほどのやり取りを見ていたようで、早速、米子に無駄な客に無駄な時間を使うなと小言を言っていた。小島としては、彼女への応対を無視、放置で徹底したいようであった。いくら面倒な客とはいえ、客商売でそのスタンスはどうなのかと正義は思った。平謝りをする米子とは対照的に、鋭い眼光が真のいじわるを睨みつけているのを、正義は感じた。瀬戸の大きな瞳は爛々と輝き、何かを訴えていた。彼女の口元は完全に閉じられ、いつもの銀色の輝きは全く見ることができない状態だった。仕事を始めるために、各々が事務所を後にしても、最後まで彼女はそこから離れようとはしなかった。米子本人以上に、何か思うところがあったのだろうか。やはり、米子も瀬戸も何を考えているのか掴み辛いなと正義は感じた。
 正義が仕事に追われていると、その後もいつものように、ベルモントや潔癖女が現れ、米子が対応に当たっていた。正義にとっても、それはだいぶ見慣れた光景になってきていた。遅れてきた青山が、ベルモントに構ってないで早く持ち場に戻れと米子に言うのも、いつものことであったし、潔癖女を余計に刺激するだけだからレジに近寄るなと米子に対して言う小島の言葉もお決まりのセリフ、お決まりのパターンになっていた。そして、その都度、正義が、自分たちでは結局解決しようとしないのだから、米子にとやかく言う資格はないのではないかと思うのも、正義の中ではおなじみの思考パターンであった。
 そうこうしていると、店内に小島の大声が響き渡った。
「ヨナコ!ヨナコイルカ!デテコイ!」
米子を呼びつける声を聞きつけ、彼が売場の日配ケースの裏から姿を現すと、駆け付けた青山と神田に腕や洋服を引っ張られ、売場の奥へと連行されていった。一体何が起きたというのか。正義は気になり持ち場を離れ、米子が連れ去られた方向を見つめた。すると、背後から視線を感じ、正義は振り返った。そこには、レジから大きな瞳で正義が見ていたのと同じ方を見つめる瀬戸の姿があった。相変わらずすごい眼力だなと感じた正義は、その眼力に気圧されるように、無意識のうちに瀬戸に声をかけていた。
「あの・・・、ちょっと気になったので様子見に行ってきます・・・。何かわかったら、一応、瀬戸さんにもお伝えしましょうか・・・。」
持ち場を離れる負い目もあり、正義がそう提案すると、
「是非、お願いします。」
と、食い気味で力強い返事が返ってきた。意外と他人のことに興味のある人間なのだなと、正義は思った。

 正義が小島の声がする方へと近づいていくと、だしなどが置いてある棚の前で、小島と青山、神田、米子の四人が海外の方と思われるお客さんを前にしていた。顔の感じや風貌から、正義は最近この界隈でも見かけるようになったバングラデシュ人ではないかと、勝手に想像した。イラン人、パキスタン人など、韓国、中国や東南アジア系など、アジアから来た人々を多く見かける地域であるが、近頃は、イランやパキスタン、バングラデシュなどイスラム圏の人々も多く見られ、街自体がどんどん多国籍化しているように思われた。近所に日本語学校が多いのも、その理由の一つかもしれないと、正義が推察に夢中になりつつも近くから様子を見ていると、どうやら、このお客さんはほとんど日本語が話せないようだった。米子が一生懸命に彼の言葉を聞き取ろうとしているのを、横から小島や青山が、何と言っているのか教えろと騒々しくがなりたてている為、米子はお客さんの言葉を聞き取り辛そうにしていた。やっとのことで米子がお客さんの言葉を聞き取ると、どうやら、お客さんが手にしている商品に豚肉が入っているかどうかを、お客さんは聞いていたようだった。それを聞くと、人使いが荒い方のブタは、
「ナンダ、ソンナコトカ。」
と一言つぶやいて、その場を去って行った。その、そんなことの為にあなたは大騒ぎをしていたのだが、と正義は心中でツッコミを入れた。
「じゃ、あとよろしくー。」
続いて、青山と神田もブタの後を追い、その場を去った。
そうして、その場に一人取り残された米子は、そのお客さんと英語で会話を続けていた。正義は文系であるが英語は苦手で、あまり二人の会話をうまく聞き取ることはできなかったが、米子が商品の裏面表示を指さし、豚肉パウダーが入っていることを知らせ、なので、購入しない方がいいと説明しているのが、何となくわかった。お客さんにもそれが伝わったようで、米子に礼を告げると何も買わずに店を出て行った。正義もそれを目にして持ち場に戻ると、レジから視線を感じた。あ、そうだと正義は瀬戸との約束を思い出し、瀬戸に事の顛末を伝えた。瀬戸は正義に「ありがとうございます」と伝えると、そのまま黙り込み難しそうな顔をしていた。正義には、これも何となくだが、彼女が何を考えているのかわかるような気がした。面倒な客には時間を使うなと言うくせに、結局自分たちで積極的に問題を解決しようとはせず、挙句の果てに、自分たちで対応しきれない客は米子に押し付けるという小島達のやり方に納得できないのだろうと、正義は考察した。自分もそう感じたからであった。だが、何も小島だけがそういうやり方をするわけではなく、この店全体が、その理不尽な方針で支配されているという事を正義は知っていた。もっと言うと、社会はそうしてできていて、為政者は皆、その元で多くの理不尽を不特定多数の人間にもたらしているのだと正義は考えていた。正義は瀬戸の気持ちは十分理解できたが、その一方で、それに抗うことがどれだけ無駄なことかもわかっているつもりであった。瀬戸よ、諦めること以外に自分を保つ術はないのだと、正義は伝えたかったのだった。
 ところで、外国人と言えばこんなこともあったなと、正義は、ある日の出来事を思い出していた。正義が品出しをしていると、レジが騒がしいことに気が付き、彼はレジへと向かった。レジではお客さんが騒いでいるようで、神田がびくびくしながらも、女性のお客さんに何かを伝えようとしていた。そのお客さんは、見た感じ、おそらく中国か韓国か、東アジア周辺出身の人のようで、神田の言っていることが伝わっていないようだった。そこへ駆けつけた米子がお客さんに何かを伝えると、お客さんは恥ずかしそうにしてお金を払って、足早に店から出て行った。どうやら、お客さんは一円玉と自分の国の硬貨を間違えて出していることに気が付かなかったようだ。東アジアの国を始め、色々な国の出身と思われる人々がやって来るこの店において、お客さんが誤って日本以外の硬貨を出してしまうのは、よくあることであった。ナイト部の人間のみならず、他の時間帯の従業員も含めて、出された硬貨を良く見ずに、不注意で、外国の硬貨を日本の硬貨と間違えて会計を済ませてしまう従業員がおり、レジ点検の際に、レジの中の金額が設定金額と合わなくなることもよくあることであった。特に、中国の一元と日本の一円が色や形が似ている為、ぱっと見で間違いやすいというのが、この店の「あるあるネタ」であった。海外出身の人が街に増える中、正義は、海外のお客さんが、数か月前よりも、更に増えてきているなと感じていた。何なら、日本人のお客さんよりも海外のお客さんの方が多い日も少なくないと思えるほどであった。以前から、よく見かける東アジアや東南アジアの人々、先程のような南アジアや西アジアと言ったイスラム圏の人々など、アジア圏の人と思われるお客さん、それに加えて、近頃は、モンゴルやカザフスタンなど、今までに見られなかった中央アジアのお客さんも増えてきたようであった。一見すると、顔が日本人と似通っている為、普通に話しかけると、話が通じないということが多かった。正義もモンゴルの人とカザフスタンの人の区別がつかなかったが、「アルマトイ」と書かれたTシャツを来ているのを見てようやくその人がおそらくカザフスタン人であろうと判断出来た。正義がこの職場で働き始めた、この短い期間の中でさえ、また、こんな東京の狭い一角の中でさえ、日々、状況は変わっていくというのに、自分は何も変われないと、正義はまた、卑屈になっていた。
話は変わるが、正義は、意思疎通の難しさや文化の違いに起因するコミュニケーションのとり難さなどから、そういったお客さんのことを面倒くさいと思い、あまり良い印象を持っていなかった。何なら、できる限り仕事中に関わりたくないと思っていた。もっと言えば、正義にとって、小島の存在が海外出身のお客さん、とりわけ、東アジアの人たちの印象を非常に悪くしていた。その点、外国人に対して積極的にコミュニケーションをとろうとする米子の行動は、彼には理解しがたいものだった。もちろん、米子のおかげで事なきを得ることが多いのは確かだが、面倒事にわざわざ首を突っ込まなくてもいいのにと、彼は米子のそんな姿を見るたびに苦々しく思っていた。外人とうまくコミュニケーションがとれる自分を周囲にアピールしたいのか。自己満足の為にやっているのだろうか。そんなことすら思うこともあった。何が目的なのだろうか。

この日も、正義は相変わらずベッドの中でただ目をつぶって横たわっているだけの時間を多く過ごしていた。連勤で体には着実に疲労が蓄積してきているというのに、溜まっていく疲れとは反比例するように、益々眠りにつくのに時間を要し、起き上がるのに苦労するようになっていた。そんな状態のときに限って、彼は余計なことばかりを考えこんでしまい、より一層眠ることを困難にしてしまう癖があった。ポジティブなこと、楽しいことなどは何一つとして思い浮かべることはできないのに、否定的で悲観的なことばかり、湯水のように頭の中に湧いてくるのだった。彼にとって良い出来事など何もない彼の日常が、彼自身の思考をそのような方向に導いたのかもしれなかった。じっと目を閉じていると、彼の頭の中は、先行きへの不安や沢山の「あの時こうしていれば」で溢れていくのであった。そうして時間が来ればまた、その底に堕ち込んだ気持ちを仕事へ向かうことができる状態へと上昇させなければならなかった。正義にとって、この気持ちの切り替えは容易ではなく、連勤の疲れなども相まって、日増しに難易度が上がっていた。その苦労を思うと、また更に眠れなくなる悪循環の中に彼はいた。やっとの思いで身支度をした彼が、ジャケットを羽織ってポケットに手をやると、手にベタベタとしたものが付いたのに気が付いた。ポケットを裏返すと、数日前に入れてそのままになっていたのど飴が出てきた。ここ数日で気温はすっかり春らしく暖かくなっていたことを正義は改めて実感した。雪解けの季節は訪れたが、彼の凍てついた心が融けるのは、まだまだ先のことのように思われた。彼の心を融かすのは、のど飴のように簡単ではなかった。
いつものように自転車で同じ道を通り、代わり映えのない扉を開き、いつもと同じ気持ちを抱えたままロッカールームでエプロンを着け、正義は売場へと出て行った。売場を見渡すと、すっかり恒例となってきた光景が目に映った。この日もまた、米子と例のいじわるがやり取りをしていた。
「やはり、リンゴの旬が過ぎつつありますので、うちで扱っているものも、サンふじ、ジョナゴールドくらいですね・・・。後は、青りんごで言うと、王林や星の金貨、あとは・・・、残り少ないので、もう入ってこないかと思いますが、赤いのだと、世界一りんご、他は金星というものもございますが、今後の入荷は、みかんと同じで、申し訳ありませんが、不透明な状況です・・・。」
どうやら、今度はリンゴの話をしているようだった。
「ああ、そう・・・。じゃ、今ある種類だと、どれが美味しいの。特徴とか教えてよ。」
またも、米子に難題が突き付けられた。
「そうですね・・・。まず、サンふじですが、この『サン』というのは、袋をかけないで栽培されるリンゴに付く呼称です。袋で覆わないで栽培されたリンゴの方が、年中日に当たっているので、袋をかぶせたリンゴよりも糖分を多く含むようになり、蜜もいっぱい入って美味しくなると言われています。ジョナゴールドは、甘みと酸味のバランスが良いですが、他の品種と比べると、やや酸味が強いと感じるかもしれません。アップルパイなどお菓子にもよく使われますので、そういった用途でしたらこちらがおススメです。青りんごだと、王林は酸味が少なく、甘さが強めです。甘い芳醇な香りも楽しめますので、香りの良さも欲しいという事でしたらこちらおススメです・・・。」
「そうなんだ・・・。ところで、このリンゴ、やけにピカピカってのか、こう・・・、テカテカしてるけど、何か塗ってるの。薬みたいなの。ワックスとか。」
「あ、こちらですが、実は薬品などではなく、リンゴそのものから発生されている成分です。リンゴは熟してくるとリノール酸やオレイン酸などの不飽和脂肪酸をたくさん含むようになるのですが、それとリンゴの皮に含まれる成分が合わさって天然のワックス状の膜が作られます。この膜で中の水分などを外に逃がさないようにしているので、ピカピカに光っているのは美味しいリンゴの証とも言えるかもしれません。」
「へえ。あんた、ほんと、いつもいいこと教えてくれるわね。わかった。じゃあ、その光ってるジョナ・・・ゴールドと・・・、あと、サンふじと王林、それぞれもらってく。たしかに、そうやって聞くと、ピカピカのリンゴ、美味しそうに見えてきたかも。」
そういうと、彼女はニタニタとした意地の悪そうな笑いとは程遠いさわやかな笑顔でレジへと向かった。正義が米子に対し、相変わらずこの知識は一体何処で仕入れてきているのかと感心していると、レジから視線を感じた。またあのまん丸い顔とまん丸い瞳がこちらを見ていた。瀬戸の視線は正義のさらに奥、米子をとらえているようだった。遠目からであったが、正義には瀬戸の口元から銀色の光が見えたような気がした。彼女の表情が緩んだのを感じた。そういえば最近、瀬戸は米子のことをよく見ているなと、正義はふと思った。この間の英語騒ぎの時だって、やけに米子を心配していたようにも正義には思えた。米子が理不尽に叱責されていると、瀬戸は妙に不機嫌そうな表情をしていることも正義は思い出した。なんだか怪しい二人だなと思いつつ、色恋沙汰は自分の知らないところで勝手にやってくれと、正義は思った。それと同時に正義が感じた、よりによって米子を好きになる女がいるなんて、瀬戸もよっぽど物好きだなという意見は大きなお世話だった。

