そこは行き止まり
文字数 2,884文字
10月23日 月曜日
部屋に西陽 が射してくる。
少し空気を入れ替えようと玲奈は窓を開け放った。
彼女がカモノハシハウスを訪問してから2週間が経った。
週末は飴井が泊まりに来た。
金曜日の深夜にやってきて、翌日一緒に昼食をとった後、スタジオリハがあるから、と帰って行く、そんな週末が2回続いた。
よくは分からないがバンドをやる、というのはそれほど忙しいのだろうか…。
玲奈と飴井がこの部屋で一緒に過ごしたのは一週間程度。
一人で暮らしていた月日のほうがずっと長い。
それに比べたら、同じ部屋に彼といた時間はほんの一瞬である。
だがそのほんの一瞬のうちに、誰かの温もりが傍にある生活を知ってしまった。
正直、飴井のいない日々は寂しい。
控えめに言って、かなりキツかった。
玲奈は開け放っていた窓を閉めた。風はもう木枯らしの肌触り、人恋しさに拍車をかけてくる。
この数日、ネットで仕事を探している。
バイトでもいいが出来るだけ簡単に高収入を得られるものを探している。
恋愛の小姑 ミハコンに言わせれば玲奈はバカ女だが、それは今恋 に夢中でアタマのネジが緩んでいるだけのことで、彼女はもともと賢く敏 い女性である。
だから分かっていた。
簡単で高収入の仕事なんてないし、あったらそれはだいたいまともな稼ぎ方じゃない。
大した資格も持ってないし特技もない。
――いやある!高いコミュ力 と優れた戦略的思考!これっていわゆる夜のお仕事に向いているのでは!!
と玲奈は思い立ちスマホでいろいろ調べ始めた。
「へー、こんなにあるんだね。」
驚いてつい独り言を言ってしまった。
スナック、キャバクラ、ガールズバー、お店に出勤する形態に拘 らなければ、テレフォンレディやチャットレディといった在宅型のものもある。
だが、何の関心も持てない男性相手に、自分の能力が発揮できるだろうか…。笑顔を作ったり話を合わせたり、は出来ても、相手に触 れたり触 られたりすることまで許容できるだろうか…。難しいかもしれない。
この類の仕事はだいたい
”簡単なお仕事です”
”5日で一般のサラリーマンの1か月分稼げます”
などと謳 われている。
つまり簡単に稼げる…
ということは多分フタをあけてみれば相当過酷な現場なのだろう、生半可な覚悟で踏み出せるものではない。
ではフルタイムで地道に働くか。
先月辞めた前職ではデスクワークを中心にやっていた。事務は慣れているし自分は何でも段取り良くできる方だと思うが、高収入ではないし拘束時間も長い。
忙しすぎて飴井と会う時間が無くなってしまっては本末転倒である。
などといろいろ考えてしまう。
「むぅぅぅん…。」
玲奈はひとり唸る。
悩んでいるより、週明けあたりどこか一つくらい面接でも受けてみようか。
そういえば今週も飴井は金曜日の夜来る、と言っていた。今回は少しくらいゆっくりできるのだろうか…。ちょっとでも長く一緒にいたい。
等と取り留めもなく考え散らかしていると、
「ん?!」
「…ん~?」
――閃いた!ワタシ天才か!!!
凄いことに気付いてしまった!
「会いに行けばいいんじゃんっ!!」
平安時代ではない。
自宅でただひたすら恋人の来訪を待っていなくても良いハズだ。
――そうだ、今から行こう。
玲奈はもう支度を始めていた。
急に心が弾んできた。
何を半日ウジウジとしていたのだろう。
折角だから飴井には連絡せずに、突然行って驚かせてやろう、と玲奈は決めた。
*
何だかんだ準備に時間がかかり、コンビニに寄って買い出しもしたりでカモノハシハウスに着く頃には辺りはもう薄暗かった。
そっと引き戸を開け玄関に入る。
飴井の靴がある。
「お邪魔しまーす。」
一応小声で挨拶する。
飴井の部屋は確か2階。階段を上がった手前の部屋だと聞いていた。
出来るだけ足音を忍ばせて階段を上るが、古い建物だから、ミシ、ミシ、ときしむ。
――ここだ。
ルームプレートの代わりに、マジックで”飴井”と書かれたマスキングテープがドアに貼ってあった。
コンコン、
と、ここでも一応ノックした。
そしてドアを開けた。
人間、本当にびっくりすると時間が止まる。
本当にびっくりする程、電池が外れたみたいに全く動けない…、固まる。
最初、部屋を間違えたのか、と思った。でも確かに飴井と書かれたドアを開けた。
では2人で打ち合わせでもしていたのだろう。
そうだ…、
何か事情があって…、
何等 かの理由があって2人とも半裸 なのだろう。
飴井の腰にまたがる、胸のはだけた連 と目が合った。
その瞬間破裂した。
懸命にこの状況に整合性を持たせようと焼き切れんばかりに高速回転していた思考回路が火花をあげた。
玲奈は階段を転げるように駆け下り玄関を飛び出した。コンビニの袋の中の品物がガラガラと床を転がる音の中に、自分の名を呼ぶ飴井の声を背中で聞いたような気がしたが玲奈は止まらない。
…走った。
……無我夢中で走った。
何処をどう走ったか分からない…
脳裏に焼き付いた光景を振り切るように…。
網膜に染みついたあの二人の姿を風圧でこそぎ取ろうとするかのように…。
…走った。
……ただ走った。
全く出鱈目 に走ったので、何処かの行き止まりにぶつかり、ついに玲奈は膝をついた。
…苦しい。
心臓が耳元で脈動を打つ。
体中を汗が這い服が全身にはりつく。
激しく荒い呼吸は、まだしばらくおさまりそうもない。
―― ……、
―― ……、
何分たったか…、耳鳴りのよう響いていた鼓動が幾分か速度を落ち着けたような気がする。吹き出る汗は止まったが、まだ体が熱い。
玲奈はヨロヨロと立ち上がった。
辺りを見回す。
何処か路地裏の行き止まりに迷い込んだのだろうか、全ての建物が背を向けているような、ゴミ箱とエアコンの室外機しかない狭くて暗い場所だ。
にわかに気味が悪くなって、すぐにここから離れようと、玲奈は来た方を振り返る。
が…、
?!
