第16話 劉秀の敗北
文字数 1,861文字
だがこの年、延岑 は戦いを経験しなかったわけではなかった。
夏、劉秀の前将軍である李通 が二将を率いて延岑の駐屯する漢中へ侵攻してきたのである。
というのも劉秀はこの年の春、諸将を率いて涼州(中国西北。蜀のある益州の北隣)の隗囂 を討つため親征 したのだが、その戦いに負けてしまったのだ。
劉秀のこの親征は「公孫述を討つ」として進発したが、もともと隗囂を討伐するためのものだったと思われる。
というのも隗囂は、劉秀に臣従を誓っていたのだが、それは本心からのものではなく、劉秀、公孫述に次ぐ第三勢力として様子見をしていた節があるのだ。
それゆえ劉秀は隗囂に対し「公孫述を討つゆえ北から蜀へ進撃せよ」との命令を発したが、彼は言を左右にして兵を出そうとしない。劉秀は隗囂の真意を確認してうなずくと、彼の支配地である涼州へ進路を変更したのだ。が、隗囂も彼の将兵も決して弱くはなく、劉秀は押し戻されてしまったのである。
隗囂の追撃はなんとか退 けた劉秀と彼の諸将だが、それでも敗北直後、洛陽 への帰途に、南に在 る漢中から延岑(公孫述)に攻め上がられるのは大きな危機となる。
それゆえ洛陽に留守居役として残してきた李通へ、延岑を牽制するため出撃を命じたのである。
李通の漢中侵入は、中原への出撃を取り消された延岑にとって、驚きではあったが喜びでもあったろう。
「誰でも構わぬ。存分に討ち取って我が功名の礎 としてくれようぞ」
思わぬ好機に戦意を湧かせる延岑だが、前述のこともあり漢中において彼が公孫述から預けられた兵の数は多くない。延岑はすぐさま公孫述へ援軍を要請した。
自領への侵攻だけに、さすがに公孫述の対応は素早く、延岑も李通との会敵 前に送られてきた援軍と合流することができた。
「これだけあれば負けはせぬ」
戦場は漢中郡のほぼ中央にある西城県である。
延岑はここで李通を迎え撃った。
が、延岑はまた負けてしまう。
李通本人だけでなく、彼が率いてきた候進 、王覇 の二将もまた有能で、彼ら三人を単独で相手取るのは、さすがの延岑にも荷が重かったのだ。
「おのれ!」
西へ向けて敗走する延岑だが、彼はまだ戦意を失ったわけではなかった。
負けたといっても漢中郡の郡治 (郡庁所在地)にして延岑の現在の本拠地である南鄭 は健在である。また南鄭だけでなく漢中郡自体が彼の本領と言ってよく、地の利は延岑にある。李通が深入りしてくれば、雪辱を果たす機会は充分にあるはずだった。
が、南鄭へ向けて西進しながら敗残兵を集め、軍を再編していた延岑へ、思わぬ報告が入ってきた。
李通が自分を追わず、東へ軍を返したというのだ。
「勝ちに乗じて追撃するのが常道ではないか。敵将は兵(軍事)を知らぬのか!」
雪辱の機会を奪われ肩透かしを喰らった形の延岑は、欲求阻止 とともに八つ当たり気味の罵倒を発するが、もちろん李通は軍事を知らないわけではない。
「確かにこのまま延岑を完全に討ち払い、漢中を我らが物にしたいところだが、今の我が軍にその余裕はないからな」
隗囂に敗北したばかり漢軍(劉秀軍)は、現状、どれほどの戦力が残っているかわからず、仮に充分な戦力があったとしても、再編に時間がかかる。そのような状況で漢中を手にしても李通は孤立するだけで、公孫述が新たな兵を北上させてくれば、結局逃げ出すしかなくなってしまうだろう。
また、こうして李通が洛陽から離れていること自体、漢(後漢)にとってかなりあやうい状態だった。
李通は親征した劉秀から洛陽の運営の全権を与えられており、いわば「皇帝代理」ともいうべき重責を担 っていたのだ。
そのような立場の李通が洛陽を長く離れていれば、それだけで問題が噴出する恐れがある。
劉秀もそのことは理解していたが、それでも李通に出撃命令を発した事実が、彼がどれほど危機的状況にあったかを物語っているだろう。
そのような様々な事情から、李通は目的である延岑牽制を果たしただけで軍を返したのだ。