 そんなこんなで毎日の決まったルーティーンワークを正義やナイト部の面々はこなしていた。と言っても小島や青山はろくに仕事をしないが、それは置いておいて、人生も仕事もなかなか計画通りには進まないものだ。ナイト部メンバーがひたすらに納品された商品を陳列していた午前二時頃、店の前で何か大きな音がしていることに、正義を含め、何人かの従業員が気付いた。正義が店を出てみると、毎日夜中に来店し、カボチャを何個も買っていくお客さんが、自分の乗ってきたスクーターのエンジンをかけようとしていた。だが、なかなかエンジンがかからず、何度も試みていたようで、その音が店の前に響いていたのだった。店の前に出てきていた小島と青山、神田は、一通り様子を観察すると、早々に店の中へと引っ込んで行った。正義はあの三人らしい対応だなと思い呆れたが、かといって、自分も何か手伝うことができるとも思えず、ただその場に立ち尽くすだけだった。すると、今度は瀬戸が店外へと出てきた。そして、外の様子を見ると走って店内へと戻って行った。正義が何事かと思っていると、束の間、再度、瀬戸が店の外に顔を出した。その右手には米子を伴った状態であった。腕を無理やり引っ張って来られた様子の米子は状況をまだうまく呑み込めていない様子だったが、エンジンをかけるのに悪戦苦闘しているお客さんに気付くと、そちらへと近づいていった。
「お客様、押しがけしてみましょう。私が後ろからバイクを押しますので。」
米子がそのようにお客さんに声をかけると、
「本当。助かるよ。一人だとカボチャが重くてね。それで、キックでと思ったけど、全然エンジンがかからなくて。」
そんなやり取りの後、お客さんがハンドルを操作しながらバイクを押して走り、そのバイクをさらに米子が後ろから両手で押しながら走ると、タンタンというエンジンの音が、深夜の静まり返った明治通り沿いに響いた。
「ありがとう。助かったよ。いつもありがとね。」
「いいえ、こちらこそ、毎度ありがとうございます。」
米子の言葉を背中に受けて、スクーターは走り去って行った。それにしても、またも米子であった。商品の知識のみならず、バイクに関する知識もあったように思えると正義は考察した。また、お客さんが言った、「いつもありがとう」という言葉にも、正義は何故か引っかかっていた。米子は面倒な客のみならず、今のお客さんのような人たちにも感謝されるように接客をしているということなのではないか。それを証明するのが、その言葉ではないのか。正義は考えていた。そして、またここで正義の頭には、お決まりの考えが去来した。何故、無意味に頑張ったり、無駄に他人に良くしたりするのだろう。そんなことをしたところで、それらの努力はすべて無駄なのに。他人に良くしたところでそれと同等の対価は還ってきたりはしないのに。結局は自分の為にはならないのに。こんな場所で努力をしたところで誰も認めはしないし、誰からも評価などされない。されたところで何にもならない。なのに、一体何の為に、誰の為に、彼は一生懸命に働こうとするのか。正義にはいい加減、米子という人間の事を理解するのは不可能だった。ふと、終始頭の中だけが忙しく、はたから見たらただボーっと突っ立っていただけの正義の横で様子を見ていた瀬戸が正義に言った。
「やっぱり米子さんに来てもらって良かった。米子さんならできると思いましたんで。」
その言葉と笑顔を残し、瀬戸は店内へと戻って行った。そんな瀬戸の様子と米子の仕事に対する姿勢から正義は邪推した。どうせ米子は、格好をつけたくて、女に良いところを見せたくて頑張っているのに違いない。そうでなければ、何の得もないことをする説明がつかない。きっとそうであるに違いない。正義は自分の推理がさも正しいかのように自分に言い聞かせた。そして、そういう理由であれば自分には関係のないことなのだから、自分は今まで通りの自分であればいいのだと、自分を納得させていた。
「いやあ、エンジンかかって良かったです。あまりやったことのない方法だったので、自信がなかったのですけど・・・。良かった・・・。」
お客さんの背中を見送っていた米子が、出入り口の前で突っ立っている正義に声をかけたが、正義は言葉を発する気にはどうしてもなれなかった。米子は一瞬立ち止まったが、特に何も言うことなく、先に店の中へと戻って行った。正義は全てが終わってもなお、その場に立ち尽くしたまま、離れることができなかった。
 しばらくして、正義が店内へと戻ると、もはや見飽きたと言えるくらい、幾度も目にしたやり取りが繰り広げられていた。
「ヨナコ。ナンドイッタラワカル。ヨケイナコトシテルジカンガアッタラ、ハヤク、シゴトヲオワラセロヨ」
「はい。申し訳ありませんでした。」
毎度のように、米子は特に言い訳もせず、ただ謝罪の言葉を述べるだけであった。正義には本当に彼が悪いと思って誤っているのかが疑問であった。なぜなら、自分が彼の立場であったら、とても謝る気になどなれないと思ったからだ。まあ、どうせ、平謝りでも何でもいいからしておいて、とっとと終わらせようという魂胆なのだろうが、それであっても自分には耐えられないと、正義は思った。いつもの事ながら気分が悪いなと思いながら、小島や青山に気付かれないよう、こっそりと仕事に戻ろうとする正義の目に、いつもとは少し違う展開が映り込んできた。
「すみません、小島さん。悪いのは米子さんではなく、私です。」
そう言って、瀬戸が米子を庇ったのだ。
「私が彼に対応してもらうように頼みました。私のせいです。申し訳ありませんでした。」
そう言って頭を下げる瀬戸を遮るかのように、米子も瀬戸を庇って、小島に謝っていた。
やはり、そういうことだ。と、正義は確信した。米子の頑張りなど所詮、色恋沙汰を目的としたものなのだ。そうでなければ徒労に終わるような努力をするはずがないのだ。自分の周りで男女がいちゃつくのがいけ好かない気持ちはあったが、正義はそのように理解することで、近頃抱いていたわだかまりのようなものに、ある程度の決着がつけられたと感じ安堵していた。これでもう、米子の行動に心を惑わされることはないだろうと、正義は思っていた。

 そんな安心感からか、正義は時間を忘れて作業に没頭していた。午前四時を過ぎ、納品された商品の陳列もほとんどが片付き、青山と神田は十五分の小休憩で売り場を離れていた。正義は米子、瀬戸と共に売場に残されたことに少々の気まずさを感じていたが、間もなく到着したパンの納品のトラックに救われた。それから、正義が、出入り口に近いパンの売場で、入り口を背にして運ばれてきた菓子パンや惣菜パンの陳列にひたすら専念していると、一人の客が入ってくるのを感じ、振り返った。そこにいたのは、これまたいつものように目にする客だった。小柄でぽっちゃりとしていて、白髪でメガネをかけ、シルバーカートを両手で押している七十歳くらいの年齢と思われる女性だ。この人物もまた、ナイトメンバーからは面倒な客とみなされている人物であった。彼女は何か害のある存在ではなかったが、毎日来店する度に、決まって従業員におにぎりの売場を尋ねるのだった。説明しても、売場の奥の方にある惣菜コーナーへと彼女が自力でたどり着くのは困難な為、結局、従業員のうちの誰かが、作業の手を止めて案内しなければならず、彼らにとっては手間のかかるお客さんであった。小島や青山たちは彼女を「ボケ老人」と呼んでいた。それだけならばまだしも、正義が入社した頃には、彼女が来店すると従業員全員が事務所や休憩室に引き上げ、防犯カメラから一人売り場に取り残された彼女の様子を見て嘲笑するという、クソ意地の悪いことを毎回のようにしていた。その為、一時期この店に来なくなっていたのだが、近頃、毎日明け方頃に、また来るようになっていた。正義にはその理由は容易に想像ができた。米子であった。彼がこの店で働くようになったのと、また彼女の姿をこの店で見かけるようになった時期がちょうど重なっていたのだった。そして、その推測を裏付けるかのように、ここ最近米子と同じ日に出勤するようになってから毎日と言っていい程、彼女は来店し、そして毎回米子は彼女をおにぎりのコーナーまで案内していた。よくもまあ飽きもせずと、米子の魂胆のようなものに気が付いた正義は少し彼のことをやっかんだ。加えて、実際彼が居なくなることで自分の作業量が増えることや、瀬戸と二人きりにされることが、正義は嫌だったのだ。
「あ、お客様、いらっしゃいませ。」
「おはよう。あのね・・・。申し訳ないんですけど・・・、おにぎりの場所が、わからなくなってしまって・・・」
「かしこまりました。一緒に行きましょう。」
「ありがとう。あなた親切ねえ。」
二人の微笑ましいやり取りをよそに、正義は一人苛立っていた。あの米子の一見親切そうに見える態度も実際は女に格好をつける為のものではないか。そして、それをにこやかに見ている瀬戸にも腹が立つ。とっととパンの検品をしてくれ。陳列ができないのだ。仕事が止まるのだ。正義は、一見お客さんへの親切に思える一連の行動が、米子と瀬戸がいちゃつくために利用され、その結果、自分一人だけが仕事をさせられているという現状に馬鹿らしさと怒りを抱いていた。会計を終えると、女性客は、米子に対し、
「あなた、お名前なんていうの。」
と尋ねた。それに対し、米子は、
「はい。私は米子と申します。」
と、答えた。この両者のやり取りを毎日のように目にしていた正義は、さらに、苛立ちを募らせていた。毎度、同じ質問をされ、その度懲りずに自分の名前を答え続けている米子に対し、「時間の無駄だ」、「そんなことはどうでもいいから早く仕事しろよ」と小島さながらに思った。いつも同じことを聞かされるこちらの気持ちも考えろと正義は心で叫んだ。
いつも通り米子がおにぎりの入ったビニール袋を手にした女性を送り出すと、これまた、いつも通りに事務所の扉が開き、鬼の形相の小島が米子へと近づいていった。
「ナンドイッタラ、ワカル!アノオバアサンハ、ムシシロトイッテルダロ!ジカンノムダダ!シゴトヲシロ!オニギリナンテ、ジブンデ、カッテニ、サガサセレバイインダヨ!ボケタロウジンハ、ミンナ、スグニ、ワルサスルンダカラ。マンビキバッカリスル。トラブルノモトダ。タダデサエ、ロウジンニハ、メイワクシテルンダ!ヤサシクシタラ、ヨケイニツケアガルッテコトガ、ナンデ、ワカラナイ!ロウジンニ、カカワロウトスルナ!」
今にも掴みかからんとするような剣幕で、小島は米子を激しい口調で叱責した。正義は、「ほら見ろ、言わんこっちゃない」と心で呟いた。彼は、これまでは、どうせ小島はあのお婆さんへの嫌がらせを米子に邪魔されていることに対して腹を立てているだけだろうと思っていた。だが、今となっては少し話が違った。小島の「仕事をしろ」という意見に対してのみは、正義も同じ感情を抱いているのだ。どうして米子と瀬戸がよろしくやる時間を稼ぐ為に、自分が一人で頑張らなければならないのだと、腹立たしく思っているのだ。それを察したのかどうかはわからない。単に、青山や神田など自分に従順な者が居なかったからというだけの理由かもしれない。珍しく、小島は正義の方を見ると、彼に意見を求めた。
「オイ、サイトウ。オマエ、ドウオモウ。マイカイ、マイカイ、ホットケバイイキャクニ、ヨナコガカマッテルセイデ、アタシラノシゴトガフエテル。ヨナコノブンヲ、アタシタチガヤルコトニナル。ソウダロ、サイトウ。オマエモ、ナンカイエ。」
正義は小島の言う、「アタシタチ」という言葉が大いに心の中で引っかかったが、つい、怒りに任せて、
「そうですね。仕事が停まるのは困ります。」
と発言をしてしまった。正義は一瞬ハッとしたが、自分は間違ったことは言っていない、自分に嘘をつくようなことは言っていないと、自分に言い聞かせた。そうだ、自分は正直に思ったことを言ったのだ。何も気にすることはない。と、自分を落ち着かせた。
「ソウダヨナ、サイトウ。オマエモ、ソウオモウヨナ。ワカッテルジャナイカ。」
「ドウダ、ヨナコ。ワカッタダロ。ミンナ、コウオモッテルンダヨ。イイカゲンニシトケヨ。」
そう言った小島は正義が同調したせいか、いくらか満足げな表情に見えた。
「そうですか・・・。すみませんでした。気をつけます・・・。」
そう力なく答えた米子の顔を、正義は何故だか見ることができなかった。と、同時に、正義は自分の右側に強烈な視線を感じた。見ると、まん丸な瞳が、目からビームでも出すのではないかというような眼力で、正義の方に向けられていた。瀬戸のその表情は、一目見ただけで怒りを表しているとわかるものだった。正義はただうつむくことしかできなかった。いやいや、自分は間違ったことは言っていない。米子の落胆は単に女に良いところを見せられなくなったからだろう。瀬戸の怒りだって、好きな男の不利益になるようなことを言った俺に余計なことを言うなと言いたかっただけの事だろう。気にすることなど何もない。正義はそう頭の中で繰り返した。
 小島が事務所へと戻り、三人は再び納品されたパンの陳列作業に戻った。それぞれ言葉を交わすことはなく黙々と作業をし、売場は静まり返っていた。冷蔵ケースの音や店の前の道路を走る車の音だけがやけに大きく聞こえる中、ふと、正義は思った。そう言えば、例の認知症らしきお婆さんが来る前から、米子と瀬戸は特に会話していなかったな。というより、そもそも、二人が話しているところをそこまで頻繁に見たことはないな。まあ、職場では話さないようにしているのかもしれないな、わざと。連絡先とか交換し合っているのだろう、きっと。沈黙の中、正義はずっとそんなことを考えていた。
