第2話 劉嘉
文字数 4,119文字
だがそんな延岑 にとって、漢中 での生活は不満ばかりが募 るものとなる。
漢中では大々的な戦闘がほとんどなかった。
もちろん時には出撃して周囲の敵勢力と戦うことはあったが、漢中における劉嘉 の最大の任務は、南の公孫述 に対する防御である。
また劉嘉は穏やかな性格ゆえに、自らの勢力拡大を望まなかった。能力的にはともかく、性格的に独立して自身が皇帝になろうという野心を持ちえない男だったのだ。
延岑は彼と真逆の男だった。
皇帝になりたいなどと考えているわけではないが、とにかく戦場に出て、武勲を立て、「延岑ここにあり!」を天下に知らしめたかったのである。
「このままでは名を成すどころか世に埋もれたまま朽 ちて終わってしまうわ」
生真面目な劉嘉は訓練や演習は定期的におこない、その内容も実のあるものだったが、延岑にとって演習は演習に過ぎない。不平や不満は日ごとに募り、自分でも抑えが効かなくなってきたことを自覚し始めた頃、彼はふと気づいてしまう。
「あのときは負けたが、今のわしなら劉嘉に勝てるのではないか」
劉嘉と戦ったときの延岑は戦闘指揮の素人だったが、今は違う。
それに劉嘉の戦い方や考え方、戦力、兵の質、規模なども今の延岑ならすべて把握している。そもそも兵の組織化や経営に関してはともかく、劉嘉の戦闘指揮にきらめくものは何も感じない。
「勝てるのではないかどころではない。負けるはずがないではないか」
一度負けた相手への復讐戦の意味もある。
延岑の肚 は決まった。
だが延岑も闇雲に叛旗をひるがえしたわけではなかった。
いかに将としては劉嘉より上と自負していても、そもそもの兵力に差がありすぎる。
劉嘉はその気になれば万単位の軍勢を編成することが可能で、延岑の兵もその一部に過ぎなかった。
劉嘉を討つだけなら、彼が完全に油断しているときに奇襲を掛ければ成功するかもしれない。
だがそれだけで劉嘉の兵が延岑に従うはずもなく、それどころかまずは大将の仇討ちとばかりに、延岑を襲ってくる来るに相違なかった。
それでは延岑は殺され、次の誰かが漢中王になるための露払いをするだけで終わってしまう。
延岑はそのような馬鹿馬鹿しい終わり方をするつもりはなかった。
「まずは可能な限り独自の勢力を作るのだ。そして時機を見て兵を挙げる。これしかない」
劉嘉のもとで延岑も、多少なりとも戦略的な思考を身につけている。
待つことは得意ではないが、今は力を蓄えながら雌伏 するしかなかった。
だが延岑はさほど待つ必要はなかった。
天が彼の忍耐を憐 れんだわけではないだろうが、乱世は常に変動するからこそ乱世と呼ばれるのだ。
更始二年(西暦24)十二月、赤眉軍が関中(函谷関の西部。長安を含む中華の中心地)へ侵入してきたのである。
赤眉はこの時期の群雄で最大規模と言ってよかったが、長安にいる更始帝に臣従する形を取っていた。漢朝再興を宣言している更始帝に従う方が、大義名分において都合がよかったためである。
だが更始帝に政 の定見はなく、臣従を誓ってきた者たちへの配慮もおざなりで、赤眉にとっても旨味がなくなってきていた。また大人数を抱える赤眉は、一所 にとどまっていては食糧も乏しくなってしまう。
様々な理由から赤眉は長安を目指すことに決めたのだ。
赤眉のこの動きに長安の更始帝たちは動揺する。そして幹が動揺すれば、枝葉も影響をまぬがれない。
漢中の劉嘉たちも、関中の動静から目を離さず、いつ赤眉撃退の命令が更始帝から発せられても対応できるよう準備を怠らなかった。
