ファンレター

「考える自己」の存在を考え始めると深みに嵌りこんでしまいますよね

高校時代の哲学の授業を、これを読みながら思い出していました。
偉人のだれそれがそういった、というわけではなく教師が4月の最初の授業で導入に喋った話なのですが。

 実体とは何か、はたして実在しているのか。
 本物とは何なのか。
 もしかしたら、今この場で、この教室に座っている君たちは、そしてこの私は、ただの作り物なのかもしれない。
 もしかしたら、ここに「在る」ものすべてが脳(あるいはそれに類するもの)の作り出した幻影なのかもしれない。
 人間とは何か、存在とは何か。
 哲学とは「何か」という命題に光を当てようとした過去の人々の思考の集合です。
 たくさんの人がたくさんの考察し、今に残したたその考えを、これから1年をかけて紐解いていきます。
 その中で、1つでもいい、「あなた自身」に対するあなたなりの「答え」を見つけてください。

……みたいな感じで。
そう考えると、「思う」我は自然なものなのか、そうではないのか、だんだんわからかなくなってきます。
今ここでこうしてファンレターを書きこんでいる自分でさえ、もっと上位の層に存在するコンピューターが計算した人工人格なのかもしれませんし。

この物語には衝撃の「答え」が出てしまいましたが、自分が何者か、なんて考え始めると本当に難しい命題だよなあ……と、しみじみと思いました。

個人的には、滅んだ世界の「もしも」をシミュレートする必要はあまり感じられないのですが(次に活かそうにも世界が滅んでいる以上は同条件の世界が再構築される可能性は限りなく低く……)、それでも物語の最後に登場する人物が躍起になってシミュレートを続けるのは過去への執着や望郷のようなものがあるからなのかもしれませんね。
しかも、コンピューター上のシミュレートだというのに罪悪を感じているところに、人間「らしさ」が滲んでいるようにも思いました。

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