第15話

文字数 7,186文字


「実は私…、ネコになるつもりなの」

 美沙が唐突に変身する事を告げると、
「えっ…」
 早川はそう言ったきり言葉を失って黙る。

「騙していてごめんなさい。実は夫の隆、ネコに変身したの」
 美沙の口から次々と出る理解不能な言葉に、早川は目を大きく見開いたまま何も言えない。

「私のわがままでネコに変身し、ここで一緒に暮らしていたんだけど取り締まりが厳しくなった12年前に私が罪に問われる事を恐れて家を出て行ったわ。それ以来1度も会ってないから今も生きているのかどうか分からないけどもし、生きているなら辛く厳しい生活を送っていると思う」美沙は悲しそうに言い、「だから私もネコになって夫を捜し出し、辛い生活をさせた償いをしようと決心したの」と続けた。

「………………」早川は何も言わずにただ、美沙を見つめている。

「もし、夫が生きていないと分かったら私もそのまま死ぬつもり…」早川に無言で凝視される事に耐えきれず、美沙が下を向いて呟くように言うと、
「解らない。美沙さんが何故、そんな風に考えるのか…」早川は鋭い目で睨むようにして言った。

「そんな考えは理解できない…」と繰り返し、「隆さんがヘヴンに行かず、美沙さんもヘヴンに行かないなんて…。美沙さんがそんな人だとは思ってなかった」悔しそうに言って唇を噛む。

 美沙は顔を上げると、
「許されるとは思わないけど、ずっと打ち明けずにトシちゃんを騙していて本当にごめんなさい」そう言って深く頭を下げた。

「騙した事なんてどうでもいいです。ただ、美沙さんまでヘヴンに行かないなんて…」大きな声で怒ったようにした後、「そんな人だったなんて…」と厳しい表情のまま呟いた。

 美沙は予測していた通りの展開に
「こうなると思っていたの、トシちゃんを傷つける事になると…。だから話せなかったの、一番大切な人を裏切りたくなかったから…」美沙の目から大粒の涙が流れ、「私の事はどう思ってもいいの、卑怯だと、臆病だと言ってもイイ。だから最後のお願いだけ、どうしても聞いて欲しいの。私がネコになる為の引取人になってください。お願いします」美沙は何度も頭を下げた。

「隆に、夫の隆にネコになって欲しいと言った私のわがままを謝って償いたいの。夫のヘヴン行きを受け入れられず、辛く厳しいネコの生活を強いたお詫びをしたいの」と泣きながら言い、「隆が家を出る時に…、私は60歳でネコになるから…、デリバリーの公園で再会しようと約束させてしまったの」と立て続けに訴えると、
「どうして! どうしてそんな事が言えるの、私の父はヘヴンに行ったのに!」早川はソファから立ち上がって叫ぶように言い、そのまま家を出て行ってしまった。

 予想通りの展開だったが早川の反応は思った以上でこれまで築いてきた信頼がガラガラと音を立て、一気に崩れ去ったように感じた美沙はどうすれば良いのか分からなくなった。

 ネコになって隆と再会し、苦境へ導いた事を詫びて償うという大きな目標があったからこれまで生きて来られたのに、今はもう何も考えられなかった。
 隆の願いを自分が果たすべき約束として今日まで必死でやり抜き、ようやく自分もネコになれる時を迎えたというのにもし変身が叶わないなら、これまで懸命に生きてきた意味がないとまで思った。

 美沙はこれまで経験した事がないくらい心が折れ、ショックと落胆から呆然としてソファに座ったまま涙を流し続けた。


 それから3週間、魂を抜かれたようになってしまった美沙はデリバリーにも行かず、自宅に篭っていた。
 1人きりでこれまでしてきた事を思い返し何が悪かったのかずっと悩み続けていると、隆が野良になった事、由美子や修一と疎遠になった事、そして早川に嫌われた事など良くない事の全てついてその責任が自分にあるように思えた。
 そして、ずっと会っていない柳瀬やクロトラはすでに取り締まりで記憶を消されてしまったのだと思うようになり、それまでも自分のせいだと信じるようになっていった。

   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 隆は11年ぶりに変身ネコ達がいる倉庫へやって来た。

 美沙が疑われないようにとの意味もあったが、会いに行かずにいる自信がなかった隆はずっと地方を放浪していたのだった。
 ネコになって再会すると言い出した美沙を説得出来ないまま家を出た隆はその事が気掛かりでならず、60歳になるのを見届ける為にここへ戻ってきたのだ。


