第5話

文字数 10,475文字

 その夜、自宅マンション近くのショットバーに立ち寄った。バーテンの寡黙さと、かける音楽の趣味が気に入っている。酒屋直営の店だから旨い酒が安い。
 カウンターでウィスキーを飲んでいると、背後のテーブル席の若いカップルが同窓会の話をしていた。それでふと思い出した。四、五年前に開かれた高校の同窓会で、中学の教師をやっているやつと殴りあいになりかけたことがある。
「人生をなめるな」
 そいつは涙声で原田に突っかかってきた。元委員長が間に入り、あやういところで事なきを得たが、場はしばし騒然となった。
 聞けばそいつは両親が入院し、担任しているクラスから自殺未遂が出、家庭では奥さんとむずかしいことになっているという。クラス会はそいつにとって、本当に久しぶりの息抜きの場だったのだ。教師の給料じゃな、と誰かがつぶやいていた。
 あのとき、原田は外資系の証券会社にいた。二十代の終わり頃。仕事は順調だった。自分ではまったく覚えていないが、何か尊大なことを言ったのだろう。それが気に障ったのか。気まずくなった会場から、原田は一人逃げるように引きあげた。
 ――別に馬鹿にしたわけじゃない――
 知らなかったんだ。仕事の場ではないので少しだけ油断した。他人の心理に鈍感で営業マンが務まるものか。そんなこともわからないのか。なのに、その場の全員の視線が原田を非難していた。
 ――チャラチャラしたやつが、懸命に生きている善人の不幸を嗤うな――
 帰りの電車の中で何度も思い返し、顔から火が出た。舌打ちをし、周囲の乗客たちから奇異な目で見られて、さらに感情のやり場をなくした。席を蹴ってきたことが自分の非を認めたようで悔しかった。かといって、今さら引き返すこともできなかった。あいつら。何もわかっていないくせに。やつが不幸なのはおれのせいじゃない。
 ――同窓会なんて二度と行くものか――
 思えばむかしからそうだった。原田幹夫はお調子者で、他人の痛みがわからないやつ。子どもの頃から周囲にはそういう目で見られてきた。決してそんなつもりはなかったのに。
 きっかけは小学校四年生か五年生のときだ。授業中にはしゃぎすぎて、つい口が過ぎてしまった。たった一度、どんなことを言ったのかさえ覚えていない。それを聞いた女子の誰かが泣き出した。クラスじゅうが原田を糾弾した。
 そのときから、原田は無神経でおちゃらけなやつだというレッテルを貼られてしまったのだ。
 どう考えても自分はそんなタイプではない。むしろ内向的なほうだろう。大勢より一人でいるほうがずいぶんと気が楽だった。おどけているように見えたとすれば、他人の顔色が気になっていたからだ。周囲の誰かが不機嫌そうにしていると、自分のせいに思えてしかたがなかったからだ。
 あの日、クラスの団結した非難にさらされ、
 ――わざとじゃないんだ――
 そう弁解することもできないほど狼狽してしまった。あのときの教室の空気は今も覚えている。天井がぐわんと歪み、黒板が自分に倒れかかってくるような気がした。そんな状態で泣いた子に謝ることなどできなかった。気がつくと先生まで原田をからかうようなことを言っていた。ニヤニヤと笑いながら……。
 ――あの子だって、ぼくが運動会のリレーで転んだときにひどい言葉でからかったじゃないか。あっちにいるあいつだって、ぼくの絵が下手だって馬鹿にしたじゃないか――
 後でそういう反論が胸のうちに湧いてきたが、もはやタイミングは逃がしていた。後から口にする勇気もなかった。言えないことがまた自分の心を重くした。
 それをきっかけに仲間外れにされた――りしたわけではない。当の女子も翌日にはケロリと登校していた。ショックを受けたのは自分だけだったという事実は衝撃的だった。他のみんなにとっては、本当にちょっとからかってみただけのことだったのだろう。
 あのときから周囲は何かにつけ、原田はおちゃらけだからなあ、と言うようになった。言われるたびに原田の胸はかすかにきしんだ。そうじゃないのにと思いながら、顔ではあいまいに笑っていた。そうする以外にどうしたらいいかわからなかった。そのうち胸のきしみにも慣れてしまった。
