第30話 卒業式と撮影会
文字数 3,196文字
3月。卒業の季節が訪れた。
そんなある日のこと、小林家では重要な家族会議が開かれていた。その議題とは――
「卒業式で着る桜子の衣装をどうするか」
である。
最近の小学生、特に女子生徒の間では、卒業式の衣装に並々ならぬ情熱を注ぐ傾向があった。そしてそれは費用にも反映される。
果たして皆はどんな衣装にするのだろうか。
気になった桜子が友人の陽菜に尋ねたところ、彼女は着物と袴だと答えた。明言を避け、言葉を濁していたものの、どうやら田中家は一生に一度の卒業式のためにかなりの額を投じたらしい。それを聞いた桜子は両親へ報告した。
「友里ちゃんと奈緒ちゃんはブレザーみたいな洋服で、陽菜ちゃんは着物と袴なんだって」
桜子の言葉に、楓子が顎をつまみながら答える。
「なるほどねぇ。それじゃあ、うちもお洋服にしましょうか」
楓子の提案を耳にしつつ、暫し考え込んでいた浩司が桜子に問いかけた。
「袴って、あれか? 『はいからさんが通る』みたいなやつのことか?」
「へっ? はいから? なにそれ?」
「……古いわねぇ。そんなの桜子に訊いたってわかるわけないじゃないの。――それで袴だっけ? ちょっと違うけど、まぁ、あんな感じかしらね」
「そうか、あんな感じか! まさに女学生の卒業式って感じでとてもいい! よしっ、うちも袴だ。着物と袴にするぞ! ちょっと待ってろ、これから佐々木の店で話を聞いて来るからなっ!」
佐々木呉服店。
小林家が暮らす同じ商店街に軒を並べる、伝統ある呉服店である。店主は浩司の飲み友達でもあり、その関係から小林家とも親しい。
既製品ではなく、反物から仕立てる本格的な呉服を扱っており、その品質は高く評価されている反面、価格も高価であることで知られている。
しかし浩司は力強く宣言した。
可愛い娘の大切な晴れ舞台のためなのだから、金など幾らかけても構わない、と。
「ちょっと行ってくる! しばし待て!」
そう言い残すと、浩司は呉服店へ向けて駆けていく。途中でサンダルが脱げそうになりながらも、彼は一心不乱に前へと進む。そんな夫の背中を見送りながら、楓子は心の底からため息を吐いた。
「なんか、お父さんって……桜子のことになると、本当に歯止めがきかなくなるわよねぇ……」
楓子は疲れ切った様子で机に顔を伏せた。
30分後、浩司が戻って来た。鼻息も荒いその顔には満足そうな笑みが浮かぶ。その様子を見る限り、どうやら彼は良い知らせを持ち帰って来たらしい。
「おう、佐々木に値段を聞いて来たぞ。思ったより安かったな」
「お幾ら万円?」
「50万だ。一生に一度の思い出作りにしちゃあ、安いもんだろう?」
桜子の問いに浩司が即答する。どうやら彼は相当の自信を持っているらしく、その声音には一切の戸惑いも躊躇も見られなかった。
しかし、値段を聞いた桜子の青い瞳が驚愕に見開かれる。そして慌てて言った。
「ちょっとお父さん、高すぎでしょ! もったいない! 一回限りの衣装に50万とか、あり得ないから! レンタルで十分だよ、レンタルで!」
必死に止めようとする桜子。それでも浩司は、聞く耳を持たずに言い張った。
「子供が金の心配なんぞしなくてよろしい! 買う! たとえ一回限りでも買うぞ! そして世界一可愛い桜子の姿を、この目に焼き付けるのだ!」
天高く腕を突き上げ、声高に浩司が宣言する。その姿を見た桜子と楓子は、呆れとため息が混じり合った「うわぁ……」という表情で眺めるばかりだった。
