1−2:ラノベしか読んでいないやつの作品なんぞクソもいいところだ。
文字数 5,759文字
ぼくがはじめてその名前を聞いたのは、渡された原稿を読み終えた直後のことだった。
場所は渋谷の一角にあるごく平凡な居酒屋。薄い壁によって世間から隔てられた個室は、フィクションにうつつをぬかす作家が顔をつきあわせるにはもってこいの空間だ。
「うちのレーベルで書いている人ですか? まだご挨拶したことはありませんね」
「バカを言うなよ兎谷くん。百年前に死んでいる男だぞ」
一方のぼくこと
デビューのきっかけとなった新人賞で金輪際先生が選考委員をやっており、そのときのご縁でこうしてたまに二人で呑むようになったのである。
「百年前というと大正のころ、モノクロ写真の時代ですか。文壇だとちょうど芥川龍之介が活躍していた時期ですね。……うわ、三毛別羆事件が数年前?」
「スマホで調べながら話すのはやめたまえ。まあ欧山概念もそのころに生きていた作家でね、かつては教科書にも載っていたほどの文豪さ」
「はあ、不勉強なものでお恥ずかしいかぎりです。話の流れから察するに、この絶対小説なんたらというのはその人が書いた原稿なのですか」
金輪際先生はにっこりとうなずく。彼から「読んでみたまえ」と唐突に原稿を渡されたときはなにごとかと思ったが……どうやら文芸オタクのおっさんが、持ち前のコレクションを自慢したいだけらしい。
ぼくはあらためて、欧山概念の原稿に目を向ける。
およそ百年前というだけあり、今どき滅多にお目にかかることのない、原稿用紙に鉛筆で書き記された直筆原稿だ。
縦に並んだ文字はクセがあるものの読みやすく、パソコンで執筆されたものにはない独特の力強さがある。
それが経年によってセピア色となった用紙に羅列されている様は、デザイン画のような味わいがあり、額縁に入れて飾ればインテリアにもなるだろう。
しかし……保存状態がよすぎる気もする。百年前のものにしては紙に妙なコシがあり、新品の紙幣に触れたときのような違和感があった。
ぼくは若干の疑念を抱きつつ、先生にたずねる。
「ずいぶんと値が張りそうな代物ですね」
「まずは内容についての感想を述べるべきだろう。いきなり金の話をはじめるとは……君はどこまで即物的な男なのかと心配になるよ」
「言われてみりゃそうですね。でも渡された原稿って序文だけじゃないですか。つまりこのあと、なにかしらの物語がはじまるわけですよね?」
「まあ、そういうことになるのかな」
「だとすれば内容について感想を述べるのは、この原稿からではなく実際に出版された本を読んでからにしたいです。序文だけで判断するのは作品に失礼ですから」
しかし金輪際先生は首を横に振る。
彼は一抹の悔しさを滲ませた声で、ぼくにこう言った。
「残念ながらそんなものはない。君が手にしているものは欧山概念の遺作であり、彼が死の瀬戸際に書いたという、序文だけの未完成原稿なのだ」
「……なるほど。そういったものなのですか」
神妙な顔つきで返答するものの、なんとなく金輪際先生にしてやられた気分になった。
後出しでコレクションにまつわる格調高めの背景を語られると、己の慧眼のなさが浮き彫りになってしまうし、だからとって今から「言われてみれば、文字からパワーを感じますね」などと感想を述べようものなら、それこそ恥の上塗りだ。
一方のあちらは事前に勉強してからご購入あそばれたわけで、したり顔のおっさんが無知な若者にマウントを取る、飲み会でおなじみの構図を完成させていた。
文芸オタクもオタクはオタク。
今宵の先生はさぞかし早口でさえずってくれるだろう。
ほら、このように。
「比類なき文才を持ちながらも、わずか一作で夭折した文豪、欧山概念。彼唯一の著作である【
「ぼくは昔からラノベばっかり読んでいましたので」
「君もれっきとしたプロなのだから、固定観念にとらわれず幅広いジャンルに手をだしなさい。ラノベしか読んでいないやつの作品なんぞクソもいいところだ」
「して、原稿にまつわるお話の続きは? ぼくもすこし興味がわいてきましたよ」
説教がうざいので話題をそらすと、金輪際先生は再びしたり顔でうんちくを語る。
「代表作である化生賛歌は、欧山が同人誌に寄稿していたころの短編を再構築した連作小説だ。つまり死の間際に書いていた【絶対小説】のほうは、彼がはじめて挑戦した長編作品ということになる。さきほど私が話したように、完成することがなかったとはいえ」
