第11話

文字数 8,989文字

 ミサちゃんが警察に連行された。
 五十嵐弁護士事務所での暴力沙汰の首謀者と判断されたのだ。逆恨みの可能性に配慮した五十嵐弁護士の意向もあり、即日釈放されたようだが、毀損した家具や調度品の賠償は求められることとなった。
「余計な出費になっちまったな、ミサちゃん」
 こんな金をホストが負担してくれるわけがない。結局、ミサちゃんは自分の経済状態を悪化させただけだ。
「たっくんがあきらめて手を引いてくれるといいんだがね」
「ぼくの見方は否定的だ」
「今度はダンナみたいに、何か武器をもって乗り込んでくるかもね」
 午後、課長が荒川と原田を呼んだ。見れば怒りの表情だ。会議室に連れていかれた。
「青木由美氏から書状が届いた。社長あてに」
「ユミちゃ――妹さんから?」
「原田。おまえ一体何をやらかした」
 課長は、怒鳴りつけたいのを抑えている感じだ。荒川は――普段と少しも変わらない。
「その内容は本当なのか」
 ばさり、と目の前のデスクに投げられた。手紙のコピーだ。書いてあったのは予想していたより少しオーバーな内容だった。原田は面倒くさそうに顔を上げた。
「やっぱり来ましたか。嘘ですよ、こんなの。ただの嫌がらせだ」
「本当だろうな」
「決まってるじゃないですか。荒川、おまえからも何か言ってくれよ」
 手紙には、ユミちゃんが原田にセクハラを受けたと書いてあった。保険金査定担当として便宜を図るから、一晩つきあえと迫ったと。
 それ以外にも、ストーカーまがいの行為で自宅までつけられたり、よく立ち寄る店を調べて待ち伏せされたりしたという。不愉快だったが、保険金の支払いが済むまでと思って我慢していたのだそうだ。
 そのうち、どうやって調べたのかレストランの共同経営者に対しても同じような行動をとるぞと脅してきた。さすがにもう我慢ができなくなったので、会社に対応を求めることにした。止めさせたうえで本人に謝罪させてほしい。そうでなければ法的手段も検討する……そういう内容だった。
 ――幼稚な――
 こんなことで事態が好転すると思っているのだろうか。濡れ衣を着せられそうになった相手がどう感じるか想像もできないのか。
「内容はおよそ真実味に欠けています。ただ、すべてを肯定も否定もできません」
「な。おまえ」
「彼のプライベートな時間やホテルでの件について、ぼくは責任あるコメントができません。常に彼の行動を監視しているわけではありませんから」
「おまえが来なかったからあんなことになったんだろうが」
「彼女からアポはキャンセルだと連絡が入った」
「簡単に騙されやがって。おれに確認すりゃすぐにわかったのに」
「君こそぼくの不在に不審を覚えなかったのか」
「思ったさ。でもおれはあのとき顧客対応をしてたんだ。保険に入りたいって言って来た以上はユミちゃんだって客だ。確認の電話なんてする時間はなかった」
「お互いに事情があったということだ」
「そうじゃない。こういうときは原田に限ってそんなことはないとか言えってんだよ」
「そこまで深く君のことを知らない」
「この――」
「ただし課長、ぼくの心証としては、彼はそのようなことはしないと思います」
「確かか」
「あくまでもぼくの心証です。彼は冷静な判断能力と先を読む目を持っています。長い目で見て自分に不利となるような愚かな行為はしないでしょう。それよりも由美さんから誘われそうになったという彼の証言のほうが信憑性は高いと感じます。彼女は例の一億円の受取人候補ですから、彼を誘惑して自分の側に取り込めば、代表受取人の選定が有利になると考えても不思議ではありません。実際にはまったく影響はありませんが」
「最初っからそう言やいいんだ」
「わかった。不支払いに腹を立てた受取人からのこの手の怪文書はよくあるからな。しかし、こんなものを出されるなんて脇が甘いんじゃないか」
 カチンときた。
「客の逆ギレまで止められませんよ」
「顧客との信頼関係が構築できていないからこういうことになるんだ」
「しんらいかんけい。こんなのと。無理です」
「とにかくこれが嘘ならそれを証明しろ」
「信じるんですか。無視すりゃいい」
「社長あてだ。つぶしておく必要がある」
「そんなのは時間の――そうだ。証人がいます」
 バーテンはこちらの質問にきちんと答えてくれた。意外なことに、必要であればこちらの上司に話をしてもいいとまで言ってくれた。
「助かります。しかし……」