「……まだだな。まだ早い」
延岑も劉嘉たちと同様、赤眉の動きから目を離さなかったが、理由はまったく違った。
いつ劉嘉に決定的な隙 ができるか、それを見極めるためだった。
いかに延岑が逸 っていようとも、今はまだ時期尚早 ということはわかっていた。劉嘉も他の将兵も、動揺はしているがまだ余裕がある。いま延岑が兵を挙げたとしても彼らに押しつぶされるだけであろう。
もっと劉嘉の力が弱まったとき。そのときこそ自分が世に出る瞬間なのだ。
延岑は自らにそう言い聞かせ、さらに時機を待った。
更始三年(西暦25)、長安へ向かう赤眉は、彼らを止めるために派遣された更始帝諸将に連勝を続ける。
同年六月、赤眉は陣営内にいた劉氏の少年、劉盆子 を皇帝に担 ぎ上げ、名実共に更始帝から独立。
同年九月、赤眉はついに長安へ入城する。
更始帝は遁走 。その後長安へ戻り、赤眉に降伏するが、結局十二月に殺されてしまった。
これにより更始帝政権は完全に滅亡した。
劉嘉はここまでの間、基本的に行動は起こさなかった。
これには表面的な理由と裏面的な理由がある。
表面の方は、更始帝の出撃命令がなかったからである。
これは更始帝が劉嘉を軽視していたか、その余裕もないまま敗亡したのか。
あるいは下手をすると、彼の存在を忘れていたのかもしれない。
それとも劉嘉すら信じられなくなっていたのか。
更始帝はごく身近な臣下たちとの間に粛清と闘争を繰り返したあげく殺されてしまった。劉嘉を頼れば逆転も可能だったかもしれないが、逆臣たちとの殺伐 としたやり取りに、もともと狭かった視野はさらに狭くなっていたのかもしれない。
「劉嘉に頼れば劉嘉に殺されてしまうかもしれない」と疑心暗鬼に陥るほどに。
それでも劉嘉が自発的に動いて更始帝を救いにゆくことはできただろう。だが劉嘉はそうしなかった。
これが裏面の理由で、彼はそのような無意味な暗闘に巻き込まれる愚を犯したくなかったのである。更始帝に味方しても敗北すれば共に殺されてしまいかねない。
また劉嘉は、成り行きで即位し傀儡 として帝位に就 いた更始帝に深い忠誠心を持ち合わせていなかった。これは劉嘉と親しかった劉縯を更始帝が殺したことも理由の一つに挙げられるだろう。
劉嘉は動かないことで、消極的ながら劉縯の仇を討つ手助けをしたのだ。
だが状況が流動的なことに変わりはない。
長安を占拠した赤眉は、ごく短期間に天下の帝都をほとんど食い潰してしまっていた。このまま長安へとどまっていては自らが餓死してしまう。
それゆえ赤眉は長安を棄 て、さらに西へ向かって進発した。
空き家となった長安へ進入してきたのは、劉秀 の臣下である鄧禹 だった。
劉秀は更始帝の族弟で、殺された劉縯の実弟でもある。彼もまた更始帝の臣下だったが、今は河北(黄河の北)を制圧するため独立勢力として奮闘していた。
彼に派遣された鄧禹も若いながら優秀な男だが、劉秀がこのまま長安の主として確定するかはわからない。
三輔 (長安を中心とした首都圏)には他にも群雄が存在し、またいくら長安を棄 てたとはいえ赤眉の存在も忘れるわけにはいかないだろう。
「軽々 には動けぬか」
劉嘉に限らず、この段階で最後の勝者が誰になるかを見極められる人間はいない。
幸いなことに劉嘉が治める漢中は確固たる根拠地であり、自給自足も可能で、簡単に落とされる心配もない。今は現状を堅持し、情報を集め、機を見て行動を起こすしかない。劉嘉はそう考えた。
