第2話  Holy Knights

文字数 11,289文字

 クリスマスシーズンである。この 洗練された先進都市が とり分けて煌びやかに装い、惑星が保有するうちでも選りすぐられた貴石の数々を競うが如き、色彩豊かな電飾に 人も街も恋をする。
とある私鉄沿線の駅前に設られた 小じんまりしたイルミネーションスクエアに 水樹 史也が足を運んだのは、19時に近い頃合いであった。勤め先の広告代理店オフィスは、駅から さほど遠くない距離に位置している。ごく軽い軽食を摘みながらのミーティング終わりが見えて来ないのを見限って、退社を宣言して来たところだった。一日を通し良く晴れ渡った日で、振り仰ぐ冬の夜空には 今宵も '勇者オリオン' が 逞しい運行を進めている。
「 ー『雨は夜更け過ぎに 雪へと・・』」
ふと足を止め、広場中央の花壇に装飾されたツリーのライティングと 後方に広がる冬空を同時に見上げながら、彼は口を突くまま シーズンの鼻唄を口ずさんだ。純白に降り積もる雪をイメージしたと思われるトライアングルの頂点には、一際明るく 黄金の星形が微細な点滅で瞬きを表現している。両脇の鋪道では、背の高い銀杏並木たちが 淡いラベンダーの小花を纏う様に、やや控え目な電飾のカーテンで優雅に連ねられてある。
「 ーん? '冬の大三角形'・・ て、オリオンと何だっけ??」
ハーフほどサイズの大きなモッズコートのポケットに突っ込んでいた両手の指を、水樹は 滑らかな動きで一頻り伸ばしてみた。胸の内ポケットからスマートフォンを取り出して、検索してみようかと 一瞬思ったのである。が、次の瞬間には その手間を断念した。濃いモスグリーンのファーに包まれた首筋までに比し、自身の頬や鼻先や耳を厳然と冷やし切っている気温の低さに 今更のように気付いたのだった。
「 ・・・・・ 」
視線の高さを幾らか下ろして、彼は シンボルツリーを中心に広場の人口密度を確かめるべく、辺りを一亘り見廻した。平日の夜で 冷え込みも そこそこ厳しいせいか、混み具合は さほどでは無い。
淡い色彩の照明に照らされながら そぞろ歩く人々の点描や、冴えた空気の真ん中あたりを漂う騒めきは、何処かしら お伽噺めいて感ぜられた。
恋人たちと思しき二人連れの姿は、やはり つい視線が追ってしまう。取り分けて この季節の "寂" と冷え込む夜半に、煌びやかな輝きの中で独り立ち尽くして得られるメリットは 少ないに違いない。履き慣れたブーツの親しげな爪先が指し示した方向を 長身の体躯で仰いでから、水樹は よくよく気の進まぬ足取りを運び始めた。悠介が救急搬送されてからの一週間あまりを、彼は佐野家のマンションに泊まり込む形で過ごした。勤務先へは詳しい事情を打ち明け 可能な限り制約を解かれた時間を確保しつつ、成未に寄り添って頻繁に病院との間を往来した。以降、関西在住の母方の叔母に当たる 川瀬 愛子が上京し、十日ばかりの間 滞在をして成未のケアにあたった。11月も下旬を迎えた頃、悠介の術後の容態と成未の精神状態が ある程度の安定を得たのを見届け、愛子は一足先に自宅へ戻って行った。と、云うのはー 12月中旬以後 成未を川瀬家に於いて、特に期限は設けず預かることで 悠介の了承を取り付けたためであった。