 そしてこう考えるようになった。いつも一緒にいるのに、クラスメートたちは誰一人、自分のことをわかってくれていなかった。だったら自分だって他人のことは何一つわかっていないに違いない。他人とはわからないものなのだ、これが孤独というもので、人は孤独なのだ……。そして心の中で少しずつ、他人と距離を置くようになった。
 奇妙なことに、原田の性格が明るく、社交的になっていったのもこの頃からだった。言われてひどく傷ついたはずの「おちゃらけで軽薄なやつ」に実際になっていったのだ。それが意識的だったのか無意識だったのか、今となっては自分でもよくわからない。
 おかげで交友関係が豊かでにぎやかな中学、高校生活を送った。大学では軟派なテニスサークルで運営の中心的役割を務めた。顔が広く、軽いが面倒見のいいやつと評された。
 社会に出てからは、その軽薄さを仕事上の武器として使っている。営業技術というメッキをほどこして。

 弟・青木大悟はくわえかけたたばこをとり落とした。火を点ける前でよかった。
「ち、ちょっと。いくらだって」
 大吾――だからダイちゃんだな――の勤務先である池袋西口のパチンコ屋近くの喫茶店。近くといってもすぐ隣りではなく、だいぶ離れた東口の店を指定された。せせこましい路地裏の、せせこましい喫茶店だった。そんな店を指定してきたのは、
「保険屋さんだろ。話をしているところを誰かに見られて、おれに保険金でも入るんじゃねえかって勘繰られたらうぜえからよ。店のやつら、金の匂いには異常に敏感だからさ」
 というのが理由だった。
 前日の夕方、小笠原弁護士のリストにある番号に電話をかけてみたとき、ダイちゃんはなかなか出なかった。番号が間違っているかも、と疑いながら、原田が十回コールを五、六回も繰り返した後、ようやく応答があったのだ。
「もし……」話しだそうとしたとたんに、ラッシュ時の駅のホームが爆撃に遭ったのかと思うほど騒がしい金属音が耳に飛び込んできた。「うわ」思わず受話器を耳から離し、再度耳を近づけると、陰気な声が聞こえた。
「――誰」
 おそろしく警戒心の強いやつ。それが第一印象だった。アポを取るのもひどく苦労した。見知らぬ他人と会うのを極度に嫌がっている感じだ。それでも最後には応じてきたのは、やはり金の匂いを嗅いだからか、それともランチをおごってやると言ったからか。
 約束の時間から五分遅れてきた男を見て、原田は苛だたしい気分になった。
 ――こんなやつを客として扱わなくちゃならないのか――
 パサパサに傷んだどぎつい金髪。鼻と耳に空いたピアスの穴。姿勢が悪く、平面的な造作の顔。暗い表情。青みがかった制服のデザインは鋭角的なのに、どうすればこんなにだらしなく着こなすことができるのか。
「電話で言ってた保険金って何よ。誰か金持ちの親戚が死んだの? おれがもらえんの」
 口のきき方もなってない。投げやりな態度がカッコイイと思っているのだろう。
「まず――」
 運転免許証を見せろから始めて、荒川が事情を淡々と説明している間、原田はこの受取人候補を観察した。ぞんざいな物言いをしているが虚勢であることがありありとわかる。試しに原田がきつい視線で睨んでやると、ばつが悪そうに目をそらした。
 ――やっぱり――
 イキがって見せたってこの程度だ。年齢相応の社会常識も分別のかけらも感じられない。もう三十歳近いのだろうが、年齢は関係ない。中身のないやつはガキだ。たしかお兄ちゃんは東大卒で、一流メーカーからアメリカのIT企業にヘッドハンティングされたんだっけ。なるほど劣等感でグレちゃった口か。しかし同情なんかしない。
 ――生理的に嫌いなタイプだもんね――
 長年営業をしているとさまざまな出会いがある。素晴らしい人物に巡り会うこともあれば、虫ケラをふんづけることもある。後者のほうが圧倒的に多い。こいつは虫ケラの中でも下等なやつだ。もっとも、こいつが一億の受取人になったとして、おれが営業に戻っていたら、おだてまくっておいしいカモにしてやることもできるがな。
 母親からの話は通っていなかった。思った通り。事務屋の発想だけでは危なっかしいことが証明されたわけだ。この手のゲームはルールを守らないやつの発想で動かないと勝てない。
 話を始めてすぐにダイちゃんの目つきが変わった。ガキなりに眼光鋭く、獲物を狙うライオンの赤ちゃんくらいの顔つきにはなった。同僚たちがどうとか言っていたが、自分だってだいぶ金の匂いには敏感じゃないか。そして金額を聞いたところで、たばこをとり落としたわけだ。