 以前ならいつでも倉庫の周りには寝転んで毛づくろいするネコがいたが今は1匹も見当たらず、そこにあるのは静けさだけだった。
 周囲を警戒しながら隆が近づくと、錆びて茶色くなったドアが少しだけ開いている昔と変わらない光景がある。

 記憶の中と同じ景色に安心した隆はドアに向かって歩き出した。

『隆…、お前か?』
 突然クロトラの声が頭に響いた。

 何気なく振り返り倉庫の外にある階段に目をやると、大分歳を取って痩せたクロトラが踊り場から隆を見下ろしている。

(クロトラさん、無事だったんですね…)嬉しそうに答えると、
『お前が戻って来る予感がして、ここで待っていた』再びクロトラが語り掛け、その目を細めた。

 再び会えた嬉しさから、隆は逞しさを増したその身体で一気に階段を駆け上がった。

 クロトラはあっという間に踊り場までやって来た隆に驚きもせず、
『ここにいる変身ネコの多くは電磁パルスを受けて本物のネコに戻った。お陰でここも大分静かになった』とすぐに語り掛けてきた。

 隆は様々な場所で見てきた状況とは違うと思い、鼻にシワを寄せながら、
「他の土地では次々に死んで行きましたが…」不可解な面持ちで応え、「ここでは死んでしまった変身ネコはいないと? 何事もなく動物に戻ったというんですか?」と訊く。

 クロトラは少しの間黙っていたが、
『そうか、他でも同じか…。ここでも沢山死んだ』と静かに答え、『死ねば辛い生活から解放されると思い、進んでパルスを受ける奴もいた…』と寂しそうに語った。

「やっぱりそうですか。でも、クロトラさんは…」と隆が話し終える前に、
『俺はお前を守る為に超能力を使って逃げていた…』そう言い、『お前と美沙を守る為にな…』とゆっくりした口調で語る。

「僕と美沙を?」
 その予想外の答えに驚いてクロトラを見つめる隆に
『もし美沙が変身してネコになってしまったら、お前に会うまでドローンから守ってやらねば…』そう語ると一息ついて、『それがここにいるネコ達を取り締まりから守ってくれた隆への恩返しだと考えている』と語った。


 その言葉で自分がすっかり忘れていた取り締まりの男との一件を隆は思い出した。
 ネコの時間と心で生きているからなのかそれが遥か遠い過去のように感じ、そんな昔の事を忘れずにいてその上、恩を返そうなどと考えているクロトラが不思議に思えた。


「じゃあ美沙は変身を考えているんですね?」隆が訊くと、
『隆が1度も姿を現さないのは美沙にお前の事を諦めさせる為だと分かっていた。だからお前はもう死んだと嘘をつき、変身しないように説得に行くつもりだったが、この老いぼれた身体では…』1度大きく息を吐き、『お前がどこかでまだ生きている事も分かっていた…そして今頃、美沙を心配して戻ってくる事もな…』
 クロトラは語り終えると隆を見て目を細めた。

 隆はクロトラが何言おうとしているのか気になったが何も訊かずに続く言葉を待つ。

『…美沙を説得しヘヴンに行かせる事さえ出来ていれば…、お前は記憶を消されぬよう逃げ回る必要もなくなり、この世界でもっと自由に生きられたのだ…』クロトラはそこまで語ると弱々しく息を吐く。

 クロトラの年齢は知らないがその命がもう長くない事を隆はネコの直感で理解した。


 呼吸を整えたクロトラは再び語り始め、
『俺はもう長くは無い。自分が死ぬ前に隆のために何かしたいのだ』と告げた。

「どうしてそこまで僕の事を?」隆が不思議そうに言うとクロトラは、
『それを訊きたかったのは俺たちの方だ』力を込めた声で語り掛け、『取り締まりの男との対決や柳瀬親子を助けた時、修一と由美子に自分の事を明かした時もそうだった。自分が逮捕される危険を冒してまで俺達、変身ネコを助けてくれた。俺はいつも、何故そんな事をするのか訊きたかった』優しい眼差しで隆を見つめた。

『だがもう、それを訊く必要はない。誰かを助けたいと思う事に理由は無いとようやく俺にも分かってきた…』そこまで語ると突然、鋭い目になったクロトラが後方の空へ振り返り『奴らが来るぞ! 逃げろ、隆!』と大きな声を響かせた。

 その直後2つの黒い影が空に現れ、同時に近くでビィビイーンと空気を震わす音がして隆の背中の毛を逆立てた。
 これまで何度も聞いてきたその音に自然と身体が反応した隆は4段飛びで階段を駆け下りた後、気がつくと道路を疾走していた。

