第26話「“本当の”いい子」

文字数 2,245文字

 僕はハンカチを手渡し、母は彼女の頭を撫でた。
「ごめんなさい。あの後もお店には来たかったのですが、何と言うか、」
「いいのよ。色々あったんでしょう。」
「彼と同じ理由です。その、動物のことで。」
「辛かったわね。」

「でも、優しい心を持っているというのが分からないんです。その日は何もかも嫌になって、“こんな世界で生きていく意味はないし、人間なんて全員死んでしまえ”と思ったんです。」
 自分の発言に気づいた彼女は慌てて謝った。
「ごめんなさい。ひどいこと言っちゃって。」
「いいのよ。」
 母が優しく笑って頭を撫でると、彼女は再び泣き始めた。

「“だからこそ”あなた達は優しい心を持っているのよ。」
 母は僕と彼女の顔を順番に見た。
「どういうことですか?」
「多くの人はね、人や動物が悲しい目に遭っていることを知っても見て見ぬふりをしてしまうの。自分も苦しくなるのが怖くて、考えることを止めてしまうのよ。そういうのってどう思う?」
「最低だけど、人ってそういうものですから、自分を守るためには仕方ないのかなと。私だって無意識にそういう事をしてると思いますし、なので、何と言うか…」
 母は考えがまとまっていない彼女を許すように優しく頭を撫でた。
「そうね。なるべくなら苦しまずに生きていきたいから、私にだってそういう時はあると思うわ。でも10年前のあなた達は違った。優しい心を持っているからこそ、動物達の悲しい現実から目を背けず本気で受け止め、本気で悲しんだ。だから現実が、世界が嫌になってしまった。そうじゃない?」

 気がつくと僕も泣いていた。母の目からもまた涙が流れていた。泣いている我々3人に気づいた他の客は驚いていたが、すぐに猫カフェでの時間に戻っていった。

「私もあなた達と同じように動物のことを想って苦しみ、自暴自棄になって心を閉ざしていた。そんな時に、同じように考えていたお父さんと気が合って結婚したのよ。」
 母が後ろを振り返ると、それに気づいた父が優しく微笑みながら手を振ってきた。この天真爛漫な母にもそんな過去があったとは知らなかった。今まで心を閉ざしていたので聞いたことはなかったが、両親も僕らと同じような馴れ初めだったのか。それから結婚。

「お互いにそれぞれ別の仕事をしていたんだけど、お金を貯めてから退職してこの猫カフェを始めたのよ。そんなに儲かってる訳じゃないから、贅沢させてあげられなくてごめんね。」
「いいんだ。僕はこれ以上ないくらい贅沢で幸せな環境で育ててもらっていたと、最近になって気づいたんだ。」
「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない。」
 そう言って母は頬をつつく。
 泣いている彼女の膝の上で茶トラ猫も鳴いた。いつの間にか僕と母の膝にもそれぞれ猫が乗っていた。僕達はしばらく涙を流しながら黙って猫を撫でた。

「ごめんなさいね。せっかく遊びに来てくれたのに邪魔しちゃって。」
「とんでもないです。お母様の話を聞いて私は救われました」
「それなら良かったわ。」
 母は安心したように微笑みながら言った。

「あなた達は“本当の”いい子よ。傷ついた分だけ人は優しくなれる。」

 そう言い残すと母は立ち去って店にいる猫の世話を始めた。彼女は僕の手を強く握り、赤くなった目を細めて微笑んだ。
 それから僕らは1時間ほど猫達に遊んでもらい幸せな時間を過ごした。

 僕らは荷物を持って出口に向かうと、受付で両親が並んで待っていた。僕らは一緒に鞄から財布を取り出した。
「いいのよ、お代なんて。」
「でも、悪いですよ。」
「家族みたいなものじゃない、私達。」
 その言葉で結婚を意識した僕と彼女は、仲良く顔を赤らめて下を向いた。
「ほら、あなたはそのお金を彼女のために使ってあげなさい。」
 母から背中を押されて僕らは店を後にした。
「また来てね。」
 僕らが角を曲がって見えなくなるまで母は手を振っていた。僕らは自然と高校時代のバス停に向かっていた。お互いに話したいことが多すぎて上手く言葉をまとめることができず、黙って手を握りながら歩いた。

「この道を歩いていると、高校の時を思い出すわね。」
「そうだね。」
「あれから2年しか経っていないのに、20年くらい経ったような気がするわ。」
「20年後には40歳か。」
「そんなこと言わないでよ。」
 頬をつつかれる。
「私ってあの頃から変わったと思う?」
「そうだね。結構変わった気がする。」
「そっか。」
「でも変わらず君は素敵だよ。」
「ありがとう。あなたもよ。」
 僕らは歩くのを止め、一目も気にせず昼間の道端で口づけした。

 バス停に到着。
「今から実家に帰ってね、両親にこれまでのことを全て話すわ。」
「きっと分かってくれるよ。」
 高校生の時はバスへ乗り込む彼女に何を言えばいいか分からず苦しんでいたが、今は不安もない。特別な言葉は必要はないとも感じている。彼女はあの頃と変わらず1番後ろの席に座り、小さく手を振っていた。今までで一番素敵な笑顔だった。

“人は不完全だからこそ美しい”

 僕は久しぶりにその言葉を思い出した。

 そうして僕らは大学生活に戻っていった。
 僕は以前よりも真面目に心理学を勉強するようになり、彼女も休まず大学に通った。彼女はしばらく休んでいたので単位が足りず留年することになったが、気に病んではいないようだった。

 僕は大学3年生になり、彼女は再び2年生をやることになった。気持ちも落ち着いてきた彼女は、駅のパン屋でアルバイトを始めた。
 彼女がアルバイト中の時間に、そのパン屋を訪れてみた。
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