 結局そのまま時間は過ぎ、終業時刻の午前七時を迎えた。とはいえ、正義の仕事はまだ終わらなかった。人手の足りない間、早番及び遅番の制度は一時撤廃され、本来遅番の人間が担当するはずの、午前八時にレジ担当のパートが来るまでのレジ当番が、正義と米子に交互に割り振られていたのだった。正義はこの不公平に対して、もう考えるのを止めることにしていた。タイムカードを押してそそくさと帰っていく青山と神田を尻目に、正義がサッカー台に乗せられたお客さんの商品カゴに手をかけると、出入り口の方から強烈な視線を感じた。お客さんがお金を財布から取り出そうともたついている間に、正義がそちらをちらりと見ると、またしてもまん丸な瞳が正義を強烈に睨みつけていた。正義は瀬戸の怒りに満ちた視線に身体が硬直しそうになりつつも、デジャヴか何かだと現実逃避し、彼女を無視するようにレジ打ちに没頭することにした。気が付くと、瀬戸はもうそこから去っていた。女の恨みは怖いものだと正義は思った。
 正義がお客さんのいなくなったレジカウンターで、瀬戸の恐ろしい眼差しを思い浮かべ、身震いしながら天井を見上げていると、米子が事務所の扉の前にやってきてタイムカードを押すのが見えた。正義は何となく挨拶を交わすのが気まずくて、レジにお客さんが早く来てくれるのを待っていると、正義ではなく米子の方にお客さんと思われる若い男女数人が話しかけた。
「あ、お店の人ですか。」
「はい、そうですが、どうかなさいましたか。」
「いや、僕たち、バーベキューをしようと思っているんですけど、何をどういう風に選べばいいかわからなくて・・・。いろいろ教えて欲しいんですけど、いいですか。」
やり取りを聞いて正義は、何とも図々しい客だなと思った。それにしても、米子の奴は、さすがに瀬戸や神田もいないことだし、タイムカードも押した後だ。適当にあの若者たちをあしらってとっとと帰るに違いない。そうなれば、彼らは自分のところにやって来る。今店内には米子の他には自分しかいない。社員は既に出勤しているかもしれないが、
二階の休憩室にいるかバックヤードで作業しているかで、まだまだ売場には顔を出さないだろう。売場に居たとしてもお客さんへの対応は面倒くさがって積極的にしようとはしない。となれば、自分のところに彼らが来た時の体のいいあしらい方を考えなければならない。面倒くさい。大体、春めいてきたとはいえ、まだ若干肌寒いではないか。どうしてこんな時にバーベキューなどに興じようと思うのだ。そもそも、バーベキューの何が楽しいのか。わざわざ、屋外で面倒な思いをしながら肉や野菜を焼いて食うことの意味が分からない。肉が食いたければ焼き肉屋にでも行ってくれ。迷惑だ。見たところ春休み中の大学生か何かで、サークルか何かの集まりのようだが、浮かれるのはいいが人様に迷惑をかけるのだけはやめてくれ。男女でワーキャー、イチャイチャとしたいのならば、俺とは関係ないところで好き勝手にやってくれ。どいつもこいつも、俺を巻き込まないでくれ。という具合に、ほんの数秒程度の間に、よくもまあこれだけのことが考えられたものだと自分でも感心するくらいに正義が物思いにふけって、彼らから目を離していると、彼らはもう既に事務所の付近にはいなかった。慌てて辺りを見渡すと、米子と若い男女の集団は、肉の売場で話し込んでいた。どうやら、米子は自ら対応することにしたようだ。全く、女どもはもう帰ったというのに、一体奴はどこまで良い恰好がしたいのだろうか。誰に対して格好をつけたいのだろうか。あわよくば大学生連中の一人でも狙っているのかと正義はまたも邪推していた。何はともあれ、自分に面倒が降りかかってこなかったことに彼は安堵していた。
 その後、正義はすっかり米子や若者たちのことを忘れてレジでの作業に集中していると、社員やパート従業員が続々と売場に出てきた。米子のことを思い出した正義がレジから辺りを見渡すと、米子は青果売場にいて、未だに若者たちとバーベキューの材料を選んでいた。青果売場にはパート従業員の岩淵という中年男性がいたが、米子はおろか、若者の集団をも完全に無視して自らの作業に没頭していた。正義は、今置かれている米子の状況が、自分だったら怒り狂っているなと想像した。タイムカードも切り終わって、金にもならないことをやらされているにもかかわらず、本来それを担当しなければならない青果のパートに知らんふりをされている。米子のことが何となくつかめてきた今だからこそ、彼がかわいそうだとは思ったりしないが、自分ならばとても我慢できる状況ではないなと、正義は思った。引き続き米子が若者たちに野菜の説明をしている最中も、岩淵はまるで自分は一切関係ないというような顔をして、店外へと出て行った。他にも青果担当ではないが、売場にはパート従業員がたくさんいた。惣菜担当は三~四人見かけたし、鮮魚のパートも来ていた。皆タイムカードを押しに来たのを、正義は目にしていたのだ。そして、レジに正義がいたのをおそらく皆が知っていた。一応、レジから彼らに挨拶をしたからだ。返事は返ってこないことの方が多かったが、存在はわかったはずだ。目と目が合っていたのに、何も返事をしない奴もいたが、それでも、今日、八時までのレジ当番をしているのは自分だと認識したはずなのだ。ならば、なぜ、未だに売場で接客をしている米子と変わってやろうと思う奴が、誰もいないのだろうか。男女合わせて七、八人いる集団がそれぞれに思い思いのことを話していて、売場のどこにいても気が付くくらいの音を出している。あれだけの存在感を放っているのだ。誰も気が付かないわけがない。気が付いているが、米子が対応しているのをいいこと幸いに、彼にやらせておけばいいやと皆が考えているという事だ。つまりは、彼はまたしても迷惑事を押し付けられて損をしているのだ。米子自身は格好をつけるためにやっているので、いいのかもしれないが、結果的に他人が損をしているのを見るのは、あまり気持ちがいいものではない。レジに取り残され天井を見上げていた正義は、心の中ではそんなことを考え、怒りや歯がゆさのようなものを抱いていた。そして、正義は思い出した。レジから出られないという条件があったものの、自分も米子が若者たちを対応することになったときに、ホッとしたではないか。結局、自分も彼に損を押し付けたうちの一人ではないか。そう思うと、正義は余計に腹が立った。自分自身に腹が立っていたのであった。思い返せば、明け方の出来事もそうだった。結果的に小島が有利になるようなことを言って、小島の理不尽の一端を担うことになったではなかったか。あんなに嫌っていた彼女の理不尽の片棒を、自分は担いでしまったのだ。米子にとっては、あの瞬間、自分も理不尽のうちの一つだったではないか。なんだかんだ言って、本当は自分自身が、この理不尽な職場に染まり、いつの間にか自分もその理不尽を構成する一ピースになっていたのではないかと思い、正義は自分に落胆した。自分も彼らと同じなのだ。そんな自分を正義は嫌悪した。
 午前八時を過ぎ、レジから解放された正義はバックヤードへ引き上げようと売場を歩いていると、雑貨売場で米子を発見した。米子はまだ帰っていなかったのだった。何やら若い衆に炭について語っているようだったが、もはや、完全にこの職場の風潮に染まり切ったことを自認した正義は、彼に助け舟を出すようなことはしなかった。そもそも、自分には米子のような商品知識が無い為、彼のようにお客さんにうまく説明ができないのは正義にもわかっていたことであったし、お客さんも米子の方を望むだろうということは正義にも明白だった。自分では米子の代わりは務まらないとわかっていたのだ。さらに言うと、明け方の件もあり、米子と接するのが気まずかったのだった。正義は米子に見つからないようにそそくさとバックヤードへと引き上げて行った。
 二階の更衣室に向かう途中、休憩室を通り過ぎると、外からちらっと、岩淵がコーヒーを飲みながらテレビを眺めているのが見えた。あいつ、やっぱり米子に面倒を押し付けるために雲隠れしたのだなと、正義は思った。岩淵はパート従業員であったが、こちらが副業で週二回出勤しており、普段は別の職場に勤めていると新川が語っていたのを正義は思い出していた。本職が休みの日にこちらに出勤しているが、その理由は、空いた時間があると、すぐにギャンブルに興じてしまい、挙句の果てに借金を作るようになった為、休みの日も仕事をしてギャンブルを強制的にできないようにする目的でここに勤めているとのことだった。正義は、通りで噂に違わぬクズ野郎だなと思ったが、思った直後にハッとした。そうであった。自分もそんなクズどもと同じ穴の貉なのであったと、正義は自嘲した。
正義が更衣室から出ると、隣の女子更衣室に見たことのある長い黒髪の女が入って行くのが見えた。間違いない、瀬戸だ。中からパートのおばちゃんたちとの会話が漏れ聞こえていたが、どうやら忘れ物をしたという事らしいが、なんだか怪しいと正義は思った。思ったが、もう米子や瀬戸のことは考えたくない程に疲れていた正義は、あのまん丸な瞳で睨まれないうちに早くこの場から去ろうと、駆け足で従業員出口の扉を開け、自転車にまたがり、逃げるように帰路に就いた。

 何事も思い通りにはならないのが人生の定説だと正義は思っていた。それは彼の経験則のようなものだった。だが、自分の体や心の自由さえも奪われ思い通りにできなくなるとは、かつては思ってもみなかったことだった。自分の心身さえ思い通りにはできない。その繰り返しの毎日に憂鬱だけが募っていた。そんな思いを抱きながらまた、正義はベッドの上で目を閉じながら、仕事に向かうための気持ちの切り替えを試みた。毎日の作業ながら、これ自体も彼にとってはストレスであった。正義は近頃、そんなときに考えることが二通りあった。 
一つは、自分の心はかつお節のようなもので、いろんなストレスやら何やらが原因でどんどんと削られて行くという事だった。人間は生まれた時から心が削られすり減り始め、削ることができなくなった時、つまりは心が削られ過ぎて消滅したときに、たとえ肉体は生きていようとも、精神の死を迎えるのだろうと想像していた。精神を病み、気が狂ってしまった状態というのは、彼が考えるところの精神の死であった。一度精神が死んだら戻らないという一連の考えは、あくまで正義が個人的に近頃思いついた考えであったが、正義は自分の心も着実に削られて減って行っている気がしていた。そして、自分のかつお節が後どれだけ削手も大丈夫なのかという事を、時々気にしていた。もちろん、正義の心からはイノシン酸ナトリウムのようなうま味成分は摂れないというのは言うまでもないことであった。
二つ目は、自分の心の中に感じる例の淀みのようなもの、黒い靄とでもいうようなものについてだった。近頃それらがどんどん自分の心に広がっていているような感覚に襲われていた。あの黒いもので心の中全体に広がったとき、心は黒い塊と化し、やがて爆発するのではないかと不安に感じていた。そしてやはり、崩壊した心は元には戻らないのだろうと考えていた。
これらの考えは、正義の心の疲弊からくる不安や焦燥が眠れない彼に対し抱かせる幻想のようなものに思えた。自分の事、自分の精神のことを考え、ケアすることだけで頭がいっぱい、手一杯の状態の正義は、ここ数年来、他人のことを深く考えることはやめていた。
だが、最近、米子や瀬戸、はたまた職場の人間の事を考えることが多くなったからであろうか、彼の心は連勤からくる疲れとはまた別の原因で疲れきっていた。それでもなお、職場に行けば、人と接さざるを得ないので、無意識のうちに他人のことを考え、詮索してしまうというジレンマを抱えていた。この、他人のことを考えるという事が、他人の為になることを考える、つまりは他人を思いやることであったらどれだけ素晴らしいかと筆者は思うが、もちろんそうではなかった。他人と関わることで自分に帰ってくるリスクのことなど、結局は他人のことを考えているようで自分の身を守ることを考えているようであった。
 心がすり減った分が戻らないにしても、その削られる分量を少なくすることや、心に罹った靄を少しでも振り払うことはできないのかという事は正義自身も考えた。それが世に言うストレス解消というものではないかと思ったが、正義は視力が落ちて以来、以前は好きだった漫画や小説を読んだり、映画を観たりという事をする気がなくなってしまっていた。また、先述の理由や耳鳴りなどの影響で、音楽を聴くこともなくなった。そんな彼の唯一のストレス解消とも言えそうな好きなスポーツの結果を見ることも、チェックし忘れることが多くなってきていた。プロ野球はオープン戦が終わり、既にペナントレースが開幕していたことも、彼はまだ気が付いていなかった。出勤日が増え、競馬をすることもなくなっていたが、それは逆に良かったのかもしれなかった。当たりもしない競馬を続けて金銭を失う機会が減ったという事もあったが、それよりも、彼は競馬をストレス解消のためにやっていたというよりは、失った分を取り戻そうとする執念、執着の為に馬券を買っていた部分が強かったのだ。そして、馬券を外して、より一層ストレスをため込むことになるのにもかかわらず、惰性で続けてきたのだ。もちろん、馬や騎手などに興味がないわけではなかったが、そうした側面の方が大きかったのだから、競馬に関しては、むしろ、やらなくなって良かったのかもしれなかった。図らずも、正義は自分が貶した岩淵と同じ状態にあった。いずれにせよ、今や、正義のストレスを解消するものは無くなった。そうした不安からかつお節や黒い靄のような考えがベッドの上で浮かぶようになったようだ。彼が削られずに済む日、彼の靄が晴れる日が来ることは、彼には到底想像ができなかった。おそらく一生そんな日は訪れることはなく、今後の人生など彼にとっては自分の生命の死が早いか、はたまた精神が死ぬのが早いかの競争でしかないことであった。

 結局、うまく気分を上昇させることができないまま、時計の針によって強制的に布団からたたき出された正義は、その後も時計の針に尻をつつかれ、焦りながら身支度を済ませ、