 あの夜はとくに意識もしなかったが、よく見るとまだ若い男だ。しゃべり方は落ち着いているがおそらく二十代。口ひげを生やしているのは若く見られるのが嫌なのか。
「どうしてそこまでするのか、ですか?」
「あなたには厄介ごとでしかないはずだ。彼女に逆恨みされるかもしれない」
「じつはあの方、私を買収しようとしたんですよ。あの夜、あなたが来られる前にね」
 ふむ。考えられるな。
「ちょっとした額でしたが、お断りしました」
「どうして」
「目先の金のための嘘なんてたいていろくなことになりませんから。バーテンダーっていうのは、こう見えて信用が大事なんです」
 原田は改めて礼を言った。
「また来ますよ」
「ごひいきに」
 この件が片づいたら、あらためて飲みに来てみようかと原田は思った。荒川も誘ってやるか。この男とは気が合うかもしれない。

 週が明けて四日ほど、母親のミサちゃんはおとなしくしている。たっくんの手下連中から弁護士へのいやがらせも影を潜めている。警察の威力はさすがというところか。妹のユミちゃんは、バーテンの証言を内容証明で送りつけてやったらそれきり黙った。弟のダイちゃんも婚約者が現れた夜以降はコールセンターへの迷惑電話をぴたりと止めている。
 父親のケンちゃんだけは、連絡がないのが――木下の細長い腕にからめとられた様子が思い出されて――少し気になるが、かといってこちらから安否確認などしない。たとえ何かされていたとしても、どうせ気の毒に思ってやるくらいしかできない。言ってみれば自業自得。好転見込みのない町工場などさっさとたたんで自己破産してしまえばよかったのだ。経営判断を誤って人生を棒に振った、哀れで時代遅れの零細企業経営者……。
 静けさが逆に不気味だという気もするが、とにかくここへきて当初の原田案――放っておくこと――が図らずも実現している。ああよかった。ところが荒川は非常によくない状態だという。
「どうして」
「支払えない状態が長期化すれば、遅延利息が発生するかもしれないからだ」
 遅延利息とは、請求を受けてから保険金の支払いまでの期間が通常より長くかかった場合に、保険金に上乗せして支払われる利息である。事務サービスが遅れたという認定がなされるわけで、担当部門としては不名誉な事態と言える。社内ルールではそこそこ大きな事務ミスにカウントされる。
「遅れてるのは客のせいだろうが」
「見方によってはそうだが、別の見方をすれば、名義変更手続きに関する会社の判断が遅れているのだとも言える。書類に不備はないのだから」
「そんな無茶な」
「裁判になったら、裁判官が遅延利息も支払うべきと判断する可能性もある」
 加えてロビーの一件以来、部長が早く片付けろとうるさい。毎週、長期の苦情をトレースする会議があって、資料の中でこの案件はひときわ目立っているらしい。
「全員を呼び出して話し合いの場を持とう」
 と荒川は言う。原田は反対した。
「机と椅子が飛び交うぞ。血を見るぞ」
「ではどうすればいい」
「放っとこうぜ」
 荒川は冷たい視線で原田を一瞥すると、無言で課長席に向かった。冗談だってのに。
 課長席で何やら話しこむ二人に、原田は椅子をくるりと回して背を向けた。ふと先日疑問に感じたことを思い起こした。
 ――青木省吾ってのは一体どんな男だったんだろう――
 自分とおそらく同学年。親より先に死んでしまった。
 父親によれば、幼い頃から言うことを聞かず、勝手に外国に飛び出すような親不孝者。母親によれば、成績はいいが何を考えているかわからない薄気味悪いガキ。妹によれば非常識で傲慢な社会不適応者。弟によれば文武両道、超優秀で弟思いの優しい兄。
 そしてアメリカでの成功と転落、帰国と死。華麗にしてあっけない、ジェットコースターのような三十二年。
 ――兄は何のために保険になんて入ったのかしら――
 ユミちゃんの疑問ももっともだ。謎である。保険とは基本的に貧乏人のものだ。高額の医療費も老後の資金も心配しなくていい程度に金があるやつには保険など必要ない。当時のショーちゃんのようなケタ違いの高給取りで、しかも独身の変人がなぜ保険になんか入ろうと思ったのか。
 何を考えていたのかを想像するには、その人となりを知る必要があるが、遺族による人物評はバラバラで今一つはっきりしない。ただしモージャ系の印象はない。どちらかというと金には無頓着で、浮世離れした男のイメージが浮かぶ。