「浩司。あんた馬鹿じゃないのかい! 桜子と楓子さんを見てごらんよ。嫌がっとるでないか! この阿保たれが!」
見かねた絹江が浩司にツッコミを入れたが、浩司も負けじと言い返した。
「そういうお袋はどうなんだよ? 桜子の袴姿を見たくないのか? 一生に一度しかないんだぞ?」
「そりゃぁ、見たいさね。可愛い孫の晴れ姿だもの。でも私は、桜子のしたいようにすりゃええ思うちょるよ」
「さすが、おばあちゃん。話がわかるぅ。袴姿が見たいだけなら、別にレンタルでもいいじゃない。ねぇ?」
桜子が絹江の手を取り浩司を見つめる。事ここに及んで二対一の劣勢という緊迫した空気が流れる中、浩司はこの不利な状況をどう挽回しようかと考えを巡らせる。するとその時、おもむろに楓子がコホンと咳ばらいをして一歩前へ進み出た。
「えー、それではここで採決を取りたいと思います。――新品の衣装がいい人、はい挙手! ――レンタルで構わないと思う人、はい挙手!」
楓子の号令のもと、各々が手を挙げる。そして結果が出た。
新品 1票
レンタル 2票
棄権 1票
以上、厳正な投票の結果、桜子の卒業式での衣装はレンタルに決定したのだった。
浩司は拗ねていた。50代半ばを過ぎた苦み走ったおっさんが、可愛くもなんともない顔とともにチラチラと妻と娘の顔を覗き見る。
その様にとても面倒臭くなった楓子は、ほぅ、と小さなため息を吐いて浩司へ告げた。
「それじゃあお父さん。提案なんだけど、衣装をレンタルにする代わりに、桜子の写真は好きなだけ撮ってもいいわよ。飽きるまでね。どう? これでウィンウィンなんじゃない?」
その提案に浩司の顔がパッと輝く。先ほどまでの拗ねた中年親父の顔は、今やどこかに消え去っていた。
「おぉ! そういうことならレンタルも吝 かではない。お母さんの言う通り、まさにウィンウィンじゃないか」
一転して笑顔で応じる浩司と、してやったりとほくそ笑む楓子。
対して桜子が慌て出す。心底から嫌そうな表情を顔に浮かべながら、その提案に思い切り難色を示した。
「ちょっと待って! どこがどうウィンウィンなのよ!? お父さんの撮影会に、何時間も付き合わされるあたしの身にもなってよ!」
◆◆◆◆
卒業式の朝。桜子は袴姿で登校した。
彼女が振袖を揺らしながら教室に入ると、一瞬にして教室内が静寂に包まれる。
桜子は美しかった。
赤を基調にした花柄の着物に紺色の袴を合わせ、真っ白な足袋とピンクの花柄の草履を履く。白に近い金色の髪は丁寧に結い上げられて、頭には花飾りが添えられる。顔には薄く化粧が施され、唇には薄く紅が引かれて、真夏の空のように青い瞳が一層際立って見えた。
普段の桜子は、ぱっちりとした大きめの瞳がその顔に幼さと可愛らしさを与えていたが、この日に限っては一味違っていた。近くで見れば未だ幼さが残る顔立ちではあるものの、少し離れて眺めると、10代半ばの少女といっても過言ではないほどに大人びて見えた。
小学校の教室に突如現れた小学生らしからぬ美少女。
教室の全員が驚愕し、注目を浴びた桜子は、そこはかとない不安に駆られた。
「お、おはよう、みんな……どうしたの?」
もしかして、顔にご飯粒でも付いているのだろうか。
それとも、化粧が濃すぎたか。
いや、皆が黙り込むほど衣装が似合っていないとか?
あぁ、もう! お願いだから、誰か何か言ってよ!
