5-4:在る女の作品 ~欧山概念著 『在る女の作品』より~
文字数 3,745文字
季節ごとに変わっていく、庭の草花を眺めるのも好きでした。
直に触れることは決して許されませんでしたけど、屋根伝いによちよちと歩く野良猫さんや、隣家のご夫婦が飼われているワンちゃんに、閉めきった窓越しにご挨拶するのも大好きでした。
でも、時々こう思うのです。
お空の色はどうして、青か、赤か、黒しかないのでしょう。
草花はどうして、じっと動かないでいるのでしょう。
猫さんやワンちゃんはどうして、わたしにご挨拶を返してくれないのでしょう。
たとえばカレンダーをめくるたびに、お空の色がピンクやイエロー、グリーンやパープルに変わるとしたら。朝起きて外の景色を眺めるまで、だあれもお天道様がどんな姿をしているかわからなかったら、一日は今よりもっと楽しくなると思いません?
それとも庭の草花が蝶や鳥のように、ひらひらと舞いはじめたら。わたしたちがいつも眺めている外の世界は、今よりいっそう賑やかでわくわくするものになると思いません?
猫さんやワンちゃんがにこやかにご挨拶を返してくれたら。彼らはきっと首輪をつけて飼われているのを嫌がって逃げだしてしまうかもしれませんけど、今よりずっと魅力的で可愛らしい、最高のお友だちになってくれると思いません?
「お
「どうせなら両方がいいわ。だってわたし、自分で想像してみるのも、知らなかったことを自分でお勉強するのも、どっちも大好きですから」
「好きなことは多いほうが楽しかろう。一つのことをもっともっと好きになっていくのも同じくらい楽しかろう。お佐和ちゃんにはたぶん、その両方の素質があるはずだ」
「ありがとう、先生。……でもわたし、お薬とお注射だけは苦手なの。もうすこし減らしてくれたらとても嬉しいのだけど」
「そうはいかないさ。お薬とお注射のおかげで、君はこうして元気でいられるのだからね。だからちゃんと先生やご両親の言うことを聞いて、おとなしくしているんだよ?」
そう、わたしはみんなと違って、外の景色を眺めることくらいしかできません。
だからお空はもっとカラフルで、庭の草花はひらひらと賑やかで、動物さんはごきげんようと話かけてくる――そんな魅力的な世界に変わってほしいと願っていたのです。
◇
ある日、こんなことがありました。
珍しくお身体の調子がよかったので、わたしは家族とご昼食の席をともにいたしました。 そのときにお母さまが、子どものころに動物園でゾウを見たというお話をしてくださったのです。お身体が小屋に収まりきらないほど大きくて、びっくりするくらいお鼻が長い動物。おまけにその長いお鼻で、リンゴをむしゃむしゃと食べるというのです。
そんな不思議な生きもの、一度も見たことがありません。
わたしはさっそくゾウが載っている動物図鑑をおねだりしたのですが、お父さまがお仕事の帰りに本屋さんに寄って買ってきてくれるまで、わたしは我慢できませんでした。
だからお筆を取って、自分で描いてみることにしたのです。
ところが完成した絵を見せても、それが何の生きものなのか、誰も気づいてくれませんでした。それもそのはず、わたしが描いたゾウはピンク色の毛むくじゃらで、長いお鼻は蝶々のようにくるくると丸まっていたのですから。
「ほら、図鑑を買ってきたから見てごらん。これがゾウだよ、お佐和。ピンク色の毛は生えていないし、お鼻はホースみたいに長いのさ。とても面白い動物だろう?」
「でもお父さま。わたしが描いたゾウのほうが、よっぽど素敵ではございません? 本物はお身体が灰色で華やかではありませんし、干し柿みたいにしわくちゃではありませんか」
「ハハハ。言われてみればそうかもしれないねえ。なにも見ずに描いたにしては、この絵だってとてもよくできている。もしかするとお佐和には、絵の才能があるのではないかな」
「……本当? だったら今より上手になりたいわ。いつも窓から外を眺めているだけですし、どうせならもっと楽しい景色にしてみたいもの」
わたしがそう言うと、お父さまはさっそくお絵かきに必要な道具を揃えてくれました。
それからというもの、わたしは来る日も来る日も筆を取って、外の景色を真っ白な紙のうえに描き写していきました。
