第9話

文字数 9,468文字

 翌日の新聞記事は小さかった。しかも読後の印象はケンちゃんのほうが悪くなるように書いてある。広報部はきちんと仕事をしたらしい。武田が言ったように保険金部長のところへ社長から電話があったが、荒川が朝イチで課長、部長にあのペーパーを渡していたので、そちらもスムーズにことが済んだようだ。
 組織の仕事というのもややこしいようで単純だ。上司を客だと思えばいい。客が次に言いだしそうなことを予測し、先回りして準備しておく。それだけのことだ。
 新聞沙汰になった途端、課長と部長のこの件に関する関心が高まった。それはつまり、もっと上のほうの関心が高まったということだ。荒川と原田は長いこと説明させられた。彼らだってサラリーマンなのだから理解できないでもないが、これほどあからさまな豹変には鼻白む。
「経理部が弁護士委任の費用を認めた」
 荒川が言った。そりゃそうだろう。これで職員の身に何かあったら、経理が予算をケチったからだと言われてしまう。予算が下りたからにはさっそく弁護士委任、それと並行して供託だ。弁護士の人選は荒川にまかせるとして、あの女を呼びつけて一つ仕事をやらせなければならない。
「笹口さん。ちょっといいかな」
「はい。何でしょう」
 しらっとしている。昨日の出まかせなど忘れてしまったかのように。
「例の殴りこんできた社長の件だけど、あの保険金の供託の手続きを頼むよ」
「その件ならもう荒川課長代理に言われましたけど」
 手回しがいい。さすがと言っておこうか。
「じゃ、よろしく。それからこの件、今後は弁護士に……」
「でも、できなかったんです」
「え」
「供託所の窓口の人が、これは受けられませんって」
「どうして」
「わかりません、私。そんなむずかしいこと。課長代理から聞いてください」
 悪びれた様子もなく背を向ける。原田は戻ってきた荒川に訊いてみた。
「保険金を支払うのは、保険会社による受取人への債務の弁済だ。弁済供託が認められるのは、債権者による受領拒否や債権者不確知の場合に限られる」
「もう少し噛み砕いてくれよ」
「弁済供託というのは、債務者が弁済する意思も用意もあるのに、債権者に受け取りを拒否されたり、そもそも債権者が誰かわからない場合の供託だ。これをすれば債務者は弁済義務を果たしたと見なされる。今回当社は債権者不確知、つまり受取人が誰かわからないことを理由に供託をしようとした。しかし供託所の担当者はこう言った。受取人は三人のうち誰かだということはわかっており、保険会社が規則どおりに決定すればいいのだから、不確知とは言えない」
「まあ、理屈だな」
「理屈だ」
「で、どうすんだよ」
「どうもしない。代表受取人が決まったという連絡を待つだけだ」
 いつものように表情を変えずに言う。
「ま、弁護士に頼んじまえば、しまいだがな」
 弁護士に折衝を委任すれば、相手方はこの件について直接東西生命に連絡してくることができなくなる。面倒なやりとりはすべて弁護士がやってくれる。
「何も終わっていない。支払いはまだ済んでいない」
「おれたちの仕事はなくなるだろう。あーあ、せいせいした」
 委任先は、東西生命の保険金訴訟を多く手がけている五十嵐という顧問弁護士だ。
「五十嵐先生に任せておけば間違いないだろう」
「と、荒川先生が言うならだいじょうぶだろう」
 では、次は面接だ。ちょっと自信を失いかけていたが、弱気じゃ駄目だと思い直した。
 自分の実績を見てみろ。中小だって十分にやっていける。歩合の率が悪くなっても、その分件数で稼げばいい。こっちが会社を選ぶんだ。そう思ったらやる気が戻ってきた。
 タイミングよく長田先輩からラインが届いた。翌週の水曜にUSライフの人事担当者のアポがとれたという。がんばれよー、と旗を振る豚のスタンプ付きだった。
