第10話 光の国で独り歩く猫たち

文字数 1,745文字

 空の濃紺が絶対的な光に消し飛んでいく。東の空が白んで、斜面に残った影という影を光に満たした。ヒースの荒れ地、青紫色の花々が舞い上がる大地の奥、地平線の彼方から、鮮やかな光の化身が立ち昇っていく。

 とある騎士団員は熊手を落とし、敬虔に前足を合わせた。とある小さな暗闇猫は素直に笑い、欲しくてたまらない様子で前足を伸ばす。とある暗闇猫の姫は息を呑み、世界の真の美しさに目を輝かせる。

「ああ、これが……。まさか、ほんとうに、こんな火の玉が……」

 喉は詰まり、手にした三日月刀は滑り落ちる。あらゆる感情を凝縮した一粒の涙が落ちる。仰ぐばかりで、もう何もできない。

 多くの暗闇猫は地面にへばりつき、光という悲劇にごろごろと鳴いていた。すべて、ではない。一匹、また一匹と、光の優しさに気づく。その熱に安心する。おもむろにサングラスを外し、指先から落ちて、レンズは地面で割れた。

「そうだ。終わったんだ。暗闇猫は、暗闇だけで生きる必要はない」

 独り歩きは宣言する。

「光の国で、独り歩いていける」

 張り詰めていた心が解放される。
 巡る血流が止まる。
 目を閉じる。

 僕とミースは慌てて独り歩きに駆け寄った。その満ち足りた表情は、陽光に当たり、春の野を駆ける子猫のように安らかだった。姫は匂いで察し、あとは泣きじゃくるばかりだ。団長が大慌てで医者を呼ぶ。

 清々しい風が斜面を吹き下りた。

 朝日は平等に、人間もカットシーも暗闇猫も無関係に、あらゆる存在に変わらぬ光を届けていた。

 ※※※

 真夜中、異界への扉が開くのを待って、僕は自室で毛布男になっていた。

 さっさと開いて欲しい。
 ミースの剣の演舞が終わってしまう。

 恨みがましく廊下の闇を見つめていると、音もなくそこに立っていたのは、一匹の黒い猫だった。

 前足をくっつけて行儀良く座り、夜闇に光るエメラルドグリーンの目を僕に向けている。椅子のクッションに潜れるくらい小さい。体に刻まれた無数の傷痕のせいか、毛並みはひどく乱れていた。胸元の白い毛は三日月型、刀傷で横一線、裂けていた。

 僕は毛布を撥ね退ける。部屋の入口までとっとこと走り、歓喜のあまり手を伸ばした。微動だにしない。差し出された手に頬を摺り寄せることも、恐る恐る室内に入ることもない。不穏な目で、僕を見つめるだけだ。

 そうだ。間違いない。変わらなくて、笑ってしまう。

 彼は、独り歩く猫だ。

 僕は入口の前に座り、いつものように話し始めた。食堂では一般的なエーレ国の民話だが、一人と一匹なら、異界で起きた現実の妖精譚だ。

「グリマルキンは猫姫様が引き継いだよ。独り歩く勇気を持てない暗闇猫の為に、居場所を提供している。どんな猫でも……光を怖がる猫でも、現実に疲れた猫でも、傷つき魔力を失った猫でも、平穏に暮らせる王国を目指すんだって。君もたまには顔を出しなよ、きっと歓ぶ」

「……」

「団長は武者修行中らしい。一度ミースに挑んで、あっさりやられたのがよほど悔しかったみたいだね。カットシーの武術大会で優勝した折は、黄色い声援が飛び交っていたらしい。数日で落ち着いたみたいだけど」

「……」

「そうそう。あの門番二匹、丸と四角、覚えてる? いま、ヒースビール座流星群を探して、世界中を旅してるんだって。前に嘘って説明したんだけど、悪いことしたかな?」

 頑固な口説き屋、永遠の少女、山麓の人型。僕が出会った善き隣人について、語り聞かせる。彼は反応しなかったけれど、楽しんでいるかどうかくらい、目を見ればわかった。彼は、僕にとっても、秘密を分け合える貴重な友だった。

 夜が深くなる。異界の大広間の喧騒が耳をざわつかせる。フィドルの厳かな響きが、酒呑み達のしゃがれ声で台無しだった。人間の国の姫が舞いを披露し、大歓声で幕を閉じる。危険で楽しい馬鹿騒ぎが僕を誘っていた。

 彼はぷいと顔を横に向ける。尻尾を振りながら、廊下の向こうに歩き出す。

「行くのかい?」

 彼が止まる。一度だけ振り返る。

「にゃあお」

 ごく普通の猫のような、よくある鳴き声だった。

「ああ、またね」

 僕はそう答えた。

 一人は暗闇に飛び込み、一匹は暗闇に消えた。暗闇猫が引き籠っていた暗闇ではない。それは独り歩いた先に見つかる、最高に愉快な、愛すべき暗闇だった。
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