いつものようにドタバタと部屋を出た。おばちゃんの「行ってらっしゃい」に反応することもなく、携帯電話を手に取って野球の試合結果を気にすることもなかった。
 焦った甲斐があったのかどうかはわからないが、正義はいつもよりも早めに職場に着いた。そこには見慣れた光景と見慣れない顔があった。見慣れた方は、いつもの米子といじわるのやり取りだった。二人が鮮魚売場で話しているのを見ると、見慣れない顔の事は後回しにして、正義はひとまずそちらの様子を窺うことにして、いつも通り、二人に気付かれないように、こっそりと売場の陰から耳を欹てた。
「いえ、実は鮭も白身魚の一種でございます。鮭は川下りに適した疲れにくい身体になる為に、海でオキアミなどの赤い甲殻類を餌として食べるのですが、その餌たちの赤い色素、アスタキサンチンが体内に残り、鮭の身を赤くするのです。」
米子の説明を盗み聞いていた正義は、ハコフグの被り物を被った、魚のことなら何でも知っている、某大学の客員准教授を思い出していた。
「アスタキサンチンって聞いたことあるね。あの、お肌に良いやつでしょ。ま、それはいいわ。赤身と白身についてはわかったわ。じゃあ・・・、魚を焼いて食べるときはどう。例えば、魚の上手な焼き方とかってあんの・・・。」
「ええ。よく言われているのは、『川は皮から、海は身から』というものがございまして。」
「かわはかわから・・・。あんた、何、その早口言葉みたいなのは。」
「いえ、魚を焼くときは、川魚は皮から焼いて、海の魚は身の方から焼くとうまく焼けるという知恵のようなものがございまして。」
「あ、そうなの。詳しく教えて。」
「はい、海の魚の切り身を焼くときに、皮から焼いてしまうと縮んでしまって形よく焼けないから身から焼くのだそうです。川魚は一般的に切り身にはしないので皮の方から焼くというのが、魚の調理の仕方で一般的に推奨されている方法です。」
「へえ。また勉強になったわ。ありがとう。今日は魚、買ってくわ。」
と言って、彼女は鮮魚売場を後にした。今や、従業員に難解な質問ばかりを投げかけて、その質問に答えられない、または満足のいく回答が得られないと、投書や電話でクレームを入れてくるくせに、毎日来ても何も買わないという、かつてのクレーマーいじわるおばさんぶりは完全に影を潜めていた。この日もしっかりと買い物をしていった。米子の動機は不純な頑張りが、一応の成果を発揮しているのを正義は感じた。
「へえ・・・。米子さんって、商品の知識がすごいですね。聞いてて感心しました。」
正義はすっかり忘れていた見慣れない顔の事を思い出した。今米子に話しかけた小柄の二十代中盤から三十手前くらいに見える女は何者なのだろうか。それを確かめるべく、正義は渋々、物陰から出て、二人の方へと近づいていった。
「あ、おはようございます。齋藤さん。こちら、今日からナイト部に加わる大山さんです。」
「大山と言います。宜しくお願いします。」
ああ、そういえば、前に米子が言っていた求人に応募してきた主婦というのが、彼女か。と、正義は心の中で思った。今回この人の面接を小島がしている姿を見かけなかったから、
その話をすっかり忘れていたが、どうせ、瀬戸の面接で自分勝手に怒って疲れて、自分で面接をするのが面倒になり、店長か誰かに面接を押し付けたのだろうと、正義は考察した。
「あ、どうも、齋藤です。お、お願いします。」
正義は手短に挨拶を済ませると、まだ米子に対して気まずさがぬぐい切れなかった為、そそくさと二階の倉庫に散った。
 正義が米子から逃れる為、気を紛らわす為に仕方なく始業時間前に二階でペットボトルの飲料水の在庫を段ボールごと台車に乗せていると、後ろから挨拶をされた。驚いて振り返ると、そこには、例のまん丸な瞳があり、心なしかまだ自分を睨みつけているかのような鋭さがあった。
「あ、ああ、おはよう、ございます・・・。」
正義は力のない返事を済ませると、その視線から逃れるように、台車と共にエレベーターに乗り込んだ。
 売場に戻ると、またしても時間通りに出勤しない小島や青山たちの代わりに、米子が大山に作業を教え始めていた。米子よ、もしそこに手を出そうと考えているのなら、やめておけ。相手は人妻だぞ、と、正義は心の中で忠告した。そんなことを思いながら米子を見ていると、ふと正義は気が付いた。米子がピン留めのようなもので長く伸びきった前髪を止めていることに、彼は気が付いたのだ。なるほど、これも瀬戸の仕業に違いない。あの二人はますます怪しいではないか。と正義は思った。前日もなぜか瀬戸は店に戻ってきた。連絡でも取りあって、一緒に帰ったのではなかろうかと正義は推測した。
 正義は時間が過ぎるのを早く感じた。意外と在庫の量が多く、小一時間が過ぎていた。それにしても、小島達は遅いなと思いつつ二階に戻り、ペットボトル飲料の入った段ボールを片付けていると、奥の喫煙室の方から声がした。正義は思わず近づいて、会話を聞いてしまった。もはや、盗み聞きする悪癖が付いているようであった。
「そういえば、今日から一人、新しい人が来る予定でしたっけ。」
「ア、 ソウダッタ。ワスレテタ。アハハハハ。」
あの品性のない笑い声、どうやら話しているのは小島と青山のようだ。それにしても、遅刻した上、すぐに働きもせず、たばこを吸いながら休憩しているとは、全くいい身分だ。それに加えて、新人が来ることを忘れていたとはいったい何を考えているのだろうと正義は思った。
「にしても、研修とかしないで大丈夫ですか。さすがに俺ら遅刻してきたの、まずかったですよね。」
お前らが遅刻してきたところで、誰もお前らに期待していないので特に何とも思わないが、遅刻がまずいというのは、青山にしては珍しくまともな意見だなと正義は思った。
「ダイジョウブヨ。ヨナコガ、イルデショ。アイツニ、ヤラセトケバイイヨ。メンドウナコトハ、アイツニ、ゼンブ、オシツケトケバイイノヨ。カッテニ、ヤッテクレルンダシ。チョウシニノッタラ、マタ、シメテヤレバイイノヨ。」
やはりこいつの言うことは一貫してまともではないなと、改めて正義は実感した。まあ、米子には気の毒だが、自分の知ったことではないと思った正義は、とりあえず、盗み聞きしていたことがばれるとまずいと感じ、ゆっくりと踵を返した。振り返って、心臓が止まりそうなくらいに驚いた。驚きすぎて声も出なかった。目の前に、鬼の形相の瀬戸が立っていた。どうやら、瀬戸も今の一連の会話を聞いていたのだろうと、その顔を見てわかった。そして、正義の方をその顔でじっと見つめた。正義には、やはり、あの自分の発言について彼女が何かを訴えているように思えてならなかった。ほら、やっぱり間違っているのはお前だろうと、咎められているような気分になり、正義は咄嗟に声を出した。
「あ、あれ、瀬戸さん、どうしたの。」
正義の妙に上ずった声にも、瀬戸は表情を一切変えず、ただ、
「お手洗いに行こうと思ったので。」
と答えるだけだった。
「あ、そうですか・・・。僕は売場に戻ります・・・。」
と言うと、正義は情けなく退散した。正義は一階へとつながる階段を下りる途中、気になって、二階の様子を少し覗いてみると、瀬戸が喫煙室に入って行くのが見えた。そして、少しの間を置いて、面倒くさそうな、気怠そうな顔をして中から小島と青山が出てきた。瀬戸のあの形相に感じた恐ろしさは、間違いではなかったのかもしれないと思いつつ、正義は足早に階段を駆け下りて行った。
正義が売場に戻ると、テルミンの演奏のような女の声が響いていた。正義が声のする方へ近づいてみると、例の潔癖女であった。大山が慣れない手つきでレジを打っている向かいのレジで、米子がまたしても潔癖女に絡まれていた。見たところ、とりあえずレジでの精算自体は終わっているようだった。それにもかかわらず、米子に暴言を吐き続ける為だけに、ずっとあのレジにへばりついているようだった。全くもって迷惑な客であった。あのまま、ただ暴言を吐くことだけを理由に、あの場に留まるのなら、刑法一三〇条の不退去罪になる疑いがあるからと言って、自分だったら警察を呼んでいるところだと正義はシミュレーションした。だが、結局は他人事であり、また、納品のトラックが見えたので、ここぞとばかりに正義はトラックの方へと向かい難を逃れた。
 迷惑事を回避したのはいいが、一人でカゴ台車の山を店内に運び込むことになり、正義は結局災難を被っていた。瀬戸に何か言われたのか、ご機嫌斜めと思われる小島と青山は、売場へは来たが、潔癖女を見てみぬふりで、そそくさと事務所に入って行ったきり、出てこなかった。瀬戸も本当にお手洗いに行きたかったのか、あれから売場に戻ってきていなかった。米子も未だ潔癖に絡まれていた。正義は、面倒くさいとは思いつつも、一人でやり遂げることを覚悟した。こんな時、正義が思うことはやはり、あほらしいだとか、何の為に頑張っているのだろうとか、虚しいといった類の事であった。そんな言葉の羅列が頭の中をぐるぐる回り、自分がしていることに嫌気がさしてくるのだった。もうこれ以上虚しい思いをしたくはないのだ。どんなに頑張っても自分にはピン留め一つさえくれる者はいなかった。そんな虚しい努力はもうごめんだ。と正義は心の中で恨み言を発した。ヘナチョコの正義には、重いカゴ台車を全て一人で運び入れる作業はなかなか骨が折れるように思われた。半ば絶望感が漂う中、ただ、目の前の台車から一つずつ片付けることに集中していると、スペースの都合上、トラックから降ろした台車を逃がして置ける場所がなくなった運転手から、早く運べと怒られる始末であった。理不尽な叱責にいよいよ正義の集中が切れそうになっていると、ようやく米子が応援に駆け付けた。助け舟に安堵しつつも、元はと言えば、米子が潔癖に絡まれていたのが原因で自分がつらい目に遭っているのだと思うと、彼への逆恨みにも似た怒りがこみ上げ、彼の遅くなり済まないという謝罪にも、無視という方法で返す正義であった。
 そうして、二人で台車を運んでいると、またもやテルミンの音色が聞こえてきた。潔癖はまだ帰っていなかったのだ。痩せぎすの女は、カゴ台車を引く米子に猛然と近づいていき、米子に暴言を吐き続けた。
「すみません!申し訳ありませんが、危ないですので、もう少しだけ離れていただけませんか!万一、お客様がお怪我されるようなことがあるといけませんので!」
米子が必死に叫んでも、潔癖は作業中の米子に付きまとうようにして、米子への暴言を続けた。それにしても、よくもまあ、そんなに暴言を吐き続けることができるものだと、正義はまるで我関せずというような態度で、潔癖に感心していた。正義がそんなことを考えていると、潔癖に付きまとわれながらも、前の台車を運び終えた米子が戻り、次の台車を運び始めた。台車は店舗入り口の坂になっている部分に差し掛かっていた。この部分では、従業員は皆思いっきり力を込めて台車を引っ張らないと、台車を店内に引き入れることはできなかった。重い荷物が載った台車に関しては、運転手が坂の下から一緒に押してサポートをすることになっている。米子が引いている台車も一ケース10キロ分の砂糖のケースが幾つも積んであるなど、比較的重い荷物が載っていた。そこで、運転手が米子の引いているカゴ台車を押す為に、坂の下からカゴ台車を支えていたが、米子の近くを相変わらず潔癖がうろついている為、運転手も米子もカゴ台車を店内に入れることができず、二人とも力を加えたままの状態で立ち往生することになってしまった。そんな状況でも潔癖は米子に付きまとうことを止めない。見かねた大山が、レジの客が途絶えたタイミングで、潔癖を何とか米子から遠ざけようとフォローしに来た。大山が潔癖に話しかけ、米子から潔癖を離れさせると、その隙をついて、運転手と米子は、重いカゴ台車を店内に引き入れた。だが、次の瞬間、大山の手が微かに自分に触れたことに激高した潔癖が、大山の手を思いっきり振り払った。それによろけた大山が、床に倒れ込んだが、そこには、坂で勢いのついたカゴ台車が迫っていた。大山の存在に気づいた米子は、咄嗟にカゴ台車の動きを止めようとするが、その反動で、米子の方にカゴ台車が今にも倒れ込んできそうになっていた。慌てて米子の方に回り込んだ運転手が、カゴ台車を支えている隙に、台車を運び終えて出入口へと向かう途中で米子達の様子を見ていた正義も駆け寄って、カゴ台車を支えた。間一髪、カゴ台車が倒れることを阻止した。その場にいた全員がふっと息をつくと、運転手や大山は怒りの形相で潔癖を睨みつけた。潔癖も、あわや大惨事という状況に怖気づいたのか、逃げるように店外へと消えて行った。それでも、憤懣やるかたない様子の運転手と大山に対し、米子は、小さく、
「彼女も辛いのでしょうから・・・。」
と言って、少しぎこちない笑みを見せると、再びカゴ台車を引っ張り始めた。そんな米子を、運転手も大山も不思議そうに見ていた。正義は、かける言葉がなく、ただ下を向いていた。すると、米子の左足、白いスニーカーの、甲のメッシュ部分には真っ赤な血がにじんでいることに気が付いた。どうやら、カゴ台車の車輪に足を挟んだのだろう。米子と言い瀬戸と言い、奴らはやはり自分とは何かが違う存在なのだろうな、分かり合えることはないだろうと、改めて正義は感じた。なぜ、そこまでするのだろう。そして、ちょうど台車を運び終えようかという頃に、レジが空いたのを見計らって、再び、大山が米子のところに駆けつけてきた。
「すみませんでした。私のせいで、色々とご迷惑をおかけして・・・。」
「いえいえ、そんなことないです。というより、こちらこそご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。あの方、以前から私が気に入らないらしく、毎回あんな風な騒ぎになってしまうのです・・・。」
