第4話

文字数 8,970文字


「お世話になりました」
 聞き覚えのある懐かしい声を聞いて、半分寝ていた隆はその顔を上げた。
 隆がいる部屋のドアが開いて微かに空気が流れたのを感じると、それに乗って懐かしい匂いがやって来る。

 それが美沙のものだと直ぐに分かった隆は、
「こっちだよ!」と声に出したが、
「ニャーオ!」と、どこかで鳴くネコの大きな声にかき消されてしまった。

「あら~、かわいいネコちゃんが沢山いるわね」その声と共に美沙の匂いが一段と強くなり、隆には見えていないが近づいてくるのがハッキリ分かる。

コツコツというハイヒールの音が目の前で止まると上から見慣れた美沙の顔が大きく寄ってきて隆の顔を覗き込んだ。

「怖がらなくていいのよ」美沙がそう言うと隆はかなりのスピードで空中に引っ張り上げられる感じがした。
 引き上げられながら昔、遊園地で乗ったことのある座席が垂直に発射されるアトラクションを思い出していた。

「怖がるって、何を?」隆が言うと、
「ニャーオ、ニャオ?」と、再び先ほどのネコが鳴いてその声がかき消されてしまった。

 と、そう思った直後、全身の違和感でようやく隆は気付いた。
 鳴き声は自身のもので、その身体は完全にネコになっていたのだ。

 隆は自分が変身術を受ける為に広尾総合病院に入院した事を思い出した。
 目を瞑ると手術当日に見た病室の窓の景色が瞼の裏に蘇り、それが前日の夜にやってきた執刀医の顔へ変わると次は病院の中庭の景色という風に逆回しの5倍速再生のような速さで記憶が時を遡っていく。

 徐々にその再生スピードは遅くなり、美沙と病院の受付で入院手続きをしているところまで戻るとそこで終わった。

(そうなんだ、僕は本当にネコになったんだ)
 心の中でそう呟いて目を開けると目の前で大きな美沙の顔が笑っていた。
 美沙が今、ネコに変身した隆を抱き上げているのだ。

 隆は何か言おうとしたがまた、「ニャー」となってしまうと思ってやめると、
「では、こちらに入れてお連れください」と見えない所から美沙ではない女性の話し声がして隆は箱の中に降ろされた。

 そこから見えるのは部屋の天井だけになったので耳を澄ますと、
「ヘヴン・プロジェクト庁に提出する執行済証と死亡診断書はここにまとめてあります。ファイルのまま提出してください」と先ほどの誰かの声が聞こえる。

「ありがとうございます。色々お世話になりました」すぐにそう応える美沙の声がして箱の蓋は閉じられた。
 隆のいる小さな空間は真っ暗になり、どこかに運ばれているような揺れとハイヒールのコツコツという音だけが聞こえるようになった。

 暗闇の中で揺れながら、隆は知らない女性と美沙の間で交わされた会話の内容を思い返していた。
 簡単な内容の短い会話ではあったがネコに変身した自分が言葉を理解できたのは、移植した脳がちゃんと働いているからだと思った。

 あとは、鳴き声翻訳機を通じて隆の言いたい事が美沙に伝われば変身術は大成功という事になるのだ。


 突然、揺れが止まったかと思うと箱の蓋が少しだけ持ち上げられ、
「ここに翻訳機があるから何か話してみて…」その隙間から美沙の小さな声が隆の耳に届いた。

 何を話したらいいのか隆が迷っていると少し慌てた感じで、
「言っている事が解らないの? 解るなら返事をして!」と囁いた後、潜めた声で叫ぶようにして「このネコが隆だと確認したいの!」と矢継ぎ早に続けた。

 美沙の泣きそうな顔が頭に浮かんだ隆は、
「僕だよ、隆だよ。変身術は成功したんだ!」と何も考えずに叫んだ。

 実際、隆の耳には「ニャオ、ニャーオ。ニャーオニャーオー」としか聞こえなかったが、
「良かった。本当に隆で良かった…」そう言う美沙の微かな声が聞こえてすぐに箱の蓋は閉じられた。

