第5話

文字数 9,150文字


 2人はネコを飼っていた経験があるからなのか、美沙はネコの扱いにそして隆はネコを演じる事にすぐ慣れ、あまり不自由さを感じる事はなかった。

「1日のスケジュールを決めた方がいいかしら?」と夕食の片付けを終えた美沙が書斎の椅子にいる隆に話し掛けた。

 体調が万全ではないからなのか気付かぬうちにすぐ寝てしまうので、何か決められた予定のようなものが必要だと感じていた隆はすぐに同意した。

「発声と運動のリハビリは1日2回ずつやるから午前と午後に分けましょうね」美沙が優しく言い、「午前は9時から11時の2時間で午後は6時から8時でどうかしら?」と頭を撫でるので、
「そぉんなぁ感じがぁいいぃね」と隆が答える。

「食事は朝8時と夕方5時の2回にして…、それ以外の時間は寝ていられるわ。リハビリは疲れるものね」美沙は話し終えると隆をその胸に抱き上げた。

 人間だった時、隆は甘えるのもベタベタするのも苦手だったが撫でられたり抱かれたりする事にたった3日間ですっかり慣れていた。
 最初、甘える事に違和感がないのは美沙より小さい身体になったからだと想像していたが、もしかしたら自分が雌ネコになったからかも知れないと隆は思った。
 当初、男の隆は自分が変身したら雄になるものとばかり思っていた。
 しかし、その限りでない事を変身術の説明で知らされ、本物の動物に出会った時の状況を想定した場合は雌でいる方が安全なのだと聞かされたのだ。

 子孫を残す為に本能がそうさせるのだろうが普通、野生動物の世界では肉体的な強さでどんなに勝っていても雄が雌に牙を向ける事は殆どない。
 まれに、気が立った雄と出会って危険だと感じる事もあるかも知れないがその場合、降参の姿勢を示せば殆ど襲われずに済むようだった。
 つまり、大きな傷を負ってしまうような事と無縁でいる為には、雄と出会っても心配なく、互いに争う必要のない雌になるのが良いという話だった。

 そんな話を聞かされても男の隆は雌になることに違和感を持ち、なかなか受け入れられなかった。
 しかし、外で暮らす雄は飢えや寒さ以外にもテリトリー争いなどの死闘を日々生き抜かなくてはならず、それが変身した人には耐えられない程過酷だと知り考えを改めた。

 家で暮らす予定の隆は雄同士の争いなど心配する必要はないがせっかくの変身が万が一にも無駄にならないよう、安全な雌になることを選んだのだった。
 また、ネコなどの小さな動物へ変身した場合はちょっとした怪我や病気でも命を落とし兼ねず、食事や健康など注意しなくてはならないことが沢山あった。


 隆は美沙の温かい膝の上で寝そべり、身体を撫でられていた。
「そういえば、隆と呼んじゃダメじゃない。誰かに聞かれたらすぐに怪しまれちゃうわ」ソファに座った美沙がたった今、気付いたように呟く。

「何か別の名前が必要ね…」独り言のように言うと膝の上で半分眠っていた隆を自分に向けて座らせ、その眠そうな顔を覗き込むようにして、「ねぇ、どんな名前がいい?」とその目を輝かせる。

 そう言われて確かに他の呼び名が必要だとは思ったがネコになって以来この時間は眠くて仕方がなく、頭も働かないので隆はただ黙っていた。

 美沙は名前のヒントを得ようとしているのか、殆ど目を閉じて今にも眠てしまいそうなその顔をじっと見つめながら、
「えーと、隆だと悟られないような名前にしないと…」独り言を呟きながら視線を宙に泳がせていたが「大分小さくなっちゃったから、『チビ』なんて可愛いんじゃないかしら?」と半分寝ている隆を再び見つめた。