 金にこだわる常識人だったら、帰国して今にも潰れそうな町工場なんかに就職したりしないだろう。きっと渡米前にいた大手に出戻るか、同じような規模の有名企業に入社していただろう。なにしろ天才なのだ。彼を欲しがる会社はいくつもあったに違いない。
 ――どうもしっくりこない――
 改めて資料を見る。彼が加入していたのは一時払いの終身保険だ。金利が高い時期だったら長期の資産運用にもなりえただろうが、低金利の今は加入して何年経とうがほぼ増えない。つまり掛け金である保険料は、一億円と大差ない金額なのである。それをショーちゃんは加入時にいっぺんに払い込んでいる。
 たしか家族に内緒で一時帰国して大阪にいた時期の加入だと言っていた。アメリカの会社が訴訟で倒産する前のショーちゃんは金持ちだったから、大した負担ではなかったのだろうが、一体何のためだったんだ。
 ――ただの気まぐれか――
 案外そんなところかもしれない。天才ってのは変人と紙一重だから……。
 荒川が課長席から戻ってきた。
「青木さんの件は、やはり全員に集まってもらう。これから法務部に相談に行く」
「法務部?」
「君も来てくれ」
「どうしよっかなあ」
 椅子をくるりと回してあちらを向いた原田の正面に回り込んで、荒川は仁王立ちした。
「何度も言わせないでくれ。担当は君だ」
 法務部には江川という審議役がいる。保険金がらみのややこしい案件はだいたいこの人が捌いているという。総合職員として入社してから司法試験に通ったという変わり種だ。年次は高そうだが背筋はぴんと伸びていて、声がでかい。
「厄介な案件だな、荒川ちゃんよ」
 江戸前の落語みたいな口調で話す。
「お手数かけます」
 頭を下げる荒川に、
「いいって。あんたの案件はいっつも面白えからな。こんなこと遺族には言えねえが」
 ガハハと笑う。
「資料を読んだが、こいつァもう超法規的措置しかねぇな。それが法務の見解だ」
 法務が超法規的措置、と原田が思わず言うと、
「原田さん、だったっけな」
 ジロリという感じで見られた。
「そうですが」
「あんたはもうちっと、手ぇかけて仕事した方がいいな。じゃねえと逆の目が出るぞ。仕事で手ぇ抜いたしっぺ返しは怖えぞ」
 ――そんなことはわかっている――
 そう思いながらも、ちょっとどきりとした。気圧された。 
「まあ、そっちはおいといて。とにかくこの件は、今のまま客側に任しといちゃあまとまんねぇよ。もうストレートは駄目だ。変化球でいこう」
「変化球?」
「法的なもんは二の次にして、全員が納得するようにするってこと。例えばこうだ」
 説明を聞いて原田はうなずいた。

 面接アポは土曜の午後だった。
 梅雨どきらしく雨で、やや蒸し暑かった。
 USライフの面接官は二人だった。一人は小柄で地味な印象の男でおそらく日本人。ひと言もしゃべらず、面接の間じゅうパソコンに何かを打ち込んでいた。もう一人は自信に満ちた物腰で流ちょうな日本語を操るアメリカ人。やりとりは主にこちらと行った。
 マウスウォッシュのCMのようにさわやかな印象だが、ときおり酷薄そうに口元を歪める。口調は快活でも目は笑っていない。ふふん。原田は一種の好感をもった。
 ――外国から来ているんだから、そのくらいでないとね――
 面接は二十分もかからなかった。言わされたのは簡単な職歴と希望の報酬だけで、ありきたりの自己PRとか志望動機などは訊かれなかった。どうやら最初から結論は決まっていたようだ。
「わたくしたちは日本市場ではまだ新参者です。先行組のような知名度もシェアもありません。しかし商品やサービスには自信があります。わたくしたちが求めているのは、あなたのような、ビジネスを一気に拡げてくださる優秀なセールスです」
 前回の会社とはだいぶ方針が違うようだ。
「ありがとうございます。しかし私が優秀かどうかはまだわからないと思いますが」
「あなたは業界では有名人です。お噂は聞こえてきますよ」
 それじゃ、と言いかけてやめた。先方はおれの処分のことを承知の上で採用するといっている。不利を承知の後発組。多少荒っぽい募集でも目をつぶってやるから、シェアを伸ばして会社に貢献しろということだ。
「ご期待にこたえるよう全力を尽くします」
「結果については追ってご連絡いたします」
 相手は握手を求めてきた。
「よし」
 ビルを出ると雨は止み、晴れ間が出ていた。
 原田は小さくガッツポーズをした。

