第3話

文字数 9,559文字


「先ほどお渡しした名刺は代金支払いまでの仮契約書としてシリアルナンバーが与えられています。本契約手続きの際に必要ですので失くさないようにしてください」

 そう言われ、隆はポケットから取り出してみたが何処にもそのような番号は見当たらない。
 スティーブによるとシリアルナンバーは本契約手続きのメールに添付される特別なアプリだけが読み込める仕組みになっているらしい。

「代金の支払いはどうすれば良いですか」
 隆が尋ねると、
「リーフレットの金額を仮想通貨のディジットでお振り込み頂けば少額の支払いに分割され、世界中のバーチャルバンクや投資会社などを経由した後、我々の元へ届くので追跡は不可能です。
 決して変身術の支払いだと知られる事はありません。ご安心ください」と微笑む。

 短い質問を投げかけるだけで知りたいことの全てに答えてくれるという丁寧なやりとりだったが、説明を終えるのに最終ホールまで必要としなかった。

 2人は残された4ホールをゴルフプレーに専念し、最後のカップインまで絶えずに繰り出されるスティーブの冗談も存分に楽しんだ。


「到着早々のコンタクトとは、予想外だったな…」
 ホテルに戻り、部屋のドアが閉まると同時に隆が言った。

 美沙は小さなため息を漏らした後、
「でも、良かったわ。これが最終日だったらヤキモキして旅行を楽しむどころじゃなかったもの…」と言うと洗面所へ姿を消した。

 こんな時でも旅行を楽しもうとする呑気な美沙の言葉に自分がまだ緊張していたことに気付いた隆はリラックスしようとベッドの横のソファに背中から飛び込むように寝転んだ。
 仰向けで大きく伸びをしながら目をつぶるとすぐに、先程ゴルフ場で別れたスティーブの姿が瞼の裏に蘇りその声が頭の中に響いた。

 隆は変身術の実現に1歩近づいたことを喜びたかったが、空想だったことが現実へと変わったことで心の奥底に芽生えた不安がそれを許さなかった。

 次第に大きくなっていくその不安が恐怖のようなものに変わり始めると急いで瞼を開け、
「さあ、何か美味いものを食べに行こう!」とクローゼットの美沙に元気よく声を掛けた。


 メルボルンに滞在した5日間、1日中晴れている日はなかったが屋内にテニスコートやプールがあるのでやることには事欠かなかった。
 天気が良い時には海岸をのんびり散歩し、街の中心部へは混んでいない時間を見計らって出掛け、ショッピングや美沙が好きな食べ歩きもした。

 その後シドニーに3日間滞在したが湿度の高い気候が苦手な2人は殆どホテルで過ごし、土産を買いに外出しただけで東京へ戻ったのだった。

   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「ふぅ~、8日間なんてあっという間ね」
 普段着に着替えた美沙がボストンバッグを開けながらあまり久しぶりとは感じないリビングでため息をついた。

「…ああ、短かった。出かけたのが一昨日のようだ…」
 ソファに腰掛けていた隆は手の中にあるものを見つめながらうわの空で答える。

 それはオーストラリアのゴルフ場で手渡された1枚の名刺だった。

 深いグリーン色の名刺を見つめながら、空想のようで実感が湧かなかった変身が具体的な現実に変わった時のことを思い返していた。
 本当に自分はネコになるのだと考えると、オーストラリアのホテルで芽生えた恐怖のような不安が再び湧き上がるのを抑えられなかった。

 美沙はそんな隆を黙って見ていたが、
「本契約とか、やらなければならない事は2人でよく考えてやりましょ…」と小さい声で慰めるように言った後、隆の隣に腰掛けて「隆がどんな姿になっても、いつもそばにいてくれるなら安心できるわ…」静かな声でそう付け加えた。

