第10話

文字数 9,750文字

 五十嵐弁護士から荒川あてに連絡があったのは翌日の夕方だった。
「私も御社の案件をたくさん扱ってきて、裁判では相手側から相当な恨みを買ったこともある。しかしこんな人は初めてだ。まだ争いになったわけでもないのに」
 ミサちゃんだった。
 まず電話口で、イニンって何なのよ、悪徳弁護士があたしのお金を横取りしようとしているんでしょう、とヒステリックに喚き散らしたという。その後、本人と数人の若い男性が事務所に乗り込んできて、応接室とその前の廊下に一時間ほど居座った。威力業務妨害だと警察を呼んだところ、いったんは出て行ったが、すぐにまた戻ってきて同じことをした。その間じゅう訳のわからないことを喚いていた。
「そのとき私は外出していたのだが、彼女が連れてきた若い男たちが、どこでどう調べてきたのか、わたしの家族のことを中傷するような話を事務員たちにしていったらしい。後でその話を聞いた私は電話で、脅しのつもりかと言ってやった。すると若い男が出てきて、よう、おっさん、わけのわかんねえことしてるとどうなっても知らねえぞ、と始めた」
 折衝委任の弁護士に受取人決定の権限などない、文句なら妙な書類を残して死んだ息子に言えと、何べん言っても聞く耳を持たない。どうやら意味や状況を理解せず、とにかくいやがらせをしろと言われた若い連中が、うるせえこの野郎、と繰り返しているように思えたという。
「私はこの手の話には慣れているから別にどうということもないのだが、さすがに事務所まで乗り込んでくる輩ははじめてだ。事務員がすっかりおびえてしまって困っている。これ以上ひどくなったら、警察に本気でやってもらうことになるが、東西生命さんはそれでかまわないだろうね」
 もちろんです、と荒川は答えた。
 その日の夜、原田は帰宅途中で、五人の男たちに囲まれた。
 自宅マンションまでもう少しのところだった。フィットネス・ジムを出たあたりから背後に妙な気配を感じてはいた。住宅街の細い道。人通りが途絶えた瞬間、いきなり肩に手をかけられ、そのまま近くの路地まで引きずられた。
「何だ、おまえら」
 振りほどいて顔を見ようとしたが、みなマスクをしていて顔立ちや表情がわからない。三人が原田の背後から両腕と首回りを抑え、一人が見張りに立った。
「放せ。くそ」
 誰もしゃべらず、無駄な動きがない。かなり場馴れした集団のようだ。くそ。油断した。こういう事態は、あってももう少し先だと思っていた。
 ――たっくんか、弟の債権者か――
 リーダー格らしき男が原田の顔の上に身を乗り出した。
「母親に払え。いいな。今日は何もしないが、この次は指だ。後は腕、足、目といくぞ」
 何もしないと聞いて気がゆるんだ瞬間、男のこぶしが原田のわき腹に刺さっていた。
「……ぐっ」
「こんなもん、何かしたうちに入らねえからな」
 男たちは一斉に立ち去った。原田はあまりの苦痛に、しばらくその場で悶絶していた。何とか立ち上がれるようになるまで、通行人は一人も通らなかった。

 幸い骨折などはなかった。頭を打ったわけでもないし、面倒なので病院には行かなかった。翌日は昼頃に出社した。課長には自宅の前で転んだので遅れると報告していた。席につくと荒川が言った。
「大丈夫か」
「ああ」
「本当に転んだのか。そうは見えないが」
「打ったのは腹だからな」
「腹でも、通常は腕か手のひらに擦過傷が残るものだが」
「残らないこともある」
 荒川に事実を告げたらまず間違いなく警察に届けろと言うだろう。そうなると時間を取られて面倒だ。大した怪我じゃないし、暴力沙汰に巻き込まれたという噂でも流れたら転職活動に影響が出る。多勢に無勢とはいえ簡単にやられてしまったのも癪だ。
 課長から呼ばれ、本当に自分で転んだんだなと念を押された。こちらは酔ってけんかでもしたんじゃないかと自分の管理責任を心配している。
 ――まず部下の体を気遣えっていうんだ――
 不機嫌な顔をしていると、笹口佳奈子が寄ってきて小声で言った。