「ぃぃねぇ…」眠くてもう何も考えられない隆が短く答えると、
「じゃあ決まりね! 可愛いチビちゃん!」と、嬉しそうに隆を抱き寄せ、頬ずりをして額にキスをした。

 可愛いい見た目だからかそれとも言葉を話せないからなのか、美沙はそんな隆を完全にペットとして扱い、撫でたりひげを引っ張ったりして構い始めた。
 隆は自分をペットの様に扱うだけでは飽き足らず、『チビ』と呼んで子猫のように世話をしたいのかと寝ぼけた頭で思ったが、美沙がそうしたいなら仕方ないと諦めてその胸でされるがままでいた。


 隆がネコになって2週間程経ったある日、美沙は朝からどこかへ出掛け、長い間家を留守にすると大荷物を抱えて帰ってきた。
 どこに行ったのか訊ねると、ホームセンターやペットショップを数件はしごしてきたようで外に着陸したドローンタクシーのトランクと玄関を行ったり来たりしながら大きな袋や箱を沢山運び込んだ。

 隆が荷物の匂いを嗅いだり買い物の袋に入ったりしながら、
「何ぃをこぉんなぁに買ってきたぁんだぁ?」と通り掛かる美沙に尋ねてみても
「楽しみにしててね、チビちゃん。明日、組み立てたらわかるから」そう言ってウインクするだけで教えてはくれなかった。

 次の日、美沙は丸1日掛けてそれらを全て組み立てた上、慣れない手つきで日曜大工もこなして壁にいくつかの棚を取り付けた。
 それらはリハビリをする隆の為に美沙が考えたもので、全てが設置されると家の中でも本格的な運動が出来るようになっていた。

 リビングには3段式キャットタワーと壁の3ヶ所に取り付けられた棚、廊下に布製のトンネルとそれに続くように設けられた勾配のある板、その先に階段と数個のパイロンが置かれた。
 廊下で繋がる書斎の中もデスクとチェストの間に幅の狭い板を渡し、その下にクッション代わりなのかマットが敷かれている。

 家の中にフィールドアスレチックが出来たように思えた隆は、それぞれの匂いを嗅ぎながら早くリハビリをやってみたくてウズウズしていた。
 美沙はその高ぶりをよそに、寝床用に買ってきたキャットハウスの箱やオモチャの袋をいくつか開け、それらを設置していく。

 作業が終わるのを待ちきれず、隆は壁に取り付けられた棚にマーキングしたり、新しいキャットタワーで爪を研いだりしていたが全ての作業を終えた美沙がやって来て、勢いよく隆を抱き上げると、
「さあ、出来上がったから見せてあげるわよ!」と各所の案内を始めた。


「先ずは、ここからスタートして…」
 書斎へ行くと隆をチェストの上に下ろし、
「この橋を渡ってデスクに移ったら、椅子を使って床に降りてね…」と再び抱き上げた隆を説明に合わせてデスクと椅子を経由するようにして床に降ろす。

「床に下りたら次はこのトンネルを通って…。あ、その前にネズミを叩くのを忘れないでね」そう言ってネズミのオモチャを振って見せると「ここ、走って抜けられるかしら?」と隆をそのトンネルに誘う。

 美沙の説明によるとその後、トンネルの先にある急勾配の板を登って降り、その先に続く階段を駆け上がって向こう側のマットの上に飛び降りる。
 次に、床にあるボールを転がして口にくわえ、そのままパイロンの間を縫うように走り抜けたらキャットタワーの柱をよじ登って最上段にそれを置く。
 そこから隣接した壁にある3つの棚をジャンプして渡り、ソファの背に飛び乗った後は書斎まで全力疾走で戻るという周回コースになっていた。

 途中に置かれたオモチャは様々なものへ変更し、それに合わせて引っ掻く、投げる、ネコパンチやネコキックという具合に動作の難易度も変えていくらしい。
 そのコースを使った運動は午前に行い、午後はネコじゃらしやぬいぐるみ付きの釣り竿などを使って遊びながら出来る運動をやるようだった。