 その言葉で変身術を受けるのは美沙を支えるためなのだと思い出した隆は、どんな不安も乗り越えようと自分に言い聞かせた。


 翌日の夜、本契約の手続きをする為に隆と美沙は書斎にいた。

 パソコンの前に椅子を2つ並べて座り、今日送られたばかりの『本契約手続き用』とタイトルのあるメールを開く。

 オーストラリアでスティーブが話してくれた通り、本文には何も書かれおらず圧縮ファイルが1つ添付されているだけだった。
 それがアプリのファイルだと教えられた隆がクリックすると自動的に解凍された後、『カードスキャナーを接続してください』の文字が画面上に現れる。

 普段、買い物の支払いで使っているスキャナーを接続すると『デバイス確認中』の文字に続いて『カードをスキャンしてください』と画面に表示された。
 あらかじめ用意しておいたスティーブの名刺をスキャナーの上に置くと『読み取り中』の文字の下に進行状況を示すバーが現れ、それが左から右に伸びていく。

 バーは右端まで伸びきると文字と共に消え、『動物選択』と題されたページが画面一杯に表示された。
 沢山ある文字の中から隆が『ネコ(Cat)』を探してクリックすると、すぐに画面が種類ごとの写真に切り変わる。

「えっと…、変身するのは…、アメリカン・ショートヘアだったわね…」
 美沙はそう言うと楽しげに身を乗り出し、画面の中を見回し始めた。

「あ、これこれ」と、すぐに小さな写真を指差して振り向き、ネットショッピングをしている感覚になっていた隆を現実へ引き戻す。

 美沙が指差す部分にカーソルを合わせてクリックするとアメリカン・ショートヘアを前後左右と上下から見た画像が表示され、その横で動画が流れ始めた。
 2人は何も言わずにそれを眺めていたが1分程で終わり、映像の代わりに25万ディジットの金額と決定ボタンが表示された。

 隣で黙ったままの美沙へ顔を向けると口を真一文字に結び決心したようにゆっくり頷く。
 それに促され、隆が少し震えた指で決定ボタンにカーソルを合わせてクリックすると目の前の画面が真っ黒になった。

 黒いままの画面に何かトラブルが起きたと思った2人は互いに顔を見合わせる。

 隆が何か言おうと口を開きかけた時、『お待ちください。通信中です…』と白い文字が浮かび上がり、点滅を始めた。

 ホッとした2人が顔を画面に戻して待つと24桁の振込先口座番号が表示され、カーソルが支払金額の入力欄で点滅を繰り返す。
 隆がアメリカン・ショートヘアの金額を2、5、0、0、0、0とキーボードのキーを慎重に叩いていく。

 隣で同じ画面を見つめている美沙に迷いはないだろうが、隆は自分の口座番号をゆっくり入力しながら今ならまだ戻れると思っていた。
 変身する事自体も怖くないと言えば嘘になるが、それよりネコの自分が人間の美沙を支えられるのかという事が不安だった。
 自分がヘヴンへ行けばその時は悲しいかもしれないが美沙はネコに変身した夫を抱えて生きていくという複雑な人生を送らずに済むのだ。

 変身する事は十分すぎる程、話し合って決めた筈だったのに隣で何も言わずにいる美沙のその表情を思わず確認してみたくなった。
 しかし、それをすれば変身という重い決断の一端を一生背負わせることになってしまうと気付いて思い止まり、口座番号を入力し終わるとあくまで自分の意志だと見せるつけるように決定ボタンを強くクリックした。

「カチッ」というマウスの音に重なって美沙が小さく「あっ」と言ったような気がしたが、それ以上は何も言わなかった。

 先ほどと同じように『メール送信中です…』と画面に浮かんだ文字が点滅するのを黙って見つめていたが1分ほどしてメールの着信音が鳴ると2人は我に返り、同時に小さなため息をつく。

「支払い確認済みメールだね?」
 隆がそう言いながら開くと思った通り、『支払い完了』の文字と本契約ページへのリンクが貼られていた。
 早速、そのリンクへ飛ぶと赤い文字で『注意事項』と書かれたページが開く。

