第11話 オレンジ

文字数 29,378文字

 その夜、正義は、例のごとく没個性の塊みたいな薄手の長袖シャツに腕を通し、自転車へと跨った。ここ数日、ずっと大山のことが気がかりになっていた。米子や瀬戸、新川、宮本らに聞いて回ったが、彼らもまた、正義と同様に、大山の出勤が減ったことに関する情報を持っていなかった。ただ、彼女は、今後、全く出勤しなくなるということではなかった為、皆、彼女が次に出勤するまで待とう、というスタンスであった。正義ひとりが、必要以上に気にしているようであった。大山がいなくなってしまう。彼は恐れていた。それは彼にとって、ここ最近、やっと、僅かながらに手にしたかのように思えた人間関係みたいなものが、波にさらわれる砂の城のように崩壊することを意味していた。掴みかけていたものが、指の隙間から零れ落ちていくような恐怖や不安を、彼は抱いていた。彼は、普段であれば、絶対に話しかけないような、青山や神田にまで、大山について何か知らないか尋ねた。だが、青山さえも、小島から何も聞いていない様子で、何も知らないと答えた。というよりも、その時の青山の様子は、大山に、そもそもあまり興味や関心がないようにも見えた。神田に至っては、正義の質問を完全に無視した。おそらく、彼女の中では、米子と仲良くしている正義や瀬戸とは、一切会話をしたくないのだろう。それ程、米子を嫌悪しているように思えた。直接、大山と話をしている小島は、当然、事情を知っているだろう。そう考え、勇気を振り絞って小島に質問した正義であったが、いつもの調子で一蹴され、結局、その一回きりで、何度も小島に挑む気力も無く、何もわからぬまま、この日を迎えていた。もちろん、何日か経てば、大山に直接、事情を聞く事はできるわけだが、正義は、一刻も早く大山について知りたいと焦っていた。気が付くと、彼は、賑わう駅前を通り過ぎ、線路沿いの道を抜け、明治通りに出ていた。そして、もうそろそろ職場に着こうかという頃、彼は、自転車の後輪タイヤに異変を感じた。妙に、ガタガタするし、サドル越しに尻が衝撃を受けて痛い。自転車を漕ぐのを止めた正義は、嫌な予感と共に、急いで自転車から降りようとして、自転車の車体に足を引っかけ、体勢を崩しながらも、慌てて後輪タイヤを確認した。やっぱりと言うべきか、後輪タイヤの空気は抜けていた。タイヤに思いっきり顔を近づけてみるが、釘のような鋭いものを踏み抜いた痕はない。それどころか、タイヤには目立った傷は見当たらない。おそらく、数日前に行ったパンクの修理が不完全だったのだ。パンクの修理ができるようになったことで、小さな自信を得ていた正義は、そんな小さな自信すら持つことを許されない現実に少し失望し、小さく落ち込んだ。結局、何事もそう簡単に上手くいくことなどないのだと、自分を無理やり納得させると、正義は、自転車を押しながら、小走りで大通りを進んで行った。
急いだ甲斐もあり、正義は何とか遅刻ギリギリで、タイムカードを打刻することができた。彼は事務所に入ってシフト表を確認するが、大山のお欄には変化はなかった。今度は、掲示物に大山の手がかりを探すが、特に何も情報は得られなかった。彼は、事務所を出ると、ペットボトル飲料の売場で、商品の整理をしている瀬戸を見つけると、近づいて、大山について尋ねた。
「もう、しつこいな。大山さんのこと大好きじゃないですか。この前、言いましたよ、知らないって。変わりません。大山さんのことが大好きなのはわかりますよ。私も好きだし。でも、待ちましょうよ。大山さんが来るまで。」
笑いながら、そう答える瀬戸に、正義は少しイラっとしていた。こっちは真剣に聞いているのに、何で笑っていられるのだ。この温度差は何だ。瀬戸からは全然真剣さが感じられない。大山がいなくなることに何の危機感も持っていないのか。そんなことが正義の頭をぐるぐると回っている中、
「齋藤さんも仕事して、ほら。もう九時過ぎてますよ。」
そう言って、作業の続きを黙々とこなす瀬戸に、正義は、何でそんなに冷静でいられるのか理解できないと、不思議さや腹立たしさを同時に感じていた。売場を見渡すと、米子も、レジを打っている川崎も、皆、淡々と仕事をこなしている。何故、誰も危機感を持っていないのだ。まさか、大山がいなくなることに危機感を持っているのは、自分だけなのか。皆、大山がいなくなってもいいのか。何て薄情なのだ。正義は、失望や焦り、不安が入り混じる中、仕事に取り掛かったが、全く仕事が手につかず、ただ時間を消化しているだけの状態だった。これでは、小島や青山と何も変わらない。もはや、仕事をしている振りに過ぎないではないか。正義は、自分を戒めようとするが、それでも、仕事に集中しきれず、売場の壁に掛かる時計が、日付の変わる瞬間を示すのを、ボーっと眺めることしかできなかった。こんな風に、あっさりと、自分を取り巻く環境もまた、変わっていってしまうのか。それでも、日々は続くのだ。自分もまた変化しなければならない。でも、自分にその力は残されているか。そう、何度も変われない。やっと少し変わって来たのに。もう駄目だ。今失っては、駄目なのだ。今度、立ち上がるのには、どれだけの時間がかかるのだろう。いや、もう立ち上がれないのかもしれない。せわしなく動く秒針を見つめながら、正義の心は停滞していた。

 明け方、パンの陳列が終わり、この日の納品が終了した。結局、正義は勤務中、終始、心ここにあらずの状態であった。集中力が無く、些細なミスを繰り返し、その度に、瀬戸や米子がフォローし、何とか大事に至らず済んでいるという有様であった。
「もう、今日の齋藤さん、ほんと、ダメダメですね。しっかりしてくださいよ。大山さんの心配する前に、自分の心配してください。ずっとこんなじゃ、その内クビになりますよ。」
正義がぐちゃぐちゃに陳列したパンの売場を直しながら、瀬戸が正義に言った。正義は言い返す言葉がなかった。彼が何も言えずにボーっと突っ立っていると、
「ここは私が直しておきますから、齋藤さんは、罰として、空ケースを片付けてください。」
と言って、瀬戸は、正義の身長ほどに積み上がった空ケースの山を指さした。パンの空ケースを含め、納品される商品の入っていた空のケースやコンテナは、全て、店外の駐輪場の隅に重ねて置いておくことになっていた。正義が、黙って、キャスターの上に、空ケースを乗せていると、瀬戸が、
「あっちにも、まだありますからね。」
と、別のケースの山を指さして言った。
「今日は、全部、一人で持ってってくださいね。」
と言う瀬戸に対し、
「うわっ。スパルタですね。瀬戸さんって、実は怖い人だったんですね。鬼嫁って、どんな人がなるんだろうって思っていましたが、案外、瀬戸さんみたいな人が、結婚すると、旦那を尻に轢くようになるんでしょうね。」
と、川崎が言った。すると、瀬戸が、
「うるさいなー。何、しょうもないことを、しみじみと語ってるんですか。じゃあ、川崎さんが代わりに全部、片付けてくれますか。」
と、応酬すると、
「いえ、大丈夫です。何でもありません。すみませんでした。」
と、川崎は、早々と降参した。そして、心なしか怒りのボルテージが上がった様子の瀬戸が、再びその矛先を正義に向けた。
「ほら、齋藤さん。速く行って。」
正義は、心の中で、「余計なこと言いやがって」と叫びながら、川崎を恨めしそうに見つめた。そんな正義を、川崎は、いつものニヤニヤ顔で見つめ返した。「畜生・・・」と、聞こえるか聞こえないかのか細い声で呟きながら、正義は、キャスターを押して、そそくさと店外へと出た。閉まりかける自動ドアの隙間から、
「あ、今、何か文句言ったでしょ!」
という声が聞こえてきて、正義は、歩く速度を上げた。正義が、明け方の静まり返った道に、ガタガタ、ガラガラとキャスターの音を響かせながら、空のケースを運んでいると、後方から、もう一つ、キャスターの音が聞こえて来た。正義が振り向くと、空のケースを運ぶ、米子の姿があった。
「瀬戸さんに、あんまり齋藤さんを甘やかさないでと、怒られてしまいました。」
と言って、米子は笑っていた。正義はキャスターを押すのをやめて立ち止まり、米子が来るのを待った。米子がちょうど自分に並んだところで、正義は、小さく、「ありがとう」と言った。駐輪場までの短い距離ではあるが、二人は、他に誰も歩いていない歩道を、キャスターを押しながら並んで歩いた。