――そっか…成る程。
玲奈はそこから歩き出せなかった。
諦めのような、悟りのような無力感が全身に満ちた。
――今日は、私の人生で最悪の日なんだ…。
玲奈の行く手を、3つの人影が塞いでいる。
本能的に悪意を感じ取った。玲奈の様子を気遣って集まってきた人たち、ではない。
黒く重く、深い闇を着込んでいるような3人の男が、ゆっくり歩み寄って来る。
逃げようと試みるがあっけなく捕らわれてしまう。
疲労か、それとも恐怖か、体に力が入らない。
全く抵抗にならない。
2人掛りで地面に組み敷かれ、手足を抑えられ、口を塞がれている。
手の空いたもう1人が乱暴に衣服を剥ぎ取ろうとしてくる。
シャツが破れ、ボタンが飛び散る。
「押さえとけよ。」
押し殺した、くぐもった男の声、そしてベルトを緩める金具の音を聞いた。
男が覆いかぶさって来た。
「ギヤーーーーー!!」
悲鳴を上げたのは男の方だった。
手で顔面を抑え、うずくまっている。
さらにその直後、鳥の羽音と空気を切り裂くような、バシュっという音が2回。
「クェ!」
「ギョェ!」
と玲奈の手足を抑えていた男たちものけぞって倒れた。
手足の拘束がとれたので玲奈は体を起こした。
顔を抑えながら体勢を立て直した3人の人影の前に、玲奈をかばうようにそれはいた。
背中の、あの縞模様…、
「ピアノ猫?!」
部屋に
少し空気を入れ替えようと玲奈は窓を開け放った。
彼女がカモノハシハウスを訪問してから2週間が経った。
週末は飴井が泊まりに来た。
金曜日の深夜にやってきて、翌日一緒に昼食をとった後、スタジオリハがあるから、と帰って行く、そんな週末が2回続いた。
よくは分からないがバンドをやる、というのはそれほど忙しいのだろうか…。
玲奈と飴井がこの部屋で一緒に過ごしたのは一週間程度。
一人で暮らしていた月日のほうがずっと長い。
それに比べたら、同じ部屋に彼といた時間はほんの一瞬である。
だがそのほんの一瞬のうちに、誰かの温もりが傍にある生活を知ってしまった。
正直、飴井のいない日々は寂しい。
控えめに言って、かなりキツかった。
玲奈は開け放っていた窓を閉めた。風はもう木枯らしの肌触り、人恋しさに拍車をかけてくる。
この数日、ネットで仕事を探している。
バイトでもいいが出来るだけ簡単に高収入を得られるものを探している。
恋愛の
だから分かっていた。
簡単で高収入の仕事なんてないし、あったらそれはだいたいまともな稼ぎ方じゃない。
大した資格も持ってないし特技もない。
――いやある!高いコミュ
と玲奈は思い立ちスマホでいろいろ調べ始めた。
「へー、こんなにあるんだね。」
驚いてつい独り言を言ってしまった。
スナック、キャバクラ、ガールズバー、お店に出勤する形態に
だが、何の関心も持てない男性相手に、自分の能力が発揮できるだろうか…。笑顔を作ったり話を合わせたり、は出来ても、相手に
この類の仕事はだいたい
”簡単なお仕事です”
”5日で一般のサラリーマンの1か月分稼げます”
などと
つまり簡単に稼げる…
ということは多分フタをあけてみれば相当過酷な現場なのだろう、生半可な覚悟で踏み出せるものではない。
ではフルタイムで地道に働くか。
先月辞めた前職ではデスクワークを中心にやっていた。事務は慣れているし自分は何でも段取り良くできる方だと思うが、高収入ではないし拘束時間も長い。
忙しすぎて飴井と会う時間が無くなってしまっては本末転倒である。
などといろいろ考えてしまう。
「むぅぅぅん…。」
玲奈はひとり唸る。
悩んでいるより、週明けあたりどこか一つくらい面接でも受けてみようか。
そういえば今週も飴井は金曜日の夜来る、と言っていた。今回は少しくらいゆっくりできるのだろうか…。ちょっとでも長く一緒にいたい。
等と取り留めもなく考え散らかしていると、
「ん?!」
「…ん~?」
――閃いた!ワタシ天才か!!!