 自分だと分かって貰えてホッとした隆だったが再会できた喜びを感じる間もなく、再び暗闇の中に引き戻されてしまった。
 その後、隆が感じて聞いた揺れと音、そして嗅いだ匂いによると美沙はドローンタクシーに乗ったようだった。

 15分程して、タクシーが着陸すると電子マネーで料金を支払う時の音をさせ、急いでドアから降りたようだった。
 早足にどこかへ向かっているのか、先ほどより速いテンポでハイヒールのコツコツというリズムを美沙が刻むとそれに合わせて激しい上下の揺れが箱に伝わり、隆はまるでダンスを踊らされているように身体が振られて暗闇の中で頭を何度も箱にぶつけていた。

 慌ただしく鍵を開けた後、勢いよくドアを開くような音がして我が家の懐かしい匂いが箱の中まで流れてくるとすぐに閉まり、静かになった玄関で今度はゆっくり鍵を2つ閉める音がした後、美沙の小さなため息が聞こえた。
 ようやく揺れから解放された隆が箱の中で一息ついているとそのままゆっくり床に降ろされ、すぐにその蓋が大きく開かれる。
 暗闇だった箱の中が一気に明るくなって目が眩むかと思ったがネコの目の反応は素早く、一瞬で光を調整したので隆の視界がボヤけることはなかった。

 見上げると見慣れた白い天井をバックに美沙の顔がある。

 黙ったまま目に涙を浮かべながら微笑み、何か言いたげな表情で隆を見ていた。
 美沙が何か言うまで待とうと思った隆は全身を見せるように箱の隅に寄りかかって横になり、毛繕いをしてみせた。

 1粒の滴が隆の耳に落ちてきたのを感じて見上げると、次々に大粒の涙が降り始めた。

 美沙が大きな声で泣きながら、
「隆、ごめんなさい。本当にごめんなさい」と嗚咽の中で言い、「私のわがままな願いで、隆をこんな目に遭わせてごめんなさい」さらに大泣きする。

 ネコなので涙は出なかったが美沙が泣いているのを見て、隆も大泣きしていた。
 10分程泣き続けてようやく涙が涸れたのか美沙は泣き止み、時々しゃくり上げながら濡れた頬を手で拭っている。

 横になっていた隆が美沙の方を向いて座り直すと、
「私はもう大丈夫」そう言って隆の頭を優しく撫で、「無事に帰ってきてくれてありがとう」とそっと頭にキスをした。

 それまでずっと黙っていた隆は
「後悔はしてない、だからもう泣かなくてイイ。これからもずっと一緒だよ」と箱の中から静かに言った。

 鳴き声翻訳機のスイッチが入っていたのか分からないが美沙は隆を見て大きく何度も頷いた。


 その日の午後、2人はリハビリをやる為に書斎へ来ていた。
 そこは隆がフリーの写真家だった時にオフィスとして使っていた部屋で壁には撮影した動物の写真が額に入れられ所狭しと飾られている。
 20代で独立した隆は飼い主の依頼でペットの写真や動画を撮り溜めて、思い出アルバムを作る仕事をしていた。
 外部廊下に面している書斎に窓は1つだけでしかも、曇りガラスになっていたから他人に見られて困ることは念の為ここでやることにしたのだった。

 そのリハビリはネコとして生きていけるようにすることが主な目的だが、動作や鳴き方で変身動物だと疑われないようにする為にも非常に重要だった。
 本来なら変身術後に病院で終わらせる筈のリハビリを術後の回復が遅かった隆は始める事すら出来ず、自宅で1からやらねばならなかった。
 リハビリの内容は声帯を正しく使えるようにするための発声練習と筋肉や関節の特徴を生かして動けるようにするための全身運動で、特殊なものではないが病院のような設備がない自宅でそれを終えるのに何日掛かるのかわからなかった。

