第19話 三合三勝・上
文字数 2,717文字
だがいかに大勝であり快勝であっても、一時の勝利ですべてを覆 せるほど公孫述陣営の状況は甘いものではなかった。
呉漢も今度は慎重に、的確に、そして堅固に戦いを進め、公孫述や延岑による攻撃を幾度も跳ね返し、詐術にも二度と引っかかることなく、じわじわと軍を前に進めてゆく。
そして市橋の戦いから二か月が過ぎた十一月、呉漢率いる漢軍は、成都の城壁を包囲することに成功していた。
「……」
城壁外に満ちる漢軍を見て、公孫述も無言だった。彼の兵もここまでの戦いで漸減 しており、敢死隊もすでに当初の勢いはない。
仮にここで呉漢を討ち、彼の軍を全滅させたとしても、劉秀の下 には他に幾人も名将がおり、兵も成家とは比べ物にならないほどの数を動員できる。
といって籠城 戦も選べない。籠城は援軍の当てがあって初めて成立する戦術で、中華のほぼ全土を劉秀が掌握 している今、援軍は当てどころか存在すらしていないのだ。
「……」
延岑は戦略的思考が苦手との自覚はあるが、その自分ですら現状が絶望的と理解できてしまう。明晰な頭脳を持つ公孫述ではなおさらだろう。
それでもなお、延岑は戦意を失っていなかった。彼はこれまでの戦歴で、自分が絶望の中でこそきらめき輝く意志の持ち主であることを知っていた。
この性質が先天的に備わっていたものか後天的に獲得したものか、本人にももうわからない。
だが延岑は、おのれのこの性質に殉じるつもりであった。
「陛下」
延岑は無言の皇帝に静かに、しかし力強く声をかけ、それを聞いた公孫述も残された最後の宿将に振り向く。
その表情は疲弊 していたが、最後の光源が芯に残っていた。
「男児当 に死中に生を求むべし、だな。岑よ、出撃だ」
「御意!」
陽光の欠片 をまぶしたような主君の笑みに、延岑もうれしげに、力強くうなずいた。
呉漢がどの方面から攻め入ってきているかわからないが、彼の指揮下にある臧宮 は咸 門(北の城壁に二つある城門のうち西にある門)へ布陣している。
公孫述は呉漢に当たり、延岑は臧宮へ攻撃を仕掛けることに決まった。
臧宮は沈水 で延岑が大敗を喫 した将である。
「あのときの屈辱を雪 ぐ好機だ。目にもの見せてくれるぞ」
何もできぬまま兵にまぎれて敗走するしかなかったあの戦いを思い出す延岑は、激しい怒りを燃え盛 る戦意に変えて、朝、日の光が昇ると同時に城門から一気に突出した。
臧宮にとって公孫述陣営のこの動きは予想の内だった。
彼にしても呉漢にしても、公孫述が籠城戦を選ばないことはわかっていた。
むしろ籠城を選んでくれた方が無駄に兵を殺したくない漢軍にとってありがたいほどである。どこから来るはずもない援軍を待ち、食糧を食い潰 し、勝手に自滅していってくれるのだから。
「私や大司馬(呉漢)を撃殺し、次に投入される我が軍の将も討ち果たす。それを繰り返して最終的に陛下にたどり着く。もうこれしかないであろう、公孫述には」
それはほとんど奇蹟に等しい不可能事だということは公孫述たちも理解しているだろう。「籠城戦よりはまし」という程度の絶望的選択である。
だがそれだけに、死兵となって攻めかかってくることも確実であった。
「敵は延岑だ。油断をするな」
咸門から突出してきた兵の旗が「延」であることを見た臧宮は、敵将が誰であるかを知ると、重く厚みのある声で迎撃を命じた。
確かに延岑の兵は死兵、死に物狂いで戦いに出てきた兵である。
中には沈水の戦いに参加した兵もいて、雪辱に燃える彼らの戦意はさらに高い。
その延岑に対し臧宮は油断も驕 りも見せていなかったが、彼の兵は違った。もちろん油断を自戒してはいたのだが、沈水で大勝し、その後の蜀攻略でも連戦連勝だったため、無意識に心気 が浮ついたものになっていたのだ。