二人が話していると、下を向いた大山が米子の足の怪我に気が付いたようだ。慌てて事務所に入って行った大山を、正義は他に急いでするべきこともないと思ったので、何となく追いかけて自分も事務所に向かった。大山がノックも忘れて事務所の扉を開けると、机に突っ伏して寝ている小島とお菓子を食べながら携帯電話をいじっている青山の姿があった。二人が慌てて身なりを整えるのをよそに、大山は気にせず事務所へと入って行った。
すると、虫の居所が悪かったのか、小島が大山に絡み始めた。
「チョット、アンタ、ナニヤッテンノヨ。」
「え。何って、米子さんが怪我したので、救急箱を探しているのですが。」
「ヤメロ。カッテニ、ココノビヒンヲ、ツカワナイデ。」
正義は、先程の潔癖女の騒動に全く何の協力もしなかっただけに留まらず、それによって負った怪我の治療さえもさせないという小島にさすがに怒りを覚えた。それは大山も同じだったようだ。
「え。ちょっと待ってください。米子さん、仕事中にケガしたんですよ。なのに、治療しちゃ駄目って、どういうことですか・・・。」
すると、すかさず、米子が割って入った。
「あ、いや大丈夫ですよ、自分で持っていますから。自分で治せますから。」
大山に感謝を述べると、米子は小島に治療の為、数分の休憩をもらえないかと尋ねた。
「チリョウシチャダメ、トハ、イッテナイヨ。タダ、ビヒンハツカワナイデッテ、イッテルダケ。チリョウシタケリャ、カッテニシテキナヨ。」
と言って、小島が許可を出すと、二人は二階へと上がっていった。さすがに、その休憩さえも認めなければ、米子も大山も怒りが爆発していただろうと正義は思った。小島もそれを察してか、渋々休憩を認めたのだった。大山は、まだぶつぶつと何か言いながら事務所を離れて行った。正義も仕事に戻ろうと振り返ると、そこには見覚えのある鬼の形相があった。正義はびっくりして思わず、
「あれ、二階に行かなくていいんですか。」
と口にしてしまった。
「えっ、何で私が二階に行く必要があるんですか。仕事しますよ。仕事を。」
瀬戸の言葉には若干怒気が混じっていたが、その内容自体は、正義にとっては意外なものであった。いや、単に痛いところを突かれて、動揺しただけかもしれないと正義は思い直した。ところで、正義は全く痛がることもせず、淡々と仕事を続けた米子のことを思い出していた。台車を引っ張り上げるときに、台車のキャスターに足を踏まれることがあるのは、この仕事の「あるある」ネタのようであるが、以前から、米子は足に台車が乗っても、特に痛がるしぐさもなく、何事もなかったかのように仕事を続ける彼の姿を、正義は何度か目にしていた。かのガットゥーゾ本人も、現役時代に、意味合いは違うが、「足にアイロンを履いているのでは」と言われていたことがあったが、米子も足にアイロンでも履いているのではないか、それぐらい鈍感だと思っていたが、今日のあの怪我で、正義は急に現実に引き戻されたような気分になった。やっぱり、奴だって人間なのだ。痛くないはずがない。大体、何故奴はあんな女を庇うようなことを言ったのだろう。自分のことを散々罵って、自分に危害を加えてきた人間を、何故。しかも、あの女のせいで怪我をするなんて、馬鹿馬鹿しいにも程があると正義は思った。少し考えて正義ははっとした。また米子のことを考えてしまっている。格好をつけているだけという結論が出て、もう考えないことにすると決めたではないか。正義は邪念を振り払うように、自分の頭を左右に振ると、再び仕事に取り掛かった。
その後、各々が自分たちの作業に取り掛かっていた。正義はあれ程考えまいと決めた米子の様子が、何となく気になってしまい無意識のうちにちらちらと彼に目を向けてしまっていたが、彼は少し動き辛そうにしているくらいで、傍目からは特に変わった様子もなく、いつも通り作業しているように見えた。それを見て安堵している自分に気が付き、正義は自分に違和感を抱いた。
 しばらくして、皆が継続して作業を続けていると、売場から小島が米子を呼びつける声が聞こえてきた。痛いはずの足を気にするそぶりもなく、声の方向に駆けて行った。正義も何となくこっそりと後をつけた。小島は米子にお客さんの言っていることの意味が分からないから、お前が対応しろと言うと、苛立ちながらどこかへと消えて行った。一体、何の為の責任者なのだろうと、つくづく呆れてしまう物言いだったが、米子は特に抵抗することもなく、お客様から話を聞いた。二人の会話を要約するとこのようであった。小島に最初に話しかけたお客さんは四十代半ばくらいの男性のお客さんで近所に住んでいる方のようだった。この方は、この店のプライベート・ブランド商品、いわゆる、自主企画商品、もしくは自社開発商品の、魚介ベースのだしの素が気に入っていて、よく購入するのだそうだが、この日の夜も家族の団欒にスープの材料として使われていたとのことだった。ところが、スープを食べた自分と奥さんはかゆみと寒気を感じ、一緒に食べたお子さんは蕁麻疹がでてしまい、先程、病院で診察を受けたとのこと。今までその商品を愛用していて特にそのようなことはなく、商品の裏面に表示されているアレルギー物質にも、家族は皆、今までにアレルギー反応が見られたことはなかったそうだ。そこで、お客さんは、もしかしたら商品に、表示以外の何かが購入している可能性を感じ、実際の商品とレシートを持って、この店に相談しに来たというのが会話の主な内容であった。お客さんは特に怒っているわけでもなく、自分たちの体調によって反応してしまったのかもしれないと譲歩したり、他のお客さんが食べてしまって同じようなことになってしまったら大変だと思い、相談に来たと言っていて、正義には、小島が苛立つ理由がどこにあったのか、全くわからなかったが、おそらく、話が難しかったり、対応がするのが面倒になったりした為にイライラし出したのだろうと想像した。現に正義も、米子が対応中に発言したコンタミネーションという言葉の意味が分からず、コングラチュレーションの派生語か何かかと思った程だった。米子は、本部に調査してもらえるように、担当者や上の人間に申し伝えることを約束し、お客さんの連絡先を聞いた。そして、お客さんの持ってきた商品とレシートを預かると、お客さんは安心した様子で店を後にした。すると、早速、米子は事務所に行き、小島に事のあらましを説明した。小島はどうやら、お客さんが金銭か何かを要求しに来たと思い、話を最後まで聞いていない段階で米子に押し付けたようで、自分が聞いたのと内容が違うと意味不明な発言をしていた。自分がそういう発想しかないから、勝手にそのような勘違いをするのではないかと正義は思った。米子はお客さんと約束したからと、まず、小島に内容をメモなどで文字に残し、食品担当の宮本に伝えてもらうように頼んだ。だが、日本語が苦手だの、長い文章が書けないだのとごねて、結局、米子が宮本に伝えることとなった。また、ナイト部の社員にもこの出来事を伝える為、普段、巡回などにもあまり来ないがこの店を担当している社員に連絡してもらうよう、小島に要請した。小島はこれにも難癖をつけた。大方、ナイト部の社員と連絡を取ることで、自分の怠惰な仕事ぶりが露呈することを恐れているのだろうと正義は推測した。この件で、社員がこの店に出入りするようになったら、小島からしてみたら、たまったものだはないのだろう。それにしても、小島を野放しにし続けている社員も十分怠惰ではないかと正義は思った。そこで、米子は、それならば自分が連絡をすると言い、おもむろに電話の受話器を取って、壁に掛かった連絡網の張り紙から社員の連絡先を探した。小島は慌てて米子から無理やり受話器を取り上げると、事務所の電話を勝手に使うな、リーダーである自分を通り越して勝手な行動をとるなと米子に叱責を始めた。毎回、本当に自己中心的な論調であると正義は感じた。それでも、米子はお客さんとの約束なのでと引き下がらず、自分の携帯電話で社員に連絡を取り始めた。結局、小島は米子を制止しきれず、彼と社員との会話中、終始、米子が余計なこと、自分にとって不利益になることを言わないかと気にして、度々、米子の携帯電話に自分の耳を無理やり押し付けて会話の内容を聞き取ろうとしたりしていた。電話が終わると、再び、小島の矢のような叱責が始まったが、米子はどこかすっきりとした表情を浮かべていた。心なしか正義には米子の前髪を留めているピン留めが輝いていたように見えた。
 その後もいつも通りの作業をいつも通りにこなし、各々の時間は流れた。この日が初日の大山にとってはいろいろなことがあった日かもしれないが、ここではこれが日常であった。正義は、米子の怪我の件での彼女の対応から見て、彼女はまともな人間だろうと感じていたが、だからこそ、この職場に長く務めることはないだろうとも思った。まともな人は、この職場の雰囲気にも、小島にも耐えるのは難しいと正義には思えた。そして、そんな場所でひと冬を越してしまった自分も、たった数か月とはいえこの仕事を続けている時点で十分にまともではないと言えるのではないかと自問した。
 納品物の陳列も一段落して、この日の仕事も残すところ後は、パンの納品を待ち、それらを陳列することくらいとなっていた。売場では、米子がパジャマ姿で来店してきたベルモントと英語で会話していた。見慣れてきた光景とは言え、正義はこれに関してはいつも感心していた。正義は英語が大の苦手であったし、大学時代に必修であった第二外国語に至っては、第一外国語とみなされる英語でもちんぷんかんぷんなのにも関わらす、その上、もう一つ言語を学ぶことなど愚かだと思えた。現に、第二外国語として学んだドイツ語の授業の内容は全く頭に入ってこず、唯一覚えていることと言えば、教科書の例文に出てきた「ach so」という言葉が、発音の似ている日本語の「ああ、そう」という言葉とほぼ同じ意味だということくらいだった。
 そんな時、またしても小島が米子を呼びつける声が聞こえてきた。今度は一体どうしたというのだと思いつつ、正義は米子の後を追った。正義が小島のところへ向かった米子を遠巻きに見て、彼らの様子を観察していると、小島の隣には首からプラカードのようなものを下げた男性が立っていた。着ているものから察するに、おそらく彼はパンを配達しに来た業者だろうと正義は思った。いつもパンを運んでくる人たちが着ている、青色のつなぎを彼も身に着けていたからであった。そして、プラカードにはこう書いてあった。「私は耳が聞こえません」と。正義は理解した。どうやら、小島はまた、自分が面倒だと思うことを米子に押し付けたのだと正義は判断した。これももはや、見慣れてきた景色であった。
米子は、プラカードを見ると、米子は状況を把握したようで、「どうかしましたか」と口を比較的いつもより大きくあけながら言うと同時に、右手の人差し指を立てて、左右に振る動作を行った。正義は、あれはおそらく手話ではないかと思った。すると、業者の男性は、左手の人差し指に、右手の人差し指と親指で作った半円をつけ、その両手を米子に向けて見せた。米子は頷くと、ポケットからメモ用紙を取り出し何かを書いて男性に見せた。それを見た男性はにっこりと笑って、手の甲にもう片方の手を垂直に当ててあげる動作をした。その意味は正義も知っていた。それは「ありがとう」という意味の手話であった。そうして、米子にお辞儀をしながら、彼は一旦店を出て行った。その直後、正義と同じく、遠巻きに二人の様子を見ていたと思われる、瀬戸と大山がやってきて、米子を尊敬の眼差しで見つめていた。はい、はい、米子さん、またいい恰好が出来てよかったねと、正義は思ったが、内心は彼自身も米子を純粋に米子の多才ぶりをすごいと思っていた。彼は何故、あんなにもいろんなことができるのか。そして、そんな人が何故、こんな職場で働いているのか。正義にはそれが疑問であった。
 しばらくして、パン業者のトラックが店の前の道路沿いに停まった。そして、運転席から先程の男性が出てきた。そして、再び店内に入ると、米子にノートを見せた。思わず、横から瀬戸、大山、そして正義もそのノートに書かれた文章を覗き込んだ。そこには、「お持ちしたパンはどこにお運びしたら良いですか」と書かれていた。これを見て米子は、彼に向けてまた手話で話しかけた。米子はまず、自分に人差し指を向けると、次に両手の甲を前に向け、左手で右手の指先を持ち、そのまま両手を左肩の方に引き上げる動作をした。再度、男性が「ありがとう」と言うと、米子は両手のひらを上向きにして、そのまま斜め前に出した。おそらく、これは「どうぞ」という意味だろうと正義にも何となく分かった。そこから類推して、おそらくその前は、「案内しますよ」という意味ではないかと正義は考えた。正義の予想通り、米子は男性をパン売場まで案内すると、男性はまた、ニコリと笑顔を浮かべてトラックへと戻って行った。そうして彼は、納品分のパンが入ったケースを台車に載せて出入口まで持ってきた。すかさず米子が例の坂から台車を引き上げ、彼と一緒にパンを売場へと運んだ。このやり取りが何度か続いた。二回目以降は、他の三人も総出でパンの運び入れを手伝った。無事に納品分を運び終えると、男性はまた、米子に向けて「ありがとう」とその手で伝えた。そして、出入り口の前で一礼し、何かを言って外へと出て行った。米子を含め、そこにいた正義、瀬戸、大山の耳にはおそらく、言葉というには少し頼りない音が聞こえてきたに違いなかった。ただ、彼らにはしっかりと彼の「ありがとうございました」が聴こえていた。
 トラックが出ると、彼の言葉を聴くことのできない人間がいるとしたらこういう人間だろうと思われる人物が、事務所から顔を出し四人の元に歩いてきた。小島はその目を吊り上げ、米子にパンの業者の運び入れを手伝うような真似はするなという趣旨の発言をした。
