第1話

文字数 4,421文字

 どこかのバカがボタンひとつ押した。
 最終戦争と呼ばれる、人間が人間を殺すゲームがはじまった。
 ひとつ許されれば、ふたつめも許されると勘違いし、さらにみっつめも許される、そんなガキみたいな理屈をこねだした結果が、これだ。
 見渡す限り、瓦礫の山。
 文明は滅びたのだ。


 ◇ 

 しかし、人間は神が思っているほど弱くはない。
 ふたたび、じぶんたちの住居を築きはじめている。
 おれたちはきょうも生きていかねばならない。








 浮舟葉太郎放浪編
             『妖眸爛々』

 
 1、

 街。
 そう呼ぶのが相応しいのかどうかはわからないが、ここら一帯はたしかに街であった。
 アスファルトはめくれあがり、荒野が蔓延し、溶解でもしたかのようにビルは崩れ、コンクリートの山を築き、砂塵が渦巻けば、埃まみれになる。
 公園の森林も、ベンチも、朽ちてなくなり、赤青緑に黄色、白もあれば黒もある廃車のコレクションは上下左右、様々な角度で設置され、壊れていても修復されない下水管からは、老齢の潮吹きみたいに、ちろちろとひと筋の水が流れているだけだ。
 そのひと筋の水を、たいそうありがたがるように舐める人間がいて、その人間をたいそう美味しそうに眺める犬どもがいる。
 またあるところでは、人間が人間を、牛馬の如く扱い、
 またあるところでは、のどの乾きに絶えられず発狂する者がいた。
 鮮血で染まった大地は一種のアートとなり、
 使い切った絵の具みたいに髑髏が散乱する。
 まるで地獄絵図を切り取ったかのような場所。
 ここは、街。
 確かに街であったのだ。


