第64話 もう一つの人格

文字数 4,473文字

 6月下旬。
 桜子の水泳のタイムは、伸びたり縮んだりと一進一退を繰り返していた。
 フォームを変更して多少はタイムを短縮できたものの、やはり胸の大きさによる水の抵抗は無視できるものではない。このままでは予選突破さえ難しいだろう。とはいえ、いまさら別の種目へ転向するわけにもいかず、桜子は出口の見えない中で練習に打ち込まざるを得なかった。

 健斗の柔道部も8月に大会があるので、それに向けての練習に熱が入る。
 もともとは桜子を守るための強さを手に入れようと柔道を始めたが、今となっては柔道そのものが楽しくなっていた。そのおかげもあって、今や健斗の腕前は中々のものだ。
 さすがに小学生から柔道を続けている経験者とは差があるが、同じ中学生デビュー組の中では決して弱い方ではなかった。

 寡黙な健斗は決して口に出そうとしないけれど、8月の大会では桜子に応援に来てもらうのを目標にしている。そのためには必ず予選を勝ち抜かなければならなかった。



 今日は桜子のカウンセリングの日だった。
 桜子に第二の人格が現れてから一ヵ月が経つ。その間も両親は何度も病院へ連れて行こうとしたのだが、最近は容体が安定していたのと、桜子自身があまり乗り気ではなかったために月末のカウンセリングの日まで待つことにしたのだ。
 もちろん主治医には事前に伝えてある。今日は通常のカウンセリングに加えて、二重人格の診察もしてもらうことになっていた。

 まずは問診から始まった。
 決して急かさず焦らせず、医師は丁寧に桜子へ聞き取りをしていく。すると様々な事実が明るみに出てきた。

 桜子はもう一つの人格――鈴木のことを知っている。
 彼のことは幼少時にはすでに認識していた。
 夢の中でたまに会うことがあるし、会話することもある。
 普段の生活の中で稀に記憶が飛ぶ時があるが、その間は鈴木が表に出て来ているらしい。

 以上のような情報が皆の間で共有されたが、そのすべてが桜子と秀人が事前に打ち合わせた内容である。もちろん都合の悪いことは伏せたし多少のフェイクは含まれているものの、大筋では嘘を吐いていない。

 聞いていた両親は、その内容に衝撃を受けた。いや、正確には内容にではなく、娘の態度にショックを受けていたのだ。
 聞けば幼少時からもう一人の人格を認識していたと言う。にもかかわらず、一切相談を受けた記憶がない。もしや親として信頼されていなかったのだろうかと、浩司も楓子も落ち込んだ。

 もっとも桜子の性格を慮れば、両親を心配させたくない一心で黙っていたであろうことは想像に難くない。
 わかる。それはわかるが、しかし親としてはどんなに些細なことでも相談してほしかった。決して容易ではない問題をずっと一人で抱えてきた娘を思うと、両親は憐憫の情を禁じ得なかった。
 そんな両親の動揺を尻目に、医師は淡々と診察を続けた。
 
「桜子さん。すまないけど、ここへちょっと横になってもらえるかな?」

 医師が桜子をベッドに案内して仰向けに寝かせる。

「これは催眠療法と言ってね、君を半分眠った状態にするんだ。そうすることによって、君の中の友達を呼び出して直接話してみようと思うんだけど。大丈夫かな?」

「はい……たぶん大丈夫だと思います」

 それから医師は、念の為にと桜子の両手をベッドに固定してから準備を始めた。次いで両親にも同席するよう求めてきたので、浩司と楓子は部屋の隅で見守ることにしたのだった。


 医師による催眠導入によって、桜子はとても気持ちがよくなっていた。起きているような眠っているような、よくわからない状態。ずっとこのままでいたい気分。
 そうしてしばらくふわふわとした高揚感に身を任せていると、次第に桜子は眠りに落ちていった。

