第65話 舞の家庭の事情

文字数 5,435文字

 7月上旬。
 桜子の診断結果を聞くために、浩司と楓子は再び病院を訪れていた。
 診察室に入ると浅野が分厚いカルテを捲りながら説明を始める。顔に浮かぶ沈うつな表情を見ていると、これから話す内容が決して容易なものでないことがわかった。

「桜子さんの症状を検討したのですが、今すぐにどうにかできるものではありません。もう一つの人格――鈴木さんの話は一貫して整合性が取れていますし、十分に理解できるものです。とても桜子さんが作り出した架空の人格とは思えません」

 浅野が言うには、秀人の人格は成熟した男性そのものだそうだ。どう考えても未だ未熟な中学生の精神から分離したものとは思えない。
 存在する理由も終始一貫しているうえに矛盾点も見つからないので、秀人の存在を否定するのは難しいだろうとのことだ。

 話を聞くかぎり、秀人は危害を加えるどころか、むしろ桜子を守ってくれる存在らしい。桜子自身も秀人を信頼し頼っているようなので、無理に治療しようとすると精神のバランスを崩しかねない。
 桜子にとっての秀人とは、両親の目の届かないところで自分を守ってくれる存在。言うなれば保護者のようなものなのかもしれなかった。

 特徴的な外見のせいで、桜子は常に周囲からの好奇の目に晒されている。人から見られることに慣れているとはいえ、無意識下でそれが大きなストレスになっているのは間違いない。
 そうしたストレスが限界を超えた結果、深層意識下で秀人というもう一つの人格を作り出したのだろう。

 浅野の経験と研究、そして学会の論文などから導き出した結論として、桜子を治療する方法は一つしかない。それは出来るだけ秀人を必要としない環境に置く――つまりは桜子を人目に晒したり危険な目に会わせないということだ。

 可能な限り不安や危険から遠ざけて、秀人の存在理由そのものをなくしてしまえば、おのずとその存在も消えるはずである。
 とはいえ、そんなことができるはずがない。
 この先ずっと外出させず、学校にも行かせず、家に閉じ込めておけば解決するのだろうが、むしろその方がよほどストレスになるだろう。
 
 桜子が秀人に危害を加えられたという話は一切聞いていない。むしろその口振りからは、彼を信頼している様子さえ覗える。ならば無理な治療が良い結果を生まないであろうことは容易に想像できた。
 そんなわけで両親は、現段階で桜子の治療を断念せざるを得なかった。


 ◆◆◆◆


 楓子は健斗の母、(みゆき)と会っていた。
 幸は近所の個人病院で事務として働きながら、女手一つで健斗を育てている。住まいは自身の生まれ育った実家。そこで実母と健斗とともに暮らしているが、仕事が休みの日も溜まった家事の片づけや母親の病院の付き添いなどで忙しい。

 19歳の時に父親が他界。その影響もあり、通い始めたばかりの大学を中退して就職した。5歳下に妹がいるが、嫁ぎ先が遠く、会うのは年に1回程度。
 性格は明るくサバサバしている。訊かれてもいないのに自身の身の上を明け透けに話し、その会話の中で幸に弟がいることを楓子は知った。

 いや、正確には「いる」ではなく「いた」というのが正しい。なぜなら、幸の弟はすでにこの世を去っていたからだ。
 明るくさっぱりした性格の幸ではあるが、弟の話になると人が変わったように言葉を濁してしまう。何気にその話題を避けようとするので、楓子は敢えてその話題に触れないようにしていた。

 そんなこの頃。春から健斗の様子がおかしかった。そこで幸が問い詰めてみると、驚いたことに桜子と付き合うようになったと言う。
 慌てて楓子に電話をして正式に許しを貰ったものの、それが二人で話をした最後だった。

 そんな幸と楓子が、喫茶店の片隅で積もる話に花を咲かせていた。

「うちのバカ息子が、桜子ちゃんとお付き合いすることになるなんてねぇ……今でも信じられないわ。だけど楓子さんは良かったの? だって相手はうちの健斗なのよ?」

「いいに決まってるじゃない。桜子自身が選んだ相手なんだから、わたしがとやかく言うことじゃないわ。それより幸さんこそ良かったの? あの子はいつもボーっとしてるし、色々と危なっかしいし」
  
「何言ってるの。桜子ちゃんなら大、大、大歓迎よ。文句なんてあるわけないでしょ! ――それにしても最近、本当に綺麗になったよねぇ。幼さが抜けてきたっていうか、大人っぽくなったというか……ってまぁ、もともと可愛かったけどね」
  