「あの、原田さん。お話があるんですけど」
「何」
 原田は警戒しながら答えた。小娘のなりをした疫病神。こいつが関わるとろくなことがない。なにしろ今後は腕の一本くらいは心配しなきゃならないんだから。
「ちょっと喫茶室に行きませんか」
「ここじゃ駄目なの」
「ええ、ちょっと……」
 目を伏せ、そっと左右に視線をやる。その素振りにかすかな女を感じて、原田はちょっとどきりとした。生意気そうな口元は角度によってはコケティッシュにも見える。
 五分後、原田は喫茶室で笹口佳奈子と向かい合っていた。気がつくとペットボトルのミネラルウォーターをおごらされていた。
「で、何」
「今朝は大丈夫だったんですか。転んだって聞きましたけど」
「ああ、大したことない」
「ほんとですか、よかったぁ」
 眉間に寄せたしわをぱっと開いて笑顔になった。気をつけろ。何か企んでいるぞ。
「君な、ちょっと……」
 昨日のことを注意しようとすると、それにかぶせるように、
「みんな心配してたんです」
「え。って、誰が」
「じつは原田さんのこと、一般職の間で噂になってるんですよ。ちょっとイケてるって」
 ミネラルウォーターを吹き出しそうになった。
「女子だけじゃなくて、若手の男子にも原田さんのファンは多いんです。同期の合田くんなんか、自分も将来は原田さんみたいに法人営業をばりばりやりたいって言ってます。私もそう思います。荒川さんは別だけど、他の上の人たちはみんな事なかれ主義っていうか課長や部長の言いなりで全然覇気がないのに、原田さんは上司を上司とも思ってないし、一本筋が通っている感じです」
 周囲にどう見えているかなんて今の部署に来てからは考えたこともなかった。上に媚びたりする気はさらさらないが、そんなことを言われたって別にうれしくもない。
「用ってのはそれ?」
「違います。一つお願いがあるんです」
 思いつめたような眼差し。
「じつは私の友だちが趣味で小説を書いてるんです。ブログで」
「しょうせつ」
 こくん、とうなずく。
「推理小説です。あの子の書くお話、面白いんです。犯人が全然わからなくて」
「ふうん……」
「それで、原田さんに登場人物として出てほしいんです」
「は?」
「その子が次に書こうとしているお話が、社内の人間関係のもつれから起こる殺人事件なんです。その登場人物の一人が原田さんそっくりのキャラなんです。スタバでその子の話を聞いているうちに、原田さんの顔が浮かんじゃって。友だちに話したらモデルになってほしいって。お願いです。今度いっぺん、その子の取材に応じてもらえませんか」
 ぺこりと頭を下げる。
 ――ふうむ。おれは昨夜暴漢に襲われた。ケンちゃんは今頃、命がけの金策に走り回っている。今こいつが話しているのは若いOLが趣味で書いている推理小説――
 妙な脱力感。別に不快というわけではない。この落差が世の中ってことだ。
「まあ、いいよ」
「やったぁ。ありがとうございます」
 周囲の視線を集めるほどの喜びようだ。疫病神の笑顔。
「条件がある」
 笹口佳奈子の表情がちょっと不安気になる。
「何でしょう」
「いい男に書くこと」
 再び笑顔になった。
「わかりました。伝えておきます」

 次はユミちゃんの番だ。金曜の午後にかかってきた電話を荒川がとった。
「この間のホテルの喫茶店に午後七時に来てくれと言われた」
「また遅い時間だな。弁護士委任の件は伝えたんだろう」
「別件だ。生命保険に加入したいそうだ」
 原田は鼻で笑った。
「支社を紹介してやれよ。おれたちが募集したって成績にならない」
「彼女は、君のような優秀なセールスから説明を受けたいと言っている」
「おれの経歴を知ってるのか」
 ――興信所か。妹もなりふり構ってはいられなくなってきたか――
 行きたいわけがない。が、断ったらそれを口実に苦情にしようという魂胆かもしれない。こいつを行かせるか。いや、それは妙案とは言えない。二人きりなんていくら何でも――ユミちゃんが気の毒だ。