何でも、パンは毎回、業者の人間が運び入れることになっていて、勝手に売り場の前においてある状態が理想なのだと彼女は言った。下手に手伝うとそれが当たり前になって、今までの習慣が壊れるからやめろと米子に注意した。正義は単に、自分たちの仕事が増えるのが嫌なのだろうと感じた。この人は一体、どれだけ動きたくないのだろう、働きたくないのだろうと思った。例のごとく、米子は平謝りをしていたが、瀬戸と大山は明らかに不服そうな顔をしていた。正義は毎度おなじみ、米子に面倒を押し付けて置いて、最終的に米子を叱責するパターンを、当然と言えば当然ながら見ていて良く思わない者が出てきたことを実感した。米子の入って来た当初の状況では考えられないことだったと彼は思った。正義は何かが変わり始めているような期待を感じたが、同時に何かが起こりそうな嫌な予感もしていた。
 午前七時を迎え、縄で縛られた女神テミスの石像とメンバーの顔がプリントされたメタリカのライブツアーTシャツを着た米子をレジに一人残し、ナイト部の面々は次々にバックヤードへと向かっていた。黒字に赤い袖の米子のラグランTシャツが正義には何故だかやけに印象に残った。デザインが格好良かっただけだろうと正義は特に深く考えることはしなかった。 
 正義が更衣室で着替えた後、休憩室で椅子に腰かけていると、着替えが終わり女子更衣室から出てきた瀬戸と大山が休憩室の前を通り過ぎるのが、開けっ放しの入り口の隙間から見えた。二人の姿をぼんやりと眺めていた正義は、急にあることに気が付き、ハッとした。瀬戸のアウターからわずかに覗くTシャツの柄、あれはまさに先程レジで見た、縛られたテミスの石像ではないかと正義は驚いた。首の周りが赤く、おそらく袖も赤いだろう。そしてベースは黒。まさしく数分前まで見ていたものと同じTシャツだ。そして、同時に思い出したのだ。この日、二階の倉庫で瀬戸に挨拶をされた時にも、確かに縛られたテミスがちらりと見えていたのだった。米子のTシャツをまじまじと見てしまうほど、引っかかっていたものの正体は、どうやら既視感からくるものだったようだ。謎が解けたのと同時に、もう一つ気がかりな点が出てきた。それは男女で服がかぶるようなことはあるのだろうかという点であった。同性同士で、色やスタイルだけならば、割と同じようなファッションになることもあるし、Tシャツなど一つのアイテムだけとなれば、異性間でもこういったこともあるかもしれない。だが、米子と瀬戸、あの二人だ。あのあやしい二人のTシャツが一緒なのだ。もはや、これは意図的に合わせているに違いない。ペアルックというものに違いない。正義は、あやしさが確信に変わったことによって、もはやニタニタとしていたが、自分ではそれに気が付くことはなかった。正義が階段を下りていく彼女たちの会話に耳を傾けると、ちょうど良いタイミングで大山が瀬戸の着ているTシャツが米子と同じであることを指摘していた。大山ナイス、と正義は心の中で叫んだ。瀬戸はロックスタイルのファッションが好きで、バンドTシャツをよく着ることがあるので、たまたまTシャツのプリントがかぶったと弁明していた。大山はそれで納得している様子だったが、正義はそれでは腑に落ちなかった。状況証拠は完全に黒を表していると正義は邪推した。正義の中では、二人は完全に恋仲となった。そんなことを考えていると、誰かが来たような物音が聞こえた。おそらく、社員かパートさんだろうと正義は考えた。そして休憩室で鉢合わせるようなことになると面倒だと思い、急いで水道で手を洗った。暖かくなってきたとはいえ、まだまだ癒えぬ、あかぎれでできた傷口に水やせっけんが入ると、正義はそれだけで痛みを感じた。そしてふと思った。これだけのことでも十分痛みを感じるのに、米子は痛くなかったのだろうか。スニーカーの上からでも血の雫が床に幾滴も落ちる程、出血していたのだ。痛くなかったはずはない。だが、米子は痛い素振りを少しも見せなかった。正義はそのことが不思議で仕方がなかった。
 結局、考えないと決意しつつも、無意識に正義が米子のことを考えてしまっていると、休憩室に人が入って来た。正義は、米子のことを考えていたことを後悔しつつ目をそちらに向けると、そこに立っていたのは宮本だった。
「お、齋藤君。久しぶり。元気。」
宮本の柔和な表情を見て、彼は安心した。宮本は手にビニール袋を持っていた。透けて見える中身を見ると、昨晩、お客さんが持ってきた、だしの缶であった。
「今、米子君と話してたんだけど、彼、一生懸命働くみたいだね。」
「ええ、まあ、そうですね・・・。」
数少ない心を許せる人物だと正義が思っている宮本に、褒められている米子のことが少し羨ましく思えて、正義は歯切れの悪い返事をした。
「なのにさ、かわいそうだよ。自分がちゃんと評価されてること、知らなかったんだからね。モチベーションが全然違うだろうに。」
正義は、宮本の言うことが理解できず、どういうことか説明してもらえるよう頼んだ。
宮本の話はこうであった。この会社は全店的にお客さんへと対応の質が悪く、本部へのクレームが多いことから、従業員の接客対応を良くする目的で業者に内定調査を依頼し、定期的に店舗に調査員を派遣して、派遣先の店舗の従業員が正しく対応しているかチェックし、評価、査定をしており、当然この店も調査対象になっていて、その結果のデータが一週間程前に店舗のパソコンに本部から送られてきたとのことだった。そのデータによると、ナイト部の中では、米子の対応への評価が飛びぬけて良かったらしく、パート、アルバイトの中では他の時間帯の従業員と比べてもダントツの結果だったとのことだった。だが、正義もそうだが、米子も小島からパソコンに触れないように言われていた。基本的には、本部から従業員への連絡事項などもあるので、パート従業員でも確認しなければならないものであるはずだが、嫌がらせなのか何なのかはわからないが、小島は、自分や自分が信用している青山などの人間以外がパソコンを操作することを激しく拒絶した。それによって、米子は自分が良い評価を得ていることを知ることができずにいたのが、宮本には気の毒に思えたようだった。ただ、正義はそれを聞いても、別に会社や調査員からの評価などなくても、彼には瀬戸の評価があるから問題ないだろうとしか思わなかった。ところで、ナイト部で最低の評価だったのは、小島と青山であり、売場での無駄話が多く不快で、それを遮る形で調査員が声をかけたところ、初めは無視をされ、何回目かでやっと渋々面倒くさそうに対応をしたという調査員のコメントが添えられていたとのことであった。正義は二人の仕事ぶりや人柄を良く知っていて当然の評価だと思ったし、調査員のコメントの二人の対応は正義がいつも目にして良く知ったことであったので、特にそれについて意見を述べることはなかった。そして、正義はここ最近、小島が、米子が接客に時間をかけることに対し、過剰に叱責を浴びせていた理由がわかった気がした。ただ単に、嫉妬や八つ当たりの類でしかなかったのだと正義は納得した。元々、八つ当たりやその時の気分で部下を叱責するような理不尽な人間だとは正義にもわかっていたことだったが、彼はそのことを改めて実感した。
 さらに、悪いことに、宮本が言うには、小島は米子のことを相当良く思っていないようで、宮本が知らないところで、小島が米子の謂れのない悪評をパート従業員たちに言いふらしているらしいのであった。米子はTシャツを見れば一目瞭然なほど、音楽、特にロックが好きなようで、共通の趣味のある宮本や新川は、正義と同様に米子と話す機会もあるようで、彼らは米子を小島が言うような人間ではないだろうと想像できただろうが、米子のことをあまりよく知らず、事情も分からない従業員たちの中には、小島の話を信用してしまっている人もいるようであった。正義は他人事のように聞いてはいたが、小島はどこまで性根が腐っているのだろうと呆れた。宮本は悪評について、働く時間帯が違う昼間のパート従業員の信用を米子が回復するのは難しいだろうと語った。それは、直接米子本人と話す機会も、本人が働いている姿を目にする機会もないからであった。正義は逆に、それを見越して悪評を広める小島は実に卑怯なやり方をするなと他人事ながらに思った。そこで、宮本は米子に、深夜の時間帯で特売品の売場のセッティングを一か所全て任せて、売場を完成させるよう、仕事を頼んだのだった。完成された売場は、昼間の従業員も見るので、米子の信用を仕事で取り戻すことができるようにという、宮本なりの配慮であった。それには当然商品のポップを作るなど、パソコンを使わなくてはできない作業も含まれるが、使い方は米子が返る前に教えるので問題はないだろうと、宮本は言った。だが、正義が心配していたのはそこではなく、あの小島がパソコンをちゃんと米子に使わせるかということであった。宮本はさすがに社員である自分が命令したことなので、いくら小島でも米子にパソコンを使うなということはできないだろうと安心していた。正義には一抹の不安がよぎったが、所詮は他人事なので、それ以上この話に切り込むことはしなかった。

 翌日、正義本来の姿である始業時間ギリギリでの出勤となり、猛ダッシュでタイムカードを切った為、売場で一人息を切らしていると、いつも通り、売場から米子と例のおばさんの声が聞こえてきた。
「昆布は緑がかった褐色のいいものを選ぶのがおススメですよ。黄色や茶色はあまり選ばない方がいいです。また、昆布の表面の白い粉はマンニットといううま味成分なので、粉がいっぱいついているものは、より美味しいだしが出ますよ。」
いつものように、おばさんがニコニコしながら米子の話を聞いていた。この日はどうやら乾物について質問しているようだった。ちなみに、米子曰く、乾物と書く場合は塩を含まないもので、干物と書く場合は塩分を含んだものを指すとのことだった。
「干し椎茸は戻す前に一度日光に当てると、よりおいしいだしが出ますよ。」
「え、何で、もう一回干すの。干し椎茸なんだから、もう干してあるじゃない。」
「最近の市販品は大量生産の為に、日光に当てずにボイラーで乾燥させているものが多いのです。なので、お使いになる前に日光に当ててあげると、ビタミンDが増えてうま味もアップしますよ。」
相変わらずの蘊蓄に、正義が感心していると、小島が遅刻してきたくせに肩で風を切りながら猛然と米子の方にズカズカと歩いてきた。そして、いつもよりも強めに米子に叱責をし始めた。
「ヨナコ。イツモイッテルヨナ。アブラウッテナイデ、サッサトサギョウヲシロヨ。ノウヒンクルマエニ、ジュンビガアルダロ。ヤレヨ。」
あまりの小島の剣幕に、おばさんはそそくさとレジの方向へと逃げて行ってしまった。あれもスーパーの従業員としては大事な仕事の一つなのではないかと、正義は思った。このような態度だからこそ、内定調査員に酷評されるのだとも思った。米子は売場に戻ると、おばさんに謝っていた。おばさんも自分のせいで済まないと米子に言っていた。誰も悪いことはしていないのにと、正義は感じた。
 時間は過ぎ、通常のルーティーンで作業は進んでいた。すると、青果売場にいつかのスクーターのお客さんが立っているのを正義が発見した。お客さんは、売場をキョロキョロと見わたしていた。それに気が付いた瀬戸が、気を利かせて米子を呼びに行った。米子がお客さんに駆け寄ると、お客さんは先日の感謝を口にした。それから二人は数分の間、談笑していた。すると、今度はお客さんが、カボチャの選び方について米子に何げなく質問をした。
「まず皮の表面に艶があるのを選ぶと良いですよ。」
「ふ~ん。そんじゃ、こういう、皮の表面まで黄色くなってるのは、どうなの。」
「カボチャの表面の黄色の部分は、地面と接していた部分で、日焼けをしていない部分です。特にこれがあってもなくても、美味しさには変わりはありません。その部分は日焼けをせずに中の果肉と同じ色のままなので、むしろ、黄色い部分があれば、その色で中の状態を判断できますよ。」
「なるほどね・・・」
「表面の艶以外は、カボチャの上の軸が太くて、切り口が良く乾燥しているもの、それでその軸の周りがへこんでいるものが良いです。また、形がいびつなものは受粉不良なので、きれいに左右対称になっているものの方が美味しいです。それから、手に持った時にずっしりと重みがあって、皮が固いものを選んでいただくというのがカボチャ選びのコツでしょうか・・・。」
そう米子が話し終えるかというところで、またしても小島が現れた。
「イイカゲンニシロヨ。ナンドイエバワカルンダヨ。」
と怒り狂った様子で米子のTシャツの襟首を掴み、そのまま売場の奥の方へと引きずって行った。小島に首元を引っ張られた米子が着ていたのは、デフ・レパードのヒステリアのアルバムジャケットがプリントされたTシャツであったが、この時の小島がまさにヒステリーそのものだと正義は思った。お客さんは呆然としたままでしばらく青果売場に立ち尽くしていた。彼女はよほど、例の内定調査の件が気に食わなかったのだろう。また、米子を気に病んだ宮本が彼に仕事を振ったことも、彼女をより不機嫌にする結果となったようだと正義は感じた。
 そうして作業は進み、小島の怒鳴り声も正義の脳裏からすっかり消え、作業もひと段落を迎えようとしていた。米子は宮本から依頼を受けた仕事をする為に、いつもよりも急いで作業に取り組んでいたように見えた。その甲斐あってか作業も速めに片付き、パソコンを使おうと米子は事務所へと入って行った。すると、中から小島の声が聞こえてきた。
「オワッタノ。ア、ソウ。ジャ、レジ、コウタイシテ。」
そう言うと、小島はレジに入っていた神田を事務所に呼んだ。米子は小島の命令に困惑しながらもレジに入った。米子が困惑するのも無理はなかった。通常の作業ルーティーンであれば神田は少なくとも一時間以上はレジに残るはずなのだ。そのルーティーンを変えて小島は米子をレジに閉じ込めたのだ。事務所からは小島と神田の笑い声が響いていた。明らかな嫌がらせだと正義は思った。米子も同じことを感じているに違いないと彼は感じた。
 十五分の休憩を回し始める時間となり、米子はようやくレジから解放されることとなった。レジを出た米子はパソコンへと向かったが、小島がパソコンを使っていた。