 実際、隆の身体の回復はまだ完全とは言えない状況で入院していた時にずっと保育器のようなものに寝かされていたせいで頭の方もハッキリしていなかった。
 美沙が迎えに来た時、ネコに変身したことをすっかり忘れていたのもそのせいで、さらに時々頭が混乱して現実を理解できなくなることもある。
 運動することで全身の血流を促せば頭もハッキリしそうな気がしていた隆は早く身体を動かしたかったし、会話が出来るか否かに関わる発声練習も試したかったのでリハビリは明日からで良いと言う美沙を説得し、今日から始めることにしたのだった。


「じゃあ、何か言ってみて」美沙は初めて使う翻訳機のスイッチをオンにすると隆を見てそう促した。

「ぇぇっとぉおぉ、ぅまぁくぃえぇるかなはぁ」緊張したせいか翻訳機からは理解できない言葉が聞えてきた。

「頑張って、隆!」と美沙が力を込めて声を掛ける。

 昨日、箱の中にいた時は何も考えずにただ必死で応えたが、改めて発声しようとするとどこかに力が入って変な話し方になってしまう。
 正しく言えば話し方というより翻訳機の変換が上手くいかないのだが、とにかくネコになった隆の鳴き方が変だということなのだ。


 その鳴き声翻訳機はAI機能搭載の高性能コンピューターで隆が人間だった時の話し言葉の語彙や発声の癖、構文の特徴などが全てインプットされている。
 隆がネコの声帯を通じて人間の言葉を話そうとした時の鳴き声を人工知能が予測し、インプットされたデータベースを元に言葉に変換する仕組みだ。

 例えば、隆が「これ、いいね」と言おうとしてもネコの声帯では「ニャオ、ニャーオ」という鳴き声にしかならない。
 翻訳機はその鳴き声の音程とリズムの微妙な変化を読み取り「これ、いいね」と人間の言葉に翻訳して文字か音声または両方で示してくれるのだ。
 ネコの声帯を正しく使えない不自然な鳴き方ではそれを正しい言葉に変換出来ないのだとリハビリの担当者から聞かされていたが、まさにその通りだった。


「なぁかなかぁ、むずぅかぁしぃよぉぉ」隆が言うと、
「あ、上手よ。ちゃんと解るわ。ちゃんと翻訳されてるわよ」美沙は自分の事のように喜びながら励ました。

「近ぁ頃ぉの社ぁ会ぃもぉんだぁいはぁ食糧ょうぅ問題ぃだぁ」試しにと難しい言葉を言ってみたつもりだったが単に変な響きの言葉になってしまい、
「フフフ…。それ、何だか面白いわね」と美沙に笑われてしまう。

 その笑い声が退院してからずっと不安で何もかもが必死だったと隆に気付かせ、ネコになって初めて平和な時間と生きている幸せを感じさせた。
 そして、美沙と一緒ならどんなに大変な事も乗り越えていけると思え、変身術を選んだ事で感じていた社会に対する後ろめたさやネコとして生きる事への不安が少し軽くなった。

 1時間程あれこれ言葉を発声していると要領を掴んだので次に運動リハビリを試してみることになった。
 そんなに時間が掛からずにネコのように飛んだり走ったりできると簡単に考えていた隆だったがそれは甘かった。

 本格的に身体を動かすのが初めてだったからどうなるのか見当も付かなかったが、
「じゃ、ここまで走ってきて」そう言って両腕を広げる美沙をめがけて勢いよく後足で床を蹴ると、前ではなく上に50センチ程ジャンプしてしまう。
 もう1度、後足の力を加減してやってみるとジャンプすることはなかったが前足とのリズムが合わず、生まれたてのウサギのようにピョコピョコ進むだけで走るのとは程遠いものになってしまった。