それでも李通は洛陽まで帰らず、途中、南陽 郡の順陽 県に駐留する。
順陽は、延岑牽制と、洛陽になにかあった場合急ぎ帰還するための、ぎりぎりの距離に位置していたのだ。
李通は主君の安全が完全に確保されるまでその地に踏みとどまり、劉秀帰還の報を受けて、ようやく洛陽へ戻っていった。
この戦いは漢軍の敗北であった。
だが勝者の隗囂 も、もう劉秀をごまかすことはできないと悟り、公孫述に臣従を申し出ている。
公孫述もそれを受け容れ、翌年(建武七・西暦31)、彼を朔寧王に封じた。
夏、劉秀の前将軍である
というのも劉秀はこの年の春、諸将を率いて涼州(中国西北。蜀のある益州の北隣)の
劉秀のこの親征は「公孫述を討つ」として進発したが、もともと隗囂を討伐するためのものだったと思われる。
というのも隗囂は、劉秀に臣従を誓っていたのだが、それは本心からのものではなく、劉秀、公孫述に次ぐ第三勢力として様子見をしていた節があるのだ。
それゆえ劉秀は隗囂に対し「公孫述を討つゆえ北から蜀へ進撃せよ」との命令を発したが、彼は言を左右にして兵を出そうとしない。劉秀は隗囂の真意を確認してうなずくと、彼の支配地である涼州へ進路を変更したのだ。が、隗囂も彼の将兵も決して弱くはなく、劉秀は押し戻されてしまったのである。
隗囂の追撃はなんとか
それゆえ洛陽に留守居役として残してきた李通へ、延岑を牽制するため出撃を命じたのである。
李通の漢中侵入は、中原への出撃を取り消された延岑にとって、驚きではあったが喜びでもあったろう。
「誰でも構わぬ。存分に討ち取って我が功名の
思わぬ好機に戦意を湧かせる延岑だが、前述のこともあり漢中において彼が公孫述から預けられた兵の数は多くない。延岑はすぐさま公孫述へ援軍を要請した。
自領への侵攻だけに、さすがに公孫述の対応は素早く、延岑も李通との
「これだけあれば負けはせぬ」
戦場は漢中郡のほぼ中央にある西城県である。
延岑はここで李通を迎え撃った。
が、延岑はまた負けてしまう。
李通本人だけでなく、彼が率いてきた
「おのれ!」
西へ向けて敗走する延岑だが、彼はまだ戦意を失ったわけではなかった。
負けたといっても漢中郡の
が、南鄭へ向けて西進しながら敗残兵を集め、軍を再編していた延岑へ、思わぬ報告が入ってきた。
李通が自分を追わず、東へ軍を返したというのだ。
「勝ちに乗じて追撃するのが常道ではないか。敵将は兵(軍事)を知らぬのか!」
雪辱の機会を奪われ肩透かしを喰らった形の延岑は、
「確かにこのまま延岑を完全に討ち払い、漢中を我らが物にしたいところだが、今の我が軍にその余裕はないからな」
隗囂に敗北したばかり漢軍(劉秀軍)は、現状、どれほどの戦力が残っているかわからず、仮に充分な戦力があったとしても、再編に時間がかかる。そのような状況で漢中を手にしても李通は孤立するだけで、公孫述が新たな兵を北上させてくれば、結局逃げ出すしかなくなってしまうだろう。
また、こうして李通が洛陽から離れていること自体、漢(後漢)にとってかなりあやうい状態だった。
李通は親征した劉秀から洛陽の運営の全権を与えられており、いわば「皇帝代理」ともいうべき重責を
そのような立場の李通が洛陽を長く離れていれば、それだけで問題が噴出する恐れがある。
劉秀もそのことは理解していたが、それでも李通に出撃命令を発した事実が、彼がどれほど危機的状況にあったかを物語っているだろう。
そのような様々な事情から、李通は目的である延岑牽制を果たしただけで軍を返したのだ。
それでも李通は洛陽まで帰らず、途中、
順陽は、延岑牽制と、洛陽になにかあった場合急ぎ帰還するための、ぎりぎりの距離に位置していたのだ。
李通は主君の安全が完全に確保されるまでその地に踏みとどまり、劉秀帰還の報を受けて、ようやく洛陽へ戻っていった。
この戦いは漢軍の敗北であった。
だが勝者の
公孫述もそれを受け容れ、翌年(建武七・西暦31)、彼を朔寧王に封じた。