「キュウケイシテキナサイヨ。」
と小島は冷たく米子に言い放った。米子は渋々、今度は売場の方へと向かった。どうやら、先に売場を完成させるつもりのようだと、正義は思った。小島の様子が気になり、正義はこっそりと事務所の扉を開けた。隙間からはパソコンでソリティアをして遊んでいる小島の姿が見えた。その時、静まり返った明け方の売場から大きな声が響いて、びっくりした正義は急いで事務所の扉を閉めると、声のする方へと駆けて行った。
「米子さん。休憩中はちゃんと休んでくれないと。僕らも休憩とるのが後ろめたくなりますから。休憩中に仕事するの、やめてもらえますか。」
「休憩中ですから、ちゃんと休みましょうよ。」
声の主は青山と神田だった。おそらく、小島の差し金だろうと正義は思った。米子は渋々、休憩室へと向かって行った。正義はさりげなく米子の様子を見に休憩室に行くと、米子はテーブルの上で何かを必死に書いていた。何をしているのかははっきりとはわからなかったが、おそらく、まだ宮本に頼まれた仕事を諦めたわけではなさそうなのは見て取れた。相変わらす懲りない奴だなと正義は思った。そして、正義は、テーブルの下から覗く彼のスニーカーに自然と目が行っていた。血が付いたスニーカーを見て正義は、足を怪我しているのに宮本に任された仕事をする時間を作る為に、あんなに必死になって動き回るなんてと感嘆した。同時にそんな努力を妨害し、無意味なものにしようとする小島達に正義は腹が立った。
 結局、米子は宮本から頼まれた売場のセッティングを一切することができないまま、終業時刻の午前七時を迎えた。正義は次々と帰っていくナイト部の面々をレジから見送った。
どこか元気のなさそうな米子をニタニタと笑みを浮かべながら、小島、青山、神田の三人が見ていた。バックヤードからは三人の嘲笑が漏れてくる中、米子はタイムカードを押した。さらに一時間が経ち、レジから解放された正義は、米子が作るはずだった特売の売場が少し気になり、売場を見に行ってみることにした。すると、なんとそこにはカップ麺の特売コーナーが完成しており、発見した正義は驚いた。いつの間に、そして誰がこれを作ったのだろうか。一時間前まではこんなものは存在しなかったのにと正義が考えていると、ちょうどそこへ米子がやってきて、持っているポップを商品にクリップで取り付けていた。はて、米子は結局パソコンを使わせてもらえなかったはずではと正義が怪訝に思いながらポップを覗き込むと、それらは全て手書きで書かれていた。図形のように書かれた、ところどころ角張り、それでいて丸みを帯びたアピール力抜群の文字は、よく巷のいろいろなお店で見かけるそれと全く引けを取らない出来で、「売り切れ御免 現品限り」というフレーズとかわいらしいイラストを見て正義は素直に良いポップだと思った。休憩室で必死になって書いていたのは、おそらくこの手書きのポップであったのだろうと正義は思った。
「結局、時間内には終わらせることはできませんでしたけど、何とか、宮本さんや他の社員さん、パートさんたちが来る前に終わらせることができました。急いで作業したので、所詮、付け焼刃の出来具合ですから、次からは頼まれなくなると思いますが・・・。」
と言って苦笑いしながらその場を去ろうとする米子に対して、正義は何故か咄嗟に言葉をかけた。
「いや、僕はとてもいいと思いますけど。特にこのポップとか。温かみがあって、手作り感があって・・・。パソコンで作るよりも、むしろ、こっちの方がいいと思いますけど。」
そこまで言って、正義はふと、我に帰った。自分は何を言っているのだろう。また、言うつもりもないことを言ってしまったと正義は思った。
「そうですか。そう言ってもらえると嬉しいです。ありがとうございます。」
米子はそう言ってニコリと笑った。正義は自分が何故あんなことを口にしたのかは疑問だったが、不思議と今回は後悔しなかった。米子の笑顔を見たからだろうか。その辺は正義自身にもよくわからなかったが、やはり深く考えることはやめにした。

 翌日、正義は自転車を握る自分の手を見つめていた。あのひどかった皸がすっかり治りかけていた。あんなにかじかんでいた手が、もう冷たさを感じることはなかった。その代わりに、くしゃみ、鼻水、目のかゆみを感じていた。もう春なのだなと正義はしみじみと思いながら、職場の駐輪場へと自転車を停め、職場へと向かった。正義が男子更衣室から出ると、縄で縛られたテミス像が描かれたTシャツが目に入って来た。正義は顔を見ずとも大体それを着ているのが誰かは検討が付いた。この前のラグランTシャツとイラストが同じ別の黒いTシャツに黒のパーカーを見て、正義は、もうライダースジャケットの季節も終わったのだな、季節はやはり本格的に春だと改めて実感した。
「あ、おはようございます。え、ちょっと、どこを見て・・・。」
と、まん丸な顔をした女がTシャツのイラストを凝視している正義に対して言った。
「あ、瀬戸さん、おはようございます・・・。いやあ、あの、メタリカ好きなんですね・・・、
この間もメタリカの・・・」
そう正義が言いかけた瞬間、
「そうなのよ、聞いてくださいよ、齋藤さん。瀬戸さんこの間・・・」
と、大山が正義に何かを言おうとして話に入って来たはいいが、肝心なところで瀬戸に口を押えられた。まあ、正義には大山が何を言おうとしていたのかは大体想像はついていたので、とりあえず、嫌らしい目で正義が瀬戸を見ていたのではないだろうかという疑いに関しては、もう忘れられているに違いないと確信し正義は安心した。安心したところで正義が休憩室に向かうと、珍しく神田がすでに来ていた。そして、見知らぬ男と楽しそうに会話をしているのが正義の目に入った。
「おはようございます。」
正義の挨拶に返事は返ってこなかった。とはいえ、神田の失礼な態度は今に始まったことではなかったので、彼はそこまでイライラすることもなかったが、ところで隣の男は一体誰だったのだろうかということが気になった。
 始業時刻になり、正義が売場に向かうと、米子が例のカップ麺の特売コーナーで品出しをしていた。挨拶を済ませ、二階にいた男のことを正義が尋ねると、どうやら新しいアルバイトの人間のようであった。その割に、俺の挨拶を無視しやがったなと、正義は今更になって怒りがこみ上げた。米子は瀬戸や大山の時のように、先に仕事を教えようとしたようだが、本人にまだ始業時間ではない、また、自分の上司は小島なので、上司以外の命令や指示には従わないと言われて断られたそうだ。米子も彼とまだちゃんと挨拶ができておらず名前も知らないようだった。始業時間は過ぎたが、彼はまだ神田とおしゃべりを楽しんでいるようだった。
 それから三〇分ほどが過ぎて、青山、そして小島と順番に売場に姿を現した。小島はカップ麺の売場を見たとたん、機嫌が悪くなったようで新人の研修を米子に押し付けると、青山を引き連れて早々に事務所に立てこもった。小島の指示ということで渋々、新人は米子についていった。
 正義が納品前の在庫出しをしていると、後ろから肩を叩かれた。振り返ってみてみると、そこには、米子と仲のいい、例の「いじわるおばさん」が立っていた。
「あの子、今日はいないのね。じゃあ、あなたでいいわ。ちょっと聞いてもいい。」
正義はまずいことになったと思った。なぜなら、新人の研修で米子は手が離せない状態であり、わざわざ米子を呼びに行って、研修を止めるわけにもいかず、自分が何とかしなければいけないと瞬時に悟ったからだった。正義は急に腹部が痛くなり、背中を冷たい汗が
伝い落ちていくのを感じた。
「はい。なんでしょうか。」
引き攣った顔と裏返った声で正義が応じると、
「この、カタクリの花だけど、どうやって食べたらいいの。」
という質問が返ってきた。正義は正直、そんなものが売場においてあること自体知らなかったし、大体が青果の商品にナイト部の人間が触れる機会はレジ以外ほとんどないので、青果の商品の中でもマニアックなカタクリについての情報など、もはや正義は知るわけがなかった。どう対応していいのかわからず、正義は慌ててしまい、何も言うことができずにいた。少し考えた末、バックヤードに下がって携帯電話で検索しようと思いつき、おばさんに対し、少し待っていてもらうように言葉をかけようとしたちょうどその言葉を遮るように、おばさんは正義を引き留めながら言った。
「いや、ごめんなさい、もういいのよ。少し難しい質問だったよね・・・。」
そう言うと、おばさんは続けた。
「ところで、今日はいつも居る髪の長い、メガネの子はいないの。あの子なら分かったかもしれないんだけど。あなたには少し難しかったのかもしれないね。ごめんね、余計な時間を使わせて。」
おばさんにそう言われて、正義は少し頭に来た。それは、自分でもわかっていた米子との知識量の差、従業員としての力量の差をおばさんに言い当てられた気がしたからだった。まさしく図星、痛いところを突かれて正義は自分のふがいなさに腹が立ったのだ。腹の虫がおさまらない正義は、おばさんに向かって
「はい、わかりました。では、米子を呼んで参りますので、少々お待ちください。」
と、感じ悪く、大きめの声で言った。それはもはや、ただの八つ当たりでしかなかった。
「いや、もういいのよ。本当に。あの子も何か他のお仕事中だと思うし・・・」
そう言って、その場から離れようとするおばさんを引き留め、正義は、
「いやいや、いいですよ、呼んで来ますから。ここでお待ちください。」
とむきになって強めに言い放った。この場を離れようとするおばさんと、それを制止して売場に引き留めようとする正義の攻防が数分間続いていた。異変に気付いたのか、瀬戸と大山が二人の下へ駆けつけてきたが、それを気にも留めず、正義は両手を広げておばさんの前に立ち、進路を妨害した。正義の行動の異常さを察知して、大山が二人の間に割って入った。その間に、瀬戸は売場の奥へと駆けだしていった。
 ところで、正義は自分の過去の経験からか、もしくは自分が誰にも認められたことがないと思っている節があり、自己肯定感が欠如しているからなのかは定かではないが、他人の自分を軽視するような発言に対して、極度に敏感であり、それに対して尋常ではない程の激しい反応を見せることがこれまでにも何度かあった。そして、一旦スイッチが入ってしまうと、なかなか自分を抑えることが難しかった。その正義の悪い癖のようなものが出てしまったのであった。訳も分からず、とりあえず謝る大山に対し、おばさんはただ、驚いた様子で正義を見つめていた。そこへ、瀬戸が米子を連れてやってきた。米子を見つけるとおばさんは急に明るい表情になり、米子へ歩み寄って行った。米子はおばさんと正義から事情を聴くと、まず、おばさんに質問に答えられなかったことに対し従業員を代表して謝った。また、正義が起こした騒ぎと正義のおばさんに対する悪態に対しても謝罪をした。その間、正義はその様子をただ見つめることしかできなかった。つまらないプライドのせいで、自分の代わりに頭を下げている米子をただ見ていることしかできず、頭の一つも下げられないで、ただその場に突っ立っているだけだった。米子の謝罪に対し、おばさんも快くそれを受け入れ、いつも通りの二人の会話が始まった。
「カタクリですけど、お浸しや和え物、天ぷら、汁物の具罪などに使われることが多いですよ。葉と花の部分をさっと下茹でして、お料理に使います。」
「へえ、そうなの。本当にあんたは何を聞いても詳しく教えてくれるねえ。」
「そうだ、さっきの子には謝っておいて。私も悪かったのよ。みんながみんな、あんたと同じように答えられないことは私もわかってたの。前からこの店来てるから。でもね、最近あんたとよく話してたから、私もつい、甘えてしまったのかもしれないね。お調子に乗り過ぎたわ。ごめんなさいね。また来るわ。」
そう言って、山形県産のカタクリのパックを手に取り、おばさんはレジへと向かって行った。売場には米子と瀬戸、そして、一部始終をただ突っ立って見ていることしかできなかった正義が残された。すると、米子はバックヤードへと引っ込んで行った。正義はその場から動くことができなかった。瀬戸がしびれを切らしてその場から離れようとしたとき、バックヤードの出入り口が開き、米子が戻ってきた。そして、手に持った缶コーヒーを正義の手に握らせながら、米子は言った。
「あんまり気にしないでいいと思いますよ。気持ちを切り替えて、仕切り直しましょう。人間ですから、感情的になってしまうこともありますよ。それに、お客さんも齋藤さんに悪いことしたから、謝っておいてと言っていました。どうぞ、これを飲んで一服してきてください。齋藤さん、タバコ吸わなかったですよね。これでも飲んで落ち着いてきたらいいと思いますよ・・・」
米子が言い終わるかどうかというタイミングで、正義の口から言葉が漏れた。
「どうしてですか・・・。どうして俺に何も言わないんですか!俺のせいでお客さんに頭を下げる羽目になったんですよ!俺のせいで損をしたんですよ!何で、そんなことが言えるんですか!どうして平気でいられるんですか!」
正義自身のふがいなさから端をはした苛立ちはまだ収まっていなかったのか、正義の八つ当たりは矛先を米子へと変えた。
「こんなことしてたら、また、マネージャーに怒られますよ、あなた。無駄な時間を使ってとか言われて。いつもそうじゃないですか。あのお客さんに構って、怒られての繰り返し。なのに、なんで、わざわざ何度も何度も怒られてまで、あのおばさんの話し相手を続けるんですか。俺には理解できませんよ。」
感情的になり本音が口からこぼれた正義に対し、米子は少し間を置いて口を開いた。
「カタクリの花言葉、齋藤さんはご存知ですか。」
「はあ・・・。」
あまりに、唐突な質問に、思わず正義は素っ頓狂な声を上げた。
「たしか・・・、『初恋』、でしたっけ・・・。」
