第2話

文字数 13,218文字

 手のひらが水を掻く。
 心拍が次第に上がる。
 呼吸音が激しくなる。 
 肺が酸素を渇望する。
 腕が疲労で重くなる。
 限界が近づいてくる。だが、
 ――まだいける――
 クロール。いつもはこのあたりが限界だが、今日はもう少しいけそうな気がする。だからペースを落とさない。二十五メートルプールをあと二往復すれば自己新記録だ。
 ところが、隣りのレーンから予期せぬ波が来てバランスが崩れた。息継ぎのタイミングがほんのわずか狂ったせいで、水を飲み、咳き込んだ。その途端、思いもよらぬ早さで限界がやってきた。
 ――くそっ――
 プールの底に足をついた。
 見ると、隣りのレーンは大柄な男だった。浅黒くたくましい体つきで、こちらのことなど気にもせず軽快に泳ぎ進んでいく。
 原田は肩で息をし、端まで進むとゴーグルを外した。その横で別の男がターンして行く。
 下町近くのフィットネス・ジムは、平日の夜だというのに混雑している。仕事帰りのサラリーマンたちが思い思いのスタイルで自分をいじめている。
 筋トレマシンやエクササイズ系のプログラムもあるが、原田はまっすぐにプールへ向かう。コーチなどいらない。ただ泳ぐ。泳いでいる間、仕事を忘れる。
 たばこをやめればもっと楽に泳げるとは思うが、そこまでするつもりはない。ここに来る目的は体を鍛えることよりも気分転換だからだ。孤独なセールス職。ときに気晴らしをしないと発想が陳腐になる。
 それに、ここには原田の好きな光景があるのだ。
 凪いだプールの水面である。
 一時間に一度、十分間の休憩時間が設けられている。泳者は全員プールから上がらなければならない。その間、無人の水面は鏡のように凪ぐのだ。
 プールゾーンの天井は高く、ドーム状になっている。壁に沿って這う鉄骨は大きなアーチを描き、巨大な鯨の肋骨を連想させる。その中を流行りのBGMとサラリーマンたちの思念が反響している。
 そんなカオスのような空間の底に、一枚の静謐な青い鏡が横たわっている。そのイメージがわけもなく気に入っているのだ。休憩時間が終わればすぐに乱され消えてしまう刹那的な感じも悪くない。
 息を整え、ゴーグルをつけ直す。ひじ、肩、指先、あごと順番に体を沈めていく。壁を蹴り、全身を水にゆだねる。再びクロールで進む。
 顔の左半分を水面から上げている間、左耳がカオスの騒音をとらえる。顔を水中に沈めるとそれは一瞬で消える。喧騒と静寂が交互にやってくる。クロールは生と死を行き来するのに似ている。
 生命保険の仕事は人の死にとても近い。ビジネスの根幹が絶ちがたく関わっているのだから当然だ。昼間のイメージがよみがえる。たくさんの白い鳥が、あらゆる方角から大都会の高層ビルを目指して飛んでくる光景……。
 ――いったい何人死んでいるんだ――
 来る日も来る日も、多くの死亡保険金請求書が会社に届く。たった一日、たった一社でこれほどならば、日本全国で、世界中で、人はどれだけ死んでいるのか。この世はなんと死に満ちていることか。広いフロアには査定用のPC端末が整然と立ち並んでいる。まるで墓標のように。
 日々大量の死を扱いながら、フロアには血痕も死臭もない。断末魔の叫びも聞こえない。苦しみや悲しみはサラサラに漂白され、記号となった死だけがある。この部署で人の死とは、保険金支払いのトリガーを引くイベント情報にすぎないのだ。
 ――セールスとはまるで逆だ――
 営業の相手は生きている。一人ひとりが歴史と意思を持ち、血の通った人間だ。金に換算される記号たちも、加入のときは健康で具体的な人間だったのだ。
 水を掻く。
 塩素の匂いが強まる。
 疲労の蓄積が限界に近づく。
 やがて酸素の供給が消費に追いつかなくなる。腕が上がらなくなり、筋肉が悲鳴を上げる。脳はそれを感知し、肺と循環器系に必死で動けと命令する。ゴールまで到達しなければこの苦しみからは解放されない。止まらずに動き続けろ。限界を越えてみせろ。休むな。無様でいい。あがけ。