 ◇

 街の名が記されている赤錆びた丸看板は折れ曲がり、その傍らには少女の姿を模した人形が寝転がっていた。
 天空で爛々と輝く太陽は、容赦なく地上に日光を射し込み、街歩く人々を疲弊させるであろう。
 気温は四十度近い。
 夏場ですら味わうことのできない猛暑だが、ここ数年は日常のことであり、人々はより多くの水分を求めていた。
 しかし、瓦礫のなかを出歩く者の姿は見当たらない。
 仮に確認できたとしても、それは尋常な者ではないかもしれない。
 噂をすれば…
 ほら、人影がひとつ。
 瓦礫の向こう側に見えた。 
 このくそ暑いなか、全身黒一色の外套を羽織り、宣教師のような黒いハットを被っている。
 深々と被り、常にうつむいているために男の表情は窺えない。
 瓦礫の向こう側、荒野につづく国道と呼ばれた路を歩いてきたところを見ると、放浪者らしい。
 疲れ果てているのか、足取りがたまに妖しくふらついた。
 と、目的もないはずのその足が不意に停止したのである。
 少女の人形を発見し、それを手に取った。
 同時に、懐にある写真を取り出していた。
 「…」
 そのとき。
 うつむいていた頭がようやくもちあがり、なにかの気配を感じたのか、写真を懐にもどし、夢遊病者にも似た双眸を左右に走らせた。
 タタタ… 
 と、東の方角からすばやい足音が、ふたつ…
 いや、みっつは聞こえてきたのだ。
 こちらに走ってくるのがわかると、男は微動だにせず、足音が近づいてくるのをただ待っていた。
 その距離、約十間。
 約五間。
 数歩。
 女だ。
 ロングヘアーを激しく揺すりながら走ってきた。
 男の表情に理性を見て取ったのであろう、必死の形相で、すがるように男の背後に身を隠す。
 あとにつづいてきた凶悪な面構えの男ふたりを警戒していた。
 「黙って、その女を渡しな」
 胴間声でいきがる品性下劣な男は、片手に刃渡り十センチほどのジャックナイフをきらめかせていた。
 もう片方の男も、殺傷力を誇示したいのか鉄パイプを手の平で、パシパシ鳴らしている。
 佐藤と、山田という名のちんぴらであった。
 ここら一帯を我がもの顔で支配している暴走族気取りの集団の一員で、人々に抵抗する気力がないのをいいことに、やりたい放題していた。
 水も食料も不足しているうえ、女もなかなか姿を見せないこのご時世だ。
 暴力に頭が支配されている猿どもは肉欲に飢え、マスを掻くか、女を犯すかして、その邪悪な欲求を満たさなければならなかった。
 山田などは、すでに女の裸体を想像しているのか、勃起し、ズボンが三角形に尖っている。
 佐藤はその様子を見てケラケラ笑い、血走った眼を黒外套の男に向けると、瞬時に、殺気に満ちた形相へと変貌していた。
 「おい、な、何度も云わせるな。そ、その女を返せっつ、つってんだよ!」
 舌がもつれていた。
 焦点も合っていない。
 薬物依存者特有の症状であった。
 唇が痙攣し、躰が小刻みにふるえている。
 ふたりの異様な様子に、黒外套の男の背に隠れている女は目を点にし怯えきっていた。
 「た、助けて。あいつらに、仲間を殺されて…」
 女は訴えようとするも、気狂いしている猿どもを前に、うんともすんともしない男が阿保ではないのかと心配すらしてきている。
 いっそのこと、男を身代わりに逃げてしまおうかとその躰は離れつつあった。
 「きみ」
 が、沈黙を通していた男の突然の声かけに、女は固まってしまった。
 「こいつらを蹴散らしたら、安全な場所に案内してくれないか?」
 即答しかねた女は、とにかく頷いておく他なかった。
 どうやら、こころあたりならあるらしい。
 男は温厚な紳士の微笑みを浮かべた。
 「なに、にやにや、し、しとんじゃ。ぶぶっ殺すぞ、ごらあ!」
 ふたりのやりとりに痺れを切らし、山田のジャックナイフを奪うと、飛び出していたのはジャンキーの佐藤だった。
 口内からほとばしる涎が、この男の知性と品性を示し、改めて、凶悪な人物であることを物語っていた。
 そして、暴力に生きてきた者であるのは間違いない。
 男が、佐藤の俊敏な動きを目で追っかけているうち、あっという間に、距離を縮められていた。
 男ののど笛にジャックナイフの刃が襲いかかろうとする。
 その刹那を女ははっきりと見た。
 男ののど笛に刃が触れる寸前、なにを思ったのか、佐藤は手首を反転させ、自らののど笛に刃を差し向けたのである。
 のど笛が裂け、鮮血のアーチを描いていたのは、佐藤のほうだった。
 とうとう脳みそのすべてが薬に犯され、気が狂ってしまったのだろうか?
 骸と果てた猿を見下す男の目は冷ややかであった。
 隣からのぞきこむ女の表情が凍りつくほどにだ。