「あはは、ごめん。それは親のわたしも否定しない」

「あはは、正直でよろしい! そこは謙遜してほしいところだけど」

 幸の言う通り、最近の桜子はますます美しさに磨きがかかっている。親の贔屓目(ひいきめ)を抜きにしても、将来は美人になるのは間違いない。
 しかしそれこそが楓子の懸念だった。今でさえ十分すぎるほどに人目を引いているのに、この先さらに美しくなるのだから気が気でない。

 この世は善良な人間ばかりではない。悪い人間も相応にいる。実際にこれまでだって二度も事件に巻き込まれているではないか。
 だからこそ桜子は第2の人格を作り出してしまったのだ。無意識に自我を守ろうとして。


 楓子が己の思考に沈み込む。それを怪訝な顔で見ていた幸が何を察したのか、無理に笑顔を作って再び口を開いた。

「そんな顔しないの。それってそれほど桜子ちゃんが可愛いってことでしょ? そんな子と付き合えるなんて、うちの健斗はなんて幸せ者なのかしら。なんてね、あははは!」

 馬鹿息子と呼んではいるが、やはり幸も母親として健斗のことを可愛く思っている。楓子の言葉も満更ではなかった。
 もちろん桜子にも愛着はある。なにせ、ほんの小さな1歳の頃から知っているのだから。

 そんな幼馴染の二人が付き合うことになった。その事実に感慨を覚えつつ、二人は取り留めのない話とともに日頃のストレスを発散するのだった。


 ◆◆◆◆


 夏休みが近いこともあり、一学期の水泳授業はそろそろ終わりを迎えようとしていた。去年の「乳出し事件」のような出来事もなく、授業は粛々と進んでいく。
 現役の水泳部員が水泳授業を受けても仕方がない。代わりに授業の手伝いをしてほしい。そう教師に乞われた桜子は、今年も泳ぎの苦手な生徒のサポート役に回っていた。

 その泳ぎが苦手な生徒の代表格である光の身長は、ここ1年で3センチほど伸びた。去年はプールで溺れかけた彼女だが、今年はつま先が底に届いているらしい。
 細く寸胴だった幼児体形にもメリハリが生まれ、今ではすっかりマニア垂涎のロリ……いや、愛らしい少女に育っていた。

 親友の東海林舞と並んでいると、まるで大人と子供のように見えるのだが、今年はそこに桜子も加わった。中でも一番背が高くて女性らしい体形なのが舞で、それを一回り小さくしたのが桜子。そしてその5歳年下の小学生の妹が光といったところだろうか。

 舞は長い黒髪が美しい和風美人であるうえに、背も高くてスタイルも良いのになぜか恋人がいない。気になった桜子が光に尋ねてみると、「性格が悪いからじゃない?」の一言で片づけられてしまった。
 その言葉には、「本当に性格が悪かったら、光ちゃんもあたしも友達になっていないでしょ」と、思わず突っ込みそうになる桜子だった。

 そんな光と舞であるが、二人は小学校からずっと一緒の親友である。
 光が言うには、舞は昔から背が高かったものの、それ以外は普通の女の子だったそうだ。しかし途中で荒れた時期があり、それ以降、性格が捻じ曲がってしまったらしい。
 何があったかは不明だが、普段は飄々としている舞の家庭環境が意外と複雑なのだと、その時初めて桜子は知った。

 光は吹奏楽部に所属しているが、舞は部活動をしていない。授業が終わるといつも一人で先に帰ってしまうので、舞が放課後に何をしているのかは光も含めて誰も知らなかった。


 期末テストまで一週間を切った。
 今日からテスト期間が終わるまで部活は休みになったので、以前からの約束通りに桜子は健斗と一緒にテスト勉強をしていた。
 部活にはとても熱心な健斗だが、こと勉強に関してはさっぱりである。まずは勉強の仕方から教えるような状態だ。
 そこから始めなければならないのかと、普通であればため息のひとつやふたつ漏れてもおかしくはない。しかし桜子は、ただ健斗と一緒にいられるのが単純に嬉しかった。

 そんなある日のこと。テスト用に借りていたノートを舞に届けてほしいと桜子は光に頼まれた。
 放課後に返すつもりだったが、その前に舞が帰ってしまったらしい。光はどうしても抜けられない用事があったので、代わりに桜子へ頼んだ。
 
 舞の家は学校から歩いて20分ほどのところにある。どのみち帰る方角は一緒なので、桜子は健斗を誘って舞の家へ行ってみることにした。


 そこは古い団地の一室だった。
 背が高くてスタイルも良く、美人でゴージャスなイメージの舞である。彼女の自宅を高級マンションかなにかだと勝手に桜子は想像していたが、そこはお世辞にも煌びやかとは言い難い場所だった。