 最後の十メートルほどが果てしなく遠く感じられる。クロールが乱れた犬かきのようになり、息継ぎすらむずかしくなり――何とか泳ぎ切った。
 肩で息をする。水中にいたのにひどくのどが渇いている。
 まだ体力の衰えを感じることはないが、二十代前半の頃と比べれば体の切れも持久力も落ちているのはたしかだ。今日の泳ぎだって他人には滑稽に映ったかもしれない。
 しかし、こうやってあがく自分が、なぜか原田は嫌いではない。ここへ通ってくるのは、この感覚を味わうためではないかとすら感じる。そしてそれは奇妙なことだと思う。
 疲れ果てた原田がプールから上がったとき、壁の時計が七時五十分に届いた。休憩時間の始まりを告げるアナウンスが流れ、泳者は一斉に水から上がった。
 ――今日はもう限界だ――
 新記録はおあずけ。しかたない。仕事と同じで簡単にはいかない。
 やがて水面が凪いだ。原田は息を鎮めながら、じっと水の鏡を見つめた。
 喧騒と安っぽいBGMが響く空間にあって、水だけがとても静かだ。さっきまであれほどのたうち回っていた水が、何故これほど穏やかに、静かになれるのだろう。
 しばらくすると、休憩時間の終了を告げるアナウンスが流れた。泳者たちは次々と水に戻っていく。神々しかった水面が再び卑俗に歪む。水は飲みこんだ生きものたちの情念を表すようにうねる。
 原田はその変貌を見届けてから、プールを後にした。

 三日目の朝、問題の案件が届いた。
「――ん」
 荒川の口からかすかな声が漏れた。めずらしい。原田は手を止めて顔を向けた。
「どうしたい」
「名義変更だ」
「メイヘン?」
 のぞきこむと、なるほど荒川の端末画面には名義変更の請求書が表示されている。
 名義変更は支払サービス課ではなく、契約変更サービス課の所管事務だ。誤配信なら転送してやればいい。しかし荒川はそうしようとしない。しばらく画面を見つめた後、原田に向かってこう言った。
「この案件は君に担当してもらう。午後は空けておいてくれ。君には今日はもう案件を回さないよう、スキャン室に伝えておく」
「何だいきなり。どういうことだよ」
 少しムッとした原田に、荒川は横顔で答えた。
「午後一で説明する」
「今しろよ」
「情報共有はきちんと調べてからのほうが効率的だ」
「この……」
 いちいち四隅の整ったようなしゃべり方が、原田の神経に障る。
 昼休み、原田は午後一時きっかりに席に戻った。荒川に詰め寄る。
「説明してもらおうか」
 荒川はうなずくと、契約内容が記されたシートをデスクに広げた。
「契約者は青木省吾さん、三十二歳の男性で、被保険者も同じ。つまりこれは彼が自分にかけた保険だ。受取人は青木健吾さん、彼の父親となっている。現住所は東京都大田区だが、加入は五年前、東大阪支社でなされている。保険金額は一億円」
 シートの数字は1の後にゼロが八つ並んでいる。今どきけっこうな高額である。当然だが保険料、つまり掛け金も高い。セールスが得た募集手数料もかなり高額だったに違いない。
「アオキさんちのショーちゃんか。この契約がどうした」
「先ほどの名義変更請求書だ」
 荒川は、名義変更請求書をプリントアウトしたシートを広げた。一枚ではなかった。
「――三枚?」
 原田は怪訝そうな声を出した。
「そうだ。それがわからない点だ」
 並べてみると、三枚とも同じ証券番号が記入されている。つまり、すべて同じ契約の名義を変更しようとする書類だ。そして変更後の「新しい受取人」欄には、それぞれ別の名前が書いてある。
「ショーちゃん、何か勘違いしたのかな」
「三枚のうち有効なのは一枚だろう。しかし、それがどれなのかわからない」
「みんな家族なのか」
 家族以外の人物を受取人とするのは日本では原則、認められない。保険金詐欺目的が疑われるからだ。
「記入された続柄は母、妹、弟となっている」
「じゃあ断れないな」
「記入日も同じ三月六日だ。念のため加入時の書類の画像を呼び出して筆跡を比べてみた。どれも契約者自身のものに間違いなさそうだ」
 では書類の偽造でもない。