 やっと広げた腕の所まで辿り着いた隆は少し力を入れただけでジャンプしてしまう程の高いポテンシャルに感激していたが、美沙はそんな隆を見て落ち込んでいると思ったのか、
「まだ慣れていないだけよ。すぐに上手になるわ」と抱き上げて優しく頭を撫でた。


 変身術ではその生態と能力を保って生きられるように動物の脳の殆どが残されており、隆は各関節や筋肉をネコ本来の動きで使う事が可能だった。
 しかし、各部分の動きを自分の意思による全身の動作とするにはタイミングと力加減をコーディネートしなければならず、それには様々な運動を通じて学んだ正しい動きを脳に蓄積しておく必要があった。
 運動リハビリはその為のものだったが人間が持つ肉体的ポテンシャル程度の経験しか持ち合わせない隆には力加減が分からず、全てがオーバーパワーになってしまったのだ。


「じゃあ、もう1度やってみて。今度はゆっくりでいいから」美沙は隆を抱き上げると先程のスタート地点まで行き、そっと床に降ろした。

「じゃぁ、歩くぅ事かぁらぁ…やぁってぇみるぅ」隆は自身を落ち着かせるように言ってからゆっくり歩き出してみる。
 すると今度は4本の足が滑るように出て、スムーズにそして思ったより速いスピードで歩け、まるで空中に浮いているかのように身体が軽く感じた。
 そしてそのスピードの割に床の硬さをほとんど感じないほどソフトな着地ができ、全く音を立てずに歩けてとても心地良かった。

 美沙の広げた腕までたどり着いた隆は自信ありげに
「どぉうだったぁ?」と聞くと、
「とっても良かったわ。まるっきりネコって感じよ!」美沙は感激していた。

 上手く歩けた事で逆に不出来な発声の方が気になった隆が、
「言葉ぁの方ぅはぁあ?」と訊ねてみるとやはり変な翻訳になってしまったが美沙はダメだとは言わず、右手でオーケーサインを出してくれた。


 隆の脳には美沙の話し方、語彙などを記憶したマイクロコンピューターが埋め込まれているので言われることは全て理解できた。
 一般的な人の言葉や会話パターンもマイコンに収録されていて、他人の話もある程度分かるようだがどこまで理解できるのかは不明とされている。
 それでも美沙が迎えにきた時に会話を交わしていた相手の言葉は全て理解出来たから、あまり問題ないだろうと隆は考えていた。


 スタート地点と美沙の間を10往復位すると、隆は急に腹が空いてきた。
 壁に掛けられた時計がそこからは見えないので何時か判らなかったが、だんだん部屋が暗くなり始めたので夕方になったと思った。

「そろそろ…」隆はそう言ったつもりだったが翻訳機からは「そぉろぉそぅぉろぉ…」と聞こえて思わずその続きを言わずにやめると、美沙が壁の時計をチラッと見て、
「あら、こんな時間じゃお腹空いちゃったわね?」「今日はこれ位にしておきましょ」矢継ぎ早にそう言うと薄暗くなった書斎の灯りを点け、隆の返事も聞かずにどこかへ行ってしまった。

 多くを言わずとも自分の言いたい事を分かってくれた美沙の後ろ姿を見上げながら、隆は2人で過ごした時間の長さを思い知った。
 そして夫婦には沢山の言葉よりどれだけ多くの愛情を持って見守るかの方が大切なのだと、上手く話す事が出来なくなって初めて分かった気がしていた。


「これ、試しにどうかしら?」美沙がそう言いながら缶詰を手にして戻った。

隆はすぐさまそれが餌の缶詰だと判り、
「ネコぉ缶、だぁねぇ」と答えると、
「私よく分からないからコレを買ってみたけど…、美味しくなかったら何か作るわね…」と夫にネコの餌を与えるのが申し訳ないと思ってなのか遠慮がちにその缶詰を見せてから「家の中なら他人に見られる事もないし、何を食べたってイイわ」と気遣う。