 その視線が、今度は男が手にしていた少女の人形に移ると、女はさきほどまでの恐怖など忘れてしまったのか茫然自失としている。
 少女の人形が男の手から離れ、まるで、マリオネットのように、独りでに宙を浮いていたのである。
 ふわふわ空中移動しながら、肉体、精神ともに萎縮しきった山田の眼前へと近づいていく。
 その間、己の阿保を誇示しているのか、ぼけぇと人形の動きを眺めていた山田はふっと我に返り、急いで踵を返そうとした。
 が、人形に襟もとをつかまれると、まるで百キロを越える巨漢にでもつかまれでもしたかのように、躰は自由を奪われ、意志だけが逃亡を図っていた。
 しかし、つぎの瞬間、己の命はいまこの場所で諦めざるを得ないのだと理解した。
 耳もとで死霊が囁いたからである。
 「もしきみに仲間がいるなら伝言をお願いしたい。私はしばらくこの街に滞在する。逃げも隠れもしない。見つけ出すがいい。そして、殺してみろ、とね」
 山田は激しいピストン運動のように、何度も首を上下させながら頷いていた。
 束縛が解けると、ふり返ることもなく走り去ってゆくのであった。
 女からふるえは消えていた。
 「ねえ、あなた、ありがとう」
 いましがた男を身代わりに逃げだそうとしたことなど微塵も感じさせない打算的な笑いを浮かべて云う。
 ふしぎなちからをつかったらしいが、助かったのだから、なんでもいい。
 媚視を向け、豊満な乳房を男に押しつけながら、甘酸っぱい汗の臭いがする肢体で絡みつく。
 ちからの弱い女が、暴力の渦巻く時代で生きていくには、七変化する女優となり、利用できそうなものは、利用すべく愛奴隷として飼い慣らす必要があったのだ。
 だが、女はギョッとし、反射的に退いていた。
 男の夢遊病者にも似た双眸が、爛々と輝く太陽の如く、妖しい光を帯びていたのである。
 それに気のせいか、つい数分前よりも頬がそげ落ちている気がした。
 その双眸は、女の華奢な足から、豊満な乳房、歳盛りの美しい顔つきを、なめまわすように見つめた。
 女は恐怖とも、高揚ともわからぬ心臓の脈動によって逃げようにも、逃げられない。
 が、男は女に迫ろうとはしなかった。
 じらされているような変な気分にもなったが、女は走り去るならいまだと思った。
 しかしどうしたことだろうか。
 急な金縛りにでもあったのか、女は身動きできなくなってしまった。
 いや、足だけがじたばたと逃亡を図っている。
 女は、ハッとした。
 磁石で引っ張られるように、衣服が山なりをつくっていたのだ。
 よく見れば、衣服のボタンがひとつの生命体みたいに、どこか遠くへ飛んでいこうとしている。
 そして、第一、第二、第三のボタンが同時に弾け飛び、衣服に隠れている豊満な乳房が露わになった。
 腰が抜けそうになる女を、男は抱きとめていた。
 抱擁したままの両人のまわりには弾け飛んだはずのボタンが、小蠅みたいに飛び回っているのだが、女は気がつく余裕もなく、息を荒くさせていた。
 「い、いや…」
 言葉でこそ拒絶はするが、たわむ乳房を鷲づかみにされて尚、女は抵抗しなかった。
 いや、抵抗できなかった。
 乳首を噛まれ、含まれ、男の舌技に興奮しはじめていたのである。
 舌の尖端がミミズとか、ヒルとかいった環形動物みたく、突起した乳首にまとわりつき、蠢動する。
 乳房から唇を離しては、また吸い、ひたすらその行為を繰り返した。
 しまいに、女は身をくねくねとよじらせ、快楽を肯定するために、自ら男に抱きついていきさえした。
 わずか数分もしないうち、女は絶頂を迎え、なんともあり得ぬことが起きたのだ。
 乳首から大量の母乳を溢れさせた。
 出産は疎か、妊娠すらしたことのない肉体であるにも関わらず。
 が、そのようなことは、たいして問題ではなかった。
 言葉にもならぬ歓声をあげながら、天空を見上げているその恍惚とした表情がすべてを物語っている。
 「あ、ああぁぁ、い、いいぃぃ!」
 出し尽くしたとみて、男は女の乳房から離れ、喉をおおきく鳴らすと、口まわりにべとついた白い液を舌なめずりする。
 そげ落ちていた頬は、生気に満ち、表情には温厚な紳士の微笑みが浮かんでいた。
 露わになった乳房を天に向け、息を荒く弾ませている女の虚ろな瞳には、なにも映ってはいなかったのだが。
 男は横たわる女の両肩をもちあげ云った。
 「さあ、案内してくれないか」
 女は愛奴隷のように、云われたまま、ちからなく頷くのであった。
 その細面が、いましがたよりもやつれていたのには、本人が気がつくはずもなかった。
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