永劫の廊下

文字数 4,822文字

 1.

 ヒースの丘は雪の牧草地に置き換わっていたが、別にどうでもよかった。ここが牧草地で、どこに牛がいて、どこに酪農家がいるのか、ましてやその家の人が、一晩でも自分たちを泊めてくれるのか、あまつさえ公教会に密告せず、(かくま)ってくれるのか。
 見込みはない。が、生きるには生きる手段を探さなければならなかった。一時間先のことを考えるのさえ面倒くさいのに。
 何故生きているだけでこんなに面倒なのだろう。
 チルーは足を止める。前を行くリリスが振り向くのを気配で感じた。だが顔を上げたくなかった。うなだれ、両手で耳を覆う。
「チルー」リリスが戻ってきて、顔を覗き込む。「見て。遠くに家がある」
 前髪で顔を隠したままチルーは首を振った。これ以上は無理、という意思表示だった。
「チルー」
 リリスが苛立ちをこめてチルーの手首に触れた。が、すぐに、その手を離した。
 今度は掌で、そっと額に触れてきた。雪のように冷たい掌だった。
 そこに至り、チルーはようやく訴えた。
「耳が痛い……」
 リリスは黙っている。
 目を上げて様子を窺えば、リリスの顔に浮かぶのは、笑えるほど少女らしい狼狽で、チルーは実際に、弱々しくも笑ってしまった。人気者のリリスは、優等生のリリスは、頼もしいと思い込んでいたリリスは、勝気なリリスは、何のことはない。
 自分と同じで、大人の庇護を失った十四歳の少女でしかないのだ。
 チルーはリリスの前で座り込んだ。

