3-8:ここにいるの。あの人の妹が、今も。
文字数 4,655文字
「なにそれ。わたしが嘘をついているとでも言いたいわけ?」
帰宅途中のサラリーマンや学生が行きかう繁華街。
まことさんは握っていたぼくの手を離すと、スタスタと前を歩いていってしまう。
さほど背の高くない彼女を見失わないよう、慌てて追いかける。
「だって最初から君は嘘ばっかりじゃないか。あんなに素直で優しそうなまことさんはどこに消えたのさ。いや、決して今の君が悪いって言いたいわけじゃないけど……」
「かわいそう。もてあそばれちゃったのね」
「お願いだから、真面目に話を聞いてくれないかな」
ぼくががっくりと肩を落とすと、まことさんは振り返ってイタズラ小僧のような笑みを浮かべる。
それからまたもや挑発的な声音で、
「もてあそばれたいんじゃないの、わたしに。だって
「どこがどう繋がってその結論になるのか、ぼくにはよくわからないよ。君は人間であって、小説じゃないんだし」
すると彼女はクスクスと笑って「本当にそうかしら?」と返してくる。
その笑顔は恐ろしいほどに魅力的で、目の前にいる女の子は幻なのではないかとすら、思えてしまう。
だけど今回ばかりはさすがに、夢オチということはないはずだ。
「恋愛ものにしてもファンタジーにしても、どんでん返しがあるSFやミステリとかならなおのこと、読んでいるときは作者の手のひらで踊っているわけじゃない。それをなによりも楽しんでいるわたしたちは、基本的にもてあそばれることが好きなのでは?」
それからまことさんは「あるいは作家になるくらいだし、もてあそぶことも好きなのかも」とつけくわえる。
彼女の期待に満ちたまなざしは、ぼくの顔にじっとそそがれていて、まるで『わたしをもてあそんでみてよ』と、誘っているかのようだ。
「……かもしれないね。でも今はそんな気分じゃないし、君にたずねておきたいことがたくさんあるんだ。できれば落ちついたところで話ができるといいんだけど」
「話をするだけでいいのかなあ。わたしと小説みたいなこと、してみたくないの?」
小説みたいなこと、か。
ぼくは再び、
あのときはまことさんもいっしょにいたのだし、ある意味においてぼくはすでに彼女と小説のような体験をしていることになる。
しかしあれは夢でしかなかったわけだから、彼女の記憶に最初からないはずだ。そのうえぼくとしても、あんなに恐ろしい冒険は二度としたくはない。
「話をするついでに遊ぶくらいならいいけど、どうせなら楽しいことにしよう。たとえばビリヤードとかダーツとか、なにか希望があれば言ってよ」
「まるでナンパしてるみたいね。でも兎谷くんて童貞でしょ。顔に書いてあるわ」
「あのさあ、お願いだからぼくの話をちゃんと――」
するとまことさんは急にぐっと距離をつめてきて、ぼくの両手をがっしりと握る。
それからロクでもないことを企んでいそうな表情で、
「じゃあホテルいこ」
「は?」
ぼくは思わず聞き返した。
あまりにも唐突だったので、頭がついていかなかった。
ぽかんと間抜け面を浮かべていると、まことさんはさらに具体的な希望をのべる。
「セックスしようよ。したいでしょ、兎谷くん」
「いや、だから、ぼくは……」
「したくないの?」
したいかしたくないかと問われたら、そりゃしたいに決まってるだろうに。
でもぼくはさっき、落ちついて話をしようと言ったばかりじゃないか。
なのにどうして、そういう流れになる。
「それにほら、ホテルなら落ちついて話もできるし。兎谷くんが我慢できれば、ね」
「なるほど」
なにがなるほどなのか、自分でもよくわからなかった。
しかしまことさんがぐいぐいと手を引っぱるので、流されるがままにピンク色の世界めがけて歩きはじめる。
やばい……。
どう考えても今、ぼくは彼女にもてあそばれている。
◇
というわけでラブホテルである。
知識としては知っていたけど、ドスケベなことをするために作られた空間は、当然のようにドスケベなムードに満ちていた。
おかげでどうにも落ちつかない。
ところがロボットのようにギクシャクしているぼくとは対照的に、まことさんは慣れたような感じでリモコンを見つけると、
「たぶんこれ、部屋が光ったり、ベッドがくるくる回ったりするよ」
「へえ……すごいね」
気の抜けた返事をすると、本当にベッドが回りはじめる。
ぼくが呆けたように無言でそれを見つめていると、まことさんはなにがおかしいのか、腹を抱えて笑いだす。
やがて回転が終わると彼女は急に命令口調になって、
「ベッドに座れ」
ぼくは言われたとおりにする。
これから、なにがおっぱじまるというのか。
いや……ちがう。
相手のペースに呑まれてはいけない。
「待って待って!! 落ちついて話をするんだよね、これから!!」
「だからそうしましょって、わたしは思っていたんだけど」
「あ、そうなの?」
なぜだか残念な気分になってしまう。
ぼくの気持ちを知ってか知らずか、まことさんはこんな言葉を続けた。
「あなたは欲しくないの? 普通なら手に入れたいと思うはずでしょ」
最初はなんのことかと思った。
しばし考えて、絶対小説のことを言っているのだと気づく。