 翌週の六月十日の水曜日、空はどんよりと雲っていた。
 青木家の四人が一堂に会する日だ。
 場所は東西生命本社ビルの二階にある二〇九来客用会議室。手でつかんで投げられそうな調度品が一番少ない部屋だ。念のために壁の風景絵画も一時的に撤去し、部屋の前に警備員を二人立たせた。
 参加者は客側四人のほか、会社側が荒川と原田、あと法務部とお客さまサービス課の担当者が一人ずつ。合計八人。五十嵐弁護士はあいにく大阪で裁判があり来られない。
 約束の午後二時の前に、まずミサちゃん、次いでユミちゃんが姿を見せた。二人は目も合わさず、十六人用の楕円形の会議机のほぼ対角線上に座った。お互いに相手の長所も弱点も知り尽くしているはずだ。黙っていても緊張感が伝わってくる。
 少し遅れてダイちゃんが到着した。何を思ったのか紺のスーツ姿だ。サイズが大きすぎて、見る者が苛々するほど似合っていない。緊張した面持ちで部屋に入り、二人の女を見た途端、びくりと体を硬直させた。そのまま一番入口に近い席にそーっと腰を下ろす様子を、二人の女がにらみつけるようにじっと見据えている。
 最後に父親が到着した。無事だったか……と思ったら、左腕を首から吊っている。
「そのお怪我は」
「何でもない」
 それだけ言うと、仏頂面で席に着いた。
「それでは――」
 荒川が始めようとすると、母親が口を開いた。
「ちょっと待って。なんでそいつがいるのよ」
 父親を指さしている。
「あんたにはもう関係ないの。とっとと帰んなさい」
「そんなことおれは認めていない」
「馬鹿らしい。こんな状態でまともな話し合いなんかできない。あたし帰る」
 席を立とうとするミサちゃんに、荒川が言った。
「ご主人をお呼びしたのは私どもです。今後の手続きがスムーズに進められるように」
「勝手なことしないでよ。減らさなきゃならないのに、増やしてどうすんのよ」
「では、対応は弊社に一任いただくということでよろしいですね」
 荒川が言うと母親は目を剥いた。興奮したせいか、甘い香水の匂いが部屋中を舞った。
「そんなこと言ってないでしょうが」
「でしたらお座りください。このままではいつまで経っても手続きができません」
 ミサちゃんは渋々腰を下ろした。
「とにかく、せっかくのお金を工場に使うなんてありえないから。どぶに捨てるようなものよ。このお金は、あたしが人生をやり直すための資金にする」
 すると次にユミちゃんが口を開いた。セクハラ投書のことなどすっかり忘れたような顔をしている。
「正気とは思えない。あんたに大金を渡したら一晩で歌舞伎町に捨てちゃうでしょう。落ち目の工場に使うよりナンセンス。どっちも無駄。お金の使い方を一番知っているのは明らかに私。ちょうど今、お店の共同経営者から経営権を買い取る話がある。そのお金は私がもらってお店の拡大に使わせてもらう。生きた使い方ができるのは私だけよ。すぐに倍に増やしてやるわ。あの非常識な兄にはさんざん迷惑をかけられてきたんだから、私にはもらう権利がある」
 弟くんは圧倒されまくりながらも虚勢を張って発言した。
「みんな、い、今になって都合のいいことばっかり。兄貴のことを嫌っていたくせに。自分はみんなに嫌われているって兄貴は寂しそうに言ってたぞ。おれだけに言ったんだ。兄貴のことを理解していたのはおれだけだ。そんなおれに兄貴は金を残してくれたんだ」
「ガキは黙ってなさい」と、母。
「おまえもだ、この色ボケ女」
「何ですってこの無能経営者」
「その工場のおかげでぜいたくができたんだろうが」
「やめてよ。みっともない」と、妹。
「うるさい。だいたいおまえは自分の店があるんだろう。金はこっちへ回さんか」
 罵声の応酬が激しくなっていく。法務部とお客さまサービス部の二人は目を白黒させながら固まっている。無理もない。こんな修羅場、滅多に見られるもんじゃない。
 そのとき、思いがけない音量で荒川が場を制した。
「お静かに願います。状況はわかりました。失礼ながらこちらの予想した通りです。先日個別にお話ししたときから何も進展していない。このままではいつまで経っても代表受取人の選定はできないでしょう。そこで一つ提案があります」
 視線が一斉に荒川に注がれた。
「前提として、この方法は全員の、事前の完全な同意を必要とします。完全な同意です。後になってやっぱり認めないと言い出す方がおられるようですと成り立ちません」
「何。何よ」と、母親。