 電波銃は目標までの距離に応じてパルスの強さを調整する為、早く動くものに対しては照射が遅れるという事をこれまでの経験から知っていた隆は、(まだ死ぬ訳にはいかないんだ!)と心の中で叫びながら出来るだけ早く走った。

 さすがにネコでも息が切れ走れなくなりそうになった頃、オレンジ色に塗られた通信用アンテナを見つけてその陰に飛び込んだ。
 取り締まりドローンはスピードを落とした後、隆の頭上で音も無くホヴァリングしていたがしばらくすると飛び去った。
 隆は様々な土地で出会った変身ネコから取り締まりの電磁パルス照射を逃れるいくつかの方法を学んでいて、そのうちの1つが通信用アンテナだったのだ。


 元々、ドローンに積まれる電子銃はパルスのビーム角を極限まで絞ったピンポイント照射が可能で周囲への影響は少ないとされていたが動きの素早い動物が相手では狙いを外してしまう事も多かった。
 過去に取り締まりのパルスが自動運転制御用アンテナに当たり大きな事故に繋がったことがあるがそれはあらゆる電子機器を破壊してしまう電磁パルスの性質が原因だった。

 取り締まりに先立って警察や消防が使う重要なものはパルス対策を施したが未対策のものも多く社会活動に影響が出る可能性があったのでそれらのインフラは一目で分かるようオレンジ色に塗られ、付近での取り締まりを控える事になったのだ。
 放浪中に出会った変身ネコからその情報を貰い、実際の取り締まりで効果を確認した隆はその方法で何度も命拾いしてきたのだった。


 アンテナの影で呼吸を整えていた隆はクロトラの事が心配になり、再び取り締まりに遭う危険はあったが倉庫に戻る事にする。
 想像した通り何度もドローンに遭遇し、その度に近くのアンテナに隠れてやり過ごさねばならなかったがなんとか倉庫の前に辿り着いた。
 すでに暗くなった空に注意を払いながら倉庫を1周してみたが最初に来た時と同様にネコの姿はなく、取り締まりが嘘だったかのように静まり返っている。

 隆が警戒しながら錆びたドアの所まで来て中を覗くと、奥の方に集まった数十匹のネコの中でクロトラが倒れていた。
(クロトラ…)と声を出さずに言ったが返事はない。
 パルス照射を受けてしまったのかも知れないと思い助けに行こうとした時、飛行灯を点滅させた1台のドローンが降りてくる。

 取り締まりではないことはすぐに判ったが降下してきたのはデリバリーに使っていたものだったから、美沙が乗っていると思った隆は急いで姿を隠した。

   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 ドローンの中で早川は、普段多くを語らない父親が最期に残した、
「変身術など必要としない強さを持たねばならない。死を受け入れる強さを持って初めて、すべての生命と共に生きられる」
「あらゆる生命の未来は人間の生き方に委ねられていることを忘れてはならない」という言葉を思い出していた。

 美沙からネコに変身するつもりだと明かされた時その言葉が脳裏に蘇り、父親を裏切りたくなかった早川は何も答えずに家を飛び出してしまった。
 それからはいつものように迎えに行っても美沙の声すら聞く事が出来ず、ここ3週間は1人でデリバリーに来ていた。
 その早川の頭と心には変身すると聞かされたあの日以来、矛盾する2つの思いが芽生え、やがて理性と感情の葛藤となっていった。
 そして、頭の中で父親の言葉に背きたくない、裏切りたくないと考えるほど心の中では美沙が哀れに思え、助けたくなってしまうのだった。

 そんな葛藤を2週間続けた後、心にある素直な気持ちには抗えないと悟った早川は美沙の話の中で納得いく理由を見つけられたら変身に協力しようと決めた。
 美沙の話を何度も思い返し、数日間掛けて様々な角度から解釈してみたが結局、変身を望んでしまった自分のわがままを詫びたいということがハッキリしただけだった。
 そして、変身して生き続けるその夫の方がヘヴンへ行った父より幸せだと思えた。
 その後も何度か理由を探してみたが最後には必ず、父の言葉にある『新しく生まれる命』の事など考えていないのだという結論に至るばかりで変身に協力すると決定づけるものは何も見つけられずにいた。


 自動操縦のドローンが降下し始めると早川は我に返る。

 デリバリーの自動カートを伴って倉庫に入るとネコ達は皆、奥に集まって座っていた。
 いつもと様子が違うネコ達を不思議に思って見ていると、すぐ側に1匹で座っていたそのネコが早川を見上げ、
「ニャア〜」とひときわ大きな声で鳴く。