 二人が空ケースの片づけを終え歩道を歩いていると、どこかから、人が叫ぶ声が聞こえて来た。どうやら、声は信号の向こう側から聞こえている。朝の平穏な空気の中に響き渡る、「助けて!」という女性の声が、正義の心をざわつかせていた。視力が低い正義が、目を細めながら、信号の方を見ると、誰かが信号機のポールにしがみつきながら、叫んでいるのが辛うじて見て取れた。すると、次の瞬間、隣にいたはずの米子が、赤信号の横断歩道を猛然と駆けて行った。幸い、自動車の流れが一瞬途切れた隙の出来事であったため、大事にならず、正義はほっとしていた。正義が安堵している間に、信号は青に変わり、彼は、慌てて信号を渡った。正義が駆け寄ると、米子がポールにしがみつく女性の体を支えていた。女性の方をみると、彼女は、毎日、おにぎりを買いに来る高齢の女性で、小島達が「ボケ老人」と呼んでからかっているお客さんであった。白髪で眼鏡をかけたこの女性は、普段はシルバーカートを押しているが、近くにはシルバーカートは見当たらず、代わりに、歩道に杖が落ちているだけだった。お客さんは、
「助けて!もう倒れちゃう!」
と叫んで、酷く動揺し、混乱している様子であった。そんな彼女とは対照的に、米子は冷静に、彼女に声を掛け、何とか彼女を落ち着かせると、
「私の背中に手をかけることはできますか。」
と彼女に言った。
「うん。やってみるわね。」
と彼女は言ったが、彼女の脚はプルプルと震え、彼女の脚力の残量がもう限界を迎えていることが正義にも見て取れた。米子の、
「齋藤さん!彼女を後ろから支えてもらっていいですか!」
という要請を受けて、正義は、彼女の背中側に回り、米子の指示通りに、腰の辺りに手を添えて、彼女が倒れないように支えた。
「もうそろそろ、ポールから手が離れそうなので、手が離れたら、私がおんぶしますね。」
と米子は言い、彼女の身体の前に回り込み、少し身をかがめて、彼女が自分の背中に倒れ込んでもいいように準備した。
「齋藤さんは、安全におんぶできるように協力して下さい。」
と言う米子に、正義は「わかりました」と返した。そうしていると、お客さんは、
「あー、もう駄目!」
と叫んで、ポールから手を離した。正義は、グッと両手に力を込め、両脚を踏ん張り、なんとか、ゆっくりと米子の背中に彼女が移るようにサポートした。米子は、彼女をおんぶすると、とりあえず、近くの交番に連れていくと話した。そして、正義には、ナイト部の面々への連絡をお願いしたいと言った。正義が頷くと、お客さんをおんぶした米子は、交番の方へと歩いていった。その後姿を見送りながら、正義は、信号が青になるのを待った。

 急いで店へと戻った正義に、瀬戸は、
「遅かったですね。何ですか、そんな、『急いで戻ってきました』みたいな演技しちゃって。」
と冷たく言い放ったが、正義のただならぬ様子に何かを察したのか、
「えっ、何かあったんですか。米子さんは、一緒じゃないんですか。」
と、正義に尋ねた。正義は、カラカラに乾いた喉から何とか絞り出した掠れた声で、たどたどしく事情を説明した。ちょうど正義が話し終えると、事務所から小島が出てきた。
「パン、オワッタカ。アレ、ヨナコハドウシタ。」
と小島が言った。一瞬、まずいなと、正義が思っていると、
「十番です。お腹を壊したようですよ。さっきからずっと。しばらく戻って来ないのではないでしょうか。」
と、川崎が言った。それを聞いた小島は、
「アッ、ソウ・・・。マ、パン、オワッテルナラ、イイワ。」
と言って、そのまま、事務所へと戻って行った。どうやら、小島は、川崎には強く出られないらしい。そのやり取りを見ながら、正義はニヤニヤとしていた。ハッとして、辺りを見回すと、同じような顔をしている瀬戸が目に入り、なんだか少しホッとした。瀬戸は、正義に気が付くと、彼に笑顔を返した。すると、
「見つめ合っているところ、申し訳ないですけど、何か忘れていませんか。」
と、川崎が言った。それに対し、
「うわっ、そういうとこ、余計ですよ。せっかく良かったのに。恩着せがましい。」
と瀬戸が言い、正義も同調した。それを受けて、川崎は、今度は正義に対し、
「今日ダメダメだった、十番さん。米子さんがいない分、頑張ってくださいね。」
と言った。
「うるさいなぁ・・・。」
と力なく答える正義に、瀬戸も同調して、
「そうですよ。米子さんの分まで頑張って。司令塔なんだから。」
と言って笑っていた。その後、しばらくして戻ってきた米子によると、交番の警察官も彼女のことを認識しているようで、スムーズに家族と連絡が取れたとのことだった。家族と同居しているそうだが、毎朝、大好きなおにぎりを買いに行くことだけは、本人の希望を尊重して、一人で出かけるようにしているらしい。とりあえず、無事でよかったと、正義に米子、瀬戸は安堵した様子だった。ただ、川崎だけは、普段と変わらぬニヤニヤ顔のままで、正義には、彼がどんな感情で、何を考えているか、若干わからなかった。まあ、いつもあの調子だ。ああいう奴だ。何となくだが、正義は、川崎のことも少しずつわかってきたような気がしていた。

 そうして一日の仕事が終わり、再び夜が訪れていた。自宅に帰ってからも、ずっと落ち着くことができずに時を過ごした正義は、当たり前のように寝不足のまま、夜を迎えていた。ゴールデンウィークが終わった五月の夜は、大分暖かく、正義は、先日、瀬戸と米子からもらった半袖のTシャツ一枚で、上には何も羽織らずに宿を出た。「クリムゾン・キングの宮殿」のジャケットデザインが前面にプリントされたTシャツである。前日、大山のことで落ち着かず、変に気疲れした正義は、後輪がパンクした自転車を押して帰る気力が無く、職場の駐輪場に自転車を置いて帰った。そのため、彼は、この日も徒歩で職場へと向かっていた。本来、電車で職場に向かう方が、楽だし早く到着するのだが、彼は、電車代がもったいないからと早めに宿を出ることができた日は、必ず徒歩という手段を選択する。彼自身は、節約と心に言い聞かせてはいるが、実のところは、過去の経験から電車に乗ることが苦手なのである。彼は、今では電車に乗ることはそれほど苦ではないし、自分は電車など恐れていない、と考えているが、心や身体は正直に反応するのだ。そのことに薄々気づいているからこそ、早めに宿を出られる時は、内心、とてもホッとしているのだ。たとえ、電車で行くよりも、倍以上の時間がかかろうとも。ただ、この夜の彼は、全く落ち着いた様子はなかった。彼は酷く汗をかいていた。それは、五月の生暖かい夜風のせいでも、歩くことがしんどいからでもなかった。今夜、大山が出勤する。そのことで、正義は緊張していた。もし、大山の出勤が大幅に減っていることと、自分が恐れている事態が繋がる様なことがあったら、どうしよう。そんな考えが頭を巡る度、彼の脇や背中には、じっとりとした嫌な脂汗が噴き出していた。焦りや不安から呼吸が荒くなり、喉もカラカラに乾いてくる。とにかく、居てもたってもいられない。速く職場に急がねば。彼は、どんどんと歩くスピードを上げ、川沿いの道を進んで行った。早歩きで必死そうに歩く彼の顔は、さながら自分が来ているTシャツにプリントされた男の顔のようになっていた。
 職場に着くと、大急ぎで着替えて売場に向かった。タイムカードの打刻を済ますと、ノックも忘れて事務所の扉を開いた。だが、そこには、大山はおろか、事務所の中には誰もいなかった。売場に出ると、八時五十分と、早めに到着したこともあり、まだ夕方勤務のパート従業員たちがレジを打っていた。正義は、その中に新川の姿を探したが、彼はいなかった。正義が大山本人や大山の情報を求めて売場をうろついていると、商品のフェイスアップをしている米子を発見した。彼は米子に掴みかかろうかという勢いで接近し、大山について聞くが、
「ちょっと、齋藤さん!落ち着いて下さい!大山さんがいらっしゃるのは、十時ですよ。」
と、米子に返された。正義はそれを聞いて我に帰ると、自分がまるでキスでもするような距離感で米子に近づいていたことに気が付き、慌てて米子から離れた。すると、後方から、
「ちょっと、何やってるんですか。売場で。」
と言いながら、瀬戸がやってきた。そして、
「仲がいいのは結構ですけど、そういうことはバックヤードでこっそりやって下さいよ。」
と冗談を言って、去って行った。
一時間。たった一時間待てば大山はやって来るのだが、今の正義には、それがとても先のことのように思えた。そこで正義は、とりあえず、仕事に集中することにした。何かに熱中していれば、時間が経つのも早い。そう考えてのことだが、売場の商品をフェイスアップしながら、彼はしきりに売場の時計を確認していた。棚一列分のフェイスアップが終わると、ちらりと時計を見ては、再びフェイスアップをして、また一列分が終われば、ちらっと時計を見ることを、正義はしばらく繰り返していた。何度時計を見たところで、時間が過ぎる速度は変わるわけではないというのに。