 そこにはオーストラリアでの説明通り本人の意思や病気の確認に加え、変身後の引取人の指定について注意書きがある。
 全てを読んでから引取人として美沙の名前を記入し、同意ボタンをクリックすると変身術を受ける場所や日付といった必要事項の入力ページへ進んだ。

「場所は日本の…、東京にするとして…」
 隆が世界地図から日本を選び、拡大された日本地図から東京を指定して決定ボタンをクリックする。

 日付選択画面では自分の誕生日を入力するだけで自動的に60歳になった時からヘヴンへ行く期限である30日後までのカレンダーが表示された。

「手術の希望は期限の最終日、10月26日でいいね」と隆が言いながらカレンダーをクリックすると最終確認ページが開いた。
 入力した通りの場所と日付が表示されているのを確認した後、
「これでいいね?」今度は美沙の顔を見ながら訊くと、
「うん」とだけ言って小さく頷く。

 最終確認ページに大きく表示された確定ボタンをクリックすると『お待ちください。通信中です…』の文字に続いて『本契約完了。お疲れさまでした!』と表示され、全てが終了した。

 隆はチェアの背にもたれ両腕を大きく上げて伸びをしながら、
「あー、ようやく全ての手続きが終わったよ!」そこに漂う緊張感を吹き飛ばすように大きな声で言った。

 すると美沙が黙って抱き付き、
「これで、ずっと一緒にいられるのね」と隆の耳元で嬉しそうに言った。

   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「隆、もう準備出来た?」
 そう言いながらドアを開く美沙の声で隆は目を覚ました。

「大丈夫? 具合でも悪いの?」と書斎のチェアで寝ていた隆を美沙が気遣う。

 手に持ったままのリーフレットを見て自分が何をしに書斎に来たのか、そして明日が何の日かを隆は思い出した。
「いや、最近よく眠れてなかったからつい…」そう言うと、手にしたリーフレットをシュレッダーにかける。

 隆は変身術を受けるために明日から入院する予定で、今夜が人間として自宅で過ごす最後の夜だった。

 そんな夜をしんみりさせたくなかった隆は自分の頭をポンッと叩いて
「あ、入院の準備をしにここへ来たんだっけ…」おどけた口調でそう言うと、書斎の奥にしまってあるボストンバッグを取りに行く。

「私も手伝うわ!」そんな想いが伝わったのか、美沙も笑顔で後を追った。

 人間として退院する訳ではないので何を持って行くか悩んだが、おそらく必要じゃない着替えや読むかどうか分からない文庫本をバッグに詰めると手早く入浴を済ませて自分の部屋で横になった。

 変身術で移植するのは脳の一部でその時の体調はあまり関係ないと聞いていたが隆は念の為、早寝早起きの規則正しい生活で今日まで健康維持に努めてきた。
 また、不安が脳のストレスになると考えて手術について話すことを一切止めていたから美沙もすでに自室で休んでいる。

 隆は美沙がベッドの中でどんな事を考えているのだろうかと思いを巡らせた。

 その後、ネコの暮らしはどんなものなのか、その中にどんなことが待ち受けているのかなど人間の隆には想像すら出来ないことを考え始めると、どこからか再びあの例えようのない不安が湧き上がってくる。
 しばらくの間、暗い天井を見つめながらその恐怖のような不安と闘っていたが数日間、よく眠れていなかったお陰で気が付くと朝を迎えていた。


 美沙はすでにキッチンにいるのか、料理をする音が聞こえてくる。
 寝室を出てダイニングを覗くと食糧危機の今では滅多に食べられない卵焼きと納豆がテーブルの上に並べられていた。
 隆の気配に気付いた美沙が振り返り、
「おはよう! 歯を磨いている間にお味噌汁を温めておくわ」普段どおりの元気な声をキッチンに響かせる。