 その心遣いは嬉しかったがこの食糧難の時代に人間の食べ物をネコ用に料理する人はいないし、それを誰かに見られたら美沙が疑われてしまうと思った隆は
「食べぇてぇみるよぉ、缶詰ぇ」そう言って試す事にした。

 美沙はネコ缶を食べると言った事に少し驚きながら、
「そお…。じゃ、器を取ってくるわね!」と小走りでキッチンへ行き、プラスチックの器を両手で持ちながらそろそろと歩いて戻った。

 青い色の器を書斎のデスクに置き、隆を抱き上げてその横に降ろす。
 器に2つあるの窪みの片方にはすでに飲み水が入れられていて、空いている方に持ってきたスプーンで餌を移し始めた。

 缶と器を行き来するスプーンを追いかけ、顔を左右に動かしていた隆はその良い匂いに待ちきれなくなって胃の辺りが熱くなった。

「どう、食べられるかしら?」缶詰の半分程を移し終えた美沙が言うと、
「いいぃ匂いぃだよぉ」と先ず舌で舐めるように味わいその後、ムシャムシャと食べ始めた。

 隆にも不思議でならなかったがそれがとても良い匂いで美味しく感じ、食べ始めると止まらなくなった。

「美味しいのね? 口に合って良かったわ…」美沙はそう言いながらデスクに頬杖をつき、隆が食べるのをじっと見ている。

 夢中で食べていた隆がまだ口を上手く使えないせいで気管に餌を入れてしまいむせると、
「隆、お水! 隣のお水を飲んで!」と美沙が慌てて水の方を指差すが、言われた通りに水を飲もうとして鼻から水を吸ってしまい、今度はくしゃみが止まらなくなってしまった。

 30分程掛けて何とかネコ缶を食べ終えた隆は肉体的にも精神的にも疲れ切ってしまい、書斎の椅子に敷いてもらった柔らかい毛布の上で横になった。
 今日という1日にあまりにも多くの事が起こり、頭を整理できずにいたがお腹が満たされたお陰で瞼を開けていられなくなっていた。
 美沙が遠くで何か片付けものをしている音を聞きながら、隆はそのまま眠りに落ちた。

   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 何時なのか時計を確認する事すらできないほど疲れて寝てしまった隆だったが外が明るくなると同時に目が覚めた。
 もう眠れそうになかったので昨日の出来事を整理しようと思い、書斎の椅子の上で横になったまま1つずつ思い返してみると不思議な感覚ばかりが蘇ってきたが特にネコ缶を美味しく感じた事が奇妙に思えたのでその理由を考えることにした。

 様々な理由を想定してはみたが適当なものが見つからず結局、変身した事で隆の嗅覚と味覚がネコのものに置き換わり、ネコ用に作られた食べ物を美味しいと感じたのだと結論付けた。
 これからも事ある毎にこういった違和感を持つのかと思って不安になりかけたがネコの暮らしで何が起こるかは全く想像できず、心配するのも無駄に感じて隆はそれ以上考えるのをやめにした。

 壁の時計に目をやると針は5時過ぎを指していて、こんな早朝に疲れた美沙を起こしたくなかった隆は動き回るのを控えた。
 椅子の上で座り直し、昨日上手くできなかった発声練習にどんなものがふさわしいか考えてみると今朝は頭が冴えているのかすぐに早口言葉が浮かんだ。
 そして、『隣の客はよく柿食う客だ』『東京特許許可局』『坊主が屏風に上手に坊主の絵を書いた』の3つを人間の時の記憶から引っ張り出すことができた。
 翻訳機がそこにないので上手く言えているか分からないが、喉と口を動かす訓練にはなると思った隆は遠慮がちに小さい声でそれをやり始める。