「沈水で何もできず逃げ出した輩 が何ほどのものよ」
口にはせずともそのような油断やゆるみがにじむ兵もいる。
その兵たちがほころびとなった。
延岑の突進、突撃は、これまで彼らが経験したことのないほどの破壊力を持っていたのだ。
「叩き潰 せ! 叩き伏せろ!」
延岑の指揮は勢いに任せているようで最適なそれをおこなっていた。
彼はもともと猛将型の将で、特に兵の戦意をそのまま戦力に転化させる術 に長 けている。
これまでは公孫述が劉秀に圧迫されている関係上、延岑の戦いもどうしても守備的にならざるを得ず、戦果に恵 まれなかった。
だが今は違う。
滅亡の際 まで追いつめられたここに来て、延岑ははじめて最も得意とする攻勢の型を得ることができていた。加えて彼が率いる兵も狂騒に近いほどの戦意を持つ死兵ばかりである。
延岑はその力を最大限に発揮できる状況と兵を、ついに与えられたのだ。
激突した臧宮の兵が吹き飛ばされる。その圧力と勢いは、臧宮の予想を越えていた。
「なんだ!?」
沈毅 な臧宮をして驚愕の声をあげるほどで、しかも延岑の兵は激突後もほとんど勢いを殺すことなく、臧宮軍の奥へ奥へと抉 るように侵入してくる。
これは驚異であり脅威であった。
「押し返せ! 延岑の侵入を止めよ!」
すでに開戦前の余裕もなく、防御力の高い兵を延岑軍の前面に押し立てる。
彼らに敵の前進を押し返させ、その隙に兵の再編を図ろうとしたのだ。
が、それでもなお延岑兵は止まらない。
多少進撃の勢いはゆるみ、かろうじて兵の損害は減じたが、それもいつまでもつかわからない。
延岑兵は防御兵をそのまま押し出すように前進してくる。
この戦況に、臧宮は素早く対応した。
「……撤退! 隊列を乱さず後退せよ!」
完全に先手を取られ、反撃する余裕も与えられないまま力押しに押されるこの状況では、これしか手はなかった。
延岑兵を押しとどめる兵はそのまま殿軍 となる。そこへさらに兵を増強しながら、臧宮はその他の兵たちを急ぎ、しかし整然と撤退させてゆく。
その手腕は臧宮ならではだったが、延岑は彼の思惑のすべてを実現させはしなかった。
延岑兵を抑え続けていた殿軍 を、ついに食い破ってしまったのだ。
殿軍の陣形は崩壊し、逃げることも抗 うこともできないまま蹂躙 されてゆく。
だが殿軍は、彼らに与えられた使命だけはなんとか果たしていた。味方の兵が逃げ切る時間は作り出していたのだ。戦場に彼らの姿はほとんどいなくなっていた。
が、それが返って延岑の怒りを加熱させる。
「おのれ、せめてうぬらだけでも全滅させてくれるわ!」
今の延岑兵には、指揮官の感情をそのまま体現できるほどの猛々しさと一体感がある。増幅された憤怒とともに、殿軍兵は、踏みつけられ、踏みにじられ、完全にすり潰されてしまった。
延岑は沈水での雪辱を、ひとまずは果たしたのだ。
呉漢も今度は慎重に、的確に、そして堅固に戦いを進め、公孫述や延岑による攻撃を幾度も跳ね返し、詐術にも二度と引っかかることなく、じわじわと軍を前に進めてゆく。
そして市橋の戦いから二か月が過ぎた十一月、呉漢率いる漢軍は、成都の城壁を包囲することに成功していた。
「……」
城壁外に満ちる漢軍を見て、公孫述も無言だった。彼の兵もここまでの戦いで
仮にここで呉漢を討ち、彼の軍を全滅させたとしても、劉秀の
といって
「……」
延岑は戦略的思考が苦手との自覚はあるが、その自分ですら現状が絶望的と理解できてしまう。明晰な頭脳を持つ公孫述ではなおさらだろう。
それでもなお、延岑は戦意を失っていなかった。彼はこれまでの戦歴で、自分が絶望の中でこそきらめき輝く意志の持ち主であることを知っていた。
この性質が先天的に備わっていたものか後天的に獲得したものか、本人にももうわからない。
