②グリーンランド東部沿岸 セツド村

文字数 3,197文字

2015年2月7日(極夜)

 ライチョウの眼前には氷海が拡がっていた。シロカモメの若鳥が水面で何かを捕まえ、頭上を飛び去っていく。真昼の闇に孤立した炎が三つ、集落の方から海岸へ、賑やかな話し声と共にやって来る。風は弱い。氷点下二〇度を下回る現在、極夜のグリーンランド東部沿岸。ライチョウは腰を掛けていた岩から降りて、こちらに向かって来る炎に背を向けた。
 その直後、北部北極海の方角から強烈な熱風がライチョウの左半身を襲った。左目、左頬、左肩から腕にかけて異常に熱い。熱がやって来る暗い海を睨み付けたくなったが熱過ぎて顔を向ける勇気が出なかった。どこかで何かが唸る声が聞こえる。
 ライチョウが右手で左腕を庇うように掴んだ時、気温は極夜のグリーンランド例年二月、今しがたの焼けるような熱さは消えていた。
「松明を持ってたんじゃ熱さには気づかないかもな」
 息苦しかった。寒いのにじっとりと汗もかいている。
 男達はセツド村の者ではなかった。
「村長!」
 一番背の低い男が遠くから叫んだ。暗がりでライチョウの姿はあちらから黒い影のようにしか見えないはずだが。
「視力がいいのか当てずっぽうか」
 ライチョウはやって来る松明の男達に近付いていった。


「初めまして、ライチョウさん」
 ライチョウは彼らと話をするため村の集会所へ案内した。
 環境管理局の局長はワイルドな顔つきをした四十代後半の男で、彼のルーツは明らかにバイキングと関わりがあるとライチョウは思った。昔職場の上司で彼と良く似た男がいたのだ。ノルウェー出身の祖先はグリーンランドへ行ったが、後にスカンジナビアへ戻って来たそうだ。上司は “エイリーク” という名だった。赤毛ではなかったが。
 三人の男はヌークからやって来た。ライチョウの開発した砕雪モビルに一番若手の局員が興味を示し、試運転をしたいと言って仕事そっちのけですでに出てしまっていた。
「ノルウェー時代は気候調査団のメンバーだったそうですね」
 局長が言った。
「少しの期間同行しただけです。僕自身は環境分野については素人ですし、砕雪モビルを提供した責任者として、それだけです」
「その砕雪モビルを使って新たな調査をして頂きたいのです」
「調査?」
 局長は世界地図を拡げる前に、立ったままの部下に隣に座るよう手で示した。
「グリーンランドからスカンジナビア半島へ渡り、ノルウェー、スウェーデン、フィンランドの北極圏に定住する人々を訪ね、環境に関する聞き取り調査をしてほしい。調査の対象となるのはこちらが指定する極北の村々です。気候変動でどのような影響を受けているか、また中には独自のエネルギー供給をしている村があり、その詳細についての聞き取りです」
「COP21と関係あります?」
 ライチョウが聞くと局長はニヤリと笑った。
「いいえ、COP21と今回の調査は関係ありません。学校の教科書作成のための資料にしたいのです。小さな村の情報はあまり入ってきませんからね、グリーンランドの国内でさえ。だから実際足を運ぶのが確実なんですよ」
「何で僕が?」
「ハンメルフェスト極地研究所で機械工学博士だったあなたがいいのです。適任者は環境の専門家ではない。少し離れたところからの方がわかりやすい文章にしてくれるでしょう?」
 局長は落ち着いた声で話していたが、ライチョウにはそれが気に入らなかった。適任者は環境の専門家ではないかもしれないが自分でもない。
「断ります」