いささか退嬰 的で、優柔不断のそしりを受けるかもしれないが、この状況でどう行動すれば正解かを見極められる人間もまた存在しない。ゆえに行動の正否は結果でしか判断できないのだが、このときの劉嘉はまったく別の要因でその正否を明らかにしてしまう。
彼は周囲ばかりに気を配り、足元を見ていなかったのだ。
「今こそだ」
時機を待ち、好機をはかっていた延岑は、更始帝が死に、赤眉が去った長安へ鄧禹が入ったこの時期が、自分が待っていたその時だと確信した。
更始帝を失った劉嘉は勢力として孤立した。また鄧禹は長安を掌握しておらず、こちらに手を出してくる余裕はないだろう。他の勢力も、わざわざ劉嘉を助ける利を持ち合わせない。
漢中へやってきて二年。延岑は劉嘉に叛意を悟られないよう腐心 してきた。
そしてその間に、延岑は自らの兵を劉嘉ではなく自分に心服させることに成功していたのだ。
劉嘉は完全に意表を突かれた。まったく無警戒のところを延岑に襲われたのだ。
自身の配下になってから二年の間、延岑に叛意は見られなかった。
いや、劉嘉は延岑を「しょせん田舎の乱暴者でしかない」と軽視していたのかもしれない。
確かに延岑にはそのような一面はあった。
また一度延岑に完勝していることも、劉嘉が彼を侮 る一因になっていただろう。
長期間叛意や怨恨を隠し続けるのは、性格的に延岑には難しく、劉嘉が注意深く観察していれば、彼の謀叛は失敗していた可能性もあったのだ。
だがとにかく、様々な要因が重なった結果、延岑の蜂起は本人が考えている以上にうまくいった。
漢中の郡治 (県庁所在地)である南鄭 を延岑は急襲。事前に渡りをつけていた内通者に門を開かせると、延岑は兵を率いて南鄭へ乱入する。
「劉嘉を捕えよ。殺しても構わん!」
二年分の鬱憤 と屈辱を解放するように、延岑は南鄭内を突進してゆく。
「おのれ延岑」
突然の襲撃に面食らう劉嘉だったが、叛徒 が誰の兵かを知ると一瞬で事情を察し、うめき声を漏らした。
が、こうまで先手を取られ、主導権を握られては、反撃など不可能である。
「仕方がない、一時南鄭を放棄する。兵たちにも無謀な反撃をせず、北へ向けて逃げよと命ぜよ。その後適当な地で兵を集結させ、延岑を討ち、南鄭を取り戻す!」
北への逃走を命じたのは、延岑が南から攻め込んできたからである。
追撃兵にとって敗走兵ほど討ち取りやすい相手もいないが、今はこれ以外延岑に対抗する術 がなかった。
それに劉嘉が無抵抗で南鄭を放棄すること自体が一つの反撃になる。
あくまで劉嘉を追撃するか、それとも手に入れた南鄭を確保するか。
そのどちらにも割 けるほど、延岑に兵の余裕はないはずである。
「延岑の判断を迷わせ、追撃の手をゆるめさせれば、それだけ生き残る兵の数も多くなる。そうなれば雪辱戦での勝機も得やすくなろう」
劉嘉の説明に幕僚たちもうなずき、急ぎ撤退の準備を始める。この際は、可能な限りの素早い逃走が、一番の反撃なのである。
漢中では大々的な戦闘がほとんどなかった。
もちろん時には出撃して周囲の敵勢力と戦うことはあったが、漢中における
また劉嘉は穏やかな性格ゆえに、自らの勢力拡大を望まなかった。能力的にはともかく、性格的に独立して自身が皇帝になろうという野心を持ちえない男だったのだ。
延岑は彼と真逆の男だった。
皇帝になりたいなどと考えているわけではないが、とにかく戦場に出て、武勲を立て、「延岑ここにあり!」を天下に知らしめたかったのである。
「このままでは名を成すどころか世に埋もれたまま