「どういう意味だ」
「冗談だよ」
 二人で行くことにした。ヤバそうな苦情対応のセオリーだ。荒川は直前に他社との会合があるというので、十分ほど前に現地で合流することにした。
 ところが原田が着いてみると、約束の喫茶店にはユミちゃんも荒川も見当たらない。ロビーフロアを探してみると、奥のバーカウンターにユミちゃんだけがいた。
「原田さん。お待ちしていたわ」
 不自然なほど明るい声。この前よりも少しばかりメイクが濃く、頬も上気している。
「どうも」
 近くまで行ってわかった。酔っている。胸元のえぐれた黄色のワンピース。体の線が出るデザインだ。
 ――よくねえな――
 長居は無用だ。原田は辺りを見回した。
「荒川はまだ来ていませんか」
「来たわよ。でも忘れ物をしたからいったん会社に戻るって」
「そうですか。――ちょっと失礼」
 原田が確認しようと携帯を取り出すとユミちゃんがそれを制した。
「いいから座って」
 原田は隣りの椅子に腰を下ろした。やや距離を保って……。
 たとえば電車の中で痴漢でつかまる。冤罪だとしても問題になった時点でほぼ間違いなくすべてを失う。社会生活を営む男性、特に生命保険のような堅い業界のサラリーマンにとって下半身のスキャンダルは致命傷に近い。
 バーテンが寄ってきたが、原田は無言で首を振った。
「まずはちょっと飲みましょう」
「仕事中ですから」
「もう七時よ」
「お断りします」
「いいじゃない。ねえ、ちょっと。ビールを頂戴」
 バーテンを呼んで勝手に注文してしまう。
 グラスが運ばれてくると、ユミちゃんは乾杯、と言って自分のグラスをそれに当てた。 客の立場を利用した強引なやりかたに原田は怒りを覚えた。このまま席を立ってしまう手もあるが……この店にいる限りバーテンの目はあるな。
 ――よし、少しつきあってやるか――
「どうしたの。飲まないの」
 原田はわざと正面からにらむようにして言った。
「言ったでしょう。仕事中ですから」
「真面目なのねえ、原田さんは」
 ユミちゃんはふう、とため息をついた。酔いのせいか先日よりも色気が出ている。
 ――タイプじゃねえけどな――
「それでは、さっそく始めましょうか。私もこの後、予定がありますので。あなたのような責任あるポジションの方にお勧めなのは……」
 原田が広げたパンフレットを、ユミちゃんは横へどけた。
「そんなの後でいいわ」
「弊社へのご加入を検討中とうかがったんですが」
「原田さんにだったら入ってもいいんだけど、今日の本題はその話じゃないの。例の一億の件よ。原田さんだけには、本当のことを話しておこうと思って」
「本当のこと」
 ユミちゃんはうなずき、じっと原田の顔を見た。その瞳がうるんでいる。
「私に払ってほしいの」
 そらきた。
「その件はすでにお話しした通り……」
 ユミちゃんは緩慢な動作でかぶりを振った。
「わかってるわよ。弁護士にも話すわ。でも、その前に原田さんに話しておきたかったの。あの二人、全然お話にならないの。母はああいう人でしょう、私が代表として受け取って、それから三人で分けるというやり方を、どうしても承知してくれないの」
 そりゃそうだろう。
「私に相談されても困ります。弊社が仲介をすることはありません」
「でも、それじゃ解決しないわよ。兄の意思は私に残すことなんだから」
「その根拠は」
 ユミちゃんはそれには答えず、カウンターの奥の酒びんの群れを眺めながら続けた。
「私のお店には共同経営者がいるの。話したわよね。大学時代の友人で、事業を始めたいということで話が合った。いつも二人で夢を語りあったわ。卒業して、私はいったん就職したけれど、夢は変わらなかった。お店は、彼女と二人だからできたこと」
「そうですか」
「不景気だったけど、資金をつくるために株や為替のことを必死で勉強した。二十六歳のときにちょっとした儲けが出た。それを元手にしてあのお店を出したの」
 グラスの赤いカクテルを一口飲む。