凄いことに気付いてしまった!
「会いに行けばいいんじゃんっ!!」
平安時代ではない。
自宅でただひたすら恋人の来訪を待っていなくても良いハズだ。
――そうだ、今から行こう。
玲奈はもう支度を始めていた。
急に心が弾んできた。
何を半日ウジウジとしていたのだろう。
折角だから飴井には連絡せずに、突然行って驚かせてやろう、と玲奈は決めた。
*
何だかんだ準備に時間がかかり、コンビニに寄って買い出しもしたりでカモノハシハウスに着く頃には辺りはもう薄暗かった。
そっと引き戸を開け玄関に入る。
飴井の靴がある。
「お邪魔しまーす。」
一応小声で挨拶する。
飴井の部屋は確か2階。階段を上がった手前の部屋だと聞いていた。
出来るだけ足音を忍ばせて階段を上るが、古い建物だから、ミシ、ミシ、ときしむ。
――ここだ。
ルームプレートの代わりに、マジックで”飴井”と書かれたマスキングテープがドアに貼ってあった。
コンコン、
と、ここでも一応ノックした。
そしてドアを開けた。
人間、本当にびっくりすると時間が止まる。
本当にびっくりする程、電池が外れたみたいに全く動けない…、固まる。
最初、部屋を間違えたのか、と思った。でも確かに飴井と書かれたドアを開けた。
では2人で打ち合わせでもしていたのだろう。
そうだ…、
何か事情があって…、
飴井の腰にまたがる、胸のはだけた
その瞬間破裂した。
懸命にこの状況に整合性を持たせようと焼き切れんばかりに高速回転していた思考回路が火花をあげた。
玲奈は階段を転げるように駆け下り玄関を飛び出した。コンビニの袋の中の品物がガラガラと床を転がる音の中に、自分の名を呼ぶ飴井の声を背中で聞いたような気がしたが玲奈は止まらない。
…走った。
……無我夢中で走った。
何処をどう走ったか分からない…
脳裏に焼き付いた光景を振り切るように…。
網膜に染みついたあの二人の姿を風圧でこそぎ取ろうとするかのように…。
…走った。
……ただ走った。
全く
…苦しい。
心臓が耳元で脈動を打つ。
体中を汗が這い服が全身にはりつく。
激しく荒い呼吸は、まだしばらくおさまりそうもない。
―― ……、
―― ……、
何分たったか…、耳鳴りのよう響いていた鼓動が幾分か速度を落ち着けたような気がする。吹き出る汗は止まったが、まだ体が熱い。
玲奈はヨロヨロと立ち上がった。
辺りを見回す。
何処か路地裏の行き止まりに迷い込んだのだろうか、全ての建物が背を向けているような、ゴミ箱とエアコンの室外機しかない狭くて暗い場所だ。
にわかに気味が悪くなって、すぐにここから離れようと、玲奈は来た方を振り返る。
が…、
?!
――そっか…成る程。
玲奈はそこから歩き出せなかった。
諦めのような、悟りのような無力感が全身に満ちた。
――今日は、私の人生で最悪の日なんだ…。
玲奈の行く手を、3つの人影が塞いでいる。
本能的に悪意を感じ取った。玲奈の様子を気遣って集まってきた人たち、ではない。
黒く重く、深い闇を着込んでいるような3人の男が、ゆっくり歩み寄って来る。
逃げようと試みるがあっけなく捕らわれてしまう。
疲労か、それとも恐怖か、体に力が入らない。
全く抵抗にならない。
2人掛りで地面に組み敷かれ、手足を抑えられ、口を塞がれている。
手の空いたもう1人が乱暴に衣服を剥ぎ取ろうとしてくる。
シャツが破れ、ボタンが飛び散る。
「押さえとけよ。」
押し殺した、くぐもった男の声、そしてベルトを緩める金具の音を聞いた。
男が覆いかぶさって来た。
「ギヤーーーーー!!」
悲鳴を上げたのは男の方だった。
手で顔面を抑え、うずくまっている。
さらにその直後、鳥の羽音と空気を切り裂くような、バシュっという音が2回。
「クェ!」
「ギョェ!」
と玲奈の手足を抑えていた男たちものけぞって倒れた。
手足の拘束がとれたので玲奈は体を起こした。
顔を抑えながら体勢を立て直した3人の人影の前に、玲奈をかばうようにそれはいた。
背中の、あの縞模様…、
「ピアノ猫?!」