水樹が最後に成未と共に時を過ごしたのは、彼女が東京を離れる 三日前の事だった。週末に逢える時間を作ってもらいたい と、先の週の頭に成未から連絡を受けていた。通話で詳しい日時を確かめた折に受けた 彼女の声の調子や話し方の抑揚から、水樹には 何かしらの張り詰めた気配が容易に察せられた。ささやかな離京前のお別れ会を手料理で催したいので、土曜の夕刻 佐野家のマンションを訪ねてほしい との依頼であった。当日は 終日あいにくの冷たい雨で、水樹は事前に予定した通りの時刻 自室を後にした。沿線駅近の贔屓の洋菓子店で予約を頼んだ ホールのチョコレートケーキを受け取り、予め購入済みであったロゼのスパークリングワインを携えて電車に乗り込んだ。降車駅の改札を潜って 屋根に覆われている間際まで進み空を仰ぐと、雨足が いっそう強くなった様に感ぜられた。
「 ・・・・。」
予定通りの電車だったので、時刻に猶予がある事は確かだった。大柄な水樹の両側の傍らを、一人二人・・ と降車客らが擦り抜け、色取りどりの傘が開いては 外界へと歩を進めてゆく。しばしの間 ぼんやりと 急ぎ気味な人々の背を見送りながら、かと云って側へと体を避ける訳でもなく、彼は その場に立ち尽くした。改札の後方の遠くで、間もなく到着する車輌を案内するアナウンスとメロディーが聴こえた。その音声の響きに伴い 神経系等へ不可視なタップを促されたかのごとく、彼は唐突に竣敏な身動ぎを見せた。ファスナーを降ろしてコートの襟元を寛げ、内ポケットから携帯を取り出すと 掌中で画面を見つめた。成未への連絡の手段について 束の間その選択を巡らしたが、無料アプリを開いてみて 此れにする事にした。
( いま駅着きました。)
それだけ送信して胸へしまい、徐ろに いたって気の進まないタータンチェック柄の傘を開こうとベルトを外すと、返信を報らせる通知音が 水樹の懐をくすぐった。
「 ーお。」
掌へ戻して確認すると ( 了解。足元に気を付けてね ) いかにも成未らしい 無邪気な絵文字が添えられてある。文字をたどり、彼は口の端に ごく小さな苦笑を浮かべた。そして 自らがデザインしたイラストスタンプから『OK』を示す絵柄を選んで返してから、ブーツの爪先を 水溜りの中へ静かに踏み出した。

 
 12月の雨は冷たい。殊にこの日は 終日この大都市を濡らし続けた降雨が 予め温度を下げ終えた大気を、日没後の冷却が 厳然たる閑けさをもって凍えさせた。傘を掲げた左手とケーキボックスを携えた右手の指先の温もりを奪う冷気に、年末を間近に控えた夜半がはらむ一種独特な緊張を 水樹は感じ取っている。数年間に及んで通い慣れた駅からの道をたどる15分ほどの間、彼は何らの思考をも その脳内に巡らせなかった。あるいは意識的に 安全な歩行以外の思考についてロックしていたかのも知れない。
「 ? ーお。・・・ 」
児童遊園地の角へ差し掛かって進行方向を見上げると、常の通りにブランコなどの遊具越しに佐野家のベランダを仰ぐ事ができる。レースカーテンのみが引かれてあるのか、馴染み深い乳白色のリビングルームの灯りが 常夜灯のごとき温かみを伴って遊具たちのシルエットに注がれていた。
「 ・・・・・。」
ふと 息詰まるまで込み上げそうになった芒洋たる想いを振り払うべく、長身の青年は束の間歩を留めると 僅かな照明のみが照らす園内へと視線を泳がせた。謹直な降下角度を保ち続ける夜の雨音は、一年を通じても取り分けて早い日没を安泰に迎え得た 都心南西部に連なる家庭の屋根々に、均しく響いている。次の瞬間、彼は思いも掛けず自らの乾いた唇を突いて漏れ出た 不用意な溜息に、ひどく狼狽した。同時に、その身上について明かしもせぬ涙が 左右の頬を対に並んで伝っていた。
「 ーは?? ・・え? なに、これ。」