 洗面所で鏡に映る自分の姿を見た隆はこうして顔を洗うことも最後だと思い、今日のその感覚をずっと覚えていられるようにと願った。
 なぜなら、歯を磨いた時の爽快感や朝食の味といった人の身体だから感じる感覚を変身後も持ち続けられるとは限らないのだとオーストラリアで聞かされていたからだった。
 美沙と共に暮らし、支えていくには人間の記憶だけでなく感覚も必要だと考えていた隆はそれがネコとして生きるのに邪魔だとしても持ち続けたいと思っていた。


 朝食を摂り終えて食器を片づけるとあっという間に出掛ける時間になった。
 いつもなら時間が掛からないドローンタクシーを選ぶところだが、地上を走るタクシーで街並みを見ながら行きたかった隆は自動運転タクシーを呼ぶことにした。
 そこで実際に手術を行うのかなど詳細については知らされておらず何も分からないが、タクシーに乗り込むと指示された通りに広尾総合病院へ向かう。


 広尾総合病院が大きな病院だと知ってはいたが実際に見るとさらに大きく感じ、自動案内システムが故障していたせいで50階建ての入院棟が5棟もある広大な敷地の中で迷い、受付まで15分も歩かされてしまった。

 ようやく受付までたどり着き、自動受付機に名前を告げるとB棟の最上階にある個室に案内された。

 病室へ向かいながら目にする院内の風景に特別なものは何もなく、ここで秘密裏に変身術が行われると聞かされても信じられないくらい普通の病院だった。
 隆は自分が病気で入院するのかと錯覚してしまいそうなその雰囲気にこの病院で間違っていないのかと心配になったがすでに不安な表情でいる美沙を見て、その事に触れるのはやめておくことにする。

 2人が病室に入ると、すぐに1人の看護師がやって来たが忙しいからか入院に関する注意事項を早口で隆に説明し、今日は検査の予定もないので自由に過ごして良いと告げた。
 その後、美沙の方を向いて手術後の面会と退院の日取りについて話していたようだったがそれが終わると、こちらに質問する間も与えずに戻っていってしまった。

 いきなり自由にして良いと告げられて戸惑うばかりだったが部屋に置かれた病院案内を見ると5つの入院棟に囲まれた、広くて良く手入れされた中庭が1階にあると判った。
 そこは入院患者がリハビリ代わりの散歩をしたり、コーヒーショップで買った物を味わいながらくつろげるようになっているようだった。

 各棟の20階と40階にも『空中庭園』と呼ばれる庭があり、そちらの方が人気のようだったが1階の中庭で何か飲む事にして、景色を眺められるガラス張りのエレベーターを使って地上まで降りてみる。


 2人共、隆が人間の姿でいられる最後の日という特別な時をどう過ごしたら良いのかわからずに緊張していたから普通の時間が流れている中庭の光景がありがたかった。
 そこで買った飲み物を手に座れる場所を探すと少し離れた所にある木陰にベンチを見つけ、そこまで行くと2人で並んで腰掛ける。

 ゆっくり時間が流れる中庭の景色を眺めながら暫くの間、黙ってカフェモカを味わっていたが隣のベンチで新聞を読んでいた入院患者がいなくなると美沙が周りに聞こえないよう声を落として、
「面会謝絶で退院は1週間後だという話だけで例の手術については何もなかったわ」不安そうに話し始めた。

 変身術について具体的な話があるかも知れないと身構えていたにもかかわらず看護師の話は短い簡単な説明だけだったと、隆も同じ事を考えていた。

「この病院で間違っていない筈だけど…」隆が少し間を置き、低い声で返事すると
「ちゃんと予約されていたんだから、間違えてはいないわ…」美沙の頭の中ではその答えが出ていたらしく、すぐにそう否定したが続く言葉が見つからずに再び黙ってしまった。

 しばらく沈黙が続いた後、
「こちらから例の手術について訊ねる訳にもいかないし、とにかく待つしかない…。いずれ向こうから話があるだろう」隆は美沙の不安を取り除こうと言ってはみたものの、自分も心配で仕方なかった。