 桜子が催眠状態に陥って5分が経過した。それまで状態を看護師に確認させていた医師は、桜子が身動ぎをした瞬間を狙って声をかける。

「鈴木さん。聞こえますか? 鈴木さん」

「うーん……」

「桜子さんは眠りましたよ。あなたは自由になりました。お話を聞かせていただきたいのですが」

「……」
 
 眠っていた桜子が顔に渋面を浮かべて身動ぎを始める。それはまるで痛みに耐えているような表情だった。
 それを見た両親が心配して立ち上がろうとしたその時、桜子の両目がパチッと開いて周りをキョロキョロと見回し始めた。彼女へ医師が声をかける。

「私の声が聞こえますか? あなたは鈴木さんですか?」

「ふぅーん、なるほど……こういうやり方もあるのか」

 医師の問いにも答えずに、桜子が小さくぶつぶつと呟く。それを注意深く聞き取りながら再度医師が問いかけると、今度はギロリと睨みつけて桜子が口を開いた。

「おい、医者。いきなり呼び出すなんざぁ、ちょっと乱暴が過ぎねぇか?」
 
 やや高めの可愛らしい声。それは桜子のものに違いなかったが、普段よりも少々低く、乱暴な響きを含んでいた。両親が驚きとともに聞いていると、変わらず医師が淡々と告げた。

「いやぁ、突然呼び出してすいませんね。私は桜子さんの主治医の浅野と申します。今日はあなたとお話がしたくてお願いしたんですよ」

 睨みつける秀人の視線に怯むことなく、浅野がにこやかに会話を続ける。その様子を見た両親は、やっと顔に安堵の表情を浮かべた。
 そんな彼らを順に見渡しながら秀人が問う。

「なんだよ突然。俺に何か聞きたいことでもあるのか?」

 実をいうと秀人は、今日は病院に行く日なのだと桜子から聞かされていた。もしかするとそこで呼び出されるかもしれないとも言われていたが、案の定その通りになった。

 情報を引き出そうと浅野は会話を続けるが、もとより秀人には何かを隠したり、嘘をつくつもりもない。もちろん伏せるべき内容は事前に桜子と打ち合わせていたが、両親のためにもそれ以外は出来るだけ情報を渡そうと思っていた。

 それには今まで浩司と楓子が疑問に思っていた答えなどが含まれており、思わず二人は身を乗り出す。

「ということは、あなたは桜子さんを守るために存在していて、必要な時に出て来るのですね」

「そうだ。俺はこいつを守っている。こいつに試練を与えようとするクソッタレがいるからな」
 
「なるほど。だけど、どうしてあなたじゃなければダメなのですか? 他の人に頼るとかはできないのですか?」
  
「ほう、そうきたか。それじゃあ尋ねるが、誰がこいつを守ってやれる? 誰がいつも一緒にいてやれるんだ?」

 およそ桜子には似合わない皮肉そうな笑み。それを顔に浮かべて秀人が尋ねると、突然浩司が割って入ってくる。

「お、俺たちがいる! 俺たちが桜子を守ってみせる!」

「ちょ、ちょっと小林さん! 勝手をされると困ります!」

 浩司を止めるために浅野が後ろを振り返ると、急に秀人が笑い始めた。その笑い方には相手を嘲るような蔑みの感情が見て取れた。

「はははは! そうか、守ってみせるか! これまたずいぶんと大口を叩くな、おい! なら訊いてやる。この額の傷はどうした? なぜついたのか言ってみろ」

「うっ……そ、それは……」
 
 浩司と楓子が同時に口ごもる。対して秀人は余計に饒舌になった。

「ふふん、言えねぇか? まぁ、そうだろうな、言えるわけねぇよな。――だから俺がいるんだよ。誘拐された時もそうだ。もしもあの時俺がいなかったら、こいつは今こうしていられなかったかもしれねぇ。とっくに墓の中だったかもな」