「一億? 兄貴が、おれに」
「あなたかどうかはまだわかりません」
「でも候補の一人なんだろ」
「お兄さんがどなたに残そうとしたのか、心あたりは……」
 ダイちゃんは即座に首を振った。
「ないね。保険のことなんて知らなかったよ」
 最初こそ驚いたものの、ミサちゃんとは違ってダイちゃんは感情的になったりしなかった。むしろすうっと冷めた。一度の説明で状況を理解したようだ。おや。こいつ案外ものを考えられるのかも知れないぞ。
「つまりこういうことか。三人のうち二人が放棄すれば、金は残りの一人に支払われる」
「そうです」
「逆にいうと、二人が放棄しなきゃ受け取れない」
「誤解なさらないように。便宜上、代表して会社から保険金を受け取っていただくだけで、残りのお二人の権利が消滅するわけではありません」
「でも、その後の分配は三人で決めるんだろ。だったら一緒だ。いったんおふくろなんかに渡ったら、絶対にこっちには回ってこねえよ」
 ダイちゃんは天井を見上げた。それからたばこに火を点け、またすぐに灰皿でもみ消し、せわしない視線を手元のあたりに走らせた。足りない頭で何かを必死に考えている様子。
「――で、おふくろは何て言ったって」
「自分からあなたがたごきょうだいに連絡をするとおっしゃっていました。説得して、ご自身が代表受取人になると」
「何も聞いてねえぞ。くっそ、あの女。また自分のもんにするつもりだ」
 強い非難の口調。
「どういうことでしょう」
「おれらのお年玉の貯金を勝手に引き出したり、おやじが金庫に入れといた従業員の給料くすねたり、そんなことが何回もあるんだよ。問い詰めてもすぐに逆切れして暴れ出すから、すげえ面倒くさいんだ。夫婦げんかで何度警察が来たか」
 さもありなん、と原田は思った。
「あなたは今、お一人で暮らしていらっしゃるのですか。池袋であれば、ご実家からでも通えるように思いますが」
「別におれの勝手だろうが。おれはあのうち嫌いなの」
「ご実家なのに?」
 ダイちゃんは敵意をあらわにした。
「ムカつくんだよ。うぜえの。おやじもおふくろも姉貴もみいんな。だから出たの」
 余計なこと訊くんじゃねえ。そう言わんばかりに荒川をにらむ。
 こんなふうに感情をむき出しにするのは血のめぐりが悪い証拠だと原田は思う。自分の持ち札をさらし、どこに弱点があるかを相手に知らせてしまう。そのことに気づいていない。それにさっきから聞こえてくるのは、語彙の貧弱なやつらが安易に逃げ込む単語ばかりだ。「うぜえ」と「ムカつく」。もうすぐ「やべえ」も出てくるぞ。
 子どもの頃、ろくに本を読まないとこういうがさつな脳ができあがる。間違っても頭脳労働をやらせちゃいけないタイプだ。少しは思考力があるかと思ったが思い過ごしのようだ。身体が頑健というわけでもなさそうだから肉体労働もいけない。結局、雑用のような単純仕事をして一生を終えるんだろう。原田は思う。人間の本質なんてそう簡単に変わるもんじゃない。とくにそれがあまり上等でない場合には。
「お手続きにはご家族と協力していただく必要があります。ご承知おきください」
「おふくろと話すのか。勘弁してほしいな」
「必要な手続きです。それができなければ」
「わかったよ。話すってば。おれだって……金が要るんだ」
 ここで原田が割って入った。
「ちょっといいかな」
「何」
 ぞんざいな態度。荒川の冷徹さにはかなわないから、その分を原田に対する態度で取り返そうとしているみたいだ。たぶん無意識なのだろう。原田はカチンときた。このガキ、ちょっとかわいがってやるか。
「お兄さんはどんな人だったの」
 相手が年下であろうと、顧客に対しては敬語を使わなければならない。東西生命の顧客応対マニュアルにはそう書いてある。しかし原田マニュアルは違う。相手によって臨機応変にやること。面談はすべて交渉である。相手より物理的・心理的優位に立つことを第一に考えるべし。
「兄貴は……すげえやつだったよ」
「すげえやつ」
「そう。勉強はいつも一番だし、運動だってすっげえできた。おれはどっちも全然駄目で、いっつも比べられてた」
 やっぱりね。
「じゃあ、嫌いだった」