 看護師が美沙に話した内容の中で唯一、1週間という入院期間だけが変身術を申し込む時に知らされたものと合致していたから、それが違法な手術を一般の病院で行うための暗号になっているのかも知れないと隆は思い始めた。
 そして、変身術を申し込む時の注意書きのどこかにそう書いてあったのを自分達が見落とした為にこの入院が正しいものと理解出来ないのだという妄想まで頭の中で膨らみ始めた。

 ずっと黙ったままの隆の顔を覗き込むようにして
「とにかく1週間後、指定された場所に迎えに行くからね!」頑張ってという意味を込めてなのか両手で小さく拳を作りながら美沙が言う。


 お互いが人間として会う最後の日とは解っていたが結局、2人ともその特別な日に何をすべきか見つけられず、夕方までその中庭でただ座って過ごした。
 日が暮れてくるに連れ、泣きそうな顔になってきたのを見た隆は夜になってから別れるのは無理だと美沙を説得し、明るい時間に病院の玄関まで送って家に帰すことにした。


 美沙が帰った後、病室のベッドで横になっているとすぐに夕食の時間になったが腹が空いていないのでそれを断り、少しうとうとして気付くと時刻はすでに9時になっていた。
 ネットで配信されるニュースを部屋の壁に埋め込まれたスクリーンで見ようと思い、リモコンを手に取ると突然、病室のドアがノックされる。

 看護師が訪れる事もなく夕食も断っていたので、隆は初めて聞くノックの音に少し驚いたが、
「どうぞ」と答えると扉がゆっくりスライドする音がした後、
「失礼します」と低い声が聞えた。

 扉のこちら側にあるカーテンが開けられ、その声の主が水色のワイシャツに白衣を着て黒縁のメガネを掛けた恰幅の良い男性だとわかる。

 隆を見ると笑顔になって頭を下げ、
「明日の手術を執刀する、脳神経外科の石川と申します」と低いが遠くまで響きそうな声で言い、右手を伸ばして名刺を差し出した。

「手術って、何の?…」と言いかけた隆はその手にあるものを見て黙った。
 それは深いグリーン地に金文字で石川浩司と名前だけがある、オーストラリアでスティーブから手渡されたあの名刺と同じものだった。

「では、あなたが…」隆がそこまで言うと、
「ええ、私が変身術の執刀医です」石川はハッキリした声を病室中に響かせた。

 その声が誰かに聞かれてしまうのではと思い、隆がドアの方へ視線を配ると、
「大丈夫、心配ありません」と再び大きな声を部屋中に響かせ、メガネの中の目をさらに細めた。

 隆は申し込んだ通りに変身術が受けられる事と執刀医が人懐っこい笑顔の医師だと判り、不安で重かった気持が一気に軽くなっていった。

「明日はよろしくお願いします」隆がホッとしながら頭を下げると石川は脇に抱えていたタブレット端末を取り出して見せ、
「変身するのがどんなネコちゃんかコレでご覧になれますが、どうします?」何故か嬉しそうに訊いてきた。

 石川が見せたタブレットは自分が愛用するのと同じ古いタイプのものだったから、その医師も絵を描くのだろうかなどと思った隆が、
「はあ」とだけ答えてどうすべきか迷っていると、
「私は猫が大好きなんですよ」そう言って勝手に動画を再生し始めた。

「見せて頂けますか?」思わず隆が訊ねると、
「あ、失礼しました。どうぞご覧ください、可愛いですよ!」そう言いながら手渡されたタブレットの画面の中で、典型的な柄を持つ1歳くらいのアメリカン・ショートヘアがねこじゃらしで遊んでいた。

「シルバータビーで間違いないですね?」と、身体の柄について石川が確認を求めたが、複雑な心境になった隆は画面から目を離さずにゆっくり頷いただけだった。


「自分はこのネコになるんですね…」しばらくの間、何も言わずに動画を見ていた隆が呟くと、
「はい、この位の年齢が変身術には一番イイんです!」石川は笑顔でそう答え、「変身術は野生動物を減らすと誤解されている方もおりますが、変身用に繁殖したものか捕獲され殺処分されてしまう動物を引き取って使用しますのでそんなことはありません。実際は失われる命が救われているんです」と低い声で説明し、その後は黙って動画が終わるのを待った。

