第2話
文字数 3,362文字
2、
文明が滅びてからというもの、退廃した地上には暴力が渦巻き、相変わらず、人間が人間の生命を脅かす、愚かなゲームは繰り返されていた。
徒党を組み、弱者ひとりを狙うことなどあたりまえのこのご時世、地上にのうのうと居を構えるものなどいない。
【死魔王】と名乗るここら一帯を支配下に置いているつもりの暴力団体でさえ、例外ではなかった。
地下に新たな住処を見いだした人類は、ここ数年、モグラやねずみのような穴蔵暮らしを強いられているのである。
「で、てめえは仲間を見殺しにして、のこのこ帰ってきたってわけか?」
下水の臭いが漂う、肥だめみたいな場所に、複数の男どもがたむろし、そのなかに怯えている山田の姿があった。
正座し、目の前の椅子で足を組んでいる男の様子を恐る恐る窺っていた。
身長二メートル、体重二百キロ。
肉塊と形容すべき容姿をしたその男は【死魔王】の頭、磯田和馬という。
戦時中の総称は、磯田和馬陸軍軍曹。
または、地獄すら生ぬるいと云わせるほどの訓練から、鬼瓦の磯田と呼ばれていた。
そのなれの果てが、猿山の大将である。
それでも尚、鬼瓦と呼ばれただけの迫力は健在らしい。
磯田は肉に埋もれる顎を突き出し、山田を見下ろしていた。
「き、きいてくださいよ、和馬さん。ありゃ、人間じゃありませんぜ。佐藤はたしかに、得体のしれねえその男に刃を向けたんですよ。だ、だけど、男が手ぇ動かした途端、し、死んでいたのは佐藤だったんだ!」
懇願とも呼べる山田の説明を耳にし、彼の仲間であろう者たちは皆、嘲笑していた。
佐藤が重度のジャンキーであることは知っていた。
戦闘の最中、とうとう頭がイカれたのか、ラリって隙だらけだったのを返り討ちにあったか、どちらにせよ、山田が目撃したとかいう超常現象を信じるものはだれひとりとしていなかった。
「それに、に、人形が宙を浮いて…!」
それでも尚、必死に説明しようとする山田であったが、磯田の巨手が頭部を覆うと沈黙せざるを得なかった。
「よう、山田。おれは、この荒れ地と化した世界で右往左往していた、お前と佐藤のことを拾ってやった。そうだよな?」
「え、ええ。感謝しています」
磯田の手が万力のように、ぎりぎりとこめかみを締めつけてくるたび、山田はなにか説明しなければならないという気になった。
「ちゃ、ちゃちゃちゃ、チャンスをく、ください!」
磯田は笑った。
「いいか、よく聞け、山田。チャンスというのは、汚名を返上できる見込みがあるからこそ、与えられるものなのだ」
ぐちゃりと音がした。
云い終わらぬうちに、山田の頭部は床にこぼれた豆腐みたいになっていた。
「それにしても…」
磯田の脳裏には一抹の不安が過ぎっていた。
山田が目撃したとかいう黒外套の男…
しかし、ジャンキーの佐藤同様に、山田も頭のイカれた男だった。
幻覚でも見たのだろう。
そう考え直し、磯田は椅子から立ちあがると、もう山田の存在など忘れてしまっていた。
「見つけろだと? ぐふふ、ネズミ一匹見つけることなど容易いわ」
片手を宙にふり、手下どもに命令した。
「いいか、てめえら。その黒外套の男をなんとしても捜し出して、おれさまの前で跪かせろ」
骸と果てた山田を、ゾウのような巨足で踏むと、べきょべきょ、べきょと骨の砕ける音がし、あとにはボロ雑巾が血溜まりに浮いているだけであった。
手下どもの顔色は蒼白になっていたが、一刻もはやく正体不明、黒外套の男を捜し出さなければ、つぎはじぶんだという強迫観念に突き動かされ、壁に掛けてある刀剣、銃器などで武装し、早々に散開していく。
「下崎、どうだ。例のオモチャはつかえそうか」
磯田は、下崎と呼ばれる機械技師に訊いた。
「へ、へえ、どうにかいじってみましたが、あとは実戦でつかいもんになるかどうかで」
「よし、そいつを貸せ。おれも捜しにでかける」