 そうこうしていると、小島や神田の声が聞こえて来た。おそらく、レジには既に川崎もいるだろう、などと正義は考えながら手を動かしていたが、やはり、落ち着かない。あと少しすれば、ドライ商品を載せたトラックがやって来て、嫌でも忙しくなる。そうすれば、仕事に集中できるし、いつもの調子で納品が終れば、ちょうど十時過ぎくらいだ。お客さんの動線を見ながら品出しを始めるため、いつも、すぐには品出しを始めない。その隙に大山と話せばいいのだ。とりあえず集中しよう。集中。そう自分に言い聞かせながら、正義は、床に捨てられたレシートを汗ばんだ手で拾い上げた。その姿は、日曜日に、馬券場で馬券を握りしめている時のそれに似ていた。それぐらい、手に汗をかいていた。ちなみに、余談ではあるが、正義がナイト部に入った頃は、夜の十時頃のトラックで、全ての納品物を一度に運んでいたが、最近では、物量が増えたこともあり、ドライ商品とチルド品の納品が分けられ、それぞれ、十時頃と深夜零時頃にトラックで運んでくるというように納品パターンが変更されていた。さて、話を正義に戻すと、彼は一旦落ち着こうと考えて売場を離れ、レジにいるはずの川崎に挨拶でもしようとレジの方へと移動した。彼がレジカウンターに立つ川崎に挨拶をすると、川崎も挨拶を返した。そして、川崎は一言加えた。
「今日は、業者のトラブルで納品が遅れるらしいですよ。」
悪夢だった。まだ、大山が来るまでは小一時間もある。それまでどうやって、時間を潰せばいいのだ。正義はそう考えていたが、仕事中なので、当然、仕事をすればいいだけの状況であった。だが、正義は仕事が手につかず、抜け殻のようにふらふらとした足取りで、売場を彷徨っていた。すると、突然、声を掛けられた。どうやら子どもの声のようだ。下を向いていた正義が顔を上げると、目の前に、小学校低学年から中学年くらいに見える少女が立っていた。
「すみません。」
と、彼女は改めて、正義に言った。
「はい。何でしょうか。」
正義が聞くと、少女は、
「このお店に、よっちゃん・・・、あっ、あの、米子さん・・・、はいますか。」
と、正義に尋ねた。正義は、一瞬考えた。少女が米子に何の用だろうか。というか、今、この娘は米子を「よっちゃん」と呼んだな。あだ名で呼ぶほど、親しい仲なのか。それであれば、米子の下に案内してもいいだろうか。それはそうと、この娘は米子とどういう関係なのだろうか。正義の頭の中に色々な考えが浮かんできて、少女への返答が遅れる中、売場の棚と棚の間を米子が通り過ぎるのが目に入った。
「あ、米子さん!」
と、正義が米子を呼び止めようとするのと同時に、米子に気付いた少女は、一目散に、米子の方へと走っていった。
「あっ、ちょっと!走ると危ないよ!」
と言いながら、正義は少女を追った。少女が、
「よっちゃん!」
と叫ぶと、米子は振り向いて立ち止まった。そして、少女は、そのまま米子の元へ駆けて行き、米子の腰のあたりに腕を回して抱き着いた。何だ、これ。どういう状況だ。それを見ていた正義は、驚きとともに思った。ただ、驚いているのは米子も同じ様子で、動揺しながら、自分に抱き着く少女の顔を覗き込んだ。
「よっちゃん。私だよ。・・・わからない・・・。」
と、不安そうに尋ねる少女。
「え、えーっと・・・。」
と、米子が、焦りながら考え込んでいると、
「あっ、葵!こんなところに居たの!」
という声がして、中年の女性がこちらに駆け寄ってきた。そして、米子に、
「こんばんは。米子君。」
と言った。米子は、
「あっ!一色さん!この間はどうも。」
と言って、今度は、少女の方に振り返り、視線を合わせながら、
「と、いうことは、葵ちゃん、ですか!」
と言った。少女は、
「もう!気付くの遅いよ!」
と言って、笑った。しばらく話し込んでいる三人と、状況が理解できずにポカンとしている正義。どうやら、米子と少女が久しぶりに再会したということだけは、かろうじて、正義にも理解できたが、全く会話に入れず、この場に留まることに飽きてきた正義は、また少し大山のことを考えていた。そんな正義の様子に気付いて、米子が彼女たちとの関係について、正義に説明した。米子の話によると、米子が学生の頃に、彼は、「子どもボランティア」という、仕事などの事情で子どもの送り迎えに行けない親の代わりに、子どもの送り迎えをして、親が帰って来るまでの間一緒に遊ぶなど、親のいない間、子どもの面倒をみる活動をしていたという。その時に、何度か、この、一色葵ちゃん、という少女の面倒も見たことがあったようだ。説明が終わると、米子は再び、一色親子と話し始めたが、少しすると、葵の母親が、買い物をするためにその場を離れた。そのタイミングで、正義も作業に戻ろうと思い、「回れ右」の体勢をとった。その時、通路の向こう側から、小島と神田がこちらにやって来るのが目に入り、また怒鳴られると思った正義は、咄嗟に、隣の通路に身を隠した。そうして一瞬ホッとしていると、米子がまだ葵と話していることを思いだして、まずいと思った。急いで、米子に、一旦仕事に戻るように伝えようとしたが、既に小島達は、米子と葵のすぐそばまでやって来ていた。
「ロリコン、ほんと、気持ち悪い・・・。」
「コドモガスキナ、ヘンタイサン。チャント、シゴトシテクダサイヨ。」
と、それぞれに口にして、小島と神田は、そのまま立ち去ろうとした。どうやら、小島が怒鳴り出すことはなさそうだと、正義が安堵したのも束の間。
「待って!」
と叫ぶ声がして、小島と神田は立ち止まり、振り返った。声の主は、葵だった。
「待って!よっちゃんに謝って!よっちゃんは変態じゃない!気持ち悪くない!」
そう言って、葵は、小島と神田の前に歩み出た。意外にも、明らかに動揺している様子の小島。それに対し神田は、
「何、この子。うるさっ・・・。」
と吐き捨てて、売場へと消えて行った。小島は、そんな神田を目で追うものの、葵の剣幕に気圧されてか、その場に一人取り残された。そんな小島に対して、葵は、一歩も引かず、
「よっちゃんに、謝って下さい!」
と、一貫して、謝罪を要求していた。その様子は、ちょっとした騒ぎとなり、周りにはお客さんがちらほらと集まってきていた。そして、お客さんの中の一人が言った。
「今、見てたけどさ。そうやって、いっつも、その男の子の悪口言って、いじめてるだろ。あんた。」
発言したのは、いじわるだった。いじわるは、更に、
「いい年して、部下をいじめて、挙句にこんな小さい子に怒られてさ。恥ずかしくないの。わかってるんだよ。ばれてんの。だいたい、あんた、客がなんか聞いても、ろくに返事もしないだろ。いっつも。その眼鏡の男の子は、ちゃんと聞いてくれるよ。どんなときでも。そうやって真面目に働いてる子をいじめて、何考えてんだ。」
と続けた。小島は、小さく震えながら、日本語か母国語かも判別できないくらいの声量で、ブツブツと、言い訳のようなことを呟いていた。すると、今度は、スクーターでやって来る常連のお客さんが、
「そうだよ。あんた、いつも、その人のこと怒鳴ってるだろ。聞こえてんだよ、全部。自分は客の対応もろくにしないくせによ。」
と加勢した。続けて、彼は、
「謝れよ。この場で。ちゃんと。謝んないなら、クレーム入れるからな。」
と付け加えた。それを聞いてスイッチが入ったのか、小島が突然、母国語で、お客さん達に向かって、大声で何かを叫び始めた。だが、お客さん達も黙っておらず、
「なんだ、その態度!ふざけんなよ!」
とヒートアップしてしまい、売場に怒号が飛び交っていた。米子が彼らの間に入り、何とかその場を収めようとするが、小島も、いじわるも、スクーターの常連さんも、一切引く気がない様子であった。そんな大人たちに混じって、葵も変わらず「謝って下さい」と小島に向かって叫び続けていた。だが、いつも以上に目を吊り上げて怒り狂っている小島に、葵の声は届いていないだろうと、その様子をボーっと眺めているだけの正義は思っていた。大変なことになった。今すぐに止めなくては。でも止め方がわからないし、それに、本当はちょっとだけ面白いから、もう少しだけこの様子を見ていたいし、などと考えながら突っ立っていると、誰かが正義の背中を叩いた。
「何これ。何なの。どういう状況。」
と、聞いてきたのは、瀬戸だった。
「何だかわからないけど、止めなきゃ。」
と、言って、瀬戸は小島達の方へ駆け寄り、仲裁に入った。いじわるや、スクーターの常連さん以外のお客さんは、関わり合いになりたくないからか、既にこの場を去っていた。そこへ、騒ぎを聞きつけたのか、葵の母が戻ってきた。彼女は、葵に事情を聞くと、騒ぎの仲裁に加わった。その様子をまだ、ぼんやりと見ていた正義だったが、
「齋藤さん!何、やってんの!手伝って!」
と、瀬戸に呼ばれて、ようやく、渋々ながらも、仲裁に向かった。
 しばらくして、何とか、その場は収まったものの、ついに小島が米子に謝る事は無かった。そんな小島の態度に、いじわると常連客は、「絶対、本社にクレームを入れてやる」と怒りが収まらない様子で帰っていった。そんな彼らの後ろ姿を小島はじっと睨みつけていた。彼らが店を出ると、小島は、自分の横にいた米子を、「ドケヨ」と言って突き飛ばした。よろめいて、商品棚に手をついた米子に向かって、
「パンッ!」