「どれも有効な請求書ということになる」
 三枚のうち正しい請求書はどれか――言いかえれば、三人のうち本当の受取人は誰なのか。これではわからない。
「こういうことか。ショーちゃんは誰にしようか迷って三枚書いた。一枚だけ送るつもりが、うっかり三枚とも封筒に入れちまった」
「ぼくも同じことを考えた。一枚と三枚では手にした感触が大きく異なるから、うっかり入れてしまったというのはあまり説得的ではないのだが、そのくらいしか合理的な説明を思いつかない」
 こっちの考えなんかお見通しってことか。原田は少し不愉快になった。
「よくわかんねえけど、名義変更なら契変サに転送してやればいいんじゃねえの」
 すると荒川はもう一枚、別のシートを取り出した。
「これを見てくれ」
 コールセンターの応対記録だ。一週間ほど前、受取人である父親から被保険者が死亡したという連絡があったので、オペレータが保険金請求書類を郵送したと書いてある。
「え。ショーちゃん、死んじゃったの」
「そのようだ」
「三十二歳って言ったよな。若いのに気の毒な」
「若いのは確かだが、それは問題とは関係ない」
「死亡だったらこっちの仕事だな。――待てよ。それってちょっとまずいんじゃないの」
 荒川はうなずいた。
「オペレータは受取人が父親だという前提で父親に書類を送ったのだろうが、契約者が生前に受取人変更の手続きをしていたことがわかった以上、父親はもはや受取人ではない。父親に払うわけにはいかない」
「書類をくれって言ってきたってことは、当の親父さんは一億円の受取人から外されたことを知らないんだろう。こりゃあ面倒だ」
「最大の問題は、新しい受取人が誰なのかわからないということだ」
「こういうときはどうすんの」
「前例を知らない」
「公平に三分の一ずつ払ってやるか。一円余るけど、それはやっぱりお母ちゃんかな」
 原田が冗談めかした口調で言うと、荒川はにこりともせず、
「それはできない。名義変更請求書は三枚あるが、どれも新しい受取人は一人しか指定されていない。『三等分して三人に』というのは一枚もない」
「そりゃそうだが、そこは大岡裁きってやつで」
「三分の一ずつ払えば、その後、すべての受取人から『残りの三分の二を払え』と請求される可能性がある」
「はあ? そんな無茶な」
「保険会社から見れば無茶かもしれないが、それぞれの受取人から見たらどうか。保険金の一部でも自分に支払われたら、保険会社が自分に受取りの権利があると認めたと解釈するのが自然だ。それぞれの受取人にとって、他の受取人の取り分など知ったことではないから、なぜ満額の一億円じゃないんだ、と言ってくるだろう」
「そんなこと言ったら、合計で三億になっちまう」
「その通り。だから訴訟になっても、裁判所が理不尽な判断をするとは思えないが、安易に三分の一ずつ払ったりすれば事態が複雑化し、解決が遠のくおそれがある。だからそんなことはすべきじゃない」
「安易ね。悪かったな」
 そのとき笹口佳奈子が二人の会話に入ってきた。原田と同じく今回の異動で支払サービス課にやってきた一般職だ。小柄で、外見はまだ高校生かというような幼さだ。
「あの……さっき荒川課長代理に頼まれた書類のコピーです」
 荒川は礼を言ってそれを受けとると、デスクに広げた。
「そして――これだ」
 父親からの死亡保険金請求書類だった。
「届いちゃってるのか……。まったくややこしいことしてくれたな、ショーちゃん」
 原田は印刷されたシートを一枚ずつ手に取って順繰りに眺めていった。最後の死亡診断書で手が止まった。
「――なあ。ショーちゃんはこれ、わざとやったのかもよ」
「何故そう思う」
 診断書には死亡日が四月六日、死因は膵臓がんとある。原田はそこを指して言った。
「名義変更の請求日は三月六日、死亡の一ヶ月前だ。字を見ると達筆とは言えないがとくに乱れてもいない。まだ意識はしっかりしていたんだろう。これ見るとやっぱ、うっかり三通入れちゃったってのは不自然に思えるな」
 荒川は腕を組んだ。
