聖職者、犬とか豚
文字数 3,550文字
1.
都市を囲む壁にしばし併走し、汽車は停まった。ガイエンを発 ったのは明け方だったが、日は既に傾きかけていた。客席で眠っていたアズは、目を開けて、既に他の乗客たちがあらかた降りた車内で伸びをした。
身分証の類 は衣服の内側に押し込んである。銃を隠し、着替えを二日分ばかし詰め込んだ旅行鞄。筒状の図面入れ。それが全荷物で、駅に降り立ったアズは出張慣れした設計技師に見えた。
フクシャの空気を吸うのは五年ぶりだった。空は晴れており、雪はないが風が強い。時は昼から夕刻へ移ろい、大気の色は黄色がかった色味を増しつつある。人が押し合いへし合いする長いホームには馬糞の臭いが立ち込め、線路の向こうに目をやれば、視界の果てまで寒々とした冬小麦の畑。駅舎に目をやれば、そこでは手荷物検査が行われていた。人の渋滞が起きている理由がそれだった。
手荷物検査を受けぬことにはフクシャに入れないらしい。アズは強張 った肩を軽く回し、旅行鞄を持ち直すと、ホームの後ろの端に行き、人が減るのを待った。
ようやく駅舎に入ると、アズは検査場の机に筒と鞄を置き、駅員が開こうとするのを小声で制した。怪訝な顔をする駅員の前で外套に手を入れて、身分証を出す。アズが聖教軍の指揮系統下にない、教皇庁直属の『天使』すなわち歴戦の言葉つかいであるとわかると、駅員は目に見えて青ざめた。駅長が呼ばれた。駅長は筒の中の処刑刀や、外套の下の拳銃を確認したが、ガイエン司教座聖堂 に電話で問い合わせようともせず、アズを通した。
駅舎から都市の壁までは石畳で舗装されていた。壁を入って最初の大通りの脇で、
「よう」
自動車にもたれかかった男がアズに声をかけた。大柄で、筋肉質な男。アズは片手を上げて応 え、表情を変えずに歩み寄った。
「ルー。久しぶりだな」
男は挨拶がわりにアズの背を軽く叩き、自動車の後部座席に乗り込んだ。反対のドアからアズも乗車した。運転手はフクシャ司教に関わりのある人間のはずだ。車が滑り出すと、出迎えの男が喋り出した。
「聞いたぜ。蜂起潰しが終わってからすぐに来たのか?」
彼はルー・シャンシア。アズの同期で、彼もまた『天使』の称号を持つ。配属はこのフクシャ。都市中心部の大聖堂が活動拠点だった。
アズは少年時代からの友に頷く。
「ああ」
「だろうな。お前さえガイエンから消えれば、誰もお前を英雄扱いしない」
「英雄じゃない。ただの言葉つかいだ」
「で、蜂起潰しは聖教軍の制服組とデブの大司教の手柄ってわけ」
咎めるような目で見ると、ルーは挑発的な視線を送り返してきた。
「そんな言い方は良くない」
「奴は司教座 に座る資格のない豚だ」
「俺は大司教個人に忠誠を立てたわけじゃない。教会の法に誓いを」
「そうさ。教会の法の犬だ。椅子に座って動かない奴らのために手柄を咥 えて帰ってくる。豚に飼われた犬」
「ルー」まだ何か言おうとしているのを、アズはいらいらしながら遮った。「俺が気に障ることをしたか」
「全部だ、全部気に障る」
ルーは強い口調で言い切った。
「自分の手柄に興味なさそうなツラして見て見ぬふりをするとこも、教会法を言い訳にするとこもだ。お前は謙虚を美徳だと思ってんのかもしれねぇがよ、ぶっちゃけ山ほど人を殺した責任を負いたくねぇんだろ? で、実際のところ恩給いくら分くらい働いたんだよ。何人殺した? 百か? 二百か?」
「そんな意地の悪い言い方をするなら自分で調べてくれ」
ルーは肩を竦め、彼の拠点となる教会から離れたところで自動車は停まった。
※
アズ同様、ルーも教会の中では素性を隠し、一般信徒としてふるまっていた。
「ルーじゃないか。こんな時間にどうしたんだ?」
大気は赤みを増し、晴れた空に傾く夕陽の光線には、注意深く物事を見る人の視線に似た圧力があった。赤い石畳で舗装された大聖堂の前庭で、数人の男女が話し込んでいた。