 前回の面接のときのことが頭をよぎったが、すぐに打ち消した。先方が原田幹夫に関する悪い情報を持っているなら、最初から会おうとなんてしないはずだ。
 ――よし。これで決めてやる――
 返信のお礼メッセージに力が入る。
 当日分の案件を処理すると、原田は荒川が席を外したタイミングで喫茶室へ行こうと構えていた。面接の準備をするためだ。そのときデスクの電話が鳴った。出ると青木家の弟くんだった。虫ケラのダイちゃん。
「原田さん。これからちょっと会って話がしたいんすけど、時間とれませんかね」
 この間の泣きそうな声から、何故か打って変わって横柄な口調だ。
「君か。話し合いはまとまったのかい」
 そんなわけないだろうがな。
「それはまだなんすけどね」
「悪いけどさ、その件はもう弁……」
 と言いかけたとき、ダイちゃんが意気込んで言った。
「おれ、見つけちゃったんすよ。兄貴の遺書」
 ――何だと。
「受取人もばっちり書いてあるんすよね」
 脳裏に浮かんだダイちゃんの顔がにやけている。そのイメージは気に入らないが、遺書が出てきたというのは重大なニュースだ。
「誰になってる」
「へへ。それは会ってから言いますって」
 虫ケラがえらそうに……。と、電話の相手に気づいた荒川が言った。
「弁護士あてに連絡させるべきだ」
 送話口を押さえながら、原田は答えた。
「でも遺書を見つけたと言ってる。受取人の記述もあるらしい」
「そうだとしても、すでに弁護士委任した案件だ。弁護士に最初に見せるべきだ」
「これで一気に解決するかも知れねえぞ」
 そのとき、ダイちゃんが待ちきれないように言った。
「原田さん。じつはおれ、もう会社の前まで来てるんだよね」
 荒川はどこだろうが関係ないと言ったが、原田はまあちょっと会ってみようぜと言った。結局、書類を受け取ってただちに弁護士に回すと言うことで話がまとまった。
 五分後、ダイちゃんは慣れないスーツを着て、応接室で待っていた。先日の情けない態度など忘れてふんぞり返っている。
「さすが大企業は違うねえ。フカフカ。ねえ、原田さんっていつもこんなところで仕事してんの」
 そんな低レベルの質問には答えてやらない。
 受付嬢がお茶を運んできた。ダイちゃんは彼女がテーブルに茶碗を置く間じゅう腰と胸のあたりをじろじろ見ていたが、受付嬢は慣れたもので、にこやかに受け流している。気品漂う軽蔑の表情にダイちゃんのような男が気づくわけもない。
「さっそく見せてもらおうか」
 ダイちゃんは大事そうに抱えたセカンドバッグから、一枚の書面を取りだした。しかし、得意気に出したくせに「拝見します」と荒川が手にとった途端、ダイちゃんは急にそわそわし出した。まるで隠しごとがバレませんようにと祈るガキみたいに。
「ワープロで書かれていますね。手書きであれば筆跡からも判断できたのですが」
「そんなのどっちでも同じだよ」
「印鑑も三文判ですね。簡単に入手できるものです」
「間違いないって。兄貴の使っていたものだ。そうじゃないという証拠はないだろう」
 荒川は書面を原田に渡しながら、言った。
「これはお兄さんが生前、旭川の障害者支援施設『ひなたの家』の代表者にあてた手紙のコピーですね。保険金の全部をこの施設に寄付すると書いてあります」
「そうだよ。兄貴はそれを一年前に決めてたんだ。そして毎月、遺言書を書き直していた」
 原田は書面を見た。日付は三月九日。つまり三枚の名義変更請求書よりも新しい。保険のことはこう書いてあった。
 ――私が契約者兼被保険者となっている生命保険・損害保険の保険金が支払われるときは、前記の施設の代表者をそのすべての受取人として指定します。この指定のほかに受取人の指定または変更等を行っていた場合でも、本書の指定が優先するものとします――
「他の名義変更は無効だって書いてあるだろ。な。だから一億の受取人はこの理事長ってことで決まりだよな。そうだよな」