 先ずは「隣の客はよく柿食う客だ」を
「ニャニャ…ニャオ、…ニャオニャ、ニャオニャオ…ニャーニャ」と発声してみるとすごく難しい。

「ニャニャニャオ…、ニャオ…ニャ、ニャオ…ニャオニャーニャ」
 必死になって何度も挑戦している内に周りの事を忘れ、だんだんに大きな声になっていく。


「寝言かと思ったけど…、起きていたのね」と突然、書斎の入り口から美沙に話しかけられた。

 隆が驚きながら我に返って振り向くと、パジャマ姿の美沙が笑顔で立っている。
 少し前から見ていたようだったが隆は難しい言葉の発声に夢中で、そこに美沙がいる事には全く気が付かなかった。

「おはよう。練習するなら翻訳機が要るわね」
 笑いながらそう言うと引出の奥に隠してあった翻訳機を取り出してスイッチを入れる。

 隆は昨日の不出来な発声練習を気に病んで必死になっていた自分が少し恥ずかしくなり、
「早ぁくぅ会話がぁ出来ぃなぁいと不自由ぅだからぁ」そう言い訳をして、「こぉんなぁ時ぃ間んにぃ起こしてぇごめぇん」と頭を下げたが
「私も早くから目が覚めちゃって、眠れずにいたの…」美沙はそう言い、「もう起きる事にするわ」とそそくさと何処かに行ってしまった。

「着替えたら一緒に練習しましょ。待っててね!」と、洗面所の方から美沙の大きな声が聞こえてきたので隆はそのまま椅子の上で待つ事にしたが急にオシッコがしたくなった。
 思えば昨日から1度もトイレに行ってなかった。
 どうしたらよいのか分からなかったが勇気を出して椅子から飛び降り、人間の時に使っていたトイレに向かったがその前で違うと気付く。

 トイレのドアを見上げて途方に暮れているとその気配を察したのか歯ブラシを咥えた美沙が洗面所から顔を出し、
「あ、トイレならリビングに用意してあるわ」とその場所を指さした。
 示された方へ歩き出すと、昨日はなかったネコ用トイレがリビングの隅に置いてある。

 結婚してから2匹のネコを飼った経験がある隆と美沙にとってそれは身近で見慣れたものだった。
 今、見ているのも当時とほとんど同じ素材で出来たトイレで、近づいてみるとそれも当時と同じように水分で固まるタイプの白いネコ砂が入っている。
 入院中は給水シートに用を足していたので砂の上でどうやればいいのかわからなかったが、とりあえずそこに入って向きを変えるとこちらを見ているネコと視線が合った。

 驚いた隆はそこから飛び出して身構えたがよく見るとそれはネコ用のトイレの横に立てかけられた姿見で、鏡に映った自分と目が合っただけだった。

 鏡の中のネコは自分だとわかった隆がその姿を良く見ようと前に立つと、それはアメリカン・ショートヘアの典型的な柄を身にまとった若いネコだった。
 ぼんやりとしていた記憶が徐々にハッキリして蘇り、変身術を受ける前日に医師から見せられた動画が頭の中で再生された。

 そのネコになったのを確認しようと、横や背中など様々な角度から映してみたが変身した実感がない隆には人間の自分が動くのに合わせてロボットのネコが動いているようにしか思えなかった。

 やがて、オシッコが漏れそうな感覚で我に返った隆が慌ててトイレに飛び込むと勝手に前足が動いて砂を掘っていた。
 用を足し終わると今度は無性に砂を掛けたくなってそうしてみると気分が落ち着き、ネコの性というものがどんなものか少し分かった気がした。
 最初はトイレで性を知るなんて笑えると思った隆だったがそれと共にずっと生きなければならないのだとすぐに気付き、大きな不安に包まれてしまう。

 そんな複雑な感情の入り混じった1日の始まりだったが発声と運動のリハビリをして食事以外の時間を寝て過ごすと、毛繕いをする暇もなく1日があっという間に過ぎ去った。

 その日の朝に抱いた不安はすでにどこかに行ってしまい、思い出す事もなかったがそれもネコの性だと隆が気付く事もなかった。
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