「だとすると目的は何だろう。三枚の矛盾した名義変更請求書によって何が起こるかと言えば、保険会社の事務が混乱して支払いが遅れることくらいだ。それが故人の利益につながるだろうか」
「うーん」
 原田は少し考えて、すぐに音を上げた。
「わっかんねえ」
「引っかかるな」
「何が」
「契約者の意思だ。いま君も言ったじゃないか。これは故意だと」
「かもねって言ったんだ。不自然だからな。でも考えたってしかたがない。死んじゃってるんだからな。霊媒師でも呼ぶか」
「本当にしかたないのだろうか」
「何が言いたいんだよ」
「ぼくたちの仕事は、保険金請求を正しく査定して適切に支払うことだ」
「迅速にな。迅速ってわかるか。さっさと片づけるってことだ」
「正しい査定の第一歩は請求権者の特定だ。このケースはそれができていない。このままでは保険会社として――」
「――十分に責任を果たしているとは言えない。この三日でおまえの口ぐせは聞き飽きたよ。別に責任を放棄してるわけじゃない。わからないことをわからないって言っているだけだ。考えてみろ。この案件、三人のうち誰に払ったって絶対に揉めるぞ。でもそれは本質的には家族の問題であって保険会社は関係ない。客どうしのけんかは店の外でやってもらおうや」
「大金を払うのだから保険会社は無関係ではない。それに請求権者を特定し、請求意思を確認するのはまさに保険会社の仕事だ」
「それが無理だっつってんの」
「遺言状があるかもしれない」
「そんなものを探す義務はないね」
「家族が持っている可能性がある」
 原田は苛立ってきた。
「いい加減にしろよ。おまえはこだわるポイントがズレてる。気を使わなきゃならないのは苦情のときだろうが。この件はただ書類を突っ返せばいいの」
 荒川はまっすぐに原田を見返す。
「ぼくはルール通りに仕事をしようと言っているだけだ。少しでも疑問に思うことがあれば絶対に放置するな。後日に禍根を残さないよう隙のない査定をしろ。それが入社のときに教わったことだ。今までこのようなケースは経験したことがない。受取人の特定が困難で、しかもそのことについて契約者の意図が感じられる。ぼくはこの案件に対して、査定担当者として大きな興味と責任を感じている。君の方針にはとうてい賛成できない」
「どうするってんだ」
「受取人を特定する」
「どうやって」
「方法はこれから考える」
 原田は呆れた。
「面倒くせえやつだな」
「面倒かどうかは問題じゃない。仕事だ」
「ふん。まあいいや。せいぜいがんばれ」
「君にも手伝ってもらう」
 原田は目を丸くした。
「冗談じゃない。何でおれが」
「君は優秀だ」
「――へ?」
「営業経験も豊富だ」
 ――調子が狂う。お世辞のつもりか――
「営業経験が関係あるのかよ」
「複数の受取人が絡む案件は、約款や法令の知識だけでなく、難度の高い顧客折衝も必要となることが多い。今の支払サービス課でこの案件を君より効率的に解決できる担当者はいないだろう」
「それって、ほめてんの?」
「そうだ」
 原田は荒川の顔をまじまじと見る。無表情。
 ――よっくわかんねえやつ――
「この契約は、五年前に東大阪支社で募集されたものだ」
「そうだってな」
「募集担当者はすでに退職していて、当時の事情を聞くことはできなかった」
「電話したのか」
 荒川はうなずいた。
「現住所は東京都大田区だ。先ほど、地区を所管している品川支社に電話して不備解消のために訪問してほしいと依頼したが断られた。担当者が忙しくて時間が取れないそうだ」
 原田は舌打ちをした。
「ちょっと待てよ。だからおれに行けってのか。冗談じゃねえぞ。客のお守りは支社の仕事だろう」今の所属にいる間は募集しても手数料はもらえない。「それに時間が取れないなんて嘘だ」
「何故わかる」
「一億だぞ。ホームレスがひと晩でセレブになれる金額だ。手続きに行けば、保険金を元手にまず間違いなく次の契約がもらえる。支社は営業部隊なんだから、ふつうなら飛んで行くはずだ。そうしないのは何か理由があるに決まってる」
「どういう理由だ」
「知るか。おおかた過去に大きな苦情でもあったんだろう」