「これはどこで発見されたんですか」
「施設のほうから連絡があったんだ。兄貴は帰国してからこの施設に定期的に金を送って支援していたんだって。病気になってからは、月に一度、自分から連絡をしていたらしい。それが数か月前から連絡がない。団体が病院に訊いてきて、死んだことを知った」
「どんないきさつでお兄さんはその施設を支援するようになったのでしょう」
「さあね。それはおれにもわかんないけど。なあ、これでいいよな。決まりだよな。おれ、ここの理事長に連絡しなきゃならないんだ」
 突っ込みどころは山ほどあるが、順番に行こうか。原田はわざとゆっくり言った。
「よくわかったよ。じつはさっき電話で言いそびれたんだけど、この件は弁護士に折衝委任したんだよね。だからこの書面も弁護士に回しておく。検討結果は後日、弁護士から連絡させるから今日のところはお引き取り願おうか」
「え?」
 ダイちゃんは目をぱちくりさせた。
「べ、弁護士なんて関係ねえだろ。あんたらが、兄貴が誰に残そうとしたのかわかるものがないかっていうから、おれは遺書を持ってきてやったんだ」
 原田はそっけなく答えた。
「だからさ、この件は弁護士に任せちゃったんだよ」
「どういうことだよ。兄貴の思いを知るのに遺書以上のものはないだろう。それに原田さん、おれに借金があることを知ってるのに弁護士出してくるなんてひどいじゃないか。おれ、まだ金なんか返せねえよ」
 弁護士委任の意味がわかっていない。
「そうじゃない。これは複雑でむずかしい案件だから、法律の専門家に全面的に任せたってことだ。君の借金は関係ない」
「そうなのか。でも、どうして弁護士に話すんだよ。もう明らかじゃないか。兄貴はこの施設に金を渡したかったんだよ。きっとかわいそうな子どもとかたくさんいるんだ。兄貴はその子たちの力になりたくてそう決めたんだよ。そう書いてあるじゃねえか。これが読めねえのかよ。いい加減にしろよ」
 原田は少しむっとした。いいのか。突っ込みどころは山ほどあるんだぞ。
「じゃあ訊くけど、もし万が一この遺書が偽造――つまりでっち上げの偽物――だったとしたら、有印私文書偽造および行使の罪になる。保険会社を騙して保険金を受け取れば詐欺罪が加わる。逮捕されて有罪とか懲役とかそういう世界になる。もちろん保険金も受け取れなくなる。そのことはわかってんだろうね」
 ダイちゃんは一瞬、ひるんだ。
「何だよそれ。う、疑うのかよ」
「君じゃない、その理事長だ。罪に問われるのはその人だからな。それに、お父さんやお母さんは知ってるのかい。お兄さんがそんな施設と交流があるなんて、君だって知らなかったんだろう。ご家族がたいへんなときに、そんな施設に一億もの大金をポイっとあげちゃうなんて、お兄さんはそれで家族が納得すると思っていたのかな。もしかして、その施設が何かの拍子に保険金のことを知って、横取りしようとしてるんじゃないか」
「そんなことしないよ」
「どうしてそう言える。そこはどんな施設なんだい。理事長はどんな人? 君は理事長に会ったことがあるのか。信頼できる人なんだろうね。ちょっと検索してみようか」
 原田はスマホを取り出して、施設名を検索してみた。
「――ふん。あるな」
「そうさ。そこはちゃんと……いや、なんでもない」
 さすがにネットで調べられるくらいのことは予想できたのだろう。出てきた施設はどうやら実在のものだ。ただしこの施設が本当に故人のごひいき先なのかはわからない。
「だとしたら、おかしいなあ」
 原田はわざとらしく首をかしげて見せた。
「な、何が」
「お兄さんはなぜ三枚の名義変更請求書を書いて寄越したりしたんだろう。この施設に渡すつもりなら、そんなことをする理由はないはずだ。そうじゃないか」
「だから、兄貴はきっと病気で頭がぼうっとして……」