 ※

 ジャスマインが歩いてくる。栗色の髪をなびかせて。気の強いジャスマイン。喧嘩が強ジャスマイン。正義感の強いジャスマイン。けれど、教室の頂点に君臨したいなどとは毛ほども思わぬジャスマイン。みんな彼女が好きだった。チルーもだ。ああ、今日は一体何をしでかしたの? そんなふうに、モップを軽々と肩に担いで。
 ジャスマインの表情は晴れやかながら興奮の余韻があった。誰かをぶちのめした後はいつもこうだ。右手でモップを担ぎ直し、左手に体操着を下げて、いつも窓際の席で空気と化しているチルーの横を通り過ぎた。風が起き、石鹸の匂いがした。
 ジャスマインが足を止めたのは、黄色い髪のイースラの席。イースラは三人ばかしで雑談していたが、その全員が緊張をもっておしゃべりをやめた。
「これ」と、ジャスマインは体操着をイースラの机に投げる。「取り戻してきたよ」
「え?」
 イースラは目を(しばたた)く。リスみたいなイースラ。死にたかったイースラ。体操着を両手でつまみ上げ、首をかしげ、ためつすがめつし、自分のもので間違いないと確信すると、椅子を後ろに倒さんばかりの勢いで立ち上がった。
「すごい! えっ? どうして? どこで見つけてきてくれたの!?」
「知らないほうがいいよ」
 飄々(ひょうひょう)としたジャスマイン。
 風が入ってきた。
 金木犀(きんもくせい)の匂いがした。
 先生が入ってきた。
 沈黙の昼休みとなった。
「立ち入りを禁じられた場所には近付いてはいけないと……」
 老齢のヴィヴィ先生は銀縁の眼鏡をずり上げた。
「私はいつも言っているのですが、ジャスマイン・ポロック」
 レンズの向こうの目は酷薄で、その灰色の瞳に生徒に対する愛着や愛情が浮かぶのを、誰も見たことがなかった。
「いま一度、あなた方には幼児階梯(かいてい)が受けるような指導が必要ですか?」
「男子部に立ち入ったことですか?」
 ジャスマインは、振り回すようにモップを下ろした。
「情報が回るのが早い――」
「秘文書館に立ち入ったことです」
 ジャスマインの表情が凍りついた。それが何を意味するのか、本人とヴィヴィ先生以外にわかる者はいなかった。あるいはリリスなら、察したかもしれない。
「職員室にいらっしゃい。ただし、もはやあなたに対しては、指導するつもりはございません」
「では、何をしてくださるんですか? 先生」
 憎らしげな口をきくが、無理をしていることは傍目(はため)にも明らかだった。先生は教室中をひと睨みした。窓辺で存在感を消しているチルーのことも、漏らさずに。
「あなた方はいずれ、禁を破った生徒がどうなるかを知ることになります」
 その告知は静かで、重みは本物であった。
「それが今であるほうが、よほどあなた方のためになると私は思っているのですが」
 聞き届け、ジャスマインは息をつく。モップを突き放した。乾いた音を立ててモップが倒れた。かぶりを振る。美しい髪を払い、先生のもとに歩いていく。大股で。
 もしも彼女がもう二度と教室に戻ってこないと知っていたら、引き止める者がいただろうか。チルーはただ、ジャスマインがいた場所を見つめる。手折(たお)られた花のように、モップが痛々しく倒れている。
 イースラは、机に肘をつき、両手に体操着をつまんで顔を隠していた。
 その手を下げていく。
 黄色い髪と、前髪が、徐々に現れてくる。
 土気色の肌。
 眼球がこぼれ落ちそうなほど見開かれた目。
 もうわかった。イースラは最後に見たときの顔、あの恐ろしい死に顔をしていると。
 やめて。
 見たくない。
 けれど目を逸らしても、いまやクラスの全員があの死に顔をしていた。リリスでさえ。
 心にあるのは追悼ではなく、憐憫でも悲しみでもなく、ただ、嫌悪だった。嫌だ。ああはなりたくない。私は冷たい人間なの? だが、それが本心。
 逃げよう、この狂った学園から。逃げなければ私も死んでしまう。だから出て行って、二度と戻ってはいけない。
 死を願わないために。
 教室を出る。
 廊下は永劫に伸びて闇に飲まれている。
 ヴィヴィ先生とジャスマインの後ろ姿が彼方に滲んで見える。
 チルーの背後には、市電の高架下の臭い。浮浪者となった脱走兵の体臭。吐瀉(としゃ)物の臭い。排泄物の臭い。雨にぬれて舗道にこびりついた新聞の臭い。
 アルコールの臭い。
 マンホールが開く臭い。
 死者が這い出てくる臭い。
 巡礼団の祈り。
 チルーは走る。けれど、水の中にいるように膝が上がらない。死者の巡礼団が来て、廊下を渡り、一つ一つの教室をのみこんで、死にたい生徒を連れていく。
 ああ、イースラ、どうして。リリス、どうして。
 渡り廊下への分岐にたどり着いた。角を曲がったところにトイレがある。
 チルーはトイレに飛び込む。ドアの音がした。無音ではないということは、まだ巡礼者の空間に引き込まれていないということ。
 入ってこないで。お願い。
 トイレの戸を閉ざす。けれど、どうしていいかわからなかった。個室に逃げ込むのは嫌だ。その狭く逃げ場のない空間で巡礼の死者に追い詰められたらと思うと耐えられない。
 個室の手前、手洗いのための蛇口が並ぶ空間には窓があった。
 秋の()が斜めに差し込む窓。
 さっきまで昼休みだったのに、既に夕日だった。
 茜の光の中で、不意に目眩(めまい)を覚えてチルーはタイルの壁に手をついた。
 蛇口を見つめる。鏡が怖かった。顔をあげれば自分の顔を見てしまう。
 どんな顔をしているのか、右手の人差し指で確かめた。
 目尻をなぞる。
 大きく見開かれた目。
 指を下ろす。
 頬の皮膚と筋肉は限界まで張り詰めている。
 開ききった口。
 死に顔。
 ああ、嫌だ。
 涙が溢れる。
 黒い涙が手洗い場に落ちて、青いタイルに筋を引き、排水溝に流れていく――。
 チルーは鏡を、見た。