 荒川は表情を変えない。きょとんとしているようにも見える。
「ようするにややこしい客なんだよ。ただでさえ大金を請求して今か今かと待っているおっさんに、じつはこれあんたの金じゃないんだ、って言いに行くんだぞ。騒動になるに決まってる。おそらく支社は、それがただの苦情では済まないことを知ってるんだ」
「書類を整備しなければならない」
「郵送でやれよ」
「経験から言うと、この手の案件は文書では解決しづらい。結局は行かなければならなくなる可能性が大きい。そして初動が遅れるほど解決に要する時間が長くなる」
「だったらおまえが行けって。おれはごめんだ」
「ぼくは今、新人の指導担当だ。持ち場を離れるわけにはいかない」
「勝手なことを……」
 そのとき、再び笹口佳奈子が小さな声で割り込んできた。
「あの……荒川課長代理、すみません。お電話なんですけど……」
 いつからそこにいたのか、二人の険悪なムードに割って入れずにいたようだ。
「出るよ。原田、この件はまた後で」
「行かねえぞ、おれは」
 というせりふを荒川の背中に投げつけて、原田は別フロアにある喫煙ルームに向かった。
 ――やってらんねえ――
 十三階の端にある喫煙ルームは別名毒ガス部屋と呼ばれている。申し訳程度の広さのガラス張りのスペースでは、最前線から逃げ出してきたような男たちが数人、うつむき加減でたばこをふかしていた。
 日本人の喫煙率は世界的に見ればまだ高いらしいが、それでも近年の禁煙ブームのせいで『異分子』たちは確実に追い詰められている。
 原田はじつはたばこが好きでも嫌いでもない。たばこの苦手な客に会うときは数日前から吸うのを控える。それで何の苦痛もない。ただ、喫煙者を目の敵にするヒステリックな嫌煙主義者たちのことは大嫌いだ。
 ――喫煙者を糾弾するやつは自分の口臭に気づいているのか――
 たとえばそいつは、隣りの席の同僚から「おまえの口臭のせいで仕事が手につかず、うつ病になった」と非難されたら、それは自分のせいじゃないと言うのだろうか。
 おかしいじゃないか。嫌煙権と比べてみればいい。有害な煙が発生することについて、被害者側に一切責任はない。だからそれによって健康被害が生じたらそれは全面的に喫煙者が悪いというのがやつらの主張だ。
 ――だったら口が臭いやつは金輪際、口を開いちゃいけない――
 たばこと同じ論法でいけば、口臭は嫌う人が悪いのではない。臭いやつが悪いのだ。口臭のせいで健康被害が生じたら、たばこと何が違うというのか。
 単に程度の問題だ。たばこは煙が目に見える。健康に悪いという研究が口臭よりも進んでいる。多くの人がそう思っている。だから攻撃されやすい。それだけのことだ。
 嫌煙権を声高に主張するやつらはそういうことに気づいていない。自分も加害者である可能性を棚に上げて他人を攻撃するのに夢中になっている姿は、滑稽で鼻につく。
 ――想像力が足りない――
 あるいは謙虚さの欠如。そういうことだろう。謙虚さとは、存在している限り人は誰かに嫌われると知ることだ。ものごとを深く考えようとしない人間が増え、幅を利かせている。そんな風潮に逆らうような気分もあって、原田はたばこをやめないでいる。
 吸い終わった一本をもみ消しながら、喫煙ルーム内を見まわす。
 ――どいつもこいつもパッとしない――
 次の一本を抜き出そうとして、胸ポケットのスマホの未読メールに気づいた。
 倉田遥香からだった。例のばあさんの契約の日に約束していた女だ。原田の出入りする企業の経理部に勤めていて、二年ほど前から原田とつきあっている――いや、いた。
 減給処分が決まった日、原田が腹立ちまぎれに漏らしたひと言で、彼女は事情を察した。ひどく責任を感じ、涙を浮かべて謝ってきた。おまえのせいじゃない、何度そう言ってもごめんなさいを繰り返す彼女をもてあまし、原田はしばらく避けた。面接の結果が芳しくなかったこともあって、そのまま時間を流していた。