「まだある」原田はぐい、と身を乗り出した。「君は先日、自分はどうしても金が要るから保険金はぜひとも自分に払ってくれと言っていた。なのに、今日はそんなことはひと言もなく、他人に払ってやってくれ、できないなんておかしいじゃないかと主張している。この数日間で君はいきなり金持ちになったのかい」
「それは……」
「もしその施設に払うことになれば、会社は真っ先にお母さんとお姉さんに通知することになる。君が遺言書を見つけたことと一緒にね。それは問題ないんだろうね」
 ダイちゃんは真っ赤になり固まってしまった。
「とにかくこの書面は当社が委任した弁護士に送る。よく調べさせてもらうよ。それから今後は弁護士に連絡してくれ。当社では今後、君を含めた関係者からの直接の連絡は一切受け付けない。わかったな」
 誰かに吹き込まれたシナリオだろう。他の二人の同意を取り付けるのが無理なら、第三者を受取人に仕立てあげればいい。福祉施設とかにすれば印象もいいから保険会社はすぐに払ってくれるだろう。ちょうどいい施設の理事長を知ってるから紹介してやるよ。――そんなところか。
 ――甘いね――
 荒川に話したことを思い出す。ダイちゃんが一億もらってもすぐに誰かに横取りされておしまいという話。その通りのことが起きようとしていたのだろう。残念なのは、この原田さんがそんなものに騙されると思ってくれちゃったことだ。なめやがって。
「じゃあ、今日はこれで……」
 原田がそう言うと、ダイちゃんはいきなり立ち上がり、
「くそう、馬鹿にしやがって。覚えてろよ」
 捨てぜりふを残すと、ドアを乱暴に開け、応接室を出て行った。あっという間の出来事だったので、引き止めるひまもなかった。原田が後を追ってロビーに出ると、ダイちゃんはもう受付前を過ぎ、自動ドアを出て行くところだった。後から来た荒川が言った。
「これ以上、何もないといいが」
 原田は答えた。
「放っとけ。ブチ切れて暴れたらお父ちゃんとおんなじように警察行きだ」

 似たもの夫婦じゃなく、似たもの親子というのもあるのだろうか。午後には何とミサちゃんがやってきた。弁護士委任の通知が届くひまもない。
 昨日、今日の午前に続いて、またしても「アポなしの青木さま」が、「保険金部の原田と荒川」を訪ねてやってきたというので、受付嬢の声は明らかにおびえていた。ロビー階に降りていったとき、原田と荒川は、緊張した面持ちの警備員と受付嬢をなだめながら、応接室に入った。
 夫が前日に警察に連行されたというのに、ミサちゃんは落ち着いたものだ。悠然として、頬に笑みさえ浮かべていた。前回と同じような数年前のスーツだが、モデルの印象は今日のほうが格段に若々しい。メイクの効果もあるのだろうが、やはり金の力ってのはすごい。想像だけで女を十歳も若返らせるんだから。
「こんにちは。連絡が遅くなってごめんなさいね。例の件、子どもたちとようやく話がついたから、それを伝えに来たの。さあ、書類をちょうだい」
 原田と荒川は無言で視線を交わした。ミサちゃんは、こちらが二人と会ったことを知らない。子どもたちと合意したという演技をしている。
「まったく苦労したわよ。二人とも分け前はちゃんともらえるんだろうなって、そればっかり何度も何度も繰り返して。意地汚いったらありゃしない。でも母親のあたしが保証するって言ったら二人とも納得したわ」
 しらじらしいが、想定された事態だ。だいじょうぶ、切り返しは用意してある。むしろこれ以外の回答はもはやできない。
「じつは省吾さんの保険金の件は、弁護士委任することが決まりました。今後のご連絡は、会社ではなく当社の顧問弁護士のほうへお願いします」
 荒川が言うと、ミサちゃんが眉間にしわを寄せた。
「弁護士?」
「ご主――健吾さんの事件で、当社はこのご契約の手続きに関しては、従業員の安全を確保する必要があると判断し、弁護士への折衝委任を行うことにしました」