桜子が逃げ出したい衝動に駆られる中、シンと静まり返った教室からポツリと声が漏れた。
「か……かわいい……」
その言葉に教室中の視線が集まる。そしてその声の主を見て見れば、それはクラスのお調子者、富樫翔 だった。
自身の口へ手を当ててつつ、「しまった!」という表情をする翔。
その姿に、思わず全員が叫んだ。
「またお前かよ!」
桜子のクラスメイトの約半数が同じ中学校へ進学し、残り半数は別の中学に行くことになる。その中で木村健斗、立花友里、富樫翔は桜子と同じ中学になったが、田中陽菜と日向奈緒は別校となった。
卒業式で奈緒と陽菜が桜子との別れを惜しんで号泣する。それを桜子が「学校は別だけど、家は近いからいつでも会えるよ」と言って慰めた。
こうして桜子は、苦しいこともあったけれど、それ以上に楽しい思い出に彩られた小学校を卒業したのだった。
そんなある日のこと、小林家では重要な家族会議が開かれていた。その議題とは――
「卒業式で着る桜子の衣装をどうするか」
である。
最近の小学生、特に女子生徒の間では、卒業式の衣装に並々ならぬ情熱を注ぐ傾向があった。そしてそれは費用にも反映される。
果たして皆はどんな衣装にするのだろうか。
気になった桜子が友人の陽菜に尋ねたところ、彼女は着物と袴だと答えた。明言を避け、言葉を濁していたものの、どうやら田中家は一生に一度の卒業式のためにかなりの額を投じたらしい。それを聞いた桜子は両親へ報告した。
「友里ちゃんと奈緒ちゃんはブレザーみたいな洋服で、陽菜ちゃんは着物と袴なんだって」
桜子の言葉に、楓子が顎をつまみながら答える。
「なるほどねぇ。それじゃあ、うちもお洋服にしましょうか」
楓子の提案を耳にしつつ、暫し考え込んでいた浩司が桜子に問いかけた。
「袴って、あれか? 『はいからさんが通る』みたいなやつのことか?」
「へっ? はいから? なにそれ?」
「……古いわねぇ。そんなの桜子に訊いたってわかるわけないじゃないの。――それで袴だっけ? ちょっと違うけど、まぁ、あんな感じかしらね」
「そうか、あんな感じか! まさに女学生の卒業式って感じでとてもいい! よしっ、うちも袴だ。着物と袴にするぞ! ちょっと待ってろ、これから佐々木の店で話を聞いて来るからなっ!」
佐々木呉服店。
小林家が暮らす同じ商店街に軒を並べる、伝統ある呉服店である。店主は浩司の飲み友達でもあり、その関係から小林家とも親しい。
既製品ではなく、反物から仕立てる本格的な呉服を扱っており、その品質は高く評価されている反面、価格も高価であることで知られている。
しかし浩司は力強く宣言した。
可愛い娘の大切な晴れ舞台のためなのだから、金など幾らかけても構わない、と。
「ちょっと行ってくる! しばし待て!」
そう言い残すと、浩司は呉服店へ向けて駆けていく。途中でサンダルが脱げそうになりながらも、彼は一心不乱に前へと進む。そんな夫の背中を見送りながら、楓子は心の底からため息を吐いた。
「なんか、お父さんって……桜子のことになると、本当に歯止めがきかなくなるわよねぇ……」
楓子は疲れ切った様子で机に顔を伏せた。
30分後、浩司が戻って来た。鼻息も荒いその顔には満足そうな笑みが浮かぶ。その様子を見る限り、どうやら彼は良い知らせを持ち帰って来たらしい。
「おう、佐々木に値段を聞いて来たぞ。思ったより安かったな」
「お幾ら万円?」
「50万だ。一生に一度の思い出作りにしちゃあ、安いもんだろう?」
桜子の問いに浩司が即答する。どうやら彼は相当の自信を持っているらしく、その声音には一切の戸惑いも躊躇も見られなかった。
しかし、値段を聞いた桜子の青い瞳が驚愕に見開かれる。そして慌てて言った。
「ちょっとお父さん、高すぎでしょ! もったいない! 一回限りの衣装に50万とか、あり得ないから! レンタルで十分だよ、レンタルで!」
必死に止めようとする桜子。それでも浩司は、聞く耳を持たずに言い張った。
「子供が金の心配なんぞしなくてよろしい! 買う! たとえ一回限りでも買うぞ! そして世界一可愛い桜子の姿を、この目に焼き付けるのだ!」
天高く腕を突き上げ、声高に浩司が宣言する。その姿を見た桜子と楓子は、呆れとため息が混じり合った「うわぁ……」という表情で眺めるばかりだった。