 日に一回は届いていたメールがピタリと来なくなったのが二週間ほど前だろうか。状況としては自然消滅の八合目くらい。このまま二、三カ月もすれば過去の物語になってしまうのだろう。
 久しぶりのメールの文面はこうだった。
「会って話したいことがあります。連絡をください」
 めずらしいと思ったのは連絡をくださいという一文だった。普段はそこまでは書かない。そう書くと、返信しないことが原田の負担になると思うからだ。勝手にそういう微妙な配慮をする女だった。そういうところも重いと感じるときがあった。
 二十七歳。結婚も考えていたに違いない。いい奥さんになるとよく言われると笑っていた。実際、一緒にいると家庭的な横顔がよく見えた。しかしそういう話題を原田が嫌うことを敏感に察し、話題にしたのは一度きりだった。
 ――しょうがねえか――
 性格から考えて、別れるなら会ってきちんとしたいとか言うのだろう。修羅場にはならないにしても泣かれたりするのはかなわない。とはいえ、ずっと避けているわけにもいくまい。
 返信しようと指を構えたが、適当なフレーズ――会ってもいいが面倒はごめんだということを、あたかも当面は不可抗力であまり時間がとれないという言いかたで伝える文章――をすぐに思いつかなかったので、そのまま画面を消した。たばこは次が最後の一本だった。火をつけ、煙を吸い込む。パックを握りつぶし、煙とため息を騒々しい音を立てている旧式のエア・クリーナーに向かって吐き出す。
 倉田遥香の少しさびしそうな表情が浮かんだ。このメールを打ちながら彼女はどんな顔をしていたのだろう。こういうとき女は案外冷淡なものなのか。
 二年。原田がこれまでつきあってきた女の中では長いほうだ。容姿以外にも惹かれるところがあったのだろう。このまま終わってしまっておれのほうに未練はないのか。あるいはこうして会うのを避けているのは不誠実だろうか。
 ――約束をしたわけじゃない――
 かすかな後ろめたさはあるが、それで行動を変えるべきかどうかは正直よくわからなかった。このまま会わずに終わる予感がする。そうなれば、きっとこの恋愛も自己嫌悪の地層となって、記憶の水底に積み重なっていくのだろう。

 席に戻ると荒川が言った。
「この後、来客がある。君もいっしょに出てくれ」
 先ほどやり合ったことなど忘れてしまったかのような事務的な口調。こいつの流儀がだんだんわかってきたぞ。神経は理解できないが。
「一人で出ろよ。おれは忙しいんだ」
「そんなはずはない。午前の分は完了しているし、午後は新しい案件はきていないはずだ。それに君にはぜひとも出てもらわなければならない。青木氏の契約の件だ」
 原田は眉根を寄せた。
「父親か。今日書類が着いたばかりで督促なんて早すぎるだろう」
「父親じゃない。弁護士だ」
「ひょっとして遺書が見つかっ――」原田の声が弾んだのは、ほんの一瞬だった。「――たんだったら最初からそう言ってるな、おまえは」
 荒川はうなずいた。
「詳しいことは会ったときに話すと言っている。どうやら故人から当社への伝言を預かっているらしい」
「伝言ってつまり遺言じゃねえの」
「言った通り、詳細は来てからだ」
「何でもいいや。おれは関係ない」
「この件の担当は君だ。課長の了承も得たし、先方には君の名前を伝えてある」
「おまえ。勝手なことを……」
「四時に三〇二応接だ」
 そう言うと、「ちょっと待て」という原田の抗議を背に、打ち合わせだと会議室に向かう。
 ――くそ、どうもあいつにはペースを乱される――
 原田はどすん、と椅子に腰を下ろした。
 荒川の態度は気に入らないが、若くして死んだ同年代の男が、何を考えて奇妙な行動をとったのか興味がないでもない。結局、原田は同席することにした。
 応接室では、紺のスーツを無難に着こなした三十代前半と思われる男が待っていた。さわやかなスポーツマンタイプ。名刺交換の後、弁護士・小笠原大貴はクールに言った。
「私が今日お邪魔したのは、故人、すなわち青木省吾氏からの伝言を御社にお伝えするためです。生前に加入していた生命保険契約に関する指示で、いわば御社に対する遺言のようなものです」
