第10話「“いい子”」

文字数 3,606文字

 僕は泣いていた。

 彼女はハンカチを手渡して、「ごめんね」と言いながら僕の頭を撫でた。彼女の目からも涙がこぼれ落ちていた。
「この話をしたのは あなたが初めてよ。」

 しばらくして僕は泣き止むと、ハンカチを彼女に返した。
「ごめん。」
「なんであなたが謝るのよ。」
 彼女は化粧が崩れかけた顔で微笑みながら僕の頬をつついた。
「辛い思いをしたのは君の方なのに。」
「一人で話しすぎたわ。私の方こそごめんなさい。」
「君も謝らなくていいんだよ。」
 僕は一世一代の覚悟で頬をつついてみると、彼女は少し驚いてからクスリと笑った。
「こういう気持ちだったのね。」
 彼女の柔らかい頬に触れた指の感触がいつまでも残っていた。

「実は僕も同じなんだ。10歳の時に、その、動物のことで。その時に生きる意味を失ったんだ。」

「公園で色のない目をしながら世界を眺めたり、優しい目で猫を撫でているあなたを見た時に そんな気がしたの。だからあなたと話すため、勉強を口実に誘ってみたのよ。」

 僕らは再び歩き始めると、大きな川にぶつかった。なんとなく左に曲がって川沿いを歩くことにした。ふと彼女の方を見てみると、儚げに微笑んでいた。

 僕は彼女の手を握った。勇気を出して恋人繋ぎをしてみた。彼女の手は思ったより小さく、柔らかかった。彼女はそれを受け入れるように軽く力を込めて握り返した。彼女の顔は見れなかった。
 それから彼女は前方を見ながら続きを話し始めた。

「生きる意味を失ったその日は、布団に潜っていつまでも一人で泣いたわ。両親には言えなかった。
 夜中になっても眠れなかった私は、犬達がいる部屋に行った。床に寝転んで彼らを眺めながら また泣いた。そんな私を見て何かを察したのか、彼らは優しく寄り添ってくれたわ。私は彼らを撫でながら「ごめんね。」と何度も言って、寝ている両親には気づかれないよう声を押し殺しながら泣いた後、そのまま眠っていた。

 私は心を閉ざしたことを周りに悟られないよう、今まで以上に“いい子”であり続けたわ。いつも笑顔で、誰に対しても平等に優しくポジティブで、"前まで好きだった"ディズニーランドのキャストさんをイメージして完全に振舞った。成績も良くて両親の手伝いも頑張るし、困っている人がいたら真っ先に助けに行ったわ。
 “生きる意味なんて無い”と思いながらこんなことするのって馬鹿みたいでしょう?」
 彼女は下を向いたまま皮肉っぽく笑った。
「いいや。僕にはそこまでする気力はなかったから、君はすごく強い人だと思ったよ。でも辛かったでしょう?」
 彼女は涙を浮かべながら微笑んで、僕の方に顔を向けた。
「ありがとう。やっぱりあなたは優しい人よ。」
 彼女は再び前方に顔を向けてから続きを話した。
「私は生きる意味を失った世界で、ただ時が流れるのを待った。感情を殺して、ロボットのように淡々と“いい子”をやり続けた。
 誰かと心を通わせる事なんてできないと思っていた。」

「あなたと出会うまでは。」

 彼女は再び僕の目を真っすぐ見つめた。今度は僕も彼女と目を合わせることができた。僕らはしばらく黙って手を繋ぎながら川沿いの道を歩き続けた。
 彼女は斜め上の空を見ながら呟いた。

「虚無主義(ニヒリズム)」

 それから彼女は僕の顔を見ながら続けた。
「哲学の授業で、そんな思想が出てきたのを覚えてる?」
「覚えてるよ。」

「"絶対的な価値が無くなる。絶対的な目的がなくなる。絶対的な意味がなくなる"。そんな感じだったわね。」

「それを聞いて、あなたはどう思った?」
「僕と同じ考えだと思った。」
「私もよ。」
 彼女は足元に目線を向けた。
「それでね、哲学の授業が終わった後の休み時間に、私はあなたの近くを通りかかったの。あなたは虚無主義のページを食い入るように見ていたわ。」
 僕は哲学の教科書を睨む自分の姿を想像してみた。
「やっぱりストーカーみたいで気持ち悪いわよね。勝手に見てごめんなさい。」
 彼女は軽くため息をつきながら首を左右に振った。
「そんなことないよ。君が僕のことを見てくれてるなんて知らなかったから、素直に嬉しいよ。」
「よかった。」
 彼女は安心したように微笑みながら斜め下の地面を見つめた。