 思わず桜子が二度見する。しかし何度住所を確認しても間違いない。
 見ればドアの横には壊れた三輪車が放置されていたり、古新聞が積み重なっていたりしていて、厚紙で作られたと思しき表札が目に入る。するとそこには、黒マジックで「東海林」と書いてあった。やはりここは舞の家で間違いないだろう。

 呼び鈴を押して待つ。すると玄関ドアが(きし)んだ音を立てながら少しだけ開き、隙間から外を窺う姿が見えた。

「あたし桜子だけど……ノートを届けてほしいって光ちゃんから頼まれて……突然ごめんなさい」
 
 ドアの隙間から自分の姿が見えるように桜子が話し掛ける。しかし中からは反応がない。やはり家を間違えたかと思い始めたその時、ドアの向こうから声が聞こえた。

「ちょっと待って。いま開けるから」

 それは紛れもなく舞の声だったが、聞き慣れた普段のそれに比べると、やや低くくぐもっていた。
 チェーンを外す音がしてドアが開けられる。すると長い髪を乱雑にまとめ、学校指定のジャージに身を包んだ舞が立っていた。胡乱(うろん)げにこちらを窺うその様は、日頃見る学校の姿からは想像できないものである。
 その舞が言う。

「こんな格好でごめん。いまちょっと立て込んでいて……」
 
 舞が目を伏せながら小さな声で応える。直後に家の中から幼い声が聞こえてきた。

「ねぇ、おねえちゃん。おなかすいたぁ。ごはんまだぁー」

「あたちもー。ごはんー」
 
 咄嗟に桜子が状況を理解する。ここは長居すべきでない。素早く鞄からノートを取り出して舞に手渡した。

「これ、光ちゃんから頼まれたノート。それじゃあ、また明日ね」 
 
 口早に要件だけを伝えた桜子が踵を返そうとする。舞が慌てて引き止めた。

「あ……ちょっと桜子! まだお礼も言ってないじゃない! ちょっと待ちなさいよ!」

 桜子を呼ぶその声は、すでに聞き慣れたものに戻っていた。顔にも見慣れた表情が浮かぶ。そのまま舞は後ろへ振り返って叫んだ。

「そうたー。ひまりー。おねぇちゃんすぐに戻るから、ちょっと待っててねー」

「うん、わかったー。まってるねー」
 
「すぐにかえってきてねー。おなかすいたのー」 

 
 玄関のドアを閉め、その前で舞が申し訳なさそうに頭を下げる。

「ごめん、二人とも。せっかく来てくれたのに、家に上げられなくて……」

「ううん、気にしないで。こちらこそごめんね。急に来ちゃったりして」

「すまん」

 舞に負けず劣らず、桜子と健斗も申し訳さそうな顔をする。そんな二人を見た舞が急に笑い出した。

「あはは、そっちこそ気にしないでよ。二人が私に対してどんなイメージを持っているのか知らないけれど、別になんとも思っていないから。――そう、これが私なのよ。母子家庭でね。忙しい母親の代わりに、幼い弟妹たちの面倒を見ているの」

「そうだったんだ……大変なんだね」

「やめてよ。弟も妹も可愛いもの。これまで一度も大変だなんて思ったことはないわ。むしろ幸せだと思っているくらいなんだから」

 そう語る舞の顔に心からの笑みが溢れる。それを見た桜子の舞に対するイメージが大きく変わった。

「そうだよね。弟や妹って可愛いよね。あたしにはいないから、舞ちゃんが羨ましいな」

「俺も羨ましい」

「あはは。そう言ってもらえると嬉しいわ。自分の境遇に自信が持てるから。――さて、そろそろちび助たちにご飯を食べさせなくちゃいけないの。また明日ね。今日はありがとう」

「うん、それじゃあ、また明日ね」

「あぁ。また明日」


「よぉーし! そうた、ひまり、ご飯にしましょうか! お腹空いたでしょう? 今日はカレーよ!」
 
「わぁーい! おねえちゃんのカレーはせかいいちだからね。うれしーな!」

「あたちも、うれしー!」

 歩く桜子たちの背後から可愛らしい声が響いてくる。それは誰が何と言おうと家族の団欒そのものだった。
 何が幸せかなんて人それぞれだ。確かに各々に違いはあるだろうが、しかしそれらはまったく些細であることに気付かされた二人だった。
 
「兄弟ってさ、なんかいいよね。あたしと健斗も昔から姉弟みたいって言われて来たけど……今は恋人同士なんだよね……」

「う、うん……」

 頬を染めて話す桜子へ健斗が頷く。その顔は桜子同様に紅く染まっていた。  
 夕日を背にして歩く二人の影が、どちらからともなく伸びて一つに繋がった。
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