横で聞いていた瀬戸が会話に割って入ってきた。
「そうですね。そういう意味もあります。でも、もう一つ意味があって、『寂しさに耐える』
という意味もあるんです。人間は皆、寂しさに耐えているのではないでしょうか。あのお客さんだって、きっと。もし、僕との会話で少しでも寂しさを紛らわすことができるなら、僕はこれから先もあの人との会話をやめるつもりはありません。」
そう言って、米子は少し笑った。しかし、正義にはその笑顔が妙に癇に障り、次なる爆発を引き起こした。
「そんなこと言って、貧乏くじばかり引いてるじゃないですか。おかしいですよ。なんでそこまでする必要があるんですか。たかがアルバイトじゃないですか。マネージャーたちは嫌なことは全部あなたに押し付けてるじゃないですか。それなのに、なんで、自分から貧乏くじを引きに行くみたいに、全部引き受けてるんですか。あの人たちはあなたのことをこれっぽっちも良くは思ってませんよ。いつだったか、俺が休憩室にいるときに、隣の喫煙所にマネージャーたちが入ってきて・・・。それで俺は狸寝入りしながら、マネージャーたちの話を聞いてたんですけど、全部あなたの悪口ばかりだった。俺、耳はよくないですけど地獄耳なんで、他にも社員たちがあなたの悪口を言っているのを聞きましたよ。馬鹿らしくないですか。一生懸命仕事しても、結局、周りから悪口言われたり、馬鹿にされたりして。それに、たとえどんなに評価されたところで、うちには社員登用制度もなければ、時給のアップだってろくに無いらしいじゃないですか。一体何でこんな場所で、そこまでする必要があるんですか。正直、俺には理解できないですよ。あなたがやってることは。」
ここ数か月、正義の中で疑問に思っていたこと、心のもやもやのようなものを彼は全て吐き出してしまった。米子は下を向いて少し何かを考えているようだった。そして、少しの間を置いて、彼は口を開いた。
「齋藤さん。狸寝入りってよく言いますけど、狸って実際には寝ているのではなく、気絶しているらしいですよ。知ってましたか。狸って非常に憶病な動物で、些細なことで大げさにびっくりして失神してしまうそうです。なので、狸は本当に寝ているのですよ。」
冗談なのか、何なのかわからない狸の蘊蓄を突然披露し出した米子に対し、今はそんなことはどうでもいいわ、それよりもお前のことを話しているのだろうがと、正義は心の中でツッコミを入れた。
「あ、あと、地獄耳には正式な名称があるのはご存知ですか。あの現象は科学者の間では、カクテルパーティー効果という名称で呼ばれているのですよ。」
正義は狸寝入りの蘊蓄を聞いた時とほぼ同じことを考えながら沈黙した。すると、米子も下を向いて、少しの間沈黙すると、ふと、真剣な目をして正義を見つめ、沈黙を破った。
「齋藤さん・・・。これはあくまで、私の考えなのですが・・・。仕事というのは、どんな職業であっても、一生懸命にするのが当たり前だと思います。そこに、自分が損をするからとか、悪口を言われているからとか、そういったことは関係ないと思うのです。私は労働をして、会社に貢献することでお金を頂いています。大事なことは貢献することだと思います。会社やお客さん、同僚に貢献することでその対価としてお給料がもらえます。だから、一生懸命に頑張るというのは、前提であって、わたしにとっては当然の事です。頑張らなければ貢献などできるわけがないですから。一生懸命はデフォルトで、その上で、どんな風に貢献できるかだと思います。それに、悪口を言われてしまうということは、まだまだ、私の頑張りが足りないということでしょう。皆さんが満足されるようには、私は貢献できていないということですから。評価は自分がするものではなくて、あくまで周囲の人たちがすることです。私の評価が低いのであれば、私の頑張りがまだまだ足りないのです。もっと努力しなければいけませんね。」
米子が真剣な表情で語るので、正義はすっかり聞き入ってしまったが、それでも彼の言い分には疑問が残った。米子の考え方に従うと、小島のような人間はそれに付け込んでどんどんと仕事を押し付けて、自分は楽をしようとするに違いないではないか。米子の考え方は人に利用されやすい思考なのではないかと正義は反論しようとしたが、どこからか聞こえてきた、覚えのある怒鳴り声に正義の意見はかき消された。案の定であった。小島は米子を見つけると例のごとく、時間を無駄にするなと彼を叱責して、彼の襟首を掴んで事務所へと連れて行った。調査員の件や宮本の件をよほど根に持っているようで、小島の米子に対するあたりが日に日に激しさを増していることを正義は感じた。それにしても、意外であった。ただ他人に良い恰好がしたいというだけで頑張っていると思っていた米子があんなことを語るとは、正義は想像していなかった。それに、自分が家族以外の人間に、自分の意見をぶつけるとも、彼は想定できていなかった。半ば、八つ当たりのような状況で、怒りに任せてのことではあったが、そんな風に激しく自分の意見を主張するのは子どもの頃以来であった。彼は、そんな自分の態度に驚き、動揺していた。正義は力なくバックヤードへと引き上げると、通路の隅に座り込み、米子に貰った缶コーヒーを口にした。
 正義が半ば放心状態で座り込んでいると、自分の目の前に誰かが立っているのを感じた。
彼が顔を上げると、そこに立っていたのは瀬戸だった。
「齋藤さん、米子さんに絡むのは違うと思いますよ。米子さんに謝った方がいいんじゃないですか。」
瀬戸の言うことは正義も十分に正論だとわかっていた。だが、正論だからこそ正義は瀬戸の言葉に腹が立った。
「別に、あなたに言われなくてもわかってますよ!そんなこと!」
今度は瀬戸に対し当たり散らすような形になった。ただ、言われた方の瀬戸も黙ったままではいなかった。
「私、あのお客さんと齋藤さんのやり取り、見てました。齋藤さん、米子さんと比べられて腹が立ったんじゃないですか。本当のことを言われて。」
瀬戸の指摘は正義にとって完全に図星だった。正義は確信を突かれたことで余計に腹が立ち、瀬戸に対し何か反論をしてやろうと考えた。
「瀬戸さん、妙に米子さんの肩を持つようなこと言いますよね。何か近頃の様子を見てると、米子さんと、とっても仲が良さそうじゃないですか。最近米子さんが前髪に付けてるピン留め、あげたのって、あなたじゃないですか。いつぞやは、米子さんが仕事終わった後も残って、何故かあなたもバックヤードにいるのを見かけましたよ。その後一緒に仲良く帰るためだったんじゃないですか。仲が良いのは勝手ですけど、仕事にまでそれを持ち込んで、俺を責めるようなことはしないでもらいたいですね。」
正義は、発言の途中で少し言い過ぎなのではないかと感じたが、その思いに反して発言の勢いを止めることはできず、とうとう言いたいことを言い尽くしてしまった。
「ひどい・・・。そんな風に思ってたんだ・・・。残念です・・・。」
瀬戸はそう絞り出すようにして言うと、見るからに気の強そうな表情で正義を見つめながら、話し始めた。
「誤解しないでください。確かに米子さんのことは仕事の上で尊敬してますけど、別に米子さんが好きだから言ってるわけではありません。何でもかんでも、恋愛に結びつけないで下さい。それとも、齋藤さんは、恋愛感情がなければ何も行動しないんですか。だからいつも見ているだけなんですか。」
またも痛いところを突かれた正義は反論することができなかった。そんな正義をよそに瀬戸は話を続けた。
「確かに私は米子さんにピン留めをあげました。でもそれは、彼が髪の毛を伸ばしている理由をたまたま聞いてしまって、その理由がとても素敵だと思ったからです。あと、一緒に帰ったという件ですけど、私たちは一度も一緒に帰ったことはありません。齋藤さんが言ってるのは、多分、私が忘れ物を取りに来た時の話だと思います。大学の講義で使う教科書、休憩時間に読んでたら、そのまま休憩室に置き忘れたので。そもそも、あの日、何で米子さんが残ってたかわからないんですか。あなたの為ですよ。私、米子さんが帰るときに偶然会ったから、何故残っているのか聞きました。そうしたら、店にレジ係りの齋藤さんだけしかいないのに、団体のお客さんが来て、色々と大変そうだったから残っていたと言ってましたよ。それなのに、そんなことも知らないで、自分は米子さんに言いたいこと好き勝手言って。そういう気持ちも、さっき米子さんが言ってたことも、齋藤さんにはきっとわからないと思います。齋藤さん、とっても人間が小さいですから。なんか、齋藤さん、とっても格好悪いです。なんか、すごいダサい。」
あまりに率直な感想をぶつけられ過ぎて、もはや正義は泣きそうなくらいのショックを受けた。当然のごとく、正義が何も言えないでいると、瀬戸は正義の前からいなくなった。目の前がぼんやりとかすんで見える中で、どんな味だったかわからないコーヒーを飲み終えると、正義はふらふらとした足取りで売場に戻った。
 すると、何だか売場が騒がしかった。何やら、またも小島が大声で米子を呼びつけているのを正義は耳にして、声がする方へ近づいていった。小島は米子の腕を引っ張りながら、店舗の出入り口から外へと出て行った。それを見て正義もその後を追った。小島は米子を店舗の外にあるお客様用のトイレへと連れてきた。そして、奥の個室の扉を開けると、便器や壁、扉の裏側、至る所に大便が飛び散っている光景が目に飛び込んできた。飛び散っているというよりも、もはや誰かが意図的に便を塗りたくったという方が近いような凄惨な状態であった。正義は十中八九、この店を良く思っていない者の嫌がらせだろうと思った。嫌がらせに遭うのも無理はない。小島や青山の普段の接客態度を見ていれば、お客さんが不満を抱くのはごく自然なことだと正義は思った。とはいえ、正義はトイレに大便をまき散らすという嫌がらせの方法には驚いた。そして、その後の小島の発言にも正義は驚かされた。
「ジャ、ヨナコ、ココノソウジ、ヨロシク。シンジンノコトハ、コッチデメンドウミルカラ。アト、ヨロシクネ。」
自分たちが原因かもしれない嫌がらせを、事もあろうに米子一人に押し付けたのであった。一応、マネージャーという肩書が付いているのだから、多少なりとも掃除の手伝いくらいしても良いものであるが、それすら放棄して、何の関係もないともいえる米子に全てを擦り付けたのであった。個室内に擦り付けられた大便のように。そして、さらに正義を驚かせたのは、米子が何の躊躇もなく、その命令に従ったことであった。正義は米子の考えていることはわかったつもりであったが、ここまでくると、頑張るとか、努力とかとは話が違うのではないかと思った。それ見たことか。思った通りではないか。小島のような人間は、米子のような人間を利用することに対して罪悪感などみじんもないのだ。正義は、そんなことを考えながら、掃除の準備に取り掛かる米子を見つめていた。米子のエプロンから覗く、ピンク・フロイドのアルバムジャケットがプリントされたTシャツを見ながら正義は、米子のこの姿こそ、まさに「狂気」だ。狂気の沙汰だ、と感じていた。いくら自分の信念や考えがあるからと言っても、ここまでするのは狂っていると正義には思えた。命令する方も、従う方もどうかしているのだと感じた。
 米子一人を残し、売場へと戻った正義は米子の作った特売コーナーのポップを眺めていた。そして彼は中学生の頃、教師に言われた「影の努力」という言葉を思い出していた。「
影で努力をした人間が結果を出すのだ」、「他人の見ていないところでする努力が大事なのだ」、という言葉を信じて自分なりに必死で頑張っていたころの自分を、正義は思い出していた。そして、結果的に実ることがなかったその頑張りを思い出していた。結局、無駄なのだ。米子がしていた努力、ポップを書く練習だけではなかっただろう。青果や鮮魚、色々な商品の知識を勉強したのだろう。店を離れた後で誰も見ていないところで努力したのだろう。だが、その結果はどうだ。結局、報われることなどないのだ。本人はそれでいいのかもしれないが、やはり、自分には理解できない。というよりも理解したくない。自分はもう虚しい思いはしたくないのだ。米子の作った手書きのポップを眺めながら正義はそんなことを思っていた。正義にはそのポップの出来栄えがひどく虚しく映った。正義が特売コーナーから離れると、売場の一角から、小島と青山、神田の笑い声が聞こえてきた。正義が近づいて内容を聞いてみると、小島が大便の掃除を米子に押し付けたことを喜々として二人に話していた。そう、結局、こうなるのだ。努力の先に待っているものは、いつもこれでしかないのだ。誰かの笑顔の裏では誰かが代わりに泣くことになるのだ。誰かの幸せというものは誰かの不幸の上でしか成り立たないのだ。世の中はそうやって誰かの犠牲の上で成り立っているのだ。正義はそう感じながら、三人の米子への嘲笑が響く売場から離れた。
休憩時間になり、正義が休憩室で惣菜パンを食べていると、隣に新入りの男が座ってきた。正義は色々なことがあり精神的に疲れていた為、特に彼に話しかけることもなく、黙々と食事に勤しんでいると、男がいきなり正義に話しかけてきた。正義は初対面の印象もあり、彼と特別関わり合いになりたくはないなと思っていた為、彼の話に相槌を打つことも反応することさえもせず食事を続けていたが、男は一向に話を止めず一人でべらべらと話し続けた。自分の名前が葛野ということ、小島や青山、神田が全然仕事をしないという批判、米子の教え方が悪いせいで仕事が全然覚えられないという愚痴などを、正義は延々と聞かされていたが、その内容は何一つとして頭に入ってこなかった。正義は何を聞いても上の空、心ここにあらずという状態であった。彼の頭の中は、米子が語ったことと瀬戸に言われたことで既に飽和状態に達していた。そこには他のものが入り込む余地などなかった。
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