 他にも、瞬発力と持久力の両方の筋肉を鍛えながら心肺機能の向上も図れる、回し車を使ったメニューが用意され、全てが考え抜かれていた。


 夕食の後、書斎にやって来た美沙は発声リハビリ用の教材として購入してきた10冊ほどの絵本を取り出して見せた。
 発声のリハビリについては隆が最初に考えた早口言葉に加え、鳴き声翻訳機を通じて絵本を読み聞かせるというメニューを考えてくれていた。

 隆はリハビリについて真剣に考えていてくれた事を心の底から感謝し、
「あぁりがぁとぉう、こぉんなぁに考えてぇいてぇくれたぁなんてぇ…」と自分が人間だったら涙が出ていただろうと思いながら、美沙の足にすり寄ってお礼を言った。

「いいの、私の役目なんだから。明日からこれを使って頑張ってね!」美沙は隆の前足を取り、握手をするように上下に振りながら優しく言った。


 隆は美沙が造ってくれたアスレチックコースで毎日頑張った。

 始めた頃はバランスが取れずに飛び乗った棚から落ちたり、体力がなくて数周でバテてしまったがひと月ほど経つと、50周しても息が上がらなくなった。
 そして、2ヶ月が過ぎる頃にはネコの鳴き方と身のこなしの両方をほぼ完璧に習得していた。

「2ヶ月間、ずっとリハビリを手伝ってくれたお陰ですっかりネコらしくなれたよ。美沙、これまで本当にありがとう」
 午前のリハビリを終えた隆が最初の頃とは違う正確な発声で礼を言った。

「このアスレチックじゃ、もうチビちゃんには簡単すぎるわね。発声の方も全然間違えなくなったし、読み聞かせも完璧よ」隆の背中をゆっくり撫でながら、「もうリハビリの必要は無いわね。よく頑張ったわ、チビちゃん…」自分の助けが不要になったと思ったのか寂しそうに下を向く。

自分ががっかりさせてしまったと感じた隆は、
「でも、太り過ぎないように続けないとね。その為にアスレチックも回し車も必要だよ」と慰めるように言った。

「そう…」
 俯いたままの美沙から元気のない返事が返ってくると、
「それより、毎日の食料調達が大変なんじゃない?」と隆は話題を変えた。

「食糧危機がさらに悪化していると、新聞で読んで気になっているんだ」と、先日読んだ記事を思い出しながら伝える。

「うん、今はまだ何とかなっているわ…」美沙は普通に答えたつもりだったが違和感を持った隆は心配になり、
「ネコ缶の入手が困難なら僕は残飯でも…」と言おうとしたがその途中で、
「いいの、チビちゃんの分はなんとかするわ! 私のわがままでこうなったんだもの…」涙目になって隆の言葉を遮るのでそれ以上言うのはやめる事にした。


 夕食後、いつものように一眠りする為、隆は書斎の椅子で丸まったが先ほどの美沙の返事が気になってなかなか寝付けずにいた。

 食事の片付けを終えてリビングにいるはずの美沙があまりに静かだったので、トイレに行く振りをして様子を見に行くと、パソコンに向かい背中を見せていた美沙が気配を感じたのか振り返る。

 そこに隆がいるのを見て、
「チビちゃん、やったわ! 選ばれたの。受賞したのよ!」と大きな声で言うと両手で高く抱き上げて「良かった! これでしばらくは心配しなくてイイのよ。チビちゃん!」とすごく嬉しそうにしている。

「ど、どうしたんだい。何を受賞したんだ?」隆が聞いても、「ニ、ニャオーン。ニャオニャーオ」としか耳に響かないので鳴き声翻訳機がオフになっているようだ。

「あ、ごめん」そう言って美沙はすぐにスイッチを入れたが、隆が何か言う前に再び高く抱き上げ、「賞品で貰えるのよ~、ネコ缶1年分なのよ~」と歌うような調子で言いいながら踊るようにその場でクルクルと回り始めた。