「まさか。大好きだったよ。小っちゃい頃から、兄貴はおれのヒーローだった」
 意外な回答。
「親父さんやおふくろさんは、そうでもなかったみたいだけど」
「だろうな。姉貴もね。三人は兄貴のことを嫌ってた。というか怖がってた。いや、あれは何というか……もてあましてた。そう、もてあましてたってやつだな」
 的確な単語が自分の口から出てきたので、ダイちゃんは得意気だ。やれやれ。
「家族だけじゃない。同級生も友だちも先生たちも、誰も兄貴の考えていることを理解できなかった。おれはわかってたけどね。おれだけはね」
 まあ、言うのは勝手だ。
「兄貴は学校じゅうの有名人だった。おれはよく兄貴と姉貴の残りかすだって馬鹿にされたけど、そんなのは別にどうでもよかった。兄貴はおれを馬鹿にしたりしなかったからね。おれは鼻が高かった。それに、親父はずうっと仕事だし、おふくろはおれより馬鹿だし、姉貴は兄貴やおれとは口もききたくないくらい嫌ってたけど、兄貴は、たまにおれの勉強を見てくれた。――小学校まではね」
「お兄さんはガリ勉だったんだな」
「違うね。勉強はしなくても試験はできちゃう。ほかの時間は好きなことやってた」
「どんなことを」
「いろいろさ。兄貴は多趣味、っていうか凝り性だった。分厚くて何巻もある外国のむずかしい本を何週間も寝ないで読んだり、大きくて精巧なプラモデルをあっという間に組み上げたり、油絵を何十枚も描いたり、ギター弾いたり、学校休んで勝手に旅に出ちゃったり。一つのことに凝りだすと気が済むまでとことんやるんだ。それが全部いい線いっちまう。習字や絵のコンクールで賞取ったり、作文が雑誌に載ったりさ。すげえだろ」
 弁護士の話を思えば不思議ではない。
「何かに熱中すると周りが見えなくなる。それで他人から見れば突拍子もない行動をとる。そこが誤解されるんだけど、天才だからな。凡人の感覚で測っちゃいけないんだ」
 自分のことのように得意げだ。
「突然アメリカ行っちゃったときも、おれや、むかしから知っている兄貴の友だちなんかは、ああまたか、くらいの感じだった。おやじはめちゃくちゃ怒ってたけどね。学校出してやるのにいくらかかったと思ってんだ、みたいな。ふん。ケチが」
「確認するけど、君は中学くらいからお兄さんとはあまり話はしなかったんだね」
「世界が違っちゃったからな」
 原田はへえ、そうなのかい、と大袈裟に言った。
「だったら、お兄さんは君にお金を残そうと思ったかなあ」
 ダイちゃんの目が、見る見る敵意で満たされていく。
「――どういう意味だよ。おれには受け取る資格がないって言うのか」
「そんなことは言ってないよ。ただ、お兄さんにとって一番気がかりな人は誰だろうって想像してみただけさ。ずっと連絡もとってないような弟が一番だったのかなあ」
「おれだって対等だろうが」
 声を張って威嚇しようとしているようだが、田舎の丸刈り中学生ほどの迫力も感じられない。原田は涼しい顔で続けた。
「でも中学時代から、もう十何年も、ろくすっぽ話もしていていなかったんだろう。お兄さんは君には関心を持っていなかったんじゃないかな。ふつう保険金というのは、生活に困る遺族のために残すものだ。お兄さんにはそういう意味での家族はいなかった。では誰に残そうとしたんだろう。ふつうに考えたらお父さんじゃないかな。会社の経営が苦しいってことは当然、お兄さんも知っていたんだろう。なにしろそこに勤めていたんだし」
「知らねえよ。兄貴と家族で一番仲がよかったのはおれだ。それにさっきの話じゃ、おやじにはもう権利はないんだろう」
 わかった。こいつは金のことになると頭の回転がよくなるんだ。
「そうだね。まあ、それはどうでもいいんだけどね」
 身をぐい、と乗り出して、突き放した言い方をしてやった。
「うちとしては代表を決めてもらいたいだけなんだ。そうしないと一切払えない。だから三人で話し合って、決まったら電話してよ。書類を用意するから」
 席を立とうとすると、相手はすがるような表情で言った。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ」
 ――来たぞ。
「何か質問かな」
 ダイちゃんは首を横に振る。真剣な表情だ。
「原田さんだっけ。頼む、おれに払ってくれよ。おれ、金が要るんだ。この通り」