「人は不完全だからこそ美しい。」

 ふと思い出した言葉を言ってみた。
「それも哲学の教科書に載ってたの?」
「いや、多分ないと思う。」
「あなた、その言葉が好きなのね。」
「どうしてそう思うの?」
「何となくよ。あなたの目を見てそう思ったの。」

 彼女は僕の方を見ながら、自動販売機とベンチが隣り合っている所を指さした。
「ねえ、少し休憩していかない?」
「そうしよう。ちょうど歩き疲れてきたところなんだ。」
 僕らは同じミネラルウォーターを買い、並んでベンチに座った。水を飲む彼女の姿はやはり美しかった。
「そんなに見られたら恥ずかしいじゃない。」
 彼女はペットボトルを持っていない方の手を使って、僕の頬を指でつついた。
「ごめん。」
 僕はすぐに顔を背けて水を飲んだ。正直に言うと、僕はこのやり取りが心地よくなっていた。

 1羽のカモメが川の上を なぞるように飛んで行った。その鳥が空の彼方に消えるまで僕らは目で追い続けた。
「ねえ、鳥になりたいと思ったことはある?」
 彼女は空の一点を見つめながら言った。
「どうだろう。少なくとも今は思わないかな。」
「どうして?空を飛ぶのって気持ち良さそうじゃない。」
「でも鳥になったらそんなこと考えていられるのかな。野生なら危険が付きまとうし、人に飼われるなら窮屈だし。」
 彼女はクスリと笑った。

「あなたのそういうところ好きよ。」
 そう言って彼女は

 僕の頬に口づけした。

 今、何が起きた?
 僕はズボンが破れるのではないかと思うほど激しく勃起した。そのことに気づかれないよう、ペットボトルで隠しながら思いっきり押さえつけた。彼女の方は見れないので、気づかれたかどうかは確認できない。

 彼女は僕に“好き”と言って“頬に口づけした”。これはもう、そういうことでいいのだろうか。
 ただ彼女は魔性の女だ。こういうことを誰にでも自然にできるのかもしれない。
 もう何も分からないので考えるのをやめよう。 期待して違った時が怖いので、僕はなるべく気に留めないようにした。こんなシーンも恋愛ドラマであったような気がする。
 そんな事を考えているうちに、僕の鼓動とズボンの方も落ち着いてきた。
「こうしてベンチに座りながら ぼんやり世界を眺めていると、まるで放課後の公園みたいだわ。」
 彼女は先程の行為が無かったことのように自然と話し始めた。
「そういえば、君は人気者なのに同級生から遊びに誘われたりはしないの?」
「今は無いわね。初めは誘われていたけど。」
「そうなんだ。」
「男も女も みんな私の虜だし信頼も厚いから、何を言っても信じてくれるのよ。家の用事だとかペットの世話だとか適当に理由をつければね。そうやって"私は忙しい人だ"って皆に刷り込んだから、遊びには誘われなくなったの。私って人の心を読んで操るのが得意なのよ。あ、でも、さっきのは」
 彼女は口元を触った後、下を向いて ため息をついた。
「最低な女だと思ったでしょう?」
「いや、そういうのも人間らしさだと思うよ。」
「そういえば、前にも放課後の教室でこんな話をしてしまった気がするわ。人間なんて大嫌いとか。」
 僕は今の今までそのことを忘れていた。あれだけ衝撃を受けたのに、彼女を前にすると他のことが何も考えられなくなってしまうのだ。

「あなたの顔を見ていると、いつの間にか本音を話してしまうのよ。あんな腹黒いこと考えてるなんて、他の人には絶対言えないわ。」

「私のこと嫌いになったでしょう?」
「なってないよ。」
「あんなに最低なこと言ったのに?」
「うん。僕も同じように冷めた目で世界を見ていたから、むしろ嬉しかったんだ。」
「そっか。良かった。」
 彼女は儚げに笑いながら下を向いた。

 “人は不完全だからこそ美しい”
 また思い出した。

 彼女は落ち着かない様子でペットボトルを触ったり、指をいじったりしていた。
「あの、さっき言った、人を操るとか、そういうの、あなたにはしてないのよ。というか、できないの。本当よ?」
 信じがたい。
「わかったよ。ありがとう。」
 彼女は深呼吸して気持ちを落ち着かせた。
「世界から色が消えてからの私は心を動かされることもなくなり、一度も泣かなかったわ。」
「あの日の放課後までは?」
「そう。」
「本当に悪かった。」
「もう謝らなくていいのよ。この前も言ったでしょう。」
 そう言ってクスリと笑いながら僕の頬をつつく。
「なんというか、あの日から君は変わってしまったような気がするんだ。上手く言えないんだけど、何か君の大事なものを奪ってしまったような。」
 彼女はゆっくりと首を横に振ると、少し崩れた髪を直してから僕の方を向いた。

「真逆よ。」
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