だが延岑は、おのれのこの性質に殉じるつもりであった。
「陛下」
延岑は無言の皇帝に静かに、しかし力強く声をかけ、それを聞いた公孫述も残された最後の宿将に振り向く。
その表情は
「男児
「御意!」
陽光の
呉漢がどの方面から攻め入ってきているかわからないが、彼の指揮下にある
公孫述は呉漢に当たり、延岑は臧宮へ攻撃を仕掛けることに決まった。
臧宮は
「あのときの屈辱を
何もできぬまま兵にまぎれて敗走するしかなかったあの戦いを思い出す延岑は、激しい怒りを燃え
臧宮にとって公孫述陣営のこの動きは予想の内だった。
彼にしても呉漢にしても、公孫述が籠城戦を選ばないことはわかっていた。
むしろ籠城を選んでくれた方が無駄に兵を殺したくない漢軍にとってありがたいほどである。どこから来るはずもない援軍を待ち、食糧を食い
「私や大司馬(呉漢)を撃殺し、次に投入される我が軍の将も討ち果たす。それを繰り返して最終的に陛下にたどり着く。もうこれしかないであろう、公孫述には」
それはほとんど奇蹟に等しい不可能事だということは公孫述たちも理解しているだろう。「籠城戦よりはまし」という程度の絶望的選択である。
だがそれだけに、死兵となって攻めかかってくることも確実であった。
「敵は延岑だ。油断をするな」
咸門から突出してきた兵の旗が「延」であることを見た臧宮は、敵将が誰であるかを知ると、重く厚みのある声で迎撃を命じた。
確かに延岑の兵は死兵、死に物狂いで戦いに出てきた兵である。
中には沈水の戦いに参加した兵もいて、雪辱に燃える彼らの戦意はさらに高い。
その延岑に対し臧宮は油断も
「沈水で何もできず逃げ出した
口にはせずともそのような油断やゆるみがにじむ兵もいる。
その兵たちがほころびとなった。
延岑の突進、突撃は、これまで彼らが経験したことのないほどの破壊力を持っていたのだ。
「叩き
延岑の指揮は勢いに任せているようで最適なそれをおこなっていた。
彼はもともと猛将型の将で、特に兵の戦意をそのまま戦力に転化させる
これまでは公孫述が劉秀に圧迫されている関係上、延岑の戦いもどうしても守備的にならざるを得ず、戦果に
だが今は違う。
滅亡の
延岑はその力を最大限に発揮できる状況と兵を、ついに与えられたのだ。
激突した臧宮の兵が吹き飛ばされる。その圧力と勢いは、臧宮の予想を越えていた。
「なんだ!?」
これは驚異であり脅威であった。
「押し返せ! 延岑の侵入を止めよ!」
すでに開戦前の余裕もなく、防御力の高い兵を延岑軍の前面に押し立てる。
彼らに敵の前進を押し返させ、その隙に兵の再編を図ろうとしたのだ。
が、それでもなお延岑兵は止まらない。
多少進撃の勢いはゆるみ、かろうじて兵の損害は減じたが、それもいつまでもつかわからない。
延岑兵は防御兵をそのまま押し出すように前進してくる。
この戦況に、臧宮は素早く対応した。
「……撤退! 隊列を乱さず後退せよ!」
完全に先手を取られ、反撃する余裕も与えられないまま力押しに押されるこの状況では、これしか手はなかった。
延岑兵を押しとどめる兵はそのまま
その手腕は臧宮ならではだったが、延岑は彼の思惑のすべてを実現させはしなかった。
延岑兵を抑え続けていた
殿軍の陣形は崩壊し、逃げることも
だが殿軍は、彼らに与えられた使命だけはなんとか果たしていた。味方の兵が逃げ切る時間は作り出していたのだ。戦場に彼らの姿はほとんどいなくなっていた。
が、それが返って延岑の怒りを加熱させる。
「おのれ、せめてうぬらだけでも全滅させてくれるわ!」
今の延岑兵には、指揮官の感情をそのまま体現できるほどの猛々しさと一体感がある。増幅された憤怒とともに、殿軍兵は、踏みつけられ、踏みにじられ、完全にすり潰されてしまった。
延岑は沈水での雪辱を、ひとまずは果たしたのだ。