第3話 名前
文字数 1,564文字
高校を卒業し短大に進学すると電車通学は妹の美宇と中学二年になった僕だけになった。妹は授業が早く終わると職員室で僕を待っている。おかげで僕は部活の剣道が出来ない。二人だけの通学になって、たった一か月しか経っていないが、多少うんざりしていた。
妹は大人の中で育ち、かまってもらうことは少なく、能天気な割には性格が暗い。つまり子供らしくはしゃぐことが少ない子だ。それなのに今日は珍しくパワーアップして「明日は、お兄ちゃんの誕生日だからケーキが食べられる」と美宇は喜んでいた。
そう…。僕の世界はそれだけだった。
それが…。
明日、学校が休みで、誰かの誕生日にケーキが食べられる事を単純に喜び、調子に乗って学校から横須賀駅までスキップして来た美宇。
横須賀駅始発の上り電車はすでにホームに止まっている。下り電車がホームの反対側に入って来た。下り電車が出ると、続けて上り電車が発車する。下り電車の乗降客が改札口を埋める前に、ホームに入ろうと振り返るとランドセルの留め金を忘れ、横須賀駅構内のコンクリートの床の上に、ランドセルの中身をばらまいた美宇が、一人でもめている。
「早く拾え」と言いながら僕は、ホームに止まった下り電車の喜生に気をとられた。
そのセーラー服の女子校は校則が厳しくて有名だ。彼女以外の女学生は、スカートの丈を長くしたり、短くしたりと、思い思いに校則違反を楽しんでいたが、彼女は何ひとつ校則違反をしたことがないと思われるほど、真面目な風貌に似合わないオレンジアイが、深い琥珀色に近く輝いていた。
【どこの国の人だろう?】
黒い前髪の間から見える目は、愛理姉さんの家で飼っているキジトラ猫アジュマの瞳とそっくりなオレンジだった。
猫のアジュマは驚いてパニックになると押入れの隙間やソファーの中に隠れて飲まず食わずで、数日は出てこないほど臆病だ。警戒心が強く愛理姉さん以外には触らせない。さらに僕はひどく嫌われており、常にアジュマの居場所を気にして目を合わせないようにしていないと突然ひっかく、かみつく、猫パンチなどで攻撃されるためいつも生傷が絶えない。
今朝も通学カバンを取ろうとして、突然襲いかかって来たアジュマにつけられた手の生傷をなでながら
『そうだ、だから僕が今ここにいるのは、親が韓国から日本に来たせいだし、美宇が生まれたせいだし、愛理姉さんが短大に入ったせいだ。それにしても人間のくせにアジュマに似ていた』
一連の出来事を反復しながら、気が付けば、僕は美宇と二人で診察室前に並べられたベンチに座っていた。
【看護師さんが来て】
佑泰という字はどのように呼ぶの?と聞かれた。日本語は名前の読み方が数多いし複雑だ。
「ユウダイ」と答えると「いいお名前ね」と看護師さんが微笑んだ。
「きっとご両親は大きな人になって欲しいと思ったのね」
いや、違うと思う。
日本に来ると突然に「ユウダイ」と言う名前が増えた。日本人嫌いの在日韓国人の叔父が言うには日本にいる間は、김우태金佑泰「キム・ウテ」という韓国名を日本語読みした方がつらい目にあわないそうだ。
日本生まれの妹は漢字で美宇(ミウ)と書き、在日韓国人の従兄妹は愛理(エリ)と書く、二人ともハングルでも日本語でも読み方が変わらない漢字と、国際的にも通用しやすい発音を考えて名付けられていた。いくつも名前がいらないのは少し羨ましい。日本に来たからと、読み方が変わる事に抵抗があった。
いつか自分の本当の名前を堂々と言える日が来るのかな?日本名を呼ばれるたびに僕はいつも複雑な思いがよぎる。
【名前を呼ばれて診察室に入ると】
先ほどの人が白衣を着て、座ってカルテらしきものに、なにやら一生懸命に記入をしている。
医師なのだろうその人は、カルテを見ながら僕に質問した。