 動画の再生が終りタブレットを返すと、
「明朝、手術室でお会いしますが麻酔が効いてからですので、覚醒した状態でお会いするのは本日が最初で最後ということになります」
 石川は最初に見せた人懐っこい笑顔で話すと、「術後、6日間はリハビリ担当がしっかりお世話しますのでご心配なく…」そう言い残して部屋を出ていった。


 消灯時間などの決まりはなく寝るのも起きるのも自由な病院で、まだ10時前だったが隆は部屋の灯りを消してベッドに横になった。
 ナイトテーブルのフットライトだけになった薄暗い病室で石川という医師に会った事を思い返すと、病院に来てから抱いていたものとは別の不安で心が一杯になっていく感じがした。

 それは、医師の訪問により全てが正しい方向へ進んでいると判ったその時がまさに、変身するのが紛れもない現実だと突き付けられた瞬間で、同時に人間でいられるのがあと僅かだと判明した瞬間でもあったからだ。

 覚悟は十分出来ているつもりでいたが実はそうではないと気付かされ、人間としてやり残した事やネコとしてどう生きれば良いのかなど、焦りと不安が心の底から勢いよく吹き出し始めていた。
 そして、そんな大変な思いをしているのに愚痴をこぼす相手もいない、たった1人の時が人間として過ごす最後の夜だと思うと隆は無性に寂しくなり目からは涙が溢れた。

 ヘヴンへ行けばこんな複雑な経験をせずに済んだ筈だという考えが頭をよぎった隆は、元々変身を決めた理由は美沙の事が心配でならなかったからだと改めて自分に言い聞かせようとした。
 こうして今、1人寂しくいる事がこの先も生き続けて美沙を支える事に繋がるのだと、その為の変身術だといくら自分に言い聞かせても隆は涙が止まらなかった。


 20歳位の頃、隆は地球上で人間が特別な存在ではないのだと考えるようになった。
 やがて、自然や動物に対する人間の傲慢さや残酷さが嫌いになり、絶滅の危機に瀕した沢山の種類の動物を救うにはたった1種類の人類が絶滅すれば良いとまで思うようになった。

 変身術が開発されたという噂を耳にした時は真剣に動物として生きる事も考えたが実際には踏み切らなかった、というより今思えば、踏み切れなかったのだ。
 その理由がもしかしたら自分も知らない心の奥底に、人間でいる満足感や人間であり続けたいという願望があったのかも知れないと隆は思った。
 人間でいることが好きだったからこそ人間が持つ残酷な部分や傲慢な部分が嫌いだったのだと、人間に別れを告げる今になってやっとわかった気がしていた。

   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 次の日の朝、ベッドの上で半身を起こし、窓から明るい外の景色を眺めていた隆はドアがノックされるのを聞いた。

「どうぞ」とドアに向けて言うと2人の看護師がそそくさと入ってきて、
「これから手術室へ向かいますがその前に簡単な検査をします」そう言うと隆をベッドに寝かせて2人掛かりで腕や足に検査機器を取り付けていく。

 しばらくして検査が終わったのか1人の看護師が、
「じゃ、これで眠くなりますからね」と隆の腕に1本の注射をする。

 すぐに意識が朦朧とし始め手術室に運ばれていく間、隆はフワフワと雲に乗って移動している錯覚に陥っていた。
 その後、見ているものは幻覚となったのか銀色に輝く宇宙船の前に運ばれ、音もなく開いたドアからカチャカチャと騒々しい音がする眩い光の中に連れていかれた。

 頭が小さく手足の長い数人の宇宙人が逆光でぼやけたシルエットとなり、自分を見下ろす光景の中で
「斎藤隆さん、これから始め……すよ…」と言うのが聞こえ、宇宙人は日本語を話せるのかと思ったところで目の前が真っ暗になった。
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