 その後、その手を顔の前まで降ろして隆を見詰め、
「ネコちゃんのポエムで賞をもらって、その賞品がネコ缶1年分よ!」「しかもチビちゃんが好きな、キャットヤミー3種類の詰め合わせなの!」と発声リハビリでやっていた早口言葉みたいな速さで一気に話す。

「ポエムって?」

 わけが分からずに隆が目を丸くしながら訊いても、今度は胸にギュッと抱いて頬ずりをするだけで何も答えない。

その後も頭にキスをしたり背中を撫でたり、お腹に顔を埋めたりして無茶苦茶に隆をいじっていたがしばらくすると落ち着いてきたのか、
「キャットヤミーを製造している、やなせフーズという会社が『猫たちへの手紙』というタイトルでポエムを募集していたの。
 チビちゃんへの手紙だと思って書いたら賞をもらったのよ!」と本当に嬉しそうに話し、「その賞品が入手困難なネコ缶だったから、頑張っちゃった…」そう言うと美沙は照れくさそうに舌を出した。

「なかなか手に入らないのか…。ネコ缶を手に入れるのが大変なんだね」
 隆は早くネコの生活に慣れようと一生懸命になるあまり、その苦労に気付けなかった自分を責めていた。

 結婚前、美沙はフリーのポエム作家として働いていたからその受賞も当たり前に思えたが照れ臭かったのか、
「あら、もうこんな時間。お風呂に入らなくちゃ…」そう言うと、何処かへ行ってしまった。

 そのまま残されたパソコンの明るい画面には『優秀賞』の文字が付けられた斎藤美沙の名前と受賞作のポエムが映っていた。


**********

『猫たちへの手紙』
猫たちと暮らせて私はとても幸せ。
でも、あなたたちが幸せかいつも心配なの。

危険だからと家の中に閉じ込められ、
長く生きて欲しいからと病院で痛い注射に耐える。
土や芝生の感触を知ることもなく、
夜の風に揺れる草の音を聴くこともない。
流れる川で喉を潤すこともなく、
おやつに食べる虫の味を知ることもない。

それでも幸せと感じて貰えるように
精一杯の愛情をあげるから、
そんな私のわがままをゆるして欲しい。

**********


 そのポエムはネコに変身した隆への複雑な想いそのものに思えた。

 ネコへの変身以降、隆は自分に対する何かを美沙がその心の内に抱き始めたと感じていたがたった今、それが何だったのか判った気がした。
 それは隆に変身することを望み、2人の人生の続きを手に入れてみて初めて、それがどんなに残酷なことかに気付いてしまった美沙の後悔のようなものだった。

 ネコの姿になった自分を見る度にその罪の重さを感じ、心を傷めているのだと知った隆は心が激しく動揺して書斎の椅子の上で丸くなるしかなかった。

 人間の脳がそうさせるのか、隆には以前と同じように感情がある。
 心を大きく揺さぶられ、泣きたい時が今まで何度もあったが実際に涙が出る事はなく、そのせいで心の動揺を収められずに体力を消耗してしまうのだった。

 人間が感情を表現する手段だとばかり思っていた泣くという行為が、実は心と身体が疲弊してしまうのを防ぐ反応だったのだと隆はネコになって初めて知った。
 その感情がある限り、ネコとして生きて行くのは難しいとわかったがそれなしで美沙の心の内を理解できる筈がないとも思え、隆はどうすれば良いのかわからなかった。

 心の動揺から、前足で頭を抱えるようにして丸まっている隆に
「寝てるの、チビちゃん?」お風呂から出た美沙が書斎にやって来て声を掛けた。

 泣くことが出来ず、ひたすら悲しみに耐えていた隆はその声に飛び起き、美沙の胸に飛び込んだ。

「どうしたのチビちゃん、寂しかったの?」美沙はそう言うと隆を抱き上げ、その額に顔をぎゅっと押し付けてキスをする。

 喉が自然にゴロゴロと鳴り始めた隆はマーキングするように美沙の頬に自分の顔を何度も強くこすりつけた。
 そのままリビングまで抱かれて行きソファの上で身体や頭をたっぷり撫でてもらい、ついでにブラッシングまでしてもらうと先程感じた悲しい気持ちはすっかり消え失せていた。