「なるほど。欧山作品のファンであれば、喉から手がでるほど読んでみたいでしょうね。金輪際先生としても書きかけの原稿を眺めつつ、かの文豪が頭の中に描いていた長編とは、いったいどんなものだったのか……なんて空想したりするのですか」
「まあ、そういう楽しみかたもある。あるいは自らその続きを書いてみるなども」
それはいかにもプロの作家らしい戯れである。
欧山概念という文豪も未完成の原稿を遺して死ぬのはさぞかし悔しかったであろうから、後世の人間がその未練を晴らすというのは美しい流れかもしれない。
他人が書いた原稿の出来映えに満足できず、怨霊として化けてでる、というオチもありえそうではあるが……。
「欧山概念はとにかく謎の多い作家だ。原稿の受け渡しは代理人を通してのみ、本人は公の場に一切顔を出さず、死後百年経った今でもどんな人物だったのか謎のまま。そのうえ原稿の受け渡しをしていた代理人のほうも同時期に病没してしまい、未完成の絶対小説は所有者不在のまま放置されたという。やがて原稿は戦時中の混乱によって紛失し、今では実在そのものが疑われるような、幻の代物となってしまった」
「そりゃまたすごい。ちなみに鑑定書はあるんですか?」
「現物を見れば疑うべくもない。文字にパワーがあるじゃないか」
つまり本物だと保証するものはない、ということか。聞いているだけで不安になってくるものの、話はさらに明後日の方向に進んでいく。
「あえて主張するまでもなく、絶対小説は実在している。最初の持ち主、つまり欧山概念の手から離れたのち、原稿はたびたび発見され一部で話題になった。そのたびに所有者が生まれるものの――どういうわけかやがて、再び紛失してしまうのだ。まるで原稿そのものが生きていて、新たな所有者を探して放浪の旅に出るように」
そんなふうにめぐりめぐって今、こうして目の前にある、ということか。
ぼくはそう思いつつテーブルに目を向ける。
ところが確かに置いた記憶があるのに、原稿は今や影もかたちもない。目を離しているうちに、先生が鞄にでも仕舞ったのだろうか。
一抹の不安を覚えるものの、早口で語られていたうんちくが思いのよらない方向に飛躍したので、ぼくはそのことをすぐに忘れてしまう。
「しかし絶対小説の価値はなにも文化的なものだけにとどまらない。いわく好事家たちの間でこう囁かれているのだ。――絶対小説を手にしたものは文豪になれる、と」
「……は? どういう意味です?」
思わず耳を疑う。原稿にまつわる話がやけにオカルトじみてきた。
金輪際先生は「ここから先が面白いところだぞ」というような表情で、
「欧山が死の間際に書いた原稿には怨念がこもっており、それが魔術的な力となって所有者にインスピレーションを与えるというのさ。結果として、欧山が持っていたような比類なき文才が所有者となったものに宿る、という仕組みだ」
「ははあ、いかにも骨董品の逸話という感じですね」
「さては君、本気にしていないだろう。ところが実際に原稿を手にして、成功した人間というのはいるんだよ。あるものは明治を代表とする詩人となり、またあるものは劇作家として数多のヒット作を世に送りだし、またあるものはノーベル文学賞の候補となったという」
「具体的な名前を出してもらわないことには信憑性が……」
すると金輪際先生はふんと鼻を鳴らし、
「ここで彼らの名を明かすことはできない。当の作家からすれば『オカルトアイテムで文才を手に入れました』なんて黒歴史もいいところではないか」
「まあ、そりゃそうでしょうけども」
「おかげで今や業界のタブーとなっている。そこそこ数字を出している程度のクソラノベ作家なんぞ、あっという間に潰されて終わりさ。あるいは闇の出版業界人の手にかかり、東京湾に沈められてしまうやも。……おお、怖い怖い」
といって肩をすくめてみせるので、彼のうんちくをどこまで真面目に聞けばいいのやら。
すくなくとも半分以上は与太話だろうし、適当に受け流しておくべきか。
「で、先生に文才は宿ったんですか? 読んだんですよね、原稿」
「うむ……。しかし残念ながら私は、欧山概念の魂に選ばれなかったらしい」
「ああ、選ばれるとか選ばれないとかもあるんですか」