 ※

 焼けただれた顔。
 それが見えたものだった。
 赤紫の肌に黒くしみが浮き、目も口もひどく小さく見えた。周囲の皮膚がひきつれているせいだ。片方の目は薄氷が張ったように白い膜で覆われていた。眉はほとんどなく、つやのない、傷んだ髪は灰色。
 チルーは悲鳴をあげた。それを自分の顔だと思ったのだ。叫びながら鏡から遠ざかろうとして、仰向けに寝かされていること、ここが学園ではないこと、加えて開いた口からはかすれた息の音しか出ていないことを悟った。
 顔が遠のいた。それは、紛れもなく生きている人間であった。
「私、そんなに怖い顔かしら」
 思いのほか生気のある声で、顔に火傷を負った人はチルーを咎めた。
 開け放った口で呼吸を整える。
 謝らなければ、と思った。人を傷つけてしまった。だが、喋るために息を吸い込むと、咳になって出てきた。一度出始めるとしばらくは止まらない種類の咳だった。
 加えて耳が痛い。鼓膜を指で弾かれ続けているような痛みで、特に左側の痛みがひどく、咳をするほど痛みも強まった。
 毛布の中で耳を押さえる。
 横向きになると、部屋の(あるじ)の様子がよく見えた。
 彼女を襲った災難は、顔の火傷だけではなかった。
 両手首の先がなかった。白いブラウスの袖が揺れていた。小花の模様のスカートから伸びる足は、左側が曲がっていた。
 今度は驚かなかった。ただ、心が静かになった。
 共感し得ないものを目の当たりにしたときの、断絶の静けさ。
「耳が痛いのね」
 壮絶な過去があるはずの女は、何気ない口調で言った。
「中耳炎に(かか)ったのよ。でも、この村に薬局はないわ。風邪が治れば耳もよくなるはずよ」
「ごめんなさい」ようやく言葉がでた。額がずきずき痛んだ。「その、驚いてしまって」
 女性は首を振った。その首は、ピンクに変色した部位と、深い皺が刻まれた黄色い部位に分かれていた。
「学園から逃げてきたのね。リリスから聞いたわ」
 それで、リリスがまだ死んでいないことを思い出した。夢で見たような死に顔を、彼女はまだしていないことを。
「肝が据わった子ね。あの子、私のこの顔を見ても眉一つ動かさなかった。ただ、この先の牧場で友人が助けを求めているって言って、夫を連れて行ったの。そしてあなたを連れて戻ってきた。
 昨日の話よ」
 窓辺の四角いテーブルのほうへ、女はひょこひょこと歩いていく。左足を引きずっていた。テーブルには水差しがある。水をくれるのだ、と思うと、申し訳ない思いにかられ、チルーは起き上がろうとした。だが、上体を起こすだけで一苦労だった。
 横になっているよりも上体を起こしているほうが呼吸が楽なことに気がついた。
「私の容姿についてあなたは聞きたいでしょうから、先に教えてあげましょうね」女は淡々と告げた。「聖教軍に拷問されたのよ。かれこれ十年も前かしら」
 何故、と問おうとし、また咳が出た。今度の咳はすぐやんだ。
「つらそうね。相槌は打たなくていいわ」
 そう言いながら、手首のあたりまでしかない両手で水差しを挟み込んだ。
「兄を匿ったからよ。抵抗者の教会をレライヤで立ち上げた一人だったの。私は逃げてきた兄を肥溜めに
隠して、結局一緒にしょっ()かれた。でも生きて出てこられただけマシね。兄は死体になっても出てこられなかった。まだ、抵抗者たちの理念が純粋で、平和を望んでいた頃よ。今は駄目ね。過激なことを言う人間ばかりが力を得て、血と復讐に飢えた軍隊になってしまった」
 水の跳ねる音が、痛む耳に心地よかった。
「ただの、軍隊」
 でも、この人は、公教会を憎んでいない。直観でそうと知れた。左足を引きずりながら歩いてくる女性の風貌は、どこか達観して見えた。
 ともあれ、公教会への忠誠心を持つ人ではなさそうだ。運の良いことに。リリスの運のおこぼれだ。私の運じゃない、と、チルーは考えた。
「ラナよ。あなたは?」
「チルーです」
 ラナは若くはない。だが水差しを支える腕の筋肉は、失われた手の機能を十年間補い得たと信じるに足る力強さだった。
 ずしりと重い水差しをチルーが受け取ると、ラナは今度はコップを渡すべく、またも足を引きずりながらテーブルへと歩いていった。


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登場人物紹介

■チルー・ミシマ

■14歳/女性


『言葉つかい』と呼ばれる異能力者の育成機関、聖レライヤ学園の第十七階梯生。

内気で緊張に弱く、場面緘黙の症状に悩んでいる。

『鳥飼い』の賜物(=異能力)を持つ。

■リリス・ヨリス

■14歳/女性


チルーの同級生で、唯一の友達。『英雄の娘』と呼ばれるが、両親のことは名前以外に何も知らない。

迷宮の壁に作用する『石工』の賜物を持つ。

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