そして、地下のその一室には下崎と、牢屋に放り込まれているひとりの男以外にはだれもいなくなった。
下崎は、テーブルに散乱しているポルノ雑誌を一冊手に取ると、牢屋にいる男のことなど構うことなくズボンを脱ぎ、下半身を露出させる。
下崎のそれは、落ち着きなくそそり立っていた。
りきむ拳で握りしめ、ゆっくりと、そして、段々速く、上下しはじめると摩擦音でも聞こえてきそうであった。
「へ、へへ、ようやくひとりになれた。スカッとさせたかったんだ」
下崎の脳内では、ポルノ雑誌の女たちが具現化され、彼を求めてきているに違いない。
いよいよ臨界点に達しようかとした、まさにそのときだ。
「お取り込みちゅうのところ悪いんだが」
不意の声かけに下崎は、親に見つかった思春期の少年みたく慌てふためき、気まずい様子でいる。
わずかばかりだが、欲望を押し込めた熱汁がそれの頭部からこぼれ落ちていた。
「な、なんだ、てめえ。寝てたんじゃないのか」
拭うことも忘れ、急いでズボンをはき直す下崎に目も向けず、牢屋で眠っていたはずの男は言葉をつづける。
「ああ、よく眠れたよ。なあ、火をくれないか? 眠気覚ましに煙草を吸いたくてね」
「はん? 煙草だぁ。おまえ、そんなもんもってんのか。見せろ!」
下崎は置いてあった自動拳銃を手に取り、牢屋の男に向けた。
黒一色といえば、いま牢屋に放り込まれているこの男も黒一色であった。
レザーのジャケット、レザーのズボン、レザーのブーツ。
抵抗もせず、殺す必要もなく、容易く捕らえることのできたこの男が牢へ放り込まれているのは、人体実験の材料に生かされているにすぎないからだ。
鍛錬された肉体、身長百八十はあるであろう丈夫な骨格。
機械技師として、是非とも、これをいじってみたい!
しかし気に入らないのは、気の抜けた面構えである。
端整なつくりではあるが、まるで迫力がない。
普段、機械いじりか、マス掻きくらいしかしないこの気弱な下崎でさえ、ヤクザな態度を平気で取ってしまうのだから。
男は口もとをにやりとさせ、肩をすくめる。
ゆっくりと懐にある緑のパッケージのアメリカンスピリットを取り出す。
指図されるままに、煙草をまるごと下崎の足もとに投げた。
銃口は男に向けつつも、下崎は箱から煙草を抜き取るのに夢中で、もはや眼中にその姿はない。
一本、口に咥えたところで気がついた。
「はん? 火がねえじゃねえか! おい」
牢屋に視線をもどしたとき、そこに男はいない。
柵は鋭利な刃物で切断されたのか、四角な穴を描いていた。
高温で焼けでもしたかのように、切断面が赤く光っている。
「ほら」
耳もとで声がしたのは、咥えた煙草に火が灯ったのとほぼ同時であった。
下崎の開いた瞳孔は、目の前できらめく白刃に向けられている。
白熱色にきらめく白刃からは、微かな熱が感じられ、それがまた下崎の恐怖心を煽った。
「おかげで安眠できた。そいつはぁ、宿代にやるよ」
剣尖が目の前から遠ざかり、男の気配が側からなくなるのを感じると、逆襲せんがために下崎の眼が血走った。
「なめたマネしやがって!」
怒鳴り、拳銃を男の背中に向けていた。
無論、狙いは急所を外している。
銃弾は通路向こうの闇へと消えていった。
銃声だけが闇のなかで反響していく。
どこへいったのか、下崎の目の前から、男はいなくなっていたのだ。
そのあとを、微かに、白い糸くずのような光が、宙を漂っているのが見えた。
「や、やろう。どこへいきやがった」
「後ろだよ」
男の声がし、ふり返った途端、躰に痺れるような衝撃が走り、下崎の意識は途絶えていた。
「なにやら、暇つぶしのきっかけにありつけそうだな」
男はアメリカンスピリットを呑み、ゆっくり吐くと、磯田和馬含め、【死魔王】の連中が血眼になって捜しているという黒外套の男を、じぶんも捜してみるかという気になっていた。
理由?