と叫んだ。そして、彼女は事務所へと戻って行き、事務所の中に入ると、八つ当たりのように、売場に響き渡る程の大きな音をたてて事務所の扉を閉めた。正義や米子、瀬戸、そして一色親子は、その様子を見ながら呆気にとられていた。ふと、瀬戸が思い出したかのように、
「パン・・・。パンって、何だろう。」
と呟いた。それを聞いた正義も、はて、パンとは一体どういうことか。あの小麦粉でできた食べ物のことだろうかと、不思議に思っていると、
「『デブ』って意味ですよ。」
と、突如現れた川崎が言った。正義が、川崎に特に驚くこともなく、小島は自分の体形を棚に上げて、よくもまあ他人に悪口など言えるものだと思っていると、
「小島さん。あんまり鏡を見る機会が無いのですかね。」
と呟いた。「同じこと思ってる!」と思った正義が、パッと川崎の方を見ると、川崎と目が合った。川崎は黙ったまま、親指を立て、ニヤリとした。そんな川崎に対し、瀬戸は、
「川崎さん、何やってんの。レジ、誰もいなくなっちゃうじゃないですか。早く戻って。」
と言って、彼の背中を押した。それでも一瞬、立ち止まって、振り返り、こちらに向けて、再度、ニヤリとする川崎に、
「早く戻れ。」
と瀬戸が叫んだ。そのタイミングで、一色親子も会計のためにレジの方へ向かった。正義、米子、瀬戸の三人は、騒動の余韻のせいか、疲れからか、その場から動けなくなっていた。
正義は、ふと、思い出したかのように売場の時計に目を向け、目を凝らした。時計の針は、九時四十分あたりを指しているように見えた。彼が、自分の体感以上に時間が経っていたことに、微かな喜びを得ていると、雲隠れしていた神田が戻ってきた。そして、彼女は、ため息をつきながら、
「やっと終わったんだ。マジで面倒だわ。」
と呟いた。元はと言えば、お前のせいでもあるんだぞ、と正義が思っていると、神田は、今度は米子の方を向いて、
「あんたがいると、ほんとろくなことない。気持ち悪いし。はやく辞めてよ。迷惑だから。」
と言った。それに反応した瀬戸が、
「ちょっと、そんな言い方無いんじゃないですか・・・」
と言い終わらないうちに、葵がやって来て、神田を指さし、
「私、この人キラーイ!大ッキライ!」
と叫んだ。自分が思っていることを、葵がこんなにも無邪気に言ってくれたことが可笑しくて、正義は、堪えきれずに笑い声をあげた。彼が瀬戸の方に目をやると、瀬戸は何とか笑いを堪えようと手で口元を押さえていたが、笑いが隠しきれていなかった。神田は、舌打ちをして、
「こっちもガキは嫌いだよ。」
と吐き捨てるように言って、どこかへ消えて行った。すると、神田と入れ替わるように、会計を済ませた葵の母が現れ、米子や正義、瀬戸に挨拶をして、出口の方へ向かった。一色親子が店外へ出ようとしたところで、
「先生!」
と叫ぶ声が聞こえて来た。一色親子や正義らが振り返ると、大山が手を振りながら現れた。
そして、大山は、葵の母に向かって、
「先生、うちの店のお客様だったんですね!」
と言った。正義らが、状況を飲み込めずにいると、彼らに気付いた大山が、
「あ、皆さん、おはようございます。ご迷惑をおかけしております。」
と挨拶し、続けて、葵の母の方に手を向けて、
「こちらは、一色さん。私の産婦人科の先生です。」
と言った。大山の発言に正義たちが驚いていると、その間に、一色親子は、軽く挨拶を済ませて帰っていった。正義は一色親子を目で追いながらも、未だに頭が混乱していた。そんな正義を置き去りに、瀬戸が、
「えっ!産婦人科ってことは、赤ちゃん!おめでとうございますー!」
と、派手に喜んだ。大山も、
「ありがとう。そうなの。」
と笑顔で話した。ここへきて、ようやく、理解が追いついてきた正義であったが、正義の危機はまだ去ってはいなかった。正義は、大山に顔を近づけると、
「お、大山さん!店、辞めちゃうんですか!辞めないですよね!」
と、尋ねた。
「急に、どうしたの。ちょっと。近いよ、齋藤さん。」
と困惑する大山に、瀬戸は、
「なんか、最近、ずっと、こうなんですよ。この人。毎日、大山さんのこと、色んな人に聞いて回って。ほんとしつこくて。『大山さん、辞めちゃうのかな』とか、『どうしよう心配だな』とかずっと言ってて。しかも、私には『もっと真剣に心配しろよー』とか言ってきて。大山さんが大好きなんですよ、きっと。」
と呆れ顔で話した。それを聞いた大山は、
「え、何!齋藤さん、まさか、私に惚れてます?でも、残念。だめですよ。人妻だし、子どももいるから。お腹の中にー。」
と言って、正義をからかった。正義は恥ずかしさから少し顔を赤らめていた。だが、彼の危機はまだ終わってはいないのだ。そのことを思い出した正義は、気を取り直して、大山に質問を続けた。
「いや、だから、辞めちゃうんですか!どうなんですか!答えてくださいよ!」
余りの正義の必死さに、大山は若干引いている様子だったが、正義の真剣さに応えるように、彼女も真剣に彼に答えた。
「お腹が大きくなってきたら、さすがに働けなくなっちゃうけど、それまでは、仕事、続けられればいいなって思ってます。きっと、みんなには色々迷惑掛けちゃうと思うけど、もうしばらく、一緒に働かせてもらっても、いいですか・・・。」
大山がそう言うと、瀬戸が、
「いいに決まってるじゃないですか。全然迷惑じゃないですよ。」
と言い、米子もそれに同調した。一方、正義は、
「え、じゃあ、辞めないってことで、いいですか。辞めないんですよね。」
と、あまり理解できていない様子で大山に迫った。
「良かったね。辞めないってよ。」
瀬戸がそう言うと、正義は、ようやく理解した。すると、途端に、安堵から力が抜け、腰が抜けたようになった正義は、近くにあったサッカー台にへたり込んだ。だが、次の瞬間、正義は瀬戸に頭をひっぱたかれた。瀬戸が、
「コラッ!そこはお客さんが買ったものを袋に入れるところでしょ!汚いお尻をつけないでください!」
と言うと、正義の両脇に手を入れた米子が、正義を引っ張り上げた。
「みっともない。ちゃんと自分で歩いてくださいよ。」
と言う瀬戸。それに対し、正義は、
「だって、しょうがないでしょうが。人騒がせなんですよ。大山さんが。俺はてっきり、辞めちゃうんだと思って。」
と、言い訳がましく喚いた。「ごめんね」と言って、笑う大山。「人のせいにすんな」と正義に言う瀬戸。和やかなムードの中、大山が再び、話を切り出した。
「そういえばね。最初に、私が小島さんに妊娠したことを相談した時、色々心配してくれたんですよね。私の体のことも気遣ってくれて。実は、私、本当は辞めるしかないのかなって思ってました。でも、小島さんに相談したら、シフトを減らして、無理がないようにすれば続けられるよって、言ってくれて。それに、相談した時には、もう私が妊娠してること気付かれてました。つわりで苦しいのとか、隠してたつもりだったんですけど。見られてたみたいです。」
大山の話に、さっきまでの雰囲気が嘘のように、正義たちは沈黙した。そんな空気を気にせず、大山は続けた。
「さっき、小島さんに出勤の挨拶をして、今回のことも色々お礼を言ったんだけど、なんか妙に小島さん、元気がなくて。もしかして、何かあったの。」
そう尋ねる大山に、当事者である米子が、先程の出来事を説明した。そうこうしていると、遅れていた納品のトラックが到着し、正義たちは慌ただしく、仕事へと戻って行った。

 一時間遅れで納品された商品の量は、ゴールデンウィーク明けということもあり、いつもよりも多く、品出しの作業はいつも以上に時間がかかる事が予想された。ただ、ここでモタモタしてしまうと、深夜零時頃には、今度は、冷蔵品を載せたトラックがやってくるため、冷蔵品の納品に間に合わなくなってしまう。正義たちは、いつも以上にスピードをあげて作業することを強いられていた。そんな中、米子は、品出しのために頭を傾ける度に、首に纏わりついたり、視界の邪魔になったりする自分の長い髪を、鬱陶しそうに手で払いのけていた。それを見ていた大山が、
「いっつも邪魔そうにしてるけど、今日は、特にだね。もう、切れば。髪。」
と言って、米子に近づいた。そして、腰に巻いたポーチからシュシュを取り出すと、
「やってあげるから、こっちに背中向けて。」
と、米子の髪をきれいにまとめた。すると、米子の仕上がり具合を見た川崎が、
「なんか、こういう主婦っぽいお客さん、よく見かけますよね。」
と呟いた。それを聞いて、近くで品出しをしていた瀬戸は笑い出した。大山も、
「ちょっと、もう、やめてよ。私も思ったけど、言わないようにしてたんだから。」
と言って笑っていた。米子は、顔を赤らめながら、作業を続けていた。