「二人で手を取り合って喜んだわ。これで人生が開けると思った。兄を見返してやれると思った。だって、どんなに優秀だとしても、兄はしょせん自分で事業なんかできやしない。でも私はできる。そのことを証明してやったのよ」
 ユミちゃんから見ればそういうことだ。
「お店は順調だった。シェフは南イタリア帰りのちょっとイケメンをスカウトしてきて、ファッション雑誌に勤めている大学のOGの伝手をたどって、メディアでの紹介もしてもらった。たまたま近所に人気のモデルが住んでいて、気に入ってくれたこともあって、うまくいったわ。お客さんはどんどん増えた。ぜんぶ私の企画、私のアイディアだった」
 ユミちゃんは昔を懐かしむ表情になっている。原田は思った。これは一種の現実逃避、ケンちゃんが工場の事務所で見せた表情と一緒だ。ということは。
 ――ユミちゃん自身も、店はもう駄目だとわかっている――
 しかしまだ信じたくない。そういうことだ。彼女も崖っぷちの中小企業の経営者だ。ナイフの切っ先が心臓に達するまで、コートの内側でどくどくと溢れ出している血は誰にも見せないつもりだ。
「お店が順調なら、お金はお父さんに譲ってあげたらいかがですか。あるいは弟さんに」
「駄目よ」ユミちゃんの目が敵意に光った。「あんな工場、いくらお金を回したってどうせすぐに潰れるわ。そもそも仕事がないんだから。父は早く工場をたたんで、どこかの施設にでも入ったらいいのよ。弟はもっと無駄。大金を持たせたらあっという間にまたわけのわからない女とギャンブルに使ってしまうわ。あの子は典型的な馬鹿よ。何とか生きているみたいだけど、これ以上あの子に関わるのは人生の無駄。甘やかすことはない。母親は論外だし――もう、みんなどこか遠くへ行って、私の目の前から消えて欲しい」
 最後のほうはヒステリックに震えていた。
「みなさん、あなたの成功をうらやんでいるだけではありませんか」
「成功? ふふ、そうかもね。でも――」ぎろりと原田をにらんでくる。「――成功者でもお金は要るのよ」
「しかしお父さんの工場に比べたら……」
「彩花が手を引くと言い出したのよ」
「――はい?」
「あの子は私と違っていいとこのお嬢さま。実家は大病院の経営者で大金持ちなのよ。行く行くは医者と結婚してそこを継ぐの。レストラン経営なんてひまつぶしのお遊び。でも一千万を超える損が出るとなれば、さすがにお父さんが黙っていないわ。本当はお父さんのお金なんだから。資金を引き揚げると言いだした。これ以上利益が出ないなら手を引くって。あの子はもうお店に対する興味を、半分なくしかけてる」
 声に怒りが滲んでいる。
「私は違う。これは遊びじゃないのよ。最初は単にあの家から出るための手段だったけど、今はもう私のすべてなの。私にはうまくやる自信がある。でも出資額はあの子のほうが多いから、意見が違うときは彼女の言い分が通ってしまう。内装やメニューや音楽なんか、半年前から趣味が悪くなったのはあの子のせいなのよ。それまでは立地の割にうまくいっていた。食器や食材だってもっといいものを使っていたのに、あの子の顔を立てて仕入れ先を変えた。そんなことをしたらお客さんが減るのがわかっていたのに。さんざんそう言ったのに、あの子は『じゃ、やめちゃおっかな』って私を脅して……。案の定、店の評判は落ちた。常連客も減った。全部あの子のせいなのよ。それを私のせいにして。店を切り盛りしてきたのは私だからって。自分は何一つ貢献なんかしていないのに」
 ユミちゃんの目に涙が浮かんできた。
「それでも、あの子のほうがルックスはよかったから、雑誌やテレビの取材にはあの子を優先的に出すようにしてた。ちやほやされるのに慣れているから受け答えもそつがなくて、記事には華があった。私じゃああはいかなかった。でもあの子はそれだけなのよ。実際に経営をしているのは私なの。それなのに」
 カウンターをどん、と叩く。――ヤバいな。うまくあしらう自信がなくなってきた。