 ダイちゃんはテーブルに手をついて頭を下げた。ほう、ハッタリ野郎がここまでするか。それほど金に困っているのか。
「だから三人で話をつけてくれって」
 ダイちゃんは顔を上げ、再度首をぶんぶんと振った。
「無理だよ。姉貴はともかく、おふくろを説得するなんて無理だ」
「それはそっちの問題だね」
 ダイちゃんは原田の腕をつかんできた。ここで行かせたら金まで逃がしてしまう、という感じだった。
「いいから聞いてくれよ。この話を聞いたら、兄貴がおれに金を残してくれたんだってわかるからさ。うん、おれ、今思い出した」
 荒川がちらりと原田を見た。ここは自分にしゃべらせろと言っている。
「お聞きしましょう」
 ダイちゃんはほっとして荒川に向き直り、話し始めた。
「おれ、見舞いに行ったことがあるんだよ。兄貴が入院してるとき」
「いつでしょう」
「日付までは……。でも入院した直後だったから、二、三か月前だ」
「お兄さまが入院されたとご家族から連絡があったのですか」
「家族じゃない。連絡をくれたのは兄貴の幼馴染だ。むかしから近所に住んでて、小さい頃はおれもよく一緒に遊んでもらっていた」
「お兄さんとどのような話をしたのですか」
「……広美のこと」
「それはどなたですか」
「おれたち、来年結婚するんだ」
 物好きもいたもんだ。なるほど、それで金が要るか。
「おめでとうございます」
 しかし本人の表情は暗い。
「兄貴は喜んでくれたよ。点滴して、顔はやつれていたけど、まだちゃんとしゃべれてた。おめでとう、奥さんを大事にしろって言ってくれた。おれのこと心配してくれてた。それで弟が、おれが……ちゃんとして、新しい生活を始められるようにって、もう心配はいらないって言ってくれた。なあ、わかるだろう。間違いないって。兄貴はおれに金を残してくれたんだよ」
 原田と同じところに荒川の耳もひっかかったようだ。
「ちゃんとする、というのはどういうことですか」
「だから……結婚するんだから、いろいろと、ものをそろえたりとか……」
「それだけですか」
 ダイちゃんは額に汗を浮かべた。
「金が……要るんだよ」
 この野郎。はっきり言え。
「借金だろう」
「きれいにしたいんだよ。その、ちょっと……ヤバくて」
 何かを思い出して怯えている。
「それをお兄さんに話したんですか」
 震えるようにうなずく。
「そしたら……兄貴はにっこり笑って、心配ない、きっとだいじょうぶだって言ってくれた。あのときはよくわからなかったけど、今わかったよ。兄貴は保険金のことを言ってたんだ。だって借金の心配がなくなるって言ったんだもん。兄貴は自分がもうすぐ死ぬことを知ってた。そんな状態で、一番仲のよかったおれに、おまえの借金は心配すんなって言ったんだ。それはもう、そうとしか考えられないじゃん」
「いくらなんですか、借金は」
 ダイちゃんは、喉に刃物でも突き付けられたように、あごを引いた。
「三百万くらい。いや、利息も入れると……今は四百万くらいかな」
 パチンコ屋の住込み店員の収入に見合った額とは思えない。
「何に使ったんだよ」
「競馬……とか」
 原田は視線で天を仰いだ。新妻は泣いて暮らすんだろうな。
 貸すほうは当人の返済能力なんか最初からあてにしていない。担保からの回収を考えている。モノではない。連帯保証人だ。誰か世間知らずのお人好しを連帯保証人にしておく。親とか親戚とか、友人とか恩師とか。返済が滞った瞬間に、連帯保証人は債務者本人と同じ立場で追い込みをかけられる。世の中にはハンコ一つの怖さを知らない馬鹿者がまだ山ほどいるのだろう。
 金融業者のやりかたは近年の法改正の影響でだいぶ変わってきたらしいが、闇金やそれに近い業者による被害はむしろ増えていると聞く。資金繰りに汲々とする中小企業は行列を作って破たんの順番を待っているし、個人でもこいつのようなろくでなしが後を絶たないからだ。
「保険金の手続きとは関係ありませんが、専門の弁護士に相談されてはいかがですか。それに万一、悪徳業者による違法な取り立てにあっていれば止めさせることができます。払いすぎた利息などがあれば取り戻すこともできるようです」
「……できねえよ」
 消え入りそうな声。
「費用なら分割払いも可能なようです。役所の無料法律相談を利用することも……」