この日は、結局、一部の作業が終わらなかった。全ての納品物が通常より多く、品出しが間に合わなくなり、品出しできなかった商品が残ってしまったのだ。そんな状況にもかかわらず、小島は事務所に閉じこもってなかなか外に出てこなかった。また、神田はどこかへ行方をくらまして、明け方まで売場に戻って来なかった。正義や米子、瀬戸、大山、そして川崎は、それでも、できるだけ作業を残さないようにと、終業時間が終わる午前六時が迫る中、ラストスパートをかけるように、作業に集中していた。皆が時間を忘れ、作業に没頭していると、事務所の扉が開き、小島が、引継ぎ用のノートを手に持って売場に出てきた。そして、小島は、正義たちに向けて、
「アンタタチ。モウ、ロクジダヨ。オワリニシナ。オワラナカッタブンハ、シカタナイヨ。」
と言うと、そのノートを遅番の大山に預けた。
「アトノコトハ、ノートニカイトイタカラ、アンタタチモ、ハヤクカエリナ。」
そう言って、タイムカードに打刻をすると、小島は売場を去った。彼女の言葉を受けて、瀬戸と大山は、片づけを始めたが、正義と米子は、未だに黙々と作業を続けていた。すると、レジから川崎が、二人に向けて、
「もう六時過ぎてますよ。」
と声をかけた。それを聞いて、正義は、せっかく集中して作業していたのをブツリと切られるような、少し嫌な気持ちになった。それに、川崎が小島と同じことを言ったことにも、少なからず不快感や苛立ちを感じ、その言葉に抗いたい気持ちになった。正義は、
「ちょっと、ここだけ!きりが良いところまで、やらせてくださいよ!」
と、強めの口調で言い返した。それに対し、川崎は、
「でも、これ以上やると、残業代がついてしまいますよ。」
と、静かに返した。すると、米子が、
「そうですね。終わりにしましょう。」
と言って、正義の肩を叩いた。正義が観念したように作業の手を止めると、川崎が、
「あの、我慢しているので、そろそろ、レジを代わってもらって、いいですか。」
と呟いた。それを聞いて、片づけをしていた大山が手を止めて、
「ごめんね。私だ。早くトイレ、行ってきな。」
と川崎に言った。そして、慌ててレジカウンターに入って来た大山に、川崎は、
「だめですよ、直接言ってしまっては。お客さんが聞いてもバレないような言い方をしなければ。」
と言い出した。
「えっ、何言ってんの。何。『十番』ってこと。」
と尋ねる大山に、
「それだと、十番さんみたいに、変なあだ名を付けられちゃいますから、『十番』は使いたくないですね。」
と答えた。大山が、
「じゃあ、何て言えばいいの。」
と聞くと、川崎は、
「下半身を露出してきます。」
と言って、レジを出て行った。
「普通に、トイレに行くって言えんのか!あいつは!」
という大山の声がお客さんのいない店内に響く中、正義は、「いや、それだと結局、トイレと言ってしまっているじゃないか」と心の中で呟いた。
 程なくして、各々がタイムカードの打刻を済ませていると、レジカウンターに立っている大山は、引継ぎ用のノートに目を落としていた。そこへ、川崎がトイレから帰ってきて、自分にも確認のためにノートを見せて欲しいと、大山に頼んだ。大山は、
「ちゃんと、手、洗ったの。」
と言いながら、川崎にノートを手渡した。そうしていると、正義や米子、瀬戸も集まって、皆で川崎の手にするノートを覗き込んでいた。小島が書いた文字は、正義にはとても稚拙で、読み難いものに思えた。独特に丸まった文字は、小島本人のように見えて、「字は体を表す」という言葉そのものだと感じられて可笑しくなってしまったが、正義は、気を取り直して、文章の解読を進めることに専念した。正義が内容を読むのに苦戦していると、ふと、米子が呟いた。
「なんか、この文字。とても、可愛らしくないですか。」
それに反応して、川崎が、
「下手くその間違いでは。」
と言ったが、
「確かに下手なんだけど、可愛いって言われれば、それも、なんか、わかるような気がする。味があるというか・・・。」
と、大山が言い、瀬戸もそれに同調した。すると、米子が、
「何故でしょうね・・・。普段の小島さんは、正直、少々苦手なのですが、この字を見ながら、小島さんを思い浮かべてみると、なんだか、小島さん自身のことまで、ほんの少し、可愛らしく思えてくる・・・。不思議ですよね。あの人がこんな字を書くんだぁって・・・。」
と、穏やかな表情で言った。彼の言葉に、今度は、大山が言った。
「なんか、この字って、あの人に似てますよね。子どもが書いたみたいな字で。あの人も、少し子どもっぽいじゃないですか。えーと・・・、そういうのって、何て言うんだっけ。ありましたよね。諺みたいな。」
考え込んでいる大山に、正義がすかさず、
「『字は体を表す』じゃないですか。」
と、得意げに言った。大山に「それ」と言われて褒められた正義は、少しいい気分になっていたが、すぐに、自分が米子や大山と全く違う方向性で『字は体を表す』を感じていたことを思い出し、少し恥ずかしくなった。そんな様子を見た瀬戸が、
「齋藤さん、照れてる。大山さんのこと大好きじゃん。」
と言って、正義をからかった。

 そうこうしていると、入り口の自動ドアが開いて、久々にお客さんが入って来た。シルバーカートを押す、白髪で眼鏡をかけた、少しふくよかな女性。それは、前日に米子が助けた、毎日おにぎりを買いに来る客さんだった。その姿を見て、正義は、いつもより来るのが遅いな、と思っていると、お客さんの後ろから壮年の男性が入って来た。彼は売場を見渡し、エプロンをまだ外していない正義たちを見つけると、深々と頭を下げた。正義たちは若干戸惑いながらも、各々、軽く会釈をしたり、「いらっしゃいませ」と声掛けをしたりすると、男性客は、正義たちの方へ歩み寄り、話しかけてきた。彼は、米子に助けられた女性客の息子だった。母親を助けてもらった礼に来たのだ。米子が店のエプロンを着けたまま、彼女をおぶって交番まで行ったため、警察官がエプロンに書かれた店の名前を覚えていたようで、男性客は、米子のことや、米子がここで働いていることがわかったのだという。これまでは、認知症の症状が比較的軽かったため、母親の望みを尊重して買い物に一人で行かせていたが、近頃、認知症が進行してしまっていたと、彼は話した。正義たちが、男性客と話している間に、母親の方は、川崎のフォローにより、おにぎりの会計を済ませていた。息子は帰り際、再度、米子に礼を言った。その横で、母親は、米子を見つめながら、
「あら、お姉さん。その御髪、とっても素敵ね。」
と言って笑った。彼女に対し米子は、赤面しながら、少しぎこちない笑顔を返した。その様子を、正義たちは笑いながら眺めていた。

 数日後、この日も徒歩で出勤した正義は、売場にて、店のエプロンを着けた見慣れない男と遭遇した。彼は、正義に「おはようございます」と挨拶をすると、事務所に入っていった。正義が、状況がつかめず戸惑っていると、今度は、売場に小島の姿を発見した。小島がこの時間に来ているなんて珍しい。更に奇妙なことに、売場で作業をしている。正義が、増々、状況が理解できずに困っていると、どこからともなく新川がやって来て、正義の手を引き、彼をバックヤードへと連れて行った。
 新川の話によると、先日の小島の件で本社にクレームが入ったらしい。米子に対して小島がしたことについては、事実確認がとれないとして、それ程、問題にならなかったようだが、お客さんへの暴言や今までの対応の悪さは問題視されたようだ。ただ、小島の件はそれだけでは終わらず、日頃からナイト部の働き方に少なからず不満を抱いていた、一部の日中勤務のパート従業員たちが、ここぞとばかりに、ナイト部、特に小島達の仕事ぶりについて、本社に内通したらしいのだ。これまで、彼女たちは、小島のあの威圧的な見た目や態度、そして何より、旦那が本社の社員であるということに委縮してしまい、中々、小島に注意をしたり、意見を言ったり出来なかったことを、苦々しく感じていたようなのだ。小島がいつも事務所で寝ていて仕事をしていないことや、しょっちゅう遅刻をしていること。小島の取り巻き達がおしゃべりばかりしていて仕事をサボっていること。小島達が期限切れの惣菜を無断で持って帰っていることなど、複数の従業員が思い思いのことを本社に密告したようだ。普通なら、解雇になってもおかしくはないところであろうが、旦那の力なのか、結局、クビにはならないという。ただ、全くお咎めなしということにはできず、小島は、ナイト部のリーダーではなくなり、当分、この店舗のナイト部にはリーダーやマネージャーのような存在はおかないこととしたようだ。そして、問題のある店舗として位置付けられたこの店には、毎晩、本部からナイト担当の社員が派遣され、この店のナイト部の指揮、指導をするというのだ。正義が売場で遭遇した見知らぬ男は、本部の社員であった。青山や神田は、多店舗に移籍するか、退職するか、自分で選択できるという甘い処遇になったらしい。