「比類なき文才が宿る原稿、か。それって結局どういうものなわけ。欧山概念みたいな小説が書けるようになるって解釈でいいのかな」
「たぶんね。あるいはもっとすごい力が秘められているのかも。……だって考えてもみなさいよ、自身の最高傑作を構想しておきながら、書くことのできなかった文豪の怨念が宿っているのよ。それってものすごいパワーになると思わない?」
確かに、死んでも死にきれないくらいには、悔しいと思うかもしれない。
そしてこの口ぶりからすると、まことさんはぼくが考えていた以上に、欧山概念が遺した絶対小説について詳しいようだ。
だからちょっと踏みこんだことを、たずねてみる。
「つまり君は、紛失した原稿が欲しいわけか。だから
「どうかしら。すくなくともわたしはまだ、満足のいくものは書けていないわ。あなたのほうはどうなの」
「満足するもなにも、今のところ結果らしい結果を残しちゃいないよ。だけどオカルトなんかに頼らないで、自分の力だけでなんとかするさ。でないとせっかく書きあげた作品が、欧山ナントカとかいう百年前の文豪の手柄にされちゃうだろ」
「理想ばかり語るのね。でも、いつまでそう言っていられるのかしら」
まことさんはそう呟くと、ぼくの顔をじっと見つめる。
そして彼女は例の挑戦的な目つきのまま、饒舌に語りはじめた。
「想像してごらんなさい。たとえば今の状況が、何年も何年も続くのだとしたら。いつまで経っても新作が出せず、あるいは苦労のすえにようやく本が出せたとして、だけどさっぱり売れず、読者にも酷評されて、また賽の河原に逆戻り。それとも運よくヒットを飛ばしたとして、ようやく結果を出せたと思ったら、次はもっと売れる作品を、もっと面白い作品をと、求められ続けられるのだとしたら。そうなったとしてもまだ、自分の力だけでなんとかすると、開きなおっていられるの?」
ぼくは考える。実際、どうなのだろうと。
いつだか僕様ちゃん先生も言っていたように、創作を続けていれば必ず壁にぶち当たる。
何度も何度も衝突しながら、心と体をボロボロにして、それでもなお挑戦を続けていれば、いずれ結果を出すことができる。
すくなくとも今は、そう信じている。
でも、本当にそうだとはかぎらない。
自分の力に限界があるのだとしたら。
それを痛いほどに実感してしまったなら。
文才が宿るというオカルトに手を出さないと、はたしてそう言いきれるのだろうか?
「兎谷くんはまだ、疲れていないだけ。でもあの人はそうじゃなかった」
誰のことを言っているのかは、すぐにわかった。
まことさんの言葉どおり、金輪際先生は理想を追い求めることに疲れていたのだろう。
デビューしたばかりのぼくよりも、ずっと。
訳知り顔でいる彼女に、ぼくはもうひとつ気になっていたことをたずねる。
「金輪際先生とはどういう関係なの。たぶんだけど、知り合いなんでしょ」
「だから、妹みたいなものだって」
ぼくは首をかしげる。
ところがまことさんは唐突に、話題を変えた。
「わたし、昔は身体が弱かったの。生まれつき心臓に欠陥があって、それでずっと本ばかり読んでいた。おかげで今や立派な文芸オタクになってしまったのだけど」
「へえ、そんなふうには見えないよ。ぼくが重度の引きこもりだったみたいに、君にも作家になるきっかけみたいなものがあったわけだ」
「当時はただ読むだけで、自分も書いてみようなんてこれっぽっちも考えてなかったわ。だから作家を志すきっかけはずっと先、たぶんあの人に会ってから」
「……金輪際先生と?」
ぼくが問いかけると、まことさんは肯定するように笑みを浮かべる。
それからくるっと身体を動かして、こちらと向かいあうように座りなおした。
「兎谷くんと同じ。心がずたずたになって、壊れそうになった時期があって。まあわたしの場合は精神的な意味じゃなくて、本当に死にかけたのだけど」
そう言ってまことさんは、謝恩会にいたころから羽織っていた紺のボレロを脱ぐと、中に着ていた白のブラウスのボタンを、ぷちぷちと外しはじめる。
ぼくがぎょっとして見守る中、彼女はあらわになった胸元に手をあてる。
「ほら見て、ここにちょっとだけ手術の跡が残っているでしょ」
「おお……うん。ある、あるかも」
「ちゃんと見て。なんなら触ったっていいし」
慌ててぶんぶんと首を横に振った。
白レースのブラジャーと柔らかそうな肌色にばかり目がいってしまうし、うっかり触ろうものなら、絶対に我慢できなくなってしまう。
真面目に話がしたいのか、やっぱり誘惑しているのか。
ぼくが計りかねていると、まことさんはすこし寂しそうな顔で、静かにこう呟いた。
「ここにいるの。あの人の妹が、今も」
「は……?」
驚いて目をみはる。
またオカルトの話だろうか。
戸惑っていると、まことさんは強引にぼくの手を取って、胸元の傷を触らせる。
きめ細かい肌ごしに、とくんとくんと心臓の鼓動が伝わってくる。
「兎谷くんはドナー登録してる? 金輪際先生はしてたみたいよ。あと、彼の妹さんもね」
まことさんにそう問われて、ぼくはなぜそんなことを聞かれたのか考える。
そしてようやく、彼女がなにを言おうとしているのか、理解した。
金輪際先生の妹さんは、確かに今も生きているのだ。
この柔らかな胸のうちに、移植されて。