なにせ時間は十分にありましたから、できるかぎり丁寧に、瞳に映るものを正確に、だけどちょっぴり遊び心も加えて――庭に生えた草木の隙間から小さな妖精さんがお顔を覗かせていたり、お空のうえで二頭の龍がダンスを踊っていたりと、わたしの頭の中に住んでいる楽しくてわくわくするものを、窓から見える景色の中に描きこんでいったのです。
やがて完成した絵をお父さまにお渡しすると、びっくりするようなことが起こりました。
お父さまはその絵をお知り合いの方にお見せしたらしく、そのお知り合いの方も別のお知り合いの方にお見せして、別の知り合いの方もまた別の知り合いの方にお見せしてと、あれよあれよと絵の評判がひとり歩きしていき……気がついたときには、わたしの絵を売ってほしいというお方まで現れたというのです。
「昔から想像力が豊かな子だとは思っていたが、まさかお佐和にこんな才能が眠っていたとは。お前は身体が弱くてずいぶんと寂しい思いをさせてきたから、絵を描くために必要なものがあったらなんでも揃えてやるよ。……そうだ。海外からよい先生を呼んでこよう」
「あらお父さま、先生なんていらないわ。誰かに教わらなくても上手に描けますし、海外の先生たちよりわたしのほうが絶対に才能がありますから。揃えてほしいものはお筆と、色とりどりの絵の具だけ。あとは目に見える景色と頭に浮かぶ世界だけが、絵を描くために必要な道具なのですもの」
◇
絵を描くようになってからというもの、日々の暮らしはがらりと変わってしまいました。
わたしは今まで、窓から見える景色の美しさを知らなかったのです。
神さまがどれほど丹精こめてこの世界をお作りになったのか、まるで理解していなかったのです。
嗚呼、なんともったいないことでしょう!
雑草ひとつ手にとってみても、葉の裏に張り巡らされた細かな脈は精緻なデザイン画のようで、ずっと眺めていても飽きることがありません。
その複雑かつ活き活きとした模様を見たままに描き写していくだけで、神さまがお作りになった緑の迷路が、ひとつの作品となってわたしの手の内から溢れだしてくるのです。
嗚呼、しかし……なんと口惜しいことでしょう!
窓から見える景色の美しさを知れば知るほど、絵の腕前が上達すればするほど、神さまの想像力の豊かさに、作りこまれた世界の途方のなさに、わたしはどうしても嫉妬してしまうのです。
「お佐和! お佐和! もしかしてまた絵を描いているの!? お医者さまに無理はしないようにときつく言われたばかりでしょう? この前みたいに倒れたら大変な思いをするのはあなたなのですからね!」
「大丈夫ですわ、お母さま。今日はいつもよりお身体の調子がいいのです。自分のことは自分が一番よくわかっておりますから、あまり心配しないでください」
わたしが気丈に笑ってみせますと、お母さまは納得してお部屋から出ていきました。
絵を描くようになってからというもの、嘘をつくのもお上手になった気がします。
そう、時間はいくらあっても足りません。
お身体の調子がいいときだけ筆をとっているのでは、わたしが思い描いた空想の世界は、神さまがお作りになった素晴らしい世界に負けてしまうのです。
だからもっともっと、目を懲らしましょう。さらにもっともっと、手を動かしていきましょう。そしてもっともっと空想に身をゆだねていきましょう。だって絵を描くことでしか、わたしは病弱な少女以外のなにかに変わることはないのですから。
今日はとくに描線に勢いがあるような気がいたします。いつもより絵の具の乗りがいいような気もいたします。息が苦しくて手が震えてしまいますけど、それもまた不規則な筆の動きを生み、思いもよらない力強さが宿っている気がいたします。口からぼとりと血が垂れ、カンバスの余白を真っ赤に染めてしまいましたけど、その色の鮮やかさたるや、きっと誰もが感嘆の声を漏らしてしまうはずでしょう。
わたしはようやく求めていたものを、手に入れることができるのかもしれません。
神さまがお作りになったこの世界を飛び越えて、頭の中に思い描いた空想が、今この手で生みだされようとしている作品が、わたしのことを受け止めてくれるのです。
ほら、こうして腕を伸ばすだけで――真っ白なカンバスはどこまでもどこまでも広がっていき、窓の外から見えていた景色はどんどんと遠ざかってしまうのですから。
きっとわたしはわたしの作りあげた世界で、いつまでも自由に飛び回ることでしょう。