生真面目な劉嘉は訓練や演習は定期的におこない、その内容も実のあるものだったが、延岑にとって演習は演習に過ぎない。不平や不満は日ごとに募り、自分でも抑えが効かなくなってきたことを自覚し始めた頃、彼はふと気づいてしまう。
「あのときは負けたが、今のわしなら劉嘉に勝てるのではないか」
劉嘉と戦ったときの延岑は戦闘指揮の素人だったが、今は違う。
それに劉嘉の戦い方や考え方、戦力、兵の質、規模なども今の延岑ならすべて把握している。そもそも兵の組織化や経営に関してはともかく、劉嘉の戦闘指揮にきらめくものは何も感じない。
「勝てるのではないかどころではない。負けるはずがないではないか」
一度負けた相手への復讐戦の意味もある。
延岑の
だが延岑も闇雲に叛旗をひるがえしたわけではなかった。
いかに将としては劉嘉より上と自負していても、そもそもの兵力に差がありすぎる。
劉嘉はその気になれば万単位の軍勢を編成することが可能で、延岑の兵もその一部に過ぎなかった。
劉嘉を討つだけなら、彼が完全に油断しているときに奇襲を掛ければ成功するかもしれない。
だがそれだけで劉嘉の兵が延岑に従うはずもなく、それどころかまずは大将の仇討ちとばかりに、延岑を襲ってくる来るに相違なかった。
それでは延岑は殺され、次の誰かが漢中王になるための露払いをするだけで終わってしまう。
延岑はそのような馬鹿馬鹿しい終わり方をするつもりはなかった。
「まずは可能な限り独自の勢力を作るのだ。そして時機を見て兵を挙げる。これしかない」
劉嘉のもとで延岑も、多少なりとも戦略的な思考を身につけている。
待つことは得意ではないが、今は力を蓄えながら
だが延岑はさほど待つ必要はなかった。
天が彼の忍耐を
更始二年(西暦24)十二月、赤眉軍が関中(函谷関の西部。長安を含む中華の中心地)へ侵入してきたのである。
赤眉はこの時期の群雄で最大規模と言ってよかったが、長安にいる更始帝に臣従する形を取っていた。漢朝再興を宣言している更始帝に従う方が、大義名分において都合がよかったためである。
だが更始帝に
様々な理由から赤眉は長安を目指すことに決めたのだ。
赤眉のこの動きに長安の更始帝たちは動揺する。そして幹が動揺すれば、枝葉も影響をまぬがれない。
漢中の劉嘉たちも、関中の動静から目を離さず、いつ赤眉撃退の命令が更始帝から発せられても対応できるよう準備を怠らなかった。
「……まだだな。まだ早い」
延岑も劉嘉たちと同様、赤眉の動きから目を離さなかったが、理由はまったく違った。
いつ劉嘉に決定的な
いかに延岑が
もっと劉嘉の力が弱まったとき。そのときこそ自分が世に出る瞬間なのだ。
延岑は自らにそう言い聞かせ、さらに時機を待った。
更始三年(西暦25)、長安へ向かう赤眉は、彼らを止めるために派遣された更始帝諸将に連勝を続ける。
同年六月、赤眉は陣営内にいた劉氏の少年、
同年九月、赤眉はついに長安へ入城する。
更始帝は
これにより更始帝政権は完全に滅亡した。
劉嘉はここまでの間、基本的に行動は起こさなかった。
これには表面的な理由と裏面的な理由がある。
表面の方は、更始帝の出撃命令がなかったからである。
これは更始帝が劉嘉を軽視していたか、その余裕もないまま敗亡したのか。
あるいは下手をすると、彼の存在を忘れていたのかもしれない。
それとも劉嘉すら信じられなくなっていたのか。
更始帝はごく身近な臣下たちとの間に粛清と闘争を繰り返したあげく殺されてしまった。劉嘉を頼れば逆転も可能だったかもしれないが、逆臣たちとの
「劉嘉に頼れば劉嘉に殺されてしまうかもしれない」と疑心暗鬼に陥るほどに。