 新川は、一通り正義に事情を話すと、帰っていった。どうやら、また、このためだけに、居残って正義を待っていたらしい。話を聞いた正義は、作業を始めたが、いつも通りに仕事が手につかない状態になり、仕事とは別のことばかり考えていた。小島らについて、パート従業員達がリークした内容については、どれも本当のことであるから、小島がこういう状況に置かれることについては、自業自得であり、仕方がないなと正義は思った。だが、何故か、単純に、「ざまあみろ」と思う気にはなれず、複雑な心境だった。そして、そんな自分の気持ち、感情の変化が彼自身にも理解ができず、彼は戸惑っていた。
 休憩の時間となり、正義が休憩室でパイプ椅子に座って惣菜パンを食べていると、米子が入って来た。正義は席を立ち、米子の隣へと移動した。そして、正義は、小島の件につて、米子に話しかけた。米子は、こういうことが起こった原因は、自分への悪口にあるから、騒動の種を作ってしまい申し訳ないと思っていると話した。彼は、悪口を言われる要因をそもそも、自分が作っている部分があるとして、自分にも落ち度があると言った。悪口を言われないように、自分の見た目や行動を変化させるような努力を自分はしておらず、最低限気をつける必要があった。自分は人を見た目で判断したりはしないが、それが他の人も同じだと思ってしまっているところがあり、見た目を気にすることを怠っていた。また、自分が言われる悪口は、事実だから言われても仕方ないと、「変な人」である自分を受容することを重要視していたため、無意識の内にそれを言い訳にして、自分は変わらなくていいのだと思い込んでいたのかもしれない。それに、変えなければいけないのは、見た目だけではなく、自分のコミュニケーション能力の低さも改善しなければいけなかった。小島や青山、神田らに良く思われていないことは理解していたため、自分から積極的に彼らとコミュニケーションをとろうとすることを諦めてしまった。馬鹿にされる自分も、実際の自分だから、ちゃんと受け入れて理解するということはもちろん大事だが、それを直そうと考えなかったのは自分のミスだ。相手に変化を求めるのなら、まず、自分が変わらなければいけなかった。店がこういった状況になったのは、自分のせいでもあって、無関係なナイト部のメンバーに迷惑をかけてしまって、本当に済まないと思っている。米子はそのように語って、自分を責めていた。正義は、何か言わなければと、頭の中に米子にかけるべき言葉を探していたが、ふさわしい言葉を見つけることはできず、結局、何も言えずにいた。しばらく沈黙が続いていると、川崎が入って来た。川崎は、正義たちの少し後方の席に座ると、
「全部を変える必要はないんじゃないですか。僕は、米子さんの長い髪も性格も嫌いではないですよ。」
と呟いた。正義が振り向いて、
「えっ。川崎さん、聞いてたんですか。」
と言うと、川崎は、いつものにやけ顔を正義に向けた。そして、川崎は、小島について話し始めた。
 小島がナイト部に入って来た頃のナイト部は、青果、鮮魚、精肉、惣菜、レジといった他の全ての部門から色々な作業を押し付けられていたという。作業量の多さに、ナイト部の従業員たちは皆、余裕なく働き、小島は全く仕事を教えてもらえず、仕事を覚えるのに苦労したらしい。小島が必死に仕事を覚えてからも、ナイト部の作業量は日に日に増していき、本来ナイト部で担当している納品や品出しの作業に加えて、それらの作業をしていると、どんなに急いで作業をしても、勤務時間内にはとても作業が終わらないような状態が続いた。やがて、嫌になったナイト部の従業員は、次々と辞めていき、最終的に小島一人が残った。本部から社員が応援に来たり、多店舗からヘルプの従業員が来たり、ということはあったそうだが、求人の応募は無く、慢性的に人手不足の状態であった。それでも作業の量は変わらず、小島は、とうとう開き直って、積極的に作業を放棄するようになった。作業を押し付ける方も、作業が終わっていなければ困るため、次第に、どうしても依頼しなければならないもの以外は、ナイト部に仕事を振らないようになっていき、現在の仕事量に落ち着いたようだ。川崎が一通り小島について話すと、休憩時間をほとんど消化していた。休憩室内には、暗い雰囲気が漂い、三人は沈黙のまま、休憩室を出て行った。正義は、何とも言えない気持ちを抱えたまま階段を下りていた。ふと、米子の方を見ると、彼も浮かない表情のように見えた。一方、川崎はと言うと、相変わらず、ニヤニヤ顔を崩しておらず、意外にも、正義にとって、それが唯一の救いだった。

 翌日の午前三時。出勤日であれば冷蔵品の品出しに忙しい時間だが、休日の正義は、大抵、この時間になってもベッドから起き上がれない。目を閉じ、体を横たえながら、彼は、休憩室で米子が話したことを思い出し、考えていた。自分が米子の立場だったらどうだろうか。小島の今の状況に「ざまあみろ」とまでは思えないといっても、自分が当事者であったら話は違う。きっと、自分は小島に対して何らかの方法でやり返してやろうと思うのではないか。その状況で自分は、米子のように自分の落ち度を考えることなどできるだろうか。おそらく、血が上って、怒り狂って、それどころではないだろう。米子は、自分の落ち度として、容姿のことをあげていた。よくよく考えれば、自分も最初は、米子のことを、怪しい身なりをした変な奴だ、くらいにしか思っていなかったではないか。その後、偶然が重なって、彼のことを多少知っていって、見た目のことが気にならなくなったものの、彼の内面を全く知らないままでいれば、きっと、未だに、自分も彼に冷たい態度をとっていることだろう。自分も結局、そういう人間だ。周りの人間と少し様子が違う人、風変わりな人に出くわせば、「変な奴」だと思って敬遠する。例の「いじわる」と呼ばれていたお客さんなど、面倒だから関わりたくないと感じるお客さんは多かったではないか。今に至っても慣れないお客さんだっている。自分だって十分に、小島達と同じように、人を見た目で判断する側の人間ではないか。自分より変な奴やできない奴、ダメな奴を探して馬鹿にしてやろうという考えが、今も心の片隅に存在していることを自覚している。散々、人に馬鹿にされてきたのに、未だに馬鹿にされることに慣れず、馬鹿にもなりきれない、情けない自分がいる。やはり、小島だけを強く非難する気にはなれない。その非難は、自分にも帰って来るからだ。また、米子はコミュニケーションについても話していたが、それは、自分についても当てはまることではなかったか。俺は明らかに小島や青山、神田らが嫌いだった。それが態度や言動に出ていて、それが相手に伝わって、彼らと上手くいっていなかったのだとしたら、それは俺の落ち度ではないか。第一、自分は、米子のように仕事はきっちりと出来ているわけでもない。ミスは多いし、遅刻もしょっちゅうしてしまう。ナイト部のリーダーとして、小島が自分を良く思わないのは当然のことではなかったか。何故、今まで、そのことについて考えなかったのだろう。どうして、こういう状況になってからでなければ、そういうことを考えられないのだろう。
 そんなことを考えていると、もう夜が明けていた。正義は、泥のように重たく感じる体を、ゆっくりと時間を掛けながら起こした。休みの日の正義は、毎度このような有様で、この日も、丸一日程、何も食べていない状態だった。体がふらつく中、なんとか着替えを済ますと、食料を買うために部屋を出た。廊下を進むと、おばちゃんが掃除をしており、
「あら、おはよう。今日は休みだったんだね。」
と声をかけた。正義は、
「はい。ちょっと寝すぎてしまって。ご飯買ってきます。」
と言葉を返して、宿を出た。近くのコンビニに着くと、相変わらず「いらっしゃいませ」の挨拶はない。次に店に入って来たサラリーマン風の男性にはしているのに。そんなことを思いながら、最近よく買っている、お気に入りの弁当とアイスクリームを手に取り、レジに並んだ。会計を済まし、袋の中を見ると、割り箸が入っていなかった。レジカウンターに戻り、店員に声をかけると、カウンターの上に放り投げるようにして割り箸を渡してきた。俺はこれを、この店員、もしくは、職場に来た客に返すのか。そんなことを考えながら、割り箸を手にレジカウンターの付近に突っ立っていると、OL風の女性がぶつかってきて、「邪魔だ」と言わんばかりに、正義を睨みつけた。正義はなおも考えていた。俺はこれも誰かにぶつけるのか。そうしないと気が済まないのか。だが、毎日、こんなことばかりだ。いちいち、誰かに返していても、今の俺はきっと心を疲弊させるだろう。いつか米子が言っていたように、忘れるのが一番はやいのかもしれない。俺はいつか、昔のことを全部忘れることができるのだろうか。出来事そのものは忘れられなくとも、恨みとか憎しみみたいな感情は、忘れることができるだろうか。そんなことを思いながら、正義はコンビニを出た。彼はイライラしていた。やはり、自分の心に余裕がなければ、他人に寛容にはなれない。ましてや、他人に優しくなれるなんて、今の自分には考えられない。自分の心に余裕など、いつまで経っても生まれる気がしない。宿までの短い距離を歩きながら、彼は、はるか遠く感じられるような長い道のりについて考えを巡らせていた。

