三 酔漢の斬撃

文字数 1,397文字

 皐月(五月)初旬。曇天の日の夕刻。
 日野唐十郎(ひのとうじゅうろう)と妻のあかねは、日野道場から神田横大工町の長屋への帰りだった。日野唐十郎は浅草熱田明神近くにある日野道場で、師範代補佐を務めている。二人は狭い通りを近道するより、多少遠回りでも広い通りを好んで歩いた。
 二人が浅草御門を抜けて横山町へ歩いた時、前から女が走ってきた。女は、唐十郎の妻のあかねがよく呉服を買いに行く日本橋呉服町二丁目の呉服屋、越前屋の娘の芙美である。
「お芙美さん。如何なされた。そんなに慌てて何処へ参るのか」
 唐十郎とあかねは不思議に思った。日が暮れたばかりで辺りはまだ昼の陽明りが残っている。芙美はこの夕刻に、越前屋がある日本橋とは逆の方向へ急いでいる。

「唐十郎様っ、あかね様っ、助けてくださいっ。
 母の使いで呉服を届けに横山町に来たのですが、引き止められて遅くなりました。
 酔った侍に追いかけられて、日本橋へ帰ろうにも帰れませぬ」
「分かりました。あかね。芙美さんを頼みます」
「承知しました。芙美さん、こちらに」
 あかねは芙美を身近に呼んで唐十郎の背後に隠れた。

 三人の酔った小侍が唐十郎に近づいた。三人は刀の柄に手を掛けている。
「その女中、渡して貰おう。我らの知り合いだ。これから酌をさせる。邪魔をするな」
「おお、もう一人、女中が居ったぞ。今宵は付いているぞ」
「オイ、浪人。女をよこせっ。さもなくば、無礼討ちに・・・」
 そう言った小侍が言葉を呑んだ。刀の柄に掛けた手がぶるぶる震えている。
「オイ、どうした。早く殺っちまえ・・・むっ・・・」
「何だ。二人共どうした・・・」
「日野だ。まずいぞっ」
「我らの事が屋敷に知れるぞっ」
「殺ろうっ」
「分かったっ」
「抜かるなっ」
 三人は目配せし合って刀を抜いた。

 小侍たちの話を聞いた唐十郎は、じっと小侍たちの顔を見た。日が暮れたばかりでまだ明るく、三人の顔をはっきり識別できた。
 此奴(こやつ)らは小石川の水戸徳川家上屋敷に詰めている下級役人の倅たちだ。剣術の出稽古で、私が教授している者たちだが、指導に従わぬばかりか、最近は剣術の稽古にも来ぬ。留守居役の後藤織部(ごとうおりべ)殿から厳しく叱責されても、一向に稽古に顔を出さぬ者たちだ。こうして飲み歩いて騒ぎを起こしていては、稽古に顔など出せぬな・・・。
 日野唐十郎は小侍たちの無礼な振る舞いに言葉が無かった。

「殺っちまえっ」
 小侍たちが刀を抜いて唐十郎に斬りかかった。唐十郎は斬撃を見切り、ひらりひらりと身を躱した。三人が次々に斬りかかるが、鋒は唐十郎に擦りもしない。
「何とこしゃくなっ。殺れっ。殺ってしまえっ」
 小侍たちは怒鳴りあって動きまわり、何度も唐十郎に斬撃を浴びせた。そのうちに小侍たちは酔いが回り、足元がおぼつかなくなった。

 騒ぎを聞きつけて周囲の家から住人が出てきた。
 唐十郎は見物人らに危害が及ぶのを避けて、横山町の通りを浅草御門へ戻った。
 小侍たちは唐十郎が怯んだと思い、追いかけてきた。
 
 小侍は酔っている。唐十郎に向って刀を振り回すが唐十郎に斬撃を躱されて動きまわり、さらに酔いがまわった。腰がふらついて足元が定かで無くなった。挙句の果て、唐十郎に突きを入れて体当たりするが、それも躱されてふらつき、唐十郎に足蹴されて次々と神田川に落ちてしまった。
 事の次第を見ていた周囲の家の住人は大笑いして拍手喝采し、小侍たちを懲らしめた唐十郎を褒め称えた。

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