「なーに?」早川が声を掛けると三毛にトラ柄が混ざったそのネコは
「ニャア〜」と再び鳴き、倉庫の奥へ少し歩いて振り返った。

 何かへ導いているのだと気付いた早川は、
「どうしたの?」と声を掛けながらそのネコに従って倉庫の奥へ歩いて行く。

 ネコが導く先の殆ど灯りが届いていない暗がりに何かあるのが分かり、手にしていたライトで照らしてみると集まったネコの向こう側に黒トラ柄のネコが横たわっていた。

 そこまで案内したネコが早川の方を向いてそこに座り、
「ニャァ〜」と再び大きく鳴いた。
 そのネコに何かあったのだと気付いた早川が駆け寄ると黒トラ柄のその身体は痩せ細り、小さく荒い息をしているだけでほとんど動かなかった。

 それを見た早川は乗ってきたドローンへ向かって走り出した。

 救急キットを抱えて戻ると毛布を取り出して地面に敷き、その上に黒トラ柄のネコをそっと寝かせて様子を伺う。
 荒い息が少しだけ落ち着いたように見えたが動く気配はなく、力を入れて閉じられているのかその目だけが小刻みに震えていた。

 早川がキットの中から取り出した脱脂綿に水を含ませ、その口を濡らしてみると片目がほんの少しだけ開き、
『美沙に伝えてくれ…』と聞いた事のない声が頭の中に響いた。

「だれ?」早川は倉庫を見回して言う。

『クロトラだ…』その声が再び頭の中に響いた。

「クロトラ…」早川は自分の記憶を辿りながらそう呟き、「あの超能力…、ネコ…?」と以前、美沙から聞いた事を思い出して再び呟いた。

『俺はもう長くない…。だから美沙に伝えてくれ…』『変身ネコは皆、電磁パルス照射を受け…、苦しみから解放されたと伝えてくれ…』クロトラは苦しそうに語る。

「苦しみから…?」早川が疑問に満ちた声で呟くと、
『そうだ…愛する人のために選んだ変身ネコの辛く厳しい生活から…』と声が響く。

(愛する人のために? 自分がもっと生きたいからじゃないの?)
 早川は頭の中でそう思っただけだったが、
『ネコになってまで生き続けたいと思う人間が…本当にいると思うのか?…』クロトラがすぐに応えた。

「……………」早川がその問いへの答えを見つけられずにいると、
『ここにいた変身ネコは…愛する人と死別したか、裏切られて捨てられた悲しいネコばかりだ…。人間の記憶を抱え、野良ネコとして1人で生きなくてはならなくなった…可哀想なネコ達だ…。そして死ぬまで人間の記憶に苦しむ…』

 ヘヴンに行った父の顔が蘇り、それでも変身術は違法だと早川は頭の中で思った。

 少しの沈黙の後、
『お前が考えるように…それを選んだのは変身ネコ自身で違法行為だ…。でも、ほとんどが大切なものを守るために…そうせざるを得なかった者達だ…』
『自分のためでなく…愛する人を支えるために…。ネコとして人間の残飯を食べ、ひっそり生きる事を覚悟した者達だ…』

『だが、その代償は余りに大きい…。人間の記憶を持ったまま生きなくてはならない変身ネコの…生活は悲劇そのものだ…。これ以上、不幸な変身ネコを生み出してはいけない…。それを…美沙に伝えて…欲しい……』

 クロトラは語り終えると苦しそうに頭を反らし、半分口を開けたまま2度と動かなくなった。

「クロトラさん! 美沙さんは…」そう言い掛けた早川の言葉は聞く者がいなくなり、暗い倉庫に虚しく響いただけだった。



 早川はクロトラをデリバリーの最終地点に運び、小高い場所まで抱えて行く。
 以前、サビ柄のネコを埋めた場所の側に穴を掘ってクロトラを寝かせると美沙がそうしたようにネコ缶を1つ、亡骸の隣に置いてそっと土を被せた。
 サビ柄が眠る場所をじっと見つめ、『変身ネコの生活は悲劇そのものだ…これ以上不幸な変身ネコを生み出してはいけない…』と語った最期の言葉を思い出しながらクロトラとサビ柄の冥福を祈り、全ての変身ネコが辛い生活から解放されるように願って手を合わせた。

 早川はクロトラとのやりとりで、それまで世を欺いて長生きする為の卑怯な方法でしかないと思っていた変身術が愛する人を支え、大切な人を守る為の苦渋の決断である事を初めて知った。
その上、ネコとしての暮らしは辛く苦しいものだという現実も分かり、自分の変身に対する考えは間違っていたかも知れないと思い始めていた。
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