十三 夜盗事件一 斬殺

文字数 1,302文字

 十六年前。
 水無月(六月)二十日、夜九ツ(午前〇時 子ノ刻)。

 辺りが寝静まり、雨がそぼ降る夜だった。
 夜盗が神田花房町の料亭兼布佐の母屋の寝所に侵入した。
「オイ、声を出すんじゃねえ。出すと、このガキがあの世行きだぜ・・・」
 夜盗は、褥に身を横たえていた主の兼吉(かねきち)の口を押え、首筋に匕首を当てた。
 隣の褥で寝ていた女房の布佐(ふさ)は他の夜盗に取り押さえられ、一歳の娘の由紀(ゆき)は、もう一人の夜盗の腕の中で眠っている。
 娘の由紀を抱いている夜盗の手は無骨な男の手ではない。ほの暗い有明行灯の明かりでも女房の布佐は一瞬にその事を見て取った。由紀の命だけは助かる・・・。そして祖父母の家へ泊りに行っている倅の芳太郎は安全だ・・・。

「溜めこんだ金子があるだろう。どこにあるか言え。
 白を切るんじゃねえぞ。ガキと女房を仏にしたくねえだろう」
 主を捕えている夜盗が穏やかにそう言った時、由紀が目を開けた。布佐は驚いたが声を立てなかった。由紀を抱いている夜盗は娘をあやした。由紀は目を閉じて眠った。布佐は安心した。

「台所の床下だ。味噌や醤油の瓶といっしょに、瓶に金子を収めてある」
 兼吉がそう言うと夜盗は兼吉を台所へ連れて行き、床下から百両の金子を納めた瓶を取り出させた。
「あったぜ。もう用はねえ」
 夜盗は兼吉の首を匕首で斬った。兼吉は首を押えて吹き出る血を止めようとしたが、呆気なく事切れた。夜盗は、これまで商家や料亭の主など何人もの首を斬って盗みを働いてきたらしく、頸動脈を斬る手口に慣れていた。


 夜盗は寝所に戻り、二人の夜盗に、
「百両もあった。女房と娘を始末しろ」
 小声で指示した。夜盗の黒装束から血の臭いが寝所に漂った。

 布佐は悲鳴を上げようとしたが、夜盗に口を押えられて声が出ない。
 父の異変を知ってか、由紀が他の夜盗の腕の中で泣き始めた。夜盗は由紀を抱きしめて由紀の背を圧迫した。

 夜盗はこのまま由紀を圧死させる気だ・・・。そう思った布佐はもがいた。布佐の足が由紀を抱いた夜盗の足を払い、由紀を抱いた夜盗がひっくり返って布佐の上に倒れた。布佐は体勢を崩した。その時、布佐の手が布佐を押えていた夜盗の右袖に絡んで引き、夜盗の匕首の柄が布佐の顎と鼻を直撃した。
 布佐の口から大量の血が流れ、意識を朦朧となった。気を無くす寸前に布佐は夜盗の肌けた右胸に『辰巳下がりの彫り物』を見ていた。

 口から大量の血を流して倒れた布佐を見て、布佐を押えていた夜盗は、布佐が死んだと思った。

「はええとこ、ずらかるぜ。ガキを始末しろっ」
 兼吉を斬殺した夜盗が由紀を抱いている夜盗を睨んだ。
「あたしにゃあ無理だわ・・・。こんなにかわいいんだよ・・・」
 娘を抱いている夜盗は腕を解いて由紀を夜盗の一人に見せた。
「たしかに・・・。だが、置き去りにして喚かれたら事だぜ。気を失ってるんか」
「そうだよ。あたしたちの子どもにしようよ。ねっ、いいだろうっ。まだ、一つ前だよ。憶えてなんかいないさ」
 この夜盗は女だった。しかも、由紀の歳を知っていた。
「しゃあねえな。じゃあ、連れてゆけっ。ずらかるぜっ」
 夜盗たちは由紀を連れて料亭兼布佐の母屋の裏口を出た。


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