「浩司。あんた馬鹿じゃないのかい! 桜子と楓子さんを見てごらんよ。嫌がっとるでないか! この阿保たれが!」
見かねた絹江が浩司にツッコミを入れたが、浩司も負けじと言い返した。
「そういうお袋はどうなんだよ? 桜子の袴姿を見たくないのか? 一生に一度しかないんだぞ?」
「そりゃぁ、見たいさね。可愛い孫の晴れ姿だもの。でも私は、桜子のしたいようにすりゃええ思うちょるよ」
「さすが、おばあちゃん。話がわかるぅ。袴姿が見たいだけなら、別にレンタルでもいいじゃない。ねぇ?」
桜子が絹江の手を取り浩司を見つめる。事ここに及んで二対一の劣勢という緊迫した空気が流れる中、浩司はこの不利な状況をどう挽回しようかと考えを巡らせる。するとその時、おもむろに楓子がコホンと咳ばらいをして一歩前へ進み出た。
「えー、それではここで採決を取りたいと思います。――新品の衣装がいい人、はい挙手! ――レンタルで構わないと思う人、はい挙手!」
楓子の号令のもと、各々が手を挙げる。そして結果が出た。
新品 1票
レンタル 2票
棄権 1票
以上、厳正な投票の結果、桜子の卒業式での衣装はレンタルに決定したのだった。
浩司は拗ねていた。50代半ばを過ぎた苦み走ったおっさんが、可愛くもなんともない顔とともにチラチラと妻と娘の顔を覗き見る。
その様にとても面倒臭くなった楓子は、ほぅ、と小さなため息を吐いて浩司へ告げた。
「それじゃあお父さん。提案なんだけど、衣装をレンタルにする代わりに、桜子の写真は好きなだけ撮ってもいいわよ。飽きるまでね。どう? これでウィンウィンなんじゃない?」
その提案に浩司の顔がパッと輝く。先ほどまでの拗ねた中年親父の顔は、今やどこかに消え去っていた。
「おぉ! そういうことならレンタルも
一転して笑顔で応じる浩司と、してやったりとほくそ笑む楓子。
対して桜子が慌て出す。心底から嫌そうな表情を顔に浮かべながら、その提案に思い切り難色を示した。
「ちょっと待って! どこがどうウィンウィンなのよ!? お父さんの撮影会に、何時間も付き合わされるあたしの身にもなってよ!」
◆◆◆◆
卒業式の朝。桜子は袴姿で登校した。
彼女が振袖を揺らしながら教室に入ると、一瞬にして教室内が静寂に包まれる。
桜子は美しかった。
赤を基調にした花柄の着物に紺色の袴を合わせ、真っ白な足袋とピンクの花柄の草履を履く。白に近い金色の髪は丁寧に結い上げられて、頭には花飾りが添えられる。顔には薄く化粧が施され、唇には薄く紅が引かれて、真夏の空のように青い瞳が一層際立って見えた。
普段の桜子は、ぱっちりとした大きめの瞳がその顔に幼さと可愛らしさを与えていたが、この日に限っては一味違っていた。近くで見れば未だ幼さが残る顔立ちではあるものの、少し離れて眺めると、10代半ばの少女といっても過言ではないほどに大人びて見えた。
小学校の教室に突如現れた小学生らしからぬ美少女。
教室の全員が驚愕し、注目を浴びた桜子は、そこはかとない不安に駆られた。
「お、おはよう、みんな……どうしたの?」
もしかして、顔にご飯粒でも付いているのだろうか。
それとも、化粧が濃すぎたか。
いや、皆が黙り込むほど衣装が似合っていないとか?
あぁ、もう! お願いだから、誰か何か言ってよ!
桜子が逃げ出したい衝動に駆られる中、シンと静まり返った教室からポツリと声が漏れた。
「か……かわいい……」
その言葉に教室中の視線が集まる。そしてその声の主を見て見れば、それはクラスのお調子者、
自身の口へ手を当ててつつ、「しまった!」という表情をする翔。
その姿に、思わず全員が叫んだ。
「またお前かよ!」
桜子のクラスメイトの約半数が同じ中学校へ進学し、残り半数は別の中学に行くことになる。その中で木村健斗、立花友里、富樫翔は桜子と同じ中学になったが、田中陽菜と日向奈緒は別校となった。
卒業式で奈緒と陽菜が桜子との別れを惜しんで号泣する。それを桜子が「学校は別だけど、家は近いからいつでも会えるよ」と言って慰めた。
こうして桜子は、苦しいこともあったけれど、それ以上に楽しい思い出に彩られた小学校を卒業したのだった。