 その夜、正義は、職場の休憩室で、瀬戸と川崎と話していた。大山の妊娠に対するお祝いをしようと相談していたのであった。川崎は飲み会をしようと発言したが、妊婦に酒なんて飲ませられないし、悪阻もあるから食事も良くないのでは、と川崎の案は早々に却下された。瀬戸が贈り物など良いのではないかと言うと、正義もベビー用品が良いのではと同調した。話をしていると、珍しく休憩室に小島が入って来て、自販機で炭酸入りのジュースを買っていた。正義が気にせず話を続けていると、
「バカダネェ、アンタタチ。」
と言って、小島が正義たちの方へ近づいてきた。そして、彼女は、
「オクリモノハ、シュッサンガオワッテカラ、ワタスンダヨ。シュッサンイワイッテイウダロ。アカチャンガ、チャント、ウマレテクルマデハ、ナニガアルカ、ワカラナイカラ。」
と続けた。正義は、小島の言葉を聞いて、大山が、小島が出産の心配をしてくれたと話したことを思い出していた。すると、瀬戸が、
「じゃあ、小島さんも一緒に贈り物しましょうよ。みんなで、何がいいか考えて。」
と、小島に言った。小島は、ジュースを勢いよく飲み干すと、
「キガムイタラネ。」
と言って、休憩室を出て行った。おそらく、小島も大山に無事に出産してもらいたいとか、大山の力になりたいとか、少なからず考えていたのではないだろうか。正義は、たった今恥ずかしそうに、そそくさと休憩室を出て行った彼女の後姿を思い出しながら、そんなことを考えていた。
 正義たちが休憩を終え売場に戻ると、社員から、葛野が途中で帰ったと報告があった。葛野の品出し作業があまりにも雑だったため、いくつか注意をしたところ、品出し中の商品を放り出し、そのまま店の外へと出て行ったという。そこで、社員や小島が本来休みである米子に連絡をして、急遽、出勤してくれるように頼んだ。三十分ほどして、汗だくの米子がやって来た。社員は、米子の容姿を見るなり、長い髪を何とかするように指摘した。
米子が困っていると、小島が、
「ヨナコ、コッチニキナ。」
と米子を呼び、自分の手首につけているヘアゴムを外すと、それを使って米子の髪を上手に団子状にまとめた。そして、小島が社員に、
「コレデ、イイデスカ。」と尋ねると、社員は、米子に、気をつけるようにと言い残し、事務所に入って行った。米子が小島に礼を言うと、小島は、
「カミ、キリタクナイナラ、ジブンデ、デキルヨウニシトキナ。」
と言って、作業に戻って行った。
 米子のヘルプにより、その日の作業を無事に終えたナイト部の面々は、それぞれ、バックヤードに引き上げていった。米子や瀬戸、川崎らが更衣室へ向かう中、正義は、疲れた体を引きずりながら休憩室に向かうと、自販機でジュースを買って、パイプ椅子に重くなった身体を預けた。すると、後から小島が入って来て、正義は無意識に座り姿勢を正した。
小島は、炭酸入りのジュースを買い、立ったまま勢いよく飲み干すと、外したエプロンを長机に置き、休憩室を出て行った。休憩室に一人となった正義は、目を閉じて近頃の出来事を、また、ぐるぐると考え込んでいた。そうしていると、疲れも相まって、椅子から立ち上がる気力がどんどんなくなっていき、立ち上がって帰る支度をするのが億劫になっていた。そのうちに眠たくなってきた彼がうつらうつらとしていると、突然、肩を揺すられ、意識を取り戻した。彼が目を開くと、目の前には、自分を見つめるまん丸な瞳があった。
「齋藤さん、帰らないの。」
と、瀬戸は言った。正義は、まだ少し頭がぼんやりしており、瀬戸の言葉にすぐに反応できずにいた。その時、買い物袋を持った小島が再び休憩室に現れて、自分のエプロンの近くに買い物袋を置いた。そして、正義と瀬戸の方を見ると、
「チョウドヨカッタ。チョット、コレミテ。」
と言って、ポケットから何かを取り出し、長机の上に置いた。正義がボーっとしながら目を凝らすと、それはどうやら、小銭入れのようだった。
「コレ、タシカ、ヨナコノジャナカッタッケ。」
と小島が言うと、それに反応して、正義は立ち上がり、小銭入れを手に取った。
「たしかに・・・。そうですね・・・。」
そう言いながら、正義は、いつかの荷物検査のことを思い出していた。小島が言うには、帰ってから食べるものを買うために売場を回っていたところ、米子のものと思しき小銭入れが落ちているのを見つけたという。そこで、正義は、自分なら米子の家を知っているので、自分が届けると小島に伝えた。帰り支度をするための理由を得た正義は、ようやく、更衣室へと向かい、さっさと身支度を済ませると、足早に通用口を出た。少し歩いて、信号待ちをしていると、誰かが正義の肩に手をかけた。正義が、振り返ると、何か言いたそうな、丸く大きな瞳がそこにあった。
「ちょっと、待って下さいよ。何で置いてくの。」
と言う瀬戸に、正義は、
「あっ、ごめん。でも、学校あるでしょ。俺一人で行くからいいよ。」
と返した。それに対し瀬戸は、
「私も行きますよ。午前中は授業ないし、午後は・・・、まあ、大丈夫です。それに、鳩がどうなったかも気になるし。」
と答えた。だが、正義には、まだ気がかりなことがあった。
「あの、でも、やっぱり、一人で行くよ。俺が引き受けたことだし。」
正義がそう言うと、瀬戸は、
「何で。一緒に行っちゃいけないの。」
と不機嫌そうに言った。それに対し、正義が反応に困っていると、瀬戸は、
「私と行くのが嫌なんだ・・・。まあ、それならいいけど。」
と少し寂しそうに言った。正義は、咄嗟に、答えた。
「いや、違くて。俺、歩いて来てるんだ、最近。電車使ってないんだよ。米子さん家にも、ゆっくり歩いて行くつもりでさ。だから、一緒に来ると、時間かかっちゃうから・・・。」
それを聞いた、瀬戸は、
「何、その理由。せこっ。どうせ、電車賃浮かそうとか思ってるんでしょ。」
と言った。図星を突かれた正義は、
「いや、違うって。電車が苦手なんだって。」
と半ば間違いではない、言い訳をした。すると、瀬戸は、
「はいはい。もう、何でもいいですけど。なら、私も歩きますよ、一緒に。」
と言った。そして、彼女は、
「ゆっくり歩けるんだったら、誰かさんを後ろに乗せて自転車漕ぐより全然マシですよ。今さらそれぐらいのこと、面倒とか思いませんから。大丈夫ですよ。」
と続けた。正義には、彼女の笑顔がいつもより輝いているように思えた。そうして、彼らは米子の家に向けて歩き出した。正義の隣を歩く瀬戸は、モノトーンで落ち着いた印象の服装をしていたが、一方、正義の胸中は、全く落ち着かない状態であった。

 二人が米子の家に着き、玄関のチャイムを鳴らすと、米子が出てきた。正義が米子の小銭入れを手渡すと、落としたことに気付いていなかったようで、びっくりした様子だった。そして、二人にとても感謝し、お礼がしたいからと、とりあえず家に上がるように二人に促した。だが、正義も瀬戸も、家に上がることは丁重に断った。瀬戸が鳩はどうしているかと米子に聞くと赤いポストを指さした。聞くまでもなく、鳩は先日と変わらずポストの上に居た。だが、以前見た時の、嘴の歪みや顔の腫れはほとんど消えていた。それに、以前は置物のように動かなかったが、今では、「ポッポッ」と鳴き声を発しながら、時折、頭を動かしたり、ポストの上を行ったり来たりと動き回っている。体調も大分改善されたように見える。そこら辺の公園などにいる鳩と全く遜色ない程であった。正義と瀬戸が、鳩をじっくりと観察していると、鳩が急にバサバサと羽をばたつかせた。それは、鳩が懸命に空へと羽ばたこうとしているように見えた。正義には、鳩が、この三人が再び集まるまで、旅立つのを待ってくれていたように思えた。必死に羽を動かす姿に、正義は、少しずつ変わろうと思い始め、もがいている自分の姿を重ね合わせ、思わず手に汗を握っていた。もう一度、空へとはばたけ。そう正義が心の中で叫んだ言葉は、あたかも、もう一度、人との関係を作り直すのだ。と叫んでいるようであった。「行け」、「飛べ」、「もう少し」。三人が各々、思い思いに叫んでいた。正義は、祈るような、賭けるような気持ちで、鳩を見つめていた。この鳩がもし、無事に空へとはばたいていくことができれば、きっと、俺も、自分の思いを実現できるはず。もう諦めたりすることなく、人と関わることができるはず。人を信じることができるはず。だから、頼む。飛んでくれ。正義のそんな思いが通じたのか、何度か、羽をばたつかせて、羽ばたき方の感覚を取り戻した様子の鳩は、すっと、空を見据えると、羽を広げ、勢いよく空へと飛び立っていった。正義は、そっと自分の願いを重ねるようにして、大空へと飛び立っていった鳩を見つめていた。