 ほらな、と視線を送っても荒川は知らぬ顔だ。
「名義変更の請求書を送ってきたのはあなたですね」
 荒川が言うと、若い弁護士はうなずいた。
「それも依頼の一部でした」
 するとこの男は事情を知っているのだ。なんだ、謎はあっけなく解けそうだ。
 弁護士はスマートな動作で、アタッシェケースから書類を取り出した。委任状。青木省吾の直筆で、自分の生命保険契約の死亡保険金受取人の名義変更請求に関する一切の権利を小笠原弁護士に委任するという内容。委任状の要件は満たしているようだ。
「もう一枚あります」
 弁護士は二枚目を取り出し、応接テーブルに置いた。ワープロで作成された文書。「指示書」とある。
 ――東西生命保険相互会社 御中
 私は、保険契約者としての権利をもって、御社に以下のことを請求いたします。
 私が平成××年×月に加入した証券番号×――××号の生命保険契約について、私の死後、保険金等すべての給付が私の意思に沿った正当な権利をもつ人物に支払われるよう、御社が万全の措置を取り、合法かつ適切に支払手続きを行うこと。
 具体的には、東京都××区×××、小笠原大貴弁護士に私が委任し、御社に送付させた平成×年×月×日付の名義変更請求書はすべて私が作成したものに間違いないので、御社において、これらを有効と確認したうえで、生命保険約款、関連法令等および御社社内規定を順守し、誠意を尽くして、正当な受取人を特定し、しかる後に速やかに保険金支払い手続きを完了ください。
 ただし、支払い手続きの前に、御社が受取人を特定した段階で、その内容を書面にて代理人小笠原大貴弁護士にお知らせください。代理人は、御社の特定内容を精査したうえで、問題ないと判断した内容にて支払いを許可いたします。真正な受取人の決定について、御社において少しでも不正ないし怠惰をなした形跡が認められると代理人が判断した場合には、支払いを許可いたしません――
 最後に日付、署名、押印。日付は死の十日前だ。印鑑は実印で、ご丁寧にも同日付の印鑑証明書が添付されている。本人の意思と判断せざるを得ない。
 原田は思わずつぶやいた。
「支払いを許可しない? 何だそりゃ」
 小笠原弁護士が応じる。
「故人は、御社が正当な受取人を特定し――」
「それはわかってますよ。私が言いたいのは、どうしてこんな面倒なことをするのかってことです」
 荒川も続く。
「お客様の側から保険金の支払いを禁止するというお申し出は初めてです。対応は社内で検討いたしますが、そもそもお申し出は不合理と思います。なぜご自分で直接、受取人を指定なさらないのでしょう」
「それは言えません」
「はあ?」
「理由を説明することは依頼人から禁じられているのです。私は依頼人の指示どおりに行動しています」
「あんた――」
 馬鹿にしてんのか。そう言いかけた原田を弁護士は制した。
「これから故人のことについて、おおまかにご説明します。これも依頼内容の一部です」
 原田と荒川は顔を見合わせた。
「とにかく、お聞きしましょう」
 弁護士の話は次のようなものだった。
 まず、死亡時の戸籍の確認。独身で子どもの記載はなく、家族は父、母、妹、弟の四名だけ。この点については、弁護士が手まわしよく用意してきた戸籍謄本で確認できた。
 次に、死亡時の職業は会社員であったこと。青木省吾は十年前に東大を卒業し、一部上場の大手電機メーカーに就職したが、二年ほど勤めた後に退職し、米国カリフォルニア州の会社に移ったという。
 十年前の卒業ということは自分と同学年か。少なくとも同年代だな、と原田は思った。
 ――東大ねえ――
「カリフォルニアというと」と、荒川。
「シリコンバレーのIT企業からの誘いに応じたのです。彼は日本にいる頃から、技術者として非常に高い評価を得ていました」
 アメリカ企業のヘッドハンティングか。ふん、うらやましい限りだね。原田は思った。自分が名古屋で過ごした苦しい時代のことが一瞬浮かんで、すぐに消えた。