理由などない。
あえて云えと云われ、返答せねばならぬならば、男がつぶやいたひと言であろう。
暇つぶしのきっかけ。
それのみが必要であった。
男の名は、浮舟葉太郎。
この、なにをどうしたらいいのかわからぬ時代で生きることを義務づけられた、人間である。
葉太郎は伸びをすると、軽い足取りで外へと向かっていった。
文明が滅びてからというもの、退廃した地上には暴力が渦巻き、相変わらず、人間が人間の生命を脅かす、愚かなゲームは繰り返されていた。
徒党を組み、弱者ひとりを狙うことなどあたりまえのこのご時世、地上にのうのうと居を構えるものなどいない。
【死魔王】と名乗るここら一帯を支配下に置いているつもりの暴力団体でさえ、例外ではなかった。
地下に新たな住処を見いだした人類は、ここ数年、モグラやねずみのような穴蔵暮らしを強いられているのである。
「で、てめえは仲間を見殺しにして、のこのこ帰ってきたってわけか?」
下水の臭いが漂う、肥だめみたいな場所に、複数の男どもがたむろし、そのなかに怯えている山田の姿があった。
正座し、目の前の椅子で足を組んでいる男の様子を恐る恐る窺っていた。
身長二メートル、体重二百キロ。
肉塊と形容すべき容姿をしたその男は【死魔王】の頭、磯田和馬という。
戦時中の総称は、磯田和馬陸軍軍曹。
または、地獄すら生ぬるいと云わせるほどの訓練から、鬼瓦の磯田と呼ばれていた。
そのなれの果てが、猿山の大将である。
それでも尚、鬼瓦と呼ばれただけの迫力は健在らしい。
磯田は肉に埋もれる顎を突き出し、山田を見下ろしていた。
「き、きいてくださいよ、和馬さん。ありゃ、人間じゃありませんぜ。佐藤はたしかに、得体のしれねえその男に刃を向けたんですよ。だ、だけど、男が手ぇ動かした途端、し、死んでいたのは佐藤だったんだ!」
懇願とも呼べる山田の説明を耳にし、彼の仲間であろう者たちは皆、嘲笑していた。
佐藤が重度のジャンキーであることは知っていた。
戦闘の最中、とうとう頭がイカれたのか、ラリって隙だらけだったのを返り討ちにあったか、どちらにせよ、山田が目撃したとかいう超常現象を信じるものはだれひとりとしていなかった。
「それに、に、人形が宙を浮いて…!」
それでも尚、必死に説明しようとする山田であったが、磯田の巨手が頭部を覆うと沈黙せざるを得なかった。
「よう、山田。おれは、この荒れ地と化した世界で右往左往していた、お前と佐藤のことを拾ってやった。そうだよな?」
「え、ええ。感謝しています」
磯田の手が万力のように、ぎりぎりとこめかみを締めつけてくるたび、山田はなにか説明しなければならないという気になった。
「ちゃ、ちゃちゃちゃ、チャンスをく、ください!」
磯田は笑った。
「いいか、よく聞け、山田。チャンスというのは、汚名を返上できる見込みがあるからこそ、与えられるものなのだ」
ぐちゃりと音がした。
云い終わらぬうちに、山田の頭部は床にこぼれた豆腐みたいになっていた。
「それにしても…」
磯田の脳裏には一抹の不安が過ぎっていた。
山田が目撃したとかいう黒外套の男…
しかし、ジャンキーの佐藤同様に、山田も頭のイカれた男だった。
幻覚でも見たのだろう。
そう考え直し、磯田は椅子から立ちあがると、もう山田の存在など忘れてしまっていた。
「見つけろだと? ぐふふ、ネズミ一匹見つけることなど容易いわ」
片手を宙にふり、手下どもに命令した。
「いいか、てめえら。その黒外套の男をなんとしても捜し出して、おれさまの前で跪かせろ」
骸と果てた山田を、ゾウのような巨足で踏むと、べきょべきょ、べきょと骨の砕ける音がし、あとにはボロ雑巾が血溜まりに浮いているだけであった。
手下どもの顔色は蒼白になっていたが、一刻もはやく正体不明、黒外套の男を捜し出さなければ、つぎはじぶんだという強迫観念に突き動かされ、壁に掛けてある刀剣、銃器などで武装し、早々に散開していく。
「下崎、どうだ。例のオモチャはつかえそうか」
磯田は、下崎と呼ばれる機械技師に訊いた。
「へ、へえ、どうにかいじってみましたが、あとは実戦でつかいもんになるかどうかで」
「よし、そいつを貸せ。おれも捜しにでかける」