「だからせめて、君に文才が宿らないものかと思ってね。私たちはとてもよく似ているだろう?」
「どうでしょうねえ」
これが外見についてなら、ステロイド増強されたぬらりひょんに似ていると言われたところで、ぼくは「ご冗談を」と鼻で笑うだろう。しかしこと作風の話となれば、彼の小説から影響を受けているというのは自他ともに認める事実である。
編集者どころか読者ですらそう言わしめるほどだから、弟子に雪辱を果たしてもらおうとした先生の気持ちもわからないではなかった。
とはいえぼくとて、文豪の力が宿ったような雰囲気はまったく感じられない。
ていうかこのおっさん、もしかしなくても詐欺にあっているのではなかろうか。
話を聞けば聞くほど、怪しげな壺を売りつける悪徳業者の気配が感じられる。
ぼくは怖々と、最初にした質問を再び投げかけてみた。
「ずいぶんと値の張りそうな代物ですね」
「ハハハ。たかだか三百万で文豪になれるなら安いものだ」
いよいよ頭が痛くなってくる。
ピュアな三十代男性をなるべく傷つけないように、ぼくはどうやって真実を伝えればいいのやら。
しかし妙案が浮かぶより先に、金輪際先生はこう言ってきた。
「さて、そろそろ原稿を返してもらおうか。うっかり紛失してしまうといけないし」
「はい? 先生が鞄に仕舞ったのでは?」
お互いの間に、妙な空気が流れる。
それが重苦しい空気に変わり、やがて激しい口論が発生し――最終的にケンカ別れするまでに有した時間は、ぼくが原稿を読んでいた時間よりも短かったように感じられた。
◇
結局のところ原稿は見つからず、今は一人で夜の渋谷を歩いている。
季節は八月の終わりごろ。終電も近いというのにいまだ暑さは衰えることなく、背中からじわじわと汗がにじんで気持ちが悪い。
ぼくは酔いを覚ましつつ帰ろうと、渋谷駅からそう遠くないマンションを目指してひたすら歩き続ける。
その間に考えるのはもちろん、居酒屋で起こった事件について。
原稿を渡されたときから紛失してしまうまで、店員さんを含め誰も個室に来ることはなく、あの空間にはぼくと金輪際先生しかいなかった。
つまり原稿そのものが放浪の旅に出たのでなければ、二人のうちどちらかが持っていなければおかしいことになる。
しかしぼくは当然のこと、先生も覚えがないという。いかに酒の席とはいえ、テーブルに置いた紙束の所在がわからなくなるほど、酔っていたわけでもなかろうに。
こういった問題が発生したとき、往々にして責任を押しつけられるのは立場の弱いほうである。金輪際先生は「ちゃんと探しとけよ!!」と捨て台詞を残し、ネオン煌めく風俗街に消えていった。
しかしぼくにどうしろというのか。
まさか弁償しろというのではあるまいな。
そこまで考えたとき、ふと閃いたのは詐欺の可能性だ。
つまり金輪際先生が後輩から三百万円をだましとるべく、今回の計画を考えついたという説である。
しかし『そこそこ数字を出している程度』と自虐ネタを披露していたものの、彼はぼくが所属しているレーベルの看板作家。
アニメやドラマの原作になるほどのヒットはないとはいえ、詐欺を働くほどお金に困っているとは思えない。
となれば、悪質なイタズラか。
困ったことに一番ありえそうな話である。
後日、にやけ面を浮かべた先生がドッキリ大成功のプラカードを掲げて現れたら……ぼくは迷うことなく渾身の右ストレートをぶつけるだろう。
先輩とはいえ容赦はしない。たるみきった貴様のアゴを粉砕してやる。
そんな想像をしつつパンチの構えを試みたところ、腕に奇妙なものを見つけた。
手首から肘にかけて、奇妙な模様が浮かんでいたのである。
よくよく眺めてみると、それはどうやら文字であるようだった。
欧山概念の。
原稿に書き記されていた。
縦に並んだ。
クセのある。
文字。
それがタトゥーのように――びっしりと腕に刻まれている。
ぼくは尻餅をついた。
アスファルトは固く、腰にじんじんと痛みが響く。
不思議なことに、目を離した隙に奇妙な文字列は消え失せていた。
「あ、あれ……? 気のせいか?」
思いのほか酔いがまわっていたのか。
ぼくは首をかしげつつも、同時に言いようのない胸騒ぎを覚える。
長い長い物語がはじまる、決定的な瞬間を目にした。
今にして思うとあれは、そんな期待と不安のまじった予感だったのかもしれない。