話しかけてきたのは、痩せて神経質そうな顔つきの若者だった。ルーは露骨に顔をしかめた。
「別に、通り抜けてくだけだよ。近道だからな。アズ、こいつはうちの教会の青年会のイスラ。隣はミア」
戸惑いを隠さぬ青年会のイスラに、アズは黙って一礼した。ミアという黒髪の娘は、軽く会釈 をする間もアズから目を逸らさなかった。
「お前こそこんな時間に何話してたんだよ」
「リィのことだよ。いなくなって三週間経つ」
「四週間じゃないか? 最後に見たの聖父被昇天の日だろ?」
「ああ、四週間かもしれない。こちらの人は?」
「親戚のアズだ。仕事で来てる」
イスラは愛想笑いをし、ルーは気のない声で言った。
「リィのことは気がかりだよな。まあそのうち帰ってくるんじゃねえの」
「神経の病気だったんだぞ。かなり悩んでた」
「教会が解決できる問題か? 気にしたってしょうがねえだろうが。あいつに必要なのは病院であって、教会じゃなかったんだよ」
イスラは助け舟を求めて年輩の女性に目を向けた。彼女はそんなことよりも早く帰りたいと思っていそうなふうに見えた。
「あたしは随分相談に乗ったんだけどねえ」
ルーが聞く。
「どんなふうに?」
「別に。当たり前のことしか言わないわよ」
「だからどんなふうに」
「どんなに悩み苦しむときにも神様はあなたと一緒にいるわって」
それを聞き、ルーは底意地の悪さを剥き出しにして、鼻で笑った。
「それを言うときあんたはさぞ親切そうだったんだろうな」
ぽかんとする女を置いて、ルーは教会の前庭を突っ切り、敷地の西の通用門から細い通りに出た。そこから彼のアパートメントまでは目と鼻の先の距離だった。
「教会で、何か問題が?」
外壁の鉄階段を上りながら尋ねると、先行するルーはポケットから鍵を取り出しながら答えた。
「青年会の会員が最近姿を消したのさ」
「自宅にもいないのか?」
ルーは四階の一室の鍵穴に鍵を突っ込んだ。
「そうだけど? それがどうした。信徒レベルの問題にいちいち関わってられっかよ」
鍵を回す手を見咎めて、アズは左手を伸ばした。ルーの右手首を掴む。
「その指は?」
人差し指の、本来爪があるべき場所がなくなっていた。第一関節から先が切り落とされている。しかも、それほど新しい傷でもない。ルーはニヤリとし、まあ入れよ、とばかりにアズの背中を押した。
入ってすぐがキッチンで、パントリーから、とん、と音を立てて三毛猫が下りてきた。猫は珍しそうにアズを眺めた。恐がる素振りはない。人懐こい猫のようだ。
「悪い魔女にやられたのさ」
玄関に鍵をかけてから、ルーは言った。
「魔女?」その言葉が意味するものをアズはよく知っていた。「今どき教会に管理されない言葉つかいがいるのか?」
奥の書斎に連れて行かれた。
粗野な風貌に似合わず、ルーは生真面目な勉強家だ。部屋の中央のテーブルには本が積まれ、隙間にパン屑や潰れたペン先が転がっている。窓辺には書物机があり、壁にノートが立てかけられていた。
琥珀の夕陽が注ぐ中、ルーは燃え落ちる直前の太陽に目を細めた。
「どうやってか、言葉つかいに生まれた子を自力で育て上げるのさ。お前の両親みたいにな」
「両親は失敗した」
アズは七歳まで実家で育った。迷信深い土地だった。だが教会の目を欺けなくなり、レライヤの学園に差し出されることとなった。
家を出た日の朝を覚えている。陰鬱な夏で、朝から雨が降っていた。送迎の馬車が来ても、父は荷車の輻 の修理をやめず、納屋 から出てこなかった。どうしたらいいのかわからなかったのだろう。その背中が最後に見た父の姿となった。母は戸口で雨に打たれるまま、悲しく非難がましい目で馭者 を見ていた。双子の兄は、泥の中、自分の足でしっかり立っていた。彼はアズを追い縋 ったりしなかったが、見送りをやめようともしなかった。大きく見開いた目でいつまでも馬車を見ていた。生涯の別れになると思っていたのだ。アズは泣かなかった。馬車の庇 から規則正しく雨粒が垂れ、アズの代わりに泣いていた。