「なっ!?」

「ナイフで切られた時もそうだ。俺はこいつを守ってやった。それに比べてお前たちはどうだ? 何かできたのか? こいつが血を流して苦しんでいた時、お前たちは何をしていた?」
 
「ぐっ……」
 
「まさか、こいつの危機を本気で健斗に任せようとしているわけじゃねぇだろうな? そりゃあちょっと虫が良すぎるんじゃねぇのかい?」

 浩司の肩がビクリと震え、顔に驚愕の表情が浮かぶ。今は秀人の人格になっているとはいえ、まさかその名を桜子本人の口から言われるとは思ってもみなかった。
 その言葉は深く浩司の心を(えぐ)った。しかし秀人は変わらず皮肉そうな笑みのまま話を続けた。

「俺ならこいつを守ってやれる。何と言っても四六時中ずっと一緒だからな。起きてる時も寝てる時も、家でも学校でもどこでもだ。あとは自由に出て来られれば完璧だ」

「……その通りだ。俺たちは常に桜子と一緒にはいられない。事件の時もそうだった。確かに俺たちは何もしていない……娘の危機に何もしてやれなかった……」

 がっくりと肩を落とす浩司と楓子。秀人は二人を眺めつつ満足そうにしていたが、浅野は()えて口を挟もうとせず傍観に徹する。

「無様だな。まぁ、わかればいい。普段の俺は大人しくしている。決してこいつを困らせたり傷つけたりしないと約束しよう」

「あぁ……わかった」

「その代わり、お前たちも俺のことでこいつを困らせたり、悩ませたりしないと約束しろ。いいな?」

「わかった、約束する……」

「ふん、わかればいい。それじゃあ、他に訊きたいことはあるか?」
  
  
 その後5分ほど話をしているうちに、秀人がもう疲れたと言って目を瞑って動かなくなってしまった。おそらく桜子の中に戻って行ったのだろう。
 さらにその15分後に桜子が目を覚ましたのだが、秀人とのやり取りは全く憶えていなかった。そこで浅野が桜子へ話を聞きたいかと尋ねてみても、鈴木に直接聞くからいいと言って断った。

 今日の出来事は改めて検証したいので、一週間後に再度来院してほしい。そう浅野が桜子の両親へ伝えて本日の診察は終了した。


 深夜1時過ぎ。楓子がトイレに起きると、リビングから薄明かりが漏れていることに気付く。様子を見に行くと、浩司がソファに座って一人で酒を飲んでいた。
 楓子の姿を認めた浩司は、酒の入ったグラスを捧げて乾杯の仕草をする。酷く疲れたその様子に楓子は心配したが、夫が一人で飲んでいる理由を理解した彼女は、()えて何も言わずにそっと浩司の横に座った。
 浩司が言う。

「なぁ楓子。俺はこれまで散々あいつを守ると言ってきたが、実際、今まで何をしてきたんだろうな」

「昼間のことは気にしないで。なにも、あの子自身が言ったわけではないでしょう?」

「いや、変わらんよ。浅野医師も言っていたが、鈴木の存在は桜子の深層意識が具現化したものだからな。あいつの言うことは、きっと桜子の本音なんだろう」 

「お父さん……」

「健斗のこともそうだ。俺は学校まで付いて行けない。だから俺は桜子が学校にいる間はあいつに頼っていたんだ、無意識にな。まだ14歳のガキだってのに。ははは。大人が子供を頼るなんて、本当に笑えるよな」

「そんなこと言わないで。あなたはスーパーマンじゃない。誰にだってできることとできないことがあるのだから、自分を責めても何にもならないわ。ほら、もう寝ましょう。明日も仕事があるでしょう?」

 楓子は優しく諭したが、それでも浩司は酒を飲むのを止めようとしない。
 すでに相当量を飲んでいるのだろうが、まだ飲み足りないと幾つもの杯を空けるのだった。
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