 隆の背中をやさしく撫でながら、
「ねぇ、チビちゃん。さっきのポエムの話なんだけど来月授賞式があるの。行ってもいいかな…?」と美沙が訊く。

 受賞の晴れ舞台に立たせてやりたかった隆は
「僕はおとなしく留守番してるから、心配せずに行っておいでよ」すぐにそう返事をして、「さっきは言いそびれてしまったけど…、受賞おめでとう。僕も心から嬉しいよ」と自分の素直な気持ちを伝えた。

   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 2日後、その受賞を知らされた由美子から連絡が入った。

 海外に本社を置くロボットメーカーの日本支社に勤めている由美子は現在、その本社があるドイツへ出張中なのだった。
 授賞式の前日に帰国する予定らしく、日本に到着したその足で修一と合流し、美沙の元へ土産を持ってくる事になった。

 その修一は日本にあるソフトウエア会社の最大手で働き、様々な用途のロボットや輸送用ドローンのソフト開発に携わっている。

 今の時代、人間の仕事の多くをロボットが代わりに行っていて、大抵の人は由美子のようにそのロボットを開発するか製造する仕事、または修一のようにロボットに搭載されるソフトウエアの開発やメンテナンスの仕事に従事している。

 未だに人間が任されている仕事は警察や消防など難しい判断が求められるものや芸術家などの個性が求められるものでコンピューターが苦手とするものだけだった。


 2人が訪れる日の前夜、隆と美沙は書斎にいた。

「由美子と修一が来るなら僕は隠れていた方がいいのかな?」
 翻訳機をデスクに置いた美沙がスイッチを入れるのを見て隆が切り出すと、
「大丈夫よ。ペットを飼って1人の寂しさを紛らわせばイイ、と由美子に言われた事があるの。だからその助言通り、ネコを飼ったと説明するつもりよ」と、美沙があまりに平然と言い切るので少し心配になった隆は
「それで本当に問題はないかな?」顔を左右に振って周りを確認しながら訊ねる。

 美沙も同じように部屋を見回して、
「もちろん翻訳機は隠さなきゃいけないけどそれ以外は皆、ネコ用のものばかりだから心配ないわ」と隆を見て言った。

 そう言われた隆は念の為、ネコの動作を身に付けた自分がペット用の食器やトイレを使うのをそこに思い描いてみたが美沙の言う通り、翻訳機以外は何も問題ないように思えた。

   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「お帰り、由美子!」
 玄関のチャイムが鳴ると同時に小走りで玄関まで行き、大きくドアを開けた美沙が元気よく言った。

「久しぶり、美沙!」由美子は嬉しそうに言った後、「元気に…してた?」と小さな声で不安げに訊く。

 隆がヘヴンへ行き、1人になった自分を気遣ってくれたのだと思った美沙は
「うん…。皆が通る道だから…」少し寂しそうに答えた。

 由美子の後ろで心配そうに立っていた修一も
「あの時以来だけど…、元気そうで安心したよ」そう言って美沙を気遣った。

 しんみりさせてしまったと気付いた美沙が
「あ、こんな所に立たせたままでごめんね。どうぞ、上がって!」笑顔になって言うと2人はすぐに靴を脱ぎ、慣れた足取りでリビングへ向かう。

 廊下を歩きながら足元に落ちているオモチャを見つけた由美子が、
「あ、ワンちゃん、それともネコちゃん?」と後の美沙へ振り返って尋ねると修一が当然の事のように
「ねずみのオモチャで遊ぶんだから、ネコでしょ!」と言って答えを待つように美沙を見た。

「そうなの。由美子に言われた通り、ネコを飼う事にしたの。1人じゃ寂しいから…」
 下を向いてそう言った後、由美子を見て「お陰で救われたわ、ありがとう」と真面目な顔で頭を下げる。