 その後、米子がどうしてもお礼がしたいと言い張ったので、正義と瀬戸は、米子に昼食をごちそうになることになった。そして、三人は、米子の家から二十分ほど歩き、ターミナル駅の近くの店で食事をした。食事を終えると、瀬戸は午後から学校へ行くと言い、正義と米子は、瀬戸を駅まで見送ることにした。駅までの道を歩いていると、ふと、思い出したかのように、瀬戸が話し始めた。
「そういえば、この間お店に来た、葵ちゃん、でしたっけ。女の子。米子さんのこと、『よっちゃん』って呼んでましたよね。その呼び方、すごく良いなって思って。私も『よっちゃん』って呼びたいです。良いと思いませんか。ねえ、齋藤さん。」
「・・・う~ん。俺らが『よっちゃん』って呼ぶのは、何か違うんじゃない。何となく、恐れ多いというか、せめて、『さん』をつけたほうがいいよ。『さん』を。敬称を。」
「ええっ。じゃあ、『よっちゃん』さん、ですか。何か、二度手間ですし、呼び辛いですよ。
『サンプラザ中野くん』さん、とか、『なかやまきんに君』さん、とか、『さかなクン』さん、とかって、どれも呼びにくくないですか。」
「・・・う~ん、たしかに・・・。」
「・・・あの、私は何と呼んで頂いても良いですよ。社員さんたちからは、ガットゥーゾなんて呼ばれていますし・・・。」
やっぱり気が付いていたのかと、正義は思った。
「・・・じゃあ、『よっちゃん』さん、を縮めて、『よっさん』っていうのはどうですか。」
「・・・まあ、「ちゃん」付けで呼ぶよりは、そっちの方がまだしっくりくるかな。」
「じゃあ、決定。米子さんは今日から『よっさん』です。良いですか。」
「はい。喜んで。」
「米子さん、何か今の、どこかの居酒屋みたいですね。」
「あ、齋藤さん、違いますよ。『よっさん』ですよ、『よっさん』。ちゃんと呼んでくださいよ。せっかく考えたんですから。」
そう言うと、瀬戸は、
「そうだ。よっさんにあだ名を付けたんだから、その代わりじゃないですけど、二人も私のことを下の名前で、『綾花』って呼んでくださいよ。それに、二人は私よりも年上なんですから、敬語もなしです。いいですか。」
と続けた。突然の瀬戸の要求に正義と米子は呆気にとられていたが、二人は顔を見合わせ笑うと、快くそれを了承した。正義は内心、気恥ずかしくて、ちゃんと呼べるかどうか心配であった。それと同時に、自分にはあだ名が付けられてないことに、少しもの悲しさを感じた。さらに、だからと言って、自分にもあだ名を付けて欲しいとは言いだすことができないくらい、自分をさらけ出すことがまだできない自分に、もどかしさのようなものも感じていた。正義はそんな複雑な胸の内を抱えたまま、駅の改札口を通っていく綾花を見送っていた。よっさんとも、そこで別れた正義は、ターミナル駅の南口の、高い天井をボーっと見上げていた。正義は、電車は嫌いなくせに、縦にも横にも広く開放感があるこの空間がお気に入りだった。すると、隅の方で、ダンスの練習をしている二、三人の集まりと、その少し横でギターを持って弾き語りをしている人を見つけた。青年たちの姿を遠くから眺めながら、正義は考えていた。少し前までの自分ならば、彼らのことをただの自己顕示欲が強い連中と決めつけていただろう。目立ちたがりで、みっともない、恥ずかしい奴らだと馬鹿にしていただろう。だが、彼らはそんなに簡単に切り捨てることができるような存在なのだろうか。現に、彼らの周りには、女子高生やサラリーマン風の男性、学生風の男女が集まっている。青年たちのように、周囲の目をこちらに向けさせたり、動きを止めさせたりすることが、果たして今の自分にできるのか。自分に、そのようなことができるものがあるか。今の自分には、到底見当たらない。そんな何かをこの先、俺は手にすることがあるのか。もし、自分にも気付いていないだけで、誰かの注目を引くような何か、将来誰かの注目を集められるようなものを手にする可能性があるのであれば知りたい。自分に一体何ができるのか。そして、そんなものが一つでも見つかるように、ただ願っている。そんなことを思いながら、正義は、彼らから目を離すと、まっすぐに前を見つめ、駅の外へと歩いていった。

 宿までの帰り道、正義は道に迷っていた。日光街道に出れば、後はほとんどまっすぐ歩いていくだけの、一駅分ほどの道のりにも関わらず、少しでも帰るまでの時間を縮めようと横着をして、結局、道がわからなくなったのだ。正義は、こういった無駄をとても嫌っている。道を間違って引き返したり、忘れ物をして引き返したりという、日常の時間の無駄、労力の無駄などが、彼は堪らなく嫌で、我慢ならないのだ。彼は、苛立ちとともに、自分が来た道を引き返し始めた。少し歩いていると、だんだんと彼の苛立ちは、心が重く沈み込む感覚に変化していった。そして、彼は、自分がしていることが酷く面倒くさく感じられていた。何とか日光街道に出た頃には、彼の気持ちは、さっきまでの楽しかった時間が嘘のように落ち込んでいた。俺はいつか、無駄や面倒を愛することができるようになるのだろうか。愛するまではいかなくとも、せめて、無駄や面倒に直面しても苛立たなくなるのか。考えていると、正義の頭の中に、よっさんや綾花のことが浮かんだ。こうして、忘れ物を届けに来たり、誰かと会って時間を使ったりということも、つい最近までは、無駄で面倒なことだと思っていたではないか。自分以外の人間のために時間や労力を使うことは、全て無駄で面倒なのだと信じていたではないか。それでも、彼らと関わる中で、少しずつではあるが、確かに自分は変わってきている。大丈夫。いつになるかはわからなくても、ゆっくり変わっていけばいいのだ。自分の全てを変えるわけではないのだから。そう、心の中で言い聞かせるように繰り返すと、正義は、ずっと下ばかり見ていた視線を前へと向けた。
 正義が信号待ちで立ち止まると、信号の反対側で、見覚えのあるモノトーンの服装が目に入った。彼女は、落ち着かない様子で、周囲を見渡している。信号が変わると、正義は、
「瀬戸さん!」
と、大声で彼女に呼びかけた。正義に気付くと、綾花はニコリと笑って、駆け寄って来て、
「綾花って呼んでって、言ってるじゃないですか。」
と言った。正義は、綾花に何故ここにいるのか尋ねた。彼女は、午後の授業が休講になって暇になったこと。そして、正義のことなのですぐに引き返せば、まだその辺にいそうだと思い、引き返してきたことを正義に話した。正義は、ついさっきまでただの時間の無駄だと思っていた道に迷ったことが、綾花にこうして会えることに繋がったことで、無駄ではなくなったことに、少し驚いていた。そして、面倒なことでも、何か一つのきっかけで見方が変われば、面倒ではなくなるのかもしれないと、おぼろげながらに考えていた。正義は、こんな無駄や面倒なら少しは愛せるかもしれないと思いながら、横を歩く綾花を見ていた。
 二人は寄り道をしながら、色々な話をした。日は、どんどんと傾いていき、隅田川にかかる橋にたどり着いた頃には、日は沈みかけていた。空はオレンジ色に変わり、そのオレンジが水面に反射して、辺り一面を鮮やかに輝かせていた。二人は、橋の上から沈みゆく夕日をしばらく眺めていた。正義は、いつか悔しい思いで眺めた夕焼けを思い出していた。今の自分は、あの時自分が望んでいたような気持ちで、夕日を見ることができているだろうか。人生はそうそう思い通りにはいかないけれど、こうして、また違った形で、自分の望みが叶うことだってあるらしい。そんなことを思いながら、正義が横に目を向けると、夕日に照らされた綾花の横顔があった。空の色が映り込んだ彼女の瞳も美しく輝いているように正義には思えた。そして、普段見慣れているはずの彼女の顔を見ているのが、何故だか、急に気恥ずかしく感じられて、正義は咄嗟に、視線を夕焼けへと戻した。
 綾花を家まで見送ると、正義は帰路に就いた。彼は、宿の近くまで来ると、いつも立ち寄るコンビニに入った。そこで彼は、近頃お気に入りの弁当を探すが、棚にその商品はなかった。売り切れかと思って諦めようとする彼だったが、陳列する位置が変わり別の段に置いてあるのかもしれないと思い、彼は念のため、棚を上から順番に確認していった。だが、そもそも、その商品のPOP自体が棚に貼られていない。彼は思った。俺が好きになる商品、気に入った商品は、いつも、ことごとく、あっという間に入れ替えられて、もう二度と買えなくなる。嫌がらせでもされているのだろうか。そんなことを思いながら、彼は、妥協して別の弁当を手に取った。レジ前にできた会計待ちの列に並びながら、彼は、全てが思うほどうまくはいかないみたいだと、そっと心で呟き、一人静かに微笑んだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み