「あんな騒ぎを起こしてごめんなさいね。帰ってきたときに、あたしがきちんと言い聞かせておいたからもうだいじょうぶよ。もちろんお金はあげない」
「健吾さんに受け取りの権利がないのはおっしゃるとおりです。私どももそのように認識しています。しかしお支払いが完了するまで、本件に関する連絡等は、お母さまも弁護士を通していただくことになります」
 ミサちゃんは気色ばんだ。
「ちょっと待ってよ。あんたたちが子どもたちと話をつけてこいって言ったからつけてきたのに、今さら弁護士のところへ行けっていうの」
「昨日のご主人の事件で状況が変わったのです。この弁護士です。連絡先を――」
 荒川が差し出した名刺を、ミサちゃんはひったくるように受け取った。
「うるさいわね。わかったわよ。書類を用意したら弁護士のところに持って行くわ。さあ、早く書類を出して」
「では――」
 荒川は用意していた書類を渡した。
「ここにお子さまたちのご住所とお電話番号、お名前、実印をお願いします。提出時には、発行後三カ月以内の印鑑証明書を添えてください」
「面倒ね。手間賃を請求しようかしら」
「応じかねます」
「お金はいつになるの」
「所定の確認作業の後、振り込みの処理をします。お子さまたちと連絡を取り、意思確認ができてから三営業日以内に……」
 ミサちゃんの顔色が変わった。
「ちょっと待ってよ。あんたらが子どもたちに連絡するの」
「はい」
 目に見える狼狽ぶり。
「話が違うじゃない。書類を用意すればいいって……」
「手続きに書類が必要とは申しましたが、当社からお子さまたちに連絡をしないとは申しておりません。連絡してはまずい事情がおありになるんでしょうか」
「そ、そうじゃないわよ。……そんなこと聞いてないって言っているの。そんなに後からいろんなことを言われたら、こっちは全然わからないじゃないの。それじゃ手続きなんか進まないわ。あの子たちも忙しいのに、そんなに何回も何回も面倒なことばかり言って、あんたたち、あたしを馬鹿にしてるんじゃないの」
「高額の保険金をお支払いする場合の所定の手続きです。同意書類をご提出いただいた後、当社から直接、お二人の同意確認をしてからの支払いとなります」
 ミサちゃんの顔は、あっという間にこのあいだのひび割れた般若に戻った。
「もう一度たっくんに言うわ。あの子は怒ったら怖いのよ。信頼できる仲間もたくさんいるんだから。あんたたち、どうなったって知らないから」
 ミサちゃんはヒステリックな捨てぜりふを残し、先ほどのダイちゃんと同じように、応接室から出て行った。今度は原田も嫌な予感がした。

 元気なのかい、母親は電話口でそう言った。
 プールから上がったフィットネス・ジムのロッカールームだった。
 留守電にメッセージが入っていた。二日ほどおいてかけてみた。
 母は二年前に地元の公立中学校の教頭という肩書で定年を迎えた。それからは顔の広さと社交的な性格を買われて、地域のボランティア団体の代表を務めている。図書館の前を掃除したり、市主催のフリーマーケットの運営委員になったり、大学病院の末期患者病棟で患者の話し相手になったりしているという。とくに病院での活動には力を入れており、週に二回は欠かさずに通っているらしい。
 もともとおしゃべりで世話好きだった。先生然としたしゃべり方が、患者に若い頃を思い出させるようで、評判はいいのだという。原田に言わせれば、人生の終わり近くになってまで、誰かにあれこれ指図されたいなんて気が知れない。
「元気だよ。何か用?」
「トマト送ったから食べなさいね」
「またかよ。料理するひまなんかないって」
「トマトなんだからそのまま食べればいいでしょ。家で育てた無農薬よ。甘いんだから」
「これでも忙しいの」
「お母さんだって忙しいわよ。でもちゃんと料理してる。たまには帰ってきなさい。お父さんもさびしがってるわよ」