「どういう方法なんだ」と、父親。
「名義変更の請求書三枚のうち、最後に書かれたものを有効とするというものです」
「どういうこと」と、妹。荒川は説明した。
「すでにご説明した通り、名義変更は契約者の意向によって契約の有効期間中なら何回でもできる手続きです。本件の請求書は三通とも同日付であるために混乱が生じていますが、それでも作成された順番があるはずです。最後に作成された請求書にお名前を書かれた方を代表受取人とするという案です。この考え方にみなさんの同意をいただきたい」
「そんなの、どうやって調べるのよ」と、妹。
「日付は入院中のものですので、病院に確認します」と、荒川。
「わかるのか」と、弟。
「訊いてみないとわかりません」
「駄目」母親が声を上げた。「そんなときは親の分から先に書くに決まってるじゃないの。あたしが不利。そんなの絶対認められない」
「そうとは限らないだろう」と、弟。
「リスクが大きすぎるわ。医師や看護師に、いい加減な記憶で証言されたらどうするの。誰かが医者や看護師に嘘の証言をさせようとするかもしれないし」と、妹。
「そんなやり方じゃおれが最初から外れてしまうじゃないか。それじゃ意味がない。東西生命がやらなきゃいけないのは、名義変更請求がでたらめだと証明することだろうが。おまえら三人がグルになっておれの金を横取りするためにインチキの名義変更をでっち上げたんだろう」
 父親のそのひと言で、またしても怒号が飛び交い出し、議論にならなくなった。江川審議役ご提案の、書類作成の順番作戦はあっけなく瓦解した。荒川が再び場を制す。
「お静かに願います。それではもう一つの方法をご提案します。これが最後です」
「どんな方法よ」と、母親が吐き捨てるように言った。荒川をにらみつけ、肩で息をしている。他の三人も期待と敵意の混ざった視線を荒川に注ぐ。
「保険金を四等分するのです」
 室内に落胆の空気が流れた。
「だから、それじゃ足りないのよ」妹が言った。
「一時しのぎじゃ駄目なんだ」父親も言った。
「一億って約束なのに」母親が続く。
「子どもの命がかかってるんだぞ」弟も叫んだ。
 また轟轟となり、荒川が声を張る。
「やはり話し合いでの合意はむずかしいようですね。たいへん残念ですが、弊社としてこれ以上できることはありません。このうえは裁判で決着をつけていただきましょう」
「裁判?」弟が情けない声を出した。
「当事者間で解決できない争いは司法に判断してもらうしかありません。どなたが正当な受取人なのか、みなさんそれぞれご自分で弁護士にご相談のうえ、法廷で主張ください。訴訟にむけた手続き、諸費用、弁護士報酬などもすべてみなさんご自身の負担となります。期間は長ければ数年かかるでしょう」
「馬鹿言ってんじゃないわよ。負けたらどうすんのよ。責任とってくれるの」と、母親。
「弊社が裁判の結果に責任をもつことはありません」これは荒川。
「だったらそんなの駄目よ」と、母親。
「数年なんて無理。店は生き物、今すぐにでも受け取りたいくらいなのに」
「おれも子どもが生まれちまう」
「返済の期日は月末だぞ」
「では、四等分するしかありません」
 堂々巡りの怒鳴り合いは陽が落ちるまで続いた。
 この日は結局、何も合意に至らなかった。

 夜七時半、ようやく長時間の会合が終わった。法務部とお客さまサービス部の二人が消耗しきった様子で自所属へ戻って行った。
「あーあ、疲れた。今日はもう帰ろうぜ」
「その前に課長に報告だ」
「もういねえよ。明日でいいだろ」
「携帯に報告すると伝えてある」
「おまえ電話しといて」
「本件のメイン担当は君だ。もう少し自覚してくれ」
「今日はちょっと体調が悪くてさ」
「声に張りもあるし発言内容も論理的だ。課長にもその調子で話せばいい」
「いたたた、急に腹が……」
「すぐに君から電話で報告をするんだ。仮病の腹痛など論外、これは仕事だ」
「わかったよ」
 ちっ。思わず舌打ちが出た。まったく面倒くせえ。
「済んだらすぐにフロアに戻ってくれ。ぼくは先に行っている」
「ええ? まだやんの」
「話し合いは決裂した。今後の方針を検討する必要がある」
 原田はうんざりした。弁護士に対応を委任したはずなのに、どうしてこっちへ戻ってきやがるんだ。まったく筋の悪い案件ってのはとことん筋が悪い。
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