「名前は?」
冷たく湿り気に満ちた棺桶――ケーニヒスティーガー重戦車の中で、男の声は響くというより周りから発されたように聞こえてきた。混乱と恐怖を押し殺しながら青年は答える。
「……ブランドン」
「階級は?」
「……伍長」
「よろしい……私はクルツ大尉だ。武装親衛隊、君らの言うナチの蛆虫という奴さ」
ブランドンにとってそれは、ますます状況を混迷させる内容でしかなかった。親衛隊? ヒトラーの子飼いなどというものが、こうして自分と口をきいていると言われて、どうして受け入れられる。
何故こんなことになっているのか。一つ心当たりがあるとすれば、彼が乗っていたナグマホン装甲車が即席爆弾によって呆気なく吹っ飛んだことだ。パレスチナのイカレ信者共が仕掛けた。あの、幾ら殺そうが減らないネズミども……
「畜生……!」
怒りに任せて頭上のハッチを叩く。ハッチは錆で固められたのか、成人男性の本気のパンチでもびくともしない。
「緊張してるな」
クルツ大尉の声が、今度は耳元のすぐそばでした。ぞくりとして振り返るもそこには誰も居ない。
「うるせえな、悪いかよ!」
空元気で言い放った言葉が社内の暗闇に吸い込まれ、代わりに大尉の押し殺すような笑い声がブランドンの後頭部をくすぐった。振り返れど、前にあるのは錆の浮いた正面装甲だけである。
「くそっ、出しやがれ!」
恐れに任せるまま、今度は開かぬと分かった筈のハッチをさらに叩きだした。
「出せよ、この!」
錆や溶接よりも固く扉は閉ざされて、最早1枚の板というべきそれに、血がにじむのも構わず叩き続けた。
「……」
そうして手袋もすり切れたころ、ようやくブランドンの狂乱は終わった。何も言わずとも何故か伝わってくる、クルツの呆れに近い冷めた気配。装甲板や計器を通じて、ブランドンに向け発される自称大尉の気配に向かって、彼は漸く会話を試みた。
「此処は……一体何処なんだ」
「……強いて言うならば、地獄という奴か」
冷たい答えにブランドンは自分を抱きしめる。湿った車内の空気がより一層寒く感じた。
「どうして、俺なんだ」
ブランドンの目の前、覗き窓の向こうに影が動く。恐る恐る、彼が目を押し当てると、夜の雨に打たれて、粗末なテントが岩だらけ荒野に並んでいた。その様子に思わず息を呑む。場所は違うが、見覚えのある光景に。
「俺じゃない!」
除き窓から目を離せずにいながらそう言った。
「ファランジスト共だ。あの民兵ども――」
「だが、お前は楽しんだ」
冷酷な声はいよいよ、ブランドンの頭の中で直接訴えかけた。大尉は淡々と続ける。
「装甲車の上で、テントを焼く炎を眺め、逃げてきた難民に銃を向けて地獄に追い返した。心に痛みも無く、寧ろ快楽が――」
「その戯言を止めろ!」
「嘘だと思うか!」
大尉は今度は、はっきりとわかるように笑った。声も無いのにブランドンにはそう感じた。
「この私が、お前如きに、嘘という高等な芸をする必要があると!」
「ナチの幻術なんか信じるか!」
「幻術かどうか、それは一番お前が知っている筈だ」
「黙れ……」
「お前は楽しんだ。この荒野で、私のような存在と一緒にいることが、何よりの証拠だろうが」
「黙れ!」
いくら叫ぼうが、ブランドンの声は車内の闇に引き込まれて掻き消える。そして冷気と水滴を媒体として、大尉の笑い声だけが確実にブランドンの心を蝕んだ。
「黙ってくれ……!」
音を上げて頭を抱える彼の耳に、大尉は甘く囁く。
「証明するか?」
「……なにを」
「お前の無実を証明しようかと言っているんだ」
一体何を言っているのか、ブランドンには分かりかねた。地獄に送られた時点で罪を覆すなど叶わぬ夢ではないか。
「そうでもないさ。異常と正常、その区切りは何よりも難しい」
「だが、どうやって……」
「殺すんだ。同じ地獄の住人をな」
一層甘ったるい声がブランドンを包む。
「もしお前がまともなら、心が揺らぐこともあるまい」
「でも殺しは――」
「地獄の住人だぞ。悪しき者を悪しきものが裁くのは、ユダヤの教え通りだろ。それとも……」
一旦言葉を切って、力強い声がブランドンの面前で発された。
「お前の信仰は、その程度の力なのか?」
「……」
時間は、そうかからなかった。
「……分かった」
ブランドンはそう言うと、反射的にエンジンのスイッチを入れていた。屑鉄の塊だった筈のティーガーに、荒々しい咆哮を上げる。
「それで、次はどうすれば良い」
「殺せばいいのさ、探し回れ」
力強く頷いて、ブランドンはアクセルを踏む。エンジンの不安定な鼓動はやがて規則的に変わり、彼の乗る愛車、ナグマホン装甲車が夜の荒野に歩みを進めていく。
あとには、錆だらけのティーガーがひっそりと残っていた。
「……血を呑み、肉を喰え、罪人。お前の楽園は今完成した」
車内の薄闇から笑い声を忍ばせて、廃車同然の戦車はそろそろと進みだした。