「連帯保証人は広美なんだ」
 万事休す。原田は吐き捨てるように言った。
「うちへ帰っておやじさんに泣きつけ」
「無理だよ。おやじが出してくれるわけがない。あの家に余分な金なんてないし、大げんかして飛び出したんだし……」
 原田は無性に腹が立ってきた。金貸しにではなく眼の前のガキの愚かさ加減に。ギャンブルだと。借金まみれのくせに結婚だと。自分のケツを拭くだけの生活力もないくせに。
「彼女とは別れてやれよ。そんな状態で結婚なんて無理だ」
 ダイちゃんは顔を上げた。
「おれもそう言ったよ。結婚なんかまだ無理だって。でも、あいつ聞かなくて。二人で頑張れば何とかなるって」
「なるわけないだろう、おまえ世の中、っていうか自分がわかって……」
「……妊娠してるんだ」
 ダイちゃんは原田の両腕をぎゅっとつかんで、すがった。
「なあ、お願いだよ。この通り。その金おれにくれよ。おれは駄目なやつだけど広美のことは本気なんだ。あいつは世間知らずで何もわかっちゃいない。おれが守ってやらなきゃならない。おれは借金さえ返せれば、またちゃんとした仕事に就いてやり直せるんだ。兄貴はそうしろって言ってるんだよ。生まれてくる子どものためにも。だって兄貴はおれにだけあんなに優しかったんだ。金はおれのものだよ」
 受取人候補エントリーナンバー・ツー、弟くんは血走った眼で何度も頭を下げた。

 ダイちゃんが「やべえ、時間だ」と言いながら出て行った後、原田は喫茶店のソファの背もたれに沿って、伸びをした。朝は晴れていたのに、空には雲が広がってきた。
「ヒロミちゃんはいつか、何でこんなクズと結婚しちゃったんだろうって泣いて後悔するんだろうなあ」
「ぼくたちの仕事は保険金を支払うために受取人を特定することであり、受取人候補である彼に状況を認識してもらうことだった。後者は達成した」
「いつもながら冷静だねえ、荒川課長代理さんは」
「君の発言の趣旨は理解しているつもりだが、彼の婚約者のためにぼくたちにできることはない」
「おれは営業が長いもんでさ」
 荒川は不思議そうな顔をした。
「営業は仕事に関係のないことにも関心を持つものなのか」
「関係はあるんだよ。紹介も苦情も、たいてい思わぬ方向から飛んで来る。ヒロミちゃんだって、ダイちゃんが受取人になれば、その金でいいお客さんになってくれるかも知れない。だったらいい印象を与えておくに越したことはない」
「将来の不確かな収益を期待する営業の論理か。ふむ。苦情に関する視点は興味深いな」
「もっとも、いっぺんあんな生活に落っこっちまったら、なかなか抜け出せるもんじゃない。おれが今でもセールスだったら、ダイちゃんはソッコーで見込客リストから外すね。向こうから入れてくれって言ってきてもお断りだ。この先、やつが保険料を払っていけるとは思えない。早期消滅は継続率に響く」
 継続率とは、募集した契約が解約されずにどのくらい長く続くかという保険会社の業績指標だ。
 生命保険の保険料すなわち掛け金は、長期間の継続を前提に設定されている。契約締結時は事務経費やセールスへの手数料などの初期コストがかかるので、会社の収支はマイナスである。収益はその後、継続的に入る保険料によって少しずつ回収されていく。だから継続率が悪ければ会社の収益にはならない。早期に解約されたりすればセールスの成績もその時点で控除される。
「本件の受取人になれば借金はじゅうぶんに返せる。彼は立ち直るかもしれない」
「無理だね」
「どうして」
「ダイちゃんの持ち味は何だ。あの滅茶苦茶甘い情報ガードだよ。大金が手に入ったらきっと超ウレシーって顔に出ちゃうぞ。同僚たちにちょっと問い詰められたら、すぐに得意気にしゃべっちまうさ。賭けてもいいよ。ダイちゃんの人生は一億円受け取ったって何一つ変わらない。自分の昼飯代も出さないうちに、周囲にむしり取られておしまいだ」
「一億は簡単に使える額じゃない」
「使えるさ。他人の金なら」
 ためしにおまえの金をおれに預けてみるか、という原田の冗談に、荒川は真顔でやめておくと答えた。
「オフィスに戻ろう。次は妹に連絡をとる」
「最後の希望って感じだな」
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