「わかるでしょう、原田さん。この先お店を続けるには、私が彩花の持ち分を買い取るしかないのよ。そうすればまた繁盛する。でもそのためには五千万要るの。また株で貯めようとしたけど、今回は前と違って相場が悪くて、なかなかうまくいかなくて、儲けるどころか三百万くらいの損が出てる。麻布のマンションだってとっくに売却済みだし、株を買うための資金を信金から借りるのに、彩花に内緒でお店の預金を担保にして……。ねえ、原田さん」
 ユミちゃんが上気した頬を寄せてくる。原田は身を引きながら、
「酔っているときに大事なお話はしないほうがいい。私は帰ります」
「待って。本題はこれからなの。わかったでしょう。お金が要るのよ。担保のことが彩花にばれたら私はおしまい。絶対に活きたお金にするから。私が使うのがお金にとっても一番幸福なのよ。――兄が残したかったのは、私なんだから」
「何か証拠があるんですか」
「あるわ――部屋に」ユミちゃんは天井を指差した。スツールから降りようとして傾いた体を、原田は支えた。
「大丈夫ですか」
 ユミちゃんは原田の手を握り、体を寄せてきた。切羽詰まった視線で、
「一緒に来て」
 原田は首を振った。
「できません。証拠とはどんなものですか」
「だから……部屋に来たら見せてあげる」
「困ります」
「いいから来て」
 原田は手を払いのけた。
「きゃっ」
 支えを失ったユミちゃんが床に倒れ込んだ。原田はあえて手を貸さない。他の客たちの視線を感じる中、原田は彼らにも聞こえるように言った。
「お部屋までご一緒することはできません。ここでお待ちしていますから、お一人で取ってきてください」
「何よ、紳士づらして。こっちはこんなに必死で。決心して……。もういい。……絶対に許さないから」
 ふらふらと立ちあがったユミちゃんは、涙目で原田をにらみつけると、バッグをひっつかんでバーを出て行った。後ろ姿で目元を拭く仕草が見えた。
「十五分だけお待ちします」
 原田は背中にせりふを投げた。三十分待ったがユミちゃんは戻ってこなかった。

 週明けの月曜、午前十時半頃に、また五十嵐弁護士から荒川に電話があった。
「間もなく御社に警察から連絡があると思います」
 事情を聞けば、今朝もたっくんの子分による嫌がらせがあり、警察に通報したところ逮捕者が出たという。チンピラみたいな若造が二人、事務所の前でうろうろして、出入りする従業員や顧客に絡んできたとのことだ。注意してもやめようとしないので、五十嵐弁護士は警察に通報した。警察が来るぞと告げると、逆上した二人は事務所に乗り込んできて、入口付近の調度品を倒して壊したり、自動ドアを蹴って故障させたりしたらしい。
「威力業務妨害、住居侵入、器物破損です。今どきそんなことをするやつらがいるとはね。こいつらはプロじゃない。頭も悪い。逆に怖いですよ。何をしてくるかわからない」
 警察からの連絡は一時間も経たないうちにあった。五十嵐弁護士に聞いていた通りだった。代表から転送されてきた電話を取ったときの課長の顔は見ものだった。赤くなって蒼くなって、最後に白くなった。
 
 その翌日には、ダイちゃんが再び会社を訪ねてきて受付から電話を寄越した。
「何度言わせるんだ。弁護士のところへ行けって」
「そう言わずに見てくれよ。原田さんに見て欲しいんだよ。今度こそ本物だよ。こないだのは間違いだったけど」
 ダイちゃんは弁護士が嫌いなのだ。五十嵐弁護士によれば、例の福祉施設の理事長は青木省吾という人物のことなどまったく知らなかった。どうやら振込先に指定する口座の名義のために施設名を拝借しただけのようだ。杜撰というか幼稚というか……。しかも、それを告げてもダイちゃんは悪びれた様子もなかった。
「おれのせいじゃないよ。兄貴が紛らわしい書類を残すからいけないんだ」
 ――子どもの寝言――
 借金と結婚で切羽詰まっているのは確かなのだろうが、やりかたがあまりにも稚拙だ。こんな申し出に応じられるわけがない。どうしてそれが分からないのだろう。
「じゃあな。弁護士には電話しとてやるよ」