そして、地下のその一室には下崎と、牢屋に放り込まれているひとりの男以外にはだれもいなくなった。
下崎は、テーブルに散乱しているポルノ雑誌を一冊手に取ると、牢屋にいる男のことなど構うことなくズボンを脱ぎ、下半身を露出させる。
下崎のそれは、落ち着きなくそそり立っていた。
りきむ拳で握りしめ、ゆっくりと、そして、段々速く、上下しはじめると摩擦音でも聞こえてきそうであった。
「へ、へへ、ようやくひとりになれた。スカッとさせたかったんだ」
下崎の脳内では、ポルノ雑誌の女たちが具現化され、彼を求めてきているに違いない。
いよいよ臨界点に達しようかとした、まさにそのときだ。
「お取り込みちゅうのところ悪いんだが」
不意の声かけに下崎は、親に見つかった思春期の少年みたく慌てふためき、気まずい様子でいる。
わずかばかりだが、欲望を押し込めた熱汁がそれの頭部からこぼれ落ちていた。
「な、なんだ、てめえ。寝てたんじゃないのか」
拭うことも忘れ、急いでズボンをはき直す下崎に目も向けず、牢屋で眠っていたはずの男は言葉をつづける。
「ああ、よく眠れたよ。なあ、火をくれないか? 眠気覚ましに煙草を吸いたくてね」
「はん? 煙草だぁ。おまえ、そんなもんもってんのか。見せろ!」
下崎は置いてあった自動拳銃を手に取り、牢屋の男に向けた。
黒一色といえば、いま牢屋に放り込まれているこの男も黒一色であった。
レザーのジャケット、レザーのズボン、レザーのブーツ。
抵抗もせず、殺す必要もなく、容易く捕らえることのできたこの男が牢へ放り込まれているのは、人体実験の材料に生かされているにすぎないからだ。
鍛錬された肉体、身長百八十はあるであろう丈夫な骨格。
機械技師として、是非とも、これをいじってみたい!
しかし気に入らないのは、気の抜けた面構えである。
端整なつくりではあるが、まるで迫力がない。
普段、機械いじりか、マス掻きくらいしかしないこの気弱な下崎でさえ、ヤクザな態度を平気で取ってしまうのだから。
男は口もとをにやりとさせ、肩をすくめる。
ゆっくりと懐にある緑のパッケージのアメリカンスピリットを取り出す。
指図されるままに、煙草をまるごと下崎の足もとに投げた。
銃口は男に向けつつも、下崎は箱から煙草を抜き取るのに夢中で、もはや眼中にその姿はない。
一本、口に咥えたところで気がついた。
「はん? 火がねえじゃねえか! おい」
牢屋に視線をもどしたとき、そこに男はいない。
柵は鋭利な刃物で切断されたのか、四角な穴を描いていた。
高温で焼けでもしたかのように、切断面が赤く光っている。
「ほら」
耳もとで声がしたのは、咥えた煙草に火が灯ったのとほぼ同時であった。
下崎の開いた瞳孔は、目の前できらめく白刃に向けられている。
白熱色にきらめく白刃からは、微かな熱が感じられ、それがまた下崎の恐怖心を煽った。
「おかげで安眠できた。そいつはぁ、宿代にやるよ」
剣尖が目の前から遠ざかり、男の気配が側からなくなるのを感じると、逆襲せんがために下崎の眼が血走った。
「なめたマネしやがって!」
怒鳴り、拳銃を男の背中に向けていた。
無論、狙いは急所を外している。
銃弾は通路向こうの闇へと消えていった。
銃声だけが闇のなかで反響していく。
どこへいったのか、下崎の目の前から、男はいなくなっていたのだ。
そのあとを、微かに、白い糸くずのような光が、宙を漂っているのが見えた。
「や、やろう。どこへいきやがった」
「後ろだよ」
男の声がし、ふり返った途端、躰に痺れるような衝撃が走り、下崎の意識は途絶えていた。
「なにやら、暇つぶしのきっかけにありつけそうだな」
男はアメリカンスピリットを呑み、ゆっくり吐くと、磯田和馬含め、【死魔王】の連中が血眼になって捜しているという黒外套の男を、じぶんも捜してみるかという気になっていた。
理由?
理由などない。
あえて云えと云われ、返答せねばならぬならば、男がつぶやいたひと言であろう。
暇つぶしのきっかけ。
それのみが必要であった。
男の名は、浮舟葉太郎。
この、なにをどうしたらいいのかわからぬ時代で生きることを義務づけられた、人間である。
葉太郎は伸びをすると、軽い足取りで外へと向かっていった。