 由美子は少し驚いたようにして
「お礼なんてやめてよ」と言い、「でも、良かったわ。タカさんがヘヴンへ行ってそんなに経っていないのに美沙が思ったより元気そうで…」と寂しそうな表情を浮かべて美沙を見つめた。

「うん…」
 そう言って美沙が下を向くと修一が悲しい話題を変えようと、
「どこにいるのかな、ネコちゃーん!」額に手を翳して見回す仕草でふざけた。

「書斎かしら? そこが気に入ってるの」美沙がそう言うとすぐに書斎へ向かった由美子が
「あ、ここにいるわ」と入り口から中を覗いて2人に告げ、静かな足取りで近づいていく。

「可愛いわ、アメリカン・ショートヘアね」と、いつものように椅子の上で寝ていた隆の頭をそっと撫でて、「名前は何ていうの?」と遅れてやって来た2人へ振り返って訊ねる。

「名前はチビ、チビちゃんよ!」美沙がそう告げると、
「おチビちゃーん、よろしくねー」と今度は身体を撫でて見やすようにと修一の方へ椅子を向けた。

「お、可愛いね。チビ」そう言いながら近づいた修一は腰を屈めて覗き込む。

 寝ていたところを起こされたように演技し、目を細めて由美子と修一を交互に見ていた隆の目に、その光景はとても奇妙なものに映っていた。
 人間として生きていた時に友人だった由美子と修一の顔が以前の3倍くらいの大きさになって近くにあり、今までと同じ声で話し掛けている。
 自分が小さくなったからだと分かっていても、最初に美沙を見た時のように2人が大きくなったと思えてならなかった。
 良く知る2人の言葉だからなのか、これまでと同じように話している事は全て理解出来た為、余計にその大きさだけが変に感じたのだった。

 2人共、目の前にいるネコが言葉を理解しているなんて考えないだろうし、ましてやそれがヘブンへ行った筈の自分だとは想像すらしないだろうと思った隆はちょっといたずらしてみたくなり、
「ニャー」と2人を見ながら鳴いてみる。

 すると一瞬で美沙の顔が凍り付いた。
 慌てて近づいてくると、
「チビちゃん、眠いからご機嫌斜めなのね」優しく声を掛けながらも冗談はやめろと言わんばかりに鋭い目をして隆を睨む。

 隆はふざけたことを後悔し、言われた通りに眠いフリをして毛布に顔を埋めた。

「じゃ、お寝んねしましょうねー」由美子は撫でるのをやめて何かを思い出したように立ち上がり、「そうそう、美沙へお土産を渡さなくちゃ」とリビングへ小走りで戻っていく。

 やんちゃな子供のように、磨かれたフローリングの廊下を滑りながら走るその姿に修一と美沙は顔を見合わせて微笑み、ゆっくり後を追った。

「美沙には受賞祝いも込めて特別にね…」リビングでそう言いながら大きなスーツケースを開ける由美子に
「僕への土産は?」修一がねだるように尋ねると、
「あるわよ、これね」小さな箱を投げるようにして手渡す。

 その後、由美子は大事そうに円い形の大きな箱を取り出した。
 直立して美沙に向き直り、
「美沙、受賞おめでとう!」と表彰式で賞品を手渡すように両手で差し出した。

 修一が自分の土産を見て、何やら呟いていたが2人はそれを無視して、
「ありがとう! こんな大きなお土産、中は何かしら?」と嬉しそうな美沙。

「授賞式に丁度イイかなと思って帽子にしたのよ!」と楽しそうな由美子。

「ドイツには仕事で行ったのに、色々気を遣わせてごめんね」再び美沙。

「気にしなくていいの。私も嬉しいんだから」そして由美子。

「どんな色かしら、開けてもいい?」と美沙が言えば、
「うん、日本ではなかなか無い色なの!」すぐ由美子が応える、というようにテンポ良く賑やかなやりとりを交わした。

 書斎の隆は参加できない代わりにリビングから届く楽しそうな声を聞きながら1人、平和な時間に浸っていた。
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