「あ、待ってくれって」
 警備に連絡してつまみ出してもらった。しかし、ほっとしたのもつかの間、今度は外線でかけてくるようになった。ほぼ三十分おきだ。やめろと言っても聞かない。原田の席の直通ではなくコールセンターにかけてきて原田につなげと言う。止めようがない。
「何とかしてください」
 二時間後にはオペレータに泣きつかれた。非通知でかけてくるからダイちゃんの電話を識別する方法もなく、結局は原田に回してもらっていい加減にしろと怒鳴るしかない。
「無駄な電話応対で業務に支障が出始めている。威力業務妨害といえるだろう。明日以降も続くようだったら、かかってきた時刻と応対にかかった時間を記録しておいてくれ」
「面倒くせえな」
「仕事だ」
 その後もダイちゃんは、何枚も「遺書」を持ってくることになったが、どれも五十嵐弁護士が鼻で笑うものでしかなかった。
 警備がダイちゃんをつまみ出した二日後のことだった。雨の中、原田が帰宅すると自宅マンション前で声をかけられた。
「原田さん……ですよね」
 傘をさしたまま身構えた。たっくんか。警察にやられたのにまだ懲りないのか。
 ――女?
「どちらさん」
「サカキヒロミといいます」
 ヒロミちゃん? マンションのエントランスから漏れ出る灯りは強くないが、女が透明なビニール傘を後ろに傾けると、顔が見えた。ショートヘアで細身。ジーンズにカジュアルなジャケットを羽織っている。化粧っ気はなく幼い印象だが、真っすぐな視線には力があった。
 ――あのダメダメ弟くんにはもったいない感じ――
 それはともかく予想外の展開だ。
「どうしてここが」
「すみません。彼からお顔を教えてもらって、昨日の夜、会社から後をつけました」
 ぺこりと頭を下げる。くそ、全然気づかなかった。
「帰ったほうがいい。こんなこと何の意味もない。事態を混乱させるだけだ」
 相手はひるまない。
「彼は知りません。私が独断で来たんです」
「同じことだ。彼の利益は君の利益だ。結婚するんだろう」
 ヒロミちゃんは大きくうなずいた。
「彼、原田さんにいろいろ言われて落ち込んでました。原田さんはすごいって言ってました。一瞬で全部見抜かれちゃったって。ひょっとするとお兄さんよりすごいかもって」
 虫ケラは人を見る目もないようだ。
「あの人、本当はわかってるんです。デキる男に憧れているけれど、実際の自分は駄目な人間だって。ギャンブルで手に負えないような借金こさえたり、気が弱いくせに突っ張って失敗したり。でもいいところもあるんです。正直で嘘がつけないところとか、お兄さんのことを心から尊敬していたこととか」
 どうやら原田のことを押さえつけて腹に一発、が目的ではないらしい。
「近くにファミレスがある。そこで話そうか」
 ヒロミちゃんは首を振った。
「すぐに帰ります。ただ、分かって欲しかったんです。あの人がお金を欲しがっているのは、自分のためじゃないんです。私とおなかの子のためなんです」
 腹部を押さえる。まだ目立ってはいない。
「この子、病気なんです。とても治りづらい、ちゃんと生まれてくるかもわからない難病だってことがもう分かっているんです。生まれてきても何歳まで生きられるかわからないんです。生きていくには大変なお金がいるんです。でも、私はどうしても産みたいって言ったんです。あの人は堕ろせって言ったんですけど、私が産むって言ったんです」
 ヒロミちゃんは瞳だけが泣きそうな顔をしていた。雨の音が周囲ですこし強くなる。
「彼は、最初は困ったような顔をしていたけど、最後は、わかった二人で頑張ろうって言ってくれたんです。私は三人だよって言いました。不器用だけど優しい人なんです。そのことを分かってあげてほしいんです。お願いします」
 若き妊婦はそう言うと、傘を両手で握りしめたまま、深々と頭を下げた。雨粒が傘の上で跳ねまわった。
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