それでも劉嘉が自発的に動いて更始帝を救いにゆくことはできただろう。だが劉嘉はそうしなかった。
これが裏面の理由で、彼はそのような無意味な暗闘に巻き込まれる愚を犯したくなかったのである。更始帝に味方しても敗北すれば共に殺されてしまいかねない。
また劉嘉は、成り行きで即位し
劉嘉は動かないことで、消極的ながら劉縯の仇を討つ手助けをしたのだ。
だが状況が流動的なことに変わりはない。
長安を占拠した赤眉は、ごく短期間に天下の帝都をほとんど食い潰してしまっていた。このまま長安へとどまっていては自らが餓死してしまう。
それゆえ赤眉は長安を
空き家となった長安へ進入してきたのは、
劉秀は更始帝の族弟で、殺された劉縯の実弟でもある。彼もまた更始帝の臣下だったが、今は河北(黄河の北)を制圧するため独立勢力として奮闘していた。
彼に派遣された鄧禹も若いながら優秀な男だが、劉秀がこのまま長安の主として確定するかはわからない。
「
劉嘉に限らず、この段階で最後の勝者が誰になるかを見極められる人間はいない。
幸いなことに劉嘉が治める漢中は確固たる根拠地であり、自給自足も可能で、簡単に落とされる心配もない。今は現状を堅持し、情報を集め、機を見て行動を起こすしかない。劉嘉はそう考えた。
いささか
彼は周囲ばかりに気を配り、足元を見ていなかったのだ。
「今こそだ」
時機を待ち、好機をはかっていた延岑は、更始帝が死に、赤眉が去った長安へ鄧禹が入ったこの時期が、自分が待っていたその時だと確信した。
更始帝を失った劉嘉は勢力として孤立した。また鄧禹は長安を掌握しておらず、こちらに手を出してくる余裕はないだろう。他の勢力も、わざわざ劉嘉を助ける利を持ち合わせない。
漢中へやってきて二年。延岑は劉嘉に叛意を悟られないよう
そしてその間に、延岑は自らの兵を劉嘉ではなく自分に心服させることに成功していたのだ。
劉嘉は完全に意表を突かれた。まったく無警戒のところを延岑に襲われたのだ。
自身の配下になってから二年の間、延岑に叛意は見られなかった。
いや、劉嘉は延岑を「しょせん田舎の乱暴者でしかない」と軽視していたのかもしれない。
確かに延岑にはそのような一面はあった。
また一度延岑に完勝していることも、劉嘉が彼を
長期間叛意や怨恨を隠し続けるのは、性格的に延岑には難しく、劉嘉が注意深く観察していれば、彼の謀叛は失敗していた可能性もあったのだ。
だがとにかく、様々な要因が重なった結果、延岑の蜂起は本人が考えている以上にうまくいった。
漢中の
「劉嘉を捕えよ。殺しても構わん!」
二年分の
「おのれ延岑」
突然の襲撃に面食らう劉嘉だったが、
が、こうまで先手を取られ、主導権を握られては、反撃など不可能である。
「仕方がない、一時南鄭を放棄する。兵たちにも無謀な反撃をせず、北へ向けて逃げよと命ぜよ。その後適当な地で兵を集結させ、延岑を討ち、南鄭を取り戻す!」
北への逃走を命じたのは、延岑が南から攻め込んできたからである。
追撃兵にとって敗走兵ほど討ち取りやすい相手もいないが、今はこれ以外延岑に対抗する
それに劉嘉が無抵抗で南鄭を放棄すること自体が一つの反撃になる。
あくまで劉嘉を追撃するか、それとも手に入れた南鄭を確保するか。
そのどちらにも
「延岑の判断を迷わせ、追撃の手をゆるめさせれば、それだけ生き残る兵の数も多くなる。そうなれば雪辱戦での勝機も得やすくなろう」
劉嘉の説明に幕僚たちもうなずき、急ぎ撤退の準備を始める。この際は、可能な限りの素早い逃走が、一番の反撃なのである。