「これでも善戦したんだぜ。躱 すのがちょいと遅れたら、こっから先全部持ってかれてたぜ」
と、ルーは、アズの前で右腕を付け根から切り落とす動作をした。
パントリーのほうで猫が鳴いた。
「サリー! 今やるから待ってろ」
キッチンから答えるような鳴き声。ルーはアズの肩を叩き、こう言い残して部屋から出て行った。
「お前も猫を飼えよ。最高の留守番だぜ」
都市を囲む壁にしばし併走し、汽車は停まった。ガイエンを
身分証の
フクシャの空気を吸うのは五年ぶりだった。空は晴れており、雪はないが風が強い。時は昼から夕刻へ移ろい、大気の色は黄色がかった色味を増しつつある。人が押し合いへし合いする長いホームには馬糞の臭いが立ち込め、線路の向こうに目をやれば、視界の果てまで寒々とした冬小麦の畑。駅舎に目をやれば、そこでは手荷物検査が行われていた。人の渋滞が起きている理由がそれだった。
手荷物検査を受けぬことにはフクシャに入れないらしい。アズは
ようやく駅舎に入ると、アズは検査場の机に筒と鞄を置き、駅員が開こうとするのを小声で制した。怪訝な顔をする駅員の前で外套に手を入れて、身分証を出す。アズが聖教軍の指揮系統下にない、教皇庁直属の『天使』すなわち歴戦の言葉つかいであるとわかると、駅員は目に見えて青ざめた。駅長が呼ばれた。駅長は筒の中の処刑刀や、外套の下の拳銃を確認したが、ガイエン
駅舎から都市の壁までは石畳で舗装されていた。壁を入って最初の大通りの脇で、
「よう」
自動車にもたれかかった男がアズに声をかけた。大柄で、筋肉質な男。アズは片手を上げて
「ルー。久しぶりだな」
男は挨拶がわりにアズの背を軽く叩き、自動車の後部座席に乗り込んだ。反対のドアからアズも乗車した。運転手はフクシャ司教に関わりのある人間のはずだ。車が滑り出すと、出迎えの男が喋り出した。
「聞いたぜ。蜂起潰しが終わってからすぐに来たのか?」
彼はルー・シャンシア。アズの同期で、彼もまた『天使』の称号を持つ。配属はこのフクシャ。都市中心部の大聖堂が活動拠点だった。
アズは少年時代からの友に頷く。
「ああ」
「だろうな。お前さえガイエンから消えれば、誰もお前を英雄扱いしない」
「英雄じゃない。ただの言葉つかいだ」
「で、蜂起潰しは聖教軍の制服組とデブの大司教の手柄ってわけ」
咎めるような目で見ると、ルーは挑発的な視線を送り返してきた。
「そんな言い方は良くない」
「奴は
「俺は大司教個人に忠誠を立てたわけじゃない。教会の法に誓いを」
「そうさ。教会の法の犬だ。椅子に座って動かない奴らのために手柄を
「ルー」まだ何か言おうとしているのを、アズはいらいらしながら遮った。「俺が気に障ることをしたか」
「全部だ、全部気に障る」
ルーは強い口調で言い切った。
「自分の手柄に興味なさそうなツラして見て見ぬふりをするとこも、教会法を言い訳にするとこもだ。お前は謙虚を美徳だと思ってんのかもしれねぇがよ、ぶっちゃけ山ほど人を殺した責任を負いたくねぇんだろ? で、実際のところ恩給いくら分くらい働いたんだよ。何人殺した? 百か? 二百か?」
「そんな意地の悪い言い方をするなら自分で調べてくれ」
ルーは肩を竦め、彼の拠点となる教会から離れたところで自動車は停まった。
※
アズ同様、ルーも教会の中では素性を隠し、一般信徒としてふるまっていた。
「ルーじゃないか。こんな時間にどうしたんだ?」
大気は赤みを増し、晴れた空に傾く夕陽の光線には、注意深く物事を見る人の視線に似た圧力があった。赤い石畳で舗装された大聖堂の前庭で、数人の男女が話し込んでいた。