 原田の経験からいえば、スカウトされたからといって優秀な人材とは限らない。企業側が使い捨ての鉄砲玉営業をかき集めているのかもしれないし、ヘッドハント会社が決算対策の手数料割引キャンペーンを張っているだけかも知れない。そんな転職はたいてい長続きしない。東大ショーちゃんの場合はどうだったのか。
「そして三年前に帰国し、お父さまの会社に就職しました」
 ――五年続いたのなら、一応は成功と言えるだろう――
 荒川は怪訝な顔をした。
「当社へのご加入は五年前、大阪の支社でのことですが」
「じつは省吾さんは、渡米した後に、いったんご家族に内緒で帰国して、三か月ほど大阪にいたことがあります。保険加入はその時期のことです」
 それからまたシリコンバレーの会社に復帰したが、その会社が間もなく倒産し、再度の帰国となったという。
「倒産の原因は何ですか」
「ある訴訟に負けて、多額の賠償債務を負ったせいだと聞いています」
「どのような訴訟でしょうか」
「詳細は存じません。いわゆるベンチャーでしたから、成長が早かった分、敵も多かったのではないでしょうか。あちらではよくあることのようです」
「会社名は」
「ノース・ヴァレイ・システム・ソリューション社です」
 帰国後は父親の会社、青木工業株式会社に就職し、死亡時まで在籍していた。
「お父さまの会社はどのような」
「従業員七人のいわゆる零細の町工場で、機械部品を作っています。不景気の影響は小さくないでしょうが、中堅電機メーカーの下請けとして長い実績があります」
 原田はつぶやいた。
「東大から一部上場企業、シリコンバレー、そして下町の工場か……」
「お話しできるのはここまでです」
 荒川が訊ねる。
「ご家族との関係はどうだったのでしょうか。特によかった方やよくなかった方などは」
「お教えできません。個々の受取人候補者について、御社が先入観を持ってしまうことになりかねませんので」
「ご家族の中に借財のある方はいらっしゃいますか」
「それも調査の中でわかるでしょう」
 ここで原田が言った。
「取っかかりも何も教えてくれないなら、あなた一体何しに来たんですか」
 小笠原弁護士は表情を変えない。怒らせたら何かぽろりと出てくるかと思ったのだが。荒川がまた訊ねた。
「ご入院はK大付属病院でしたね」
「そうです。省吾さんはそこで亡くなりました」
「省吾さんがあなたに本件を委任された理由は」
「それも、お話しできないことになっています」
「委任を受けたのはいつですか」
「入院の直後です。――すみません、ご質問は以上に願います」
 荒川が言った。
「わかりました。調査を行ってみましょう。どんな案件であれ、私どもは保険金を適切に支払うために最大限の努力をします。それが私どもの仕事ですから」
 弁護士はうなずいて、
「もう一つだけお教えしましょう。彼の渡米のとき、ちょっとした騒ぎがありました。大手メーカーに就職して二年ほど経ったある休日の朝、彼は散歩にでも行くような足取りで家を出て、そのまま帰ってきませんでした。当時は実家でご両親と住んでいたのですが、ご家族は当初、ただの無断外泊だと思っていたそうです。三日ほどしてさすがに心配になり、警察に届けようということになったとき、工場のパソコンにメールが届いた。会社を辞めた、今アメリカにいる、仕事を得たのでしばらく帰らないが心配するな、煩わしいから探すな――そんな内容だったそうです」
「ご家族は驚かれたでしょうね」
「お父さまの怒りは相当なものだったようです。メールには住所までは書いていない。打ち返しても返信はない。だからどこにいるのかわからない。カリフォルニアにいたということも、帰国後に本人が話してわかったのです」
「なるほど。かなり非常識な方だったようですね」
 原田の皮肉に弁護士は反応せず、アタッシェケースからもう一枚の紙片を取り出した。
「受取人候補の方々の連絡先です。一日も早いご連絡をお待ちしています」
 四人の名前と電話番号が記されていた。
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