 父とは三年以上、まともに話をしていない。
「そのうちな」
「意地はってないで。お父さん、近頃すっかり小っちゃくなっちゃったわよ。定年後は何もせずに家にいてばっかりだから」
 父は私立高校の歴史の教師だった。教頭にはならなかった。定年後は好きな古文書を見て過ごしていると思っていたのに。
「どっか……悪いの」
「肝臓がね。こないだの健康診断で言われて。それでちょっと落ち込んじゃってるの。あたしは年齢相応じゃないって言ってるんだけど」
 語尾がかすかに揺れる。それが少し気になる。
「歳とりゃ多少は何かあるだろ」
「大腸に小さなポリープも見つかって。良性だから心配ないって言うんだけど」
「手術とかすんの」
「来月ね。最近のは簡単よ。切らないの」
 父親は教師の威厳を周囲に押しつけるタイプだった。原田は幼いころ、父といると窮屈な思いをした。かといって、特段はげしい親子の対立や確執があったわけではない。人並みに反抗期はあったが、思春期を過ぎてからはふつうに話をし、酒も飲んだ。名古屋に就職先を決めたときは頑張れと励ましてくれた。業界はまるで違ったが、仕事を始めてみて父親の苦労を想像できるようになった。社会人の先輩として素直に尊敬もした。ありきたりの親子関係だったと思う。
 それがこじれたのは、原田が二度目の転職を実家に無断で決めたときだ。東西生命の社名を聞いて父親は猛反対した。めずらしく叱責、罵倒に近いはげしさだった。怒りの理由を説明しようとしない父親の態度に原田は反発し、それきり父子の会話はなくなった。
 事情は後で母親から聞いた。父方の祖父は商売人だったが、亡くなったときに加入していた生命保険金が支払われず、遺族、とりわけ祖母が余分な苦労を味わったという。
 今なら不支払いとなった理由も想像できないではない。加入時の告知に意図せぬ不備があったとか、約款上微妙な非該当であるとか、保険に詳しくない人には不当に思えてしまう免責事由ではないか。契約上は逆恨みに近いのだが、感情的になった受取人には保険会社が巨悪に見えるだろう。そのときの保険会社が東西生命だった。
 ――知るかよ――
 正直、うかつだったと思った。しかし口に出した悪態はもう消せなかった。
「わかった。近々いっぺん帰るわ」
「早目にね。来る前に連絡しなさい。ほんとによ。じゃあね」
 原田にきょうだいはいない。親は老いたら長男だけが頼りなのだ。そう思うと、急に母親が健気に見えてくる。
 良性だと言っていたが、息子を心配させないための嘘ではないか。あるいは悪性が隠れている可能性はないのか。父に万一のことがあれば母は一人になってしまう。そんなケースは仕事で数限りなく見てきた。生命保険の存在意義はこういうところにあるのだと、会社で繰り返し研修を受けるテーマでもある。それと同じことなのに、自分の身に起きるとなると、やはり意味合いはまるで違ってくる。
 ――そういえば、親父は保険に入っているのか――
 母親には成績が苦しいときに一件加入してもらった。しかし父親の保険がどうなっているのか、原田は知らない。
 ――親父も白い紙になって空を飛ぶのか――
 思えば、魂が飛んで行くイメージは父親の本棚で得たものだ。絵本などあるはずもないから画集のようなものだったか。幼い自分が想像で作り上げた夕焼け空を、父親が飛んで行く光景を想像した。母親も。いずれは自分も。
 仕事柄、保険には入りすぎるほど入っている。しかしこのまま独り身を貫いたら、残る金は誰のためか。そんな金に意味はあるのか。その頃には父も母もいないだろうに。
 おれは天涯孤独の年寄りとなり、さびしく都会の片隅で……。
 ――やめておけ。
 三十代。これは突きつめて考えなくてもいいことだ。少なくとも、今はまだ。
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