話しかけてきたのは、痩せて神経質そうな顔つきの若者だった。ルーは露骨に顔をしかめた。
「別に、通り抜けてくだけだよ。近道だからな。アズ、こいつはうちの教会の青年会のイスラ。隣はミア」
戸惑いを隠さぬ青年会のイスラに、アズは黙って一礼した。ミアという黒髪の娘は、軽く
「お前こそこんな時間に何話してたんだよ」
「リィのことだよ。いなくなって三週間経つ」
「四週間じゃないか? 最後に見たの聖父被昇天の日だろ?」
「ああ、四週間かもしれない。こちらの人は?」
「親戚のアズだ。仕事で来てる」
イスラは愛想笑いをし、ルーは気のない声で言った。
「リィのことは気がかりだよな。まあそのうち帰ってくるんじゃねえの」
「神経の病気だったんだぞ。かなり悩んでた」
「教会が解決できる問題か? 気にしたってしょうがねえだろうが。あいつに必要なのは病院であって、教会じゃなかったんだよ」
イスラは助け舟を求めて年輩の女性に目を向けた。彼女はそんなことよりも早く帰りたいと思っていそうなふうに見えた。
「あたしは随分相談に乗ったんだけどねえ」
ルーが聞く。
「どんなふうに?」
「別に。当たり前のことしか言わないわよ」
「だからどんなふうに」
「どんなに悩み苦しむときにも神様はあなたと一緒にいるわって」
それを聞き、ルーは底意地の悪さを剥き出しにして、鼻で笑った。
「それを言うときあんたはさぞ親切そうだったんだろうな」
ぽかんとする女を置いて、ルーは教会の前庭を突っ切り、敷地の西の通用門から細い通りに出た。そこから彼のアパートメントまでは目と鼻の先の距離だった。
「教会で、何か問題が?」
外壁の鉄階段を上りながら尋ねると、先行するルーはポケットから鍵を取り出しながら答えた。
「青年会の会員が最近姿を消したのさ」
「自宅にもいないのか?」
ルーは四階の一室の鍵穴に鍵を突っ込んだ。
「そうだけど? それがどうした。信徒レベルの問題にいちいち関わってられっかよ」
鍵を回す手を見咎めて、アズは左手を伸ばした。ルーの右手首を掴む。
「その指は?」
人差し指の、本来爪があるべき場所がなくなっていた。第一関節から先が切り落とされている。しかも、それほど新しい傷でもない。ルーはニヤリとし、まあ入れよ、とばかりにアズの背中を押した。
入ってすぐがキッチンで、パントリーから、とん、と音を立てて三毛猫が下りてきた。猫は珍しそうにアズを眺めた。恐がる素振りはない。人懐こい猫のようだ。
「悪い魔女にやられたのさ」
玄関に鍵をかけてから、ルーは言った。
「魔女?」その言葉が意味するものをアズはよく知っていた。「今どき教会に管理されない言葉つかいがいるのか?」
奥の書斎に連れて行かれた。
粗野な風貌に似合わず、ルーは生真面目な勉強家だ。部屋の中央のテーブルには本が積まれ、隙間にパン屑や潰れたペン先が転がっている。窓辺には書物机があり、壁にノートが立てかけられていた。
琥珀の夕陽が注ぐ中、ルーは燃え落ちる直前の太陽に目を細めた。
「どうやってか、言葉つかいに生まれた子を自力で育て上げるのさ。お前の両親みたいにな」
「両親は失敗した」
アズは七歳まで実家で育った。迷信深い土地だった。だが教会の目を欺けなくなり、レライヤの学園に差し出されることとなった。
家を出た日の朝を覚えている。陰鬱な夏で、朝から雨が降っていた。送迎の馬車が来ても、父は荷車の
「これでも善戦したんだぜ。
と、ルーは、アズの前で右腕を付け根から切り落とす動作をした。
パントリーのほうで猫が鳴いた。
「サリー! 今やるから待ってろ」
キッチンから答えるような鳴き声。ルーはアズの肩を叩き、こう言い残して部屋から出て行った。
「お前も猫を飼えよ。最高の留守番だぜ」