 ライチョウは去年の春、セツド村に戻って来たばかりだった。人がいないから帰って来たのにまた出ていっては意味がない。村長としての責任もある。そういうことを局長に伝えようと思ったが、海岸で感じた熱風について先に聞きたくなった。
「さっき海岸線で熱風が吹きましたよね。いや、風というか熱波、北極から赤道に突然変化したような」
「熱風?風も弱かったのに。赤道だなんて大袈裟な」
 部下の局員はあの時松明を持っていた。風向きはよくわかっていたはずだし、松明の炎は彼らの進行方向に合わせて揺れていたに違いない。
「一瞬だったので気のせいかと思ったが、あなたも感じたんですね。サウナに入ったような熱さに全身覆われました」
 局長が言った。
「やっぱり。僕は北の方から吹いてきたように感じました。何なんでしょう」
「赤道というのは大袈裟じゃない。行ったことはないが」
 と、局長。
「エルニーニョ現象が一瞬起こった・・・」
 ライチョウが独り言のように言った。
「北極圏で?あり得ない!」
 と、部下の男は笑った。すると局長は彼の肩にトンと手を置いた。
「まあ、それはどうであれ、調査に協力して頂かねば。村長が長期不在になるということは避けられませんが」
「僕は去年セツド村に戻って来たんです。村長になって日が浅いのにまた出て行くなんて怒られますよ」
 集会所のドアが開く音が聞こえた。砕雪モビルの試運転に出た局員がもう帰って来たのか。ライチョウが出入り口に続く廊下に顔を向けると、入って来たのはレミンだった。
「あ、やっぱりお客さん」
「レミン」
「親父が出先から帰って来たんで店番交代で。さっき砕雪モビルに乗った人がうちで買い物してくれたんです。聞けばヌークの環境管理局から村長に仕事の依頼でやって来たそう・・・」
「わかってるなら仕事中にズカズカ入って来るな」
「親父からの伝言ですよ。タシーラックに村長にぴったりの女性がいるっていう。フランスで機械工学を学んだ後、今こっちで働いてるんですって」
「大事な話し中なんだ帰れよ」
 ライチョウはいらいらしながら言った。
「あなたは?」
 すぐに話が脱線してしまう。局長はそう思いながらレミンを見た。
「幼馴染みです。すみません関係のない・・・」
 答えたのはライチョウの方だった。
「大事な話って何ですか?環境管理局から極夜が明ける前に仕事の依頼なんて」
 レミンは言いながら窓辺に座りかけたが、すぐに腰を伸ばしてキッチンへ歩き出した。
「彼も一緒に聞いてもらえばよかったな」
 レミンがキッチンに姿を消した後、局長が部下に言った。
「ヌークにも優秀な人はいるでしょう?こんな村まで来なくても環境調査に関心のある民間人が」
 行きたくないと直球で言っているようなものだ、と思いながらライチョウが言った。
「局長があなたがいいって言うものでね」
 部下の男が言った。早くこの話に決着をつけたそうだ。
「ハンメルフェスト極地研究所にも行けるでしょう。グリーンランドの次はノルウェーに渡ってもらうことになりますから」
 局長が言った。世界地図はライチョウが見やすいように拡げられている。
「本当に教科書作成のためなんですか?」
「ええ。そこは疑わないでほしい。まずはセツド村から南のイットッコットーミーを目指す途中にあるクレバスの村、独自の方法で電力供給を行っている村です。聞いたことありませんか?」
「・・・・・知ってます。行ったことはないですけど」
「環境調査に興味はなくとも是非一度見てください」
 キッチンからコーヒーの香りが漂ってきた。ライチョウは局長の話に流されそうな雰囲気を変えたかったが、帰れと言ったレミンのコーヒーが飲みたくなってきた。
「ちょっとすみません」
 ライチョウはソファーから立ち上がり、キッチンへ歩いて行った。


「聞いてたか?」
 耐熱グラス四つにコーヒーが注がれた。ライチョウはキッチンの入り口を背に小声で言った。
「さっき教科書作成のためですかって聞いたの、僕にわかるようにでしょ?」
 レミンが一通りのことを理解できるようライチョウが投げかけた質問だ。
「そうだよ。村を離れるなんてだめだろ?」
「砕雪モビルで行くんですか?」
「行くとすれば。まだ行くとは言ってないぞ」
「村長が行くなら僕も行きますよ」
 レミンはコーヒーをトレーに乗せて来客の待つ居間に戻ろうとした。
「社会貢献のために行くべきです」
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