反射的に拭おうとして、両手が塞がっているのを思い出した。やむなく ケーキボックスを提げた右手の甲をねじり気持ちばかり擦った頬の冷たさに比して、涙の滴たちは ほのかに暖かかった。
目指すマンションの駐車場へ抜けられる最短の道順に則って進み、正面向かって右端の外階段を見上げると 思いがけない事に 成未が通路に出て顔を覗かせていた。
「 ?? ーあれ、濡れるのに 」
大きいサイズの傘越しに 水樹と視線を合わせ、微笑んで返した表情に 成未は ぱっっ と明るい彩りを添えて頷いてみせた。そして次には 踵を返して後ろ姿になるなり、外階段を早足で降り始めた。彼女の規則的な足音を片耳で確かめながら 水樹は やはり右手を駆使しつつ、傘を細くたたむ身仕舞いに掛かった。
「 雨のなかをごめんね、水樹くん。」
程もなく眼前へ降り立った成未は、珍しくポニーテール状に一纏めにした前髪の下で ほんの少し下がり気味の目尻近くにまで 黒眼を大きく見開いた。ニットのルームワンピースと、素顔と ほぼ変わらない薄化粧の様を さっくり見遣り、水樹は さながら安堵に似た安らぎを覚えた。
「 はい、お土産ー ・・甘いやつ。」
雫で湿ったコートのまま 腕の中深くへと抱き竦めたい強烈な衝動を自ら交わした右の手を、彼は ぶらーん と ぶっきら棒な身動ぎで差し出した。
「 ー どうもありがとう。」
いささかは そのパッケージの片側に 日暮れて後の雨の滴を宿らせたボックスの底を 両手に戴く形で受け取りながら、成未はおそらく 感謝の微笑を浮かべて見せようとした。しかし、願った通りには 上手な表情を作ることが出来なかった。形の良い 膨らかな唇の両の口角を上げたのが ようやっと、と云ったところであった。水樹の背後に敷かれている屋外駐車場の上空を、ふと 北東へ向かう疾風が過ぎった。俄かに、斜めに煽られた残像を街灯の照明に白々と映し出された降水が降り掛からぬよう、彼は一足寄って 成未の眼前へ立ちはだかった。
「 ・・・・・ 」
この日以前に会った際よりも薄くなって感ぜられる彼女の頬を とにかくも冷えた指先で突っついて、何か言葉を掛けてやりたかったが 外気が低すぎる事の方が気になった。
「 ヴァンプは・・ 来ないか、この雨じゃ 」
半歩ほど先に歩き出してから 虚ろに高い何処かへ目を逸らすと、水樹は独り言めいた口調のうちに問い掛けを完結させた。彼の口先を突いて出た唐突なニュアンスの名称は、佐野家の隣人に飼育されている愛猫を指している。本来の名はコタロウであって、数年来 ベランダ伝いに二室の間を日常的に往来し親しまれて続けて来た ごく温厚な性質の三毛柄の長毛を蓄えた雄猫である。
「 うん、来てないー。」
外階段を一段ほどずらして昇る 成未の円やかな呟きが、水樹の右肩に担ったショルダーの後ろで ぽつん と響いた。二階フロアの居住室の中で外階段へは最寄りに位置するドアの前で 水樹はコートを脱ぎ、背中や襟周りを湿らせている雨滴を 申し訳ほどに払い落とした。


「 お?鍋ですか、好いすね。」
リビングを見渡すなり 水樹が呟いてみせた。キッチンから吹き抜けて隣り合わせるリビング中央のローテーブルが、冬期に於いては炬燵へ シフトチェンジするのが通例となっている。
時刻と云えば 18時に差し掛かる辺りであった。あたかも 自室同様に馴染み深いテレビのチャンネルでは、ニュース前のグルメ関連の番組から 長閑な笑い声が、小さめの音量で溢れ来ていた。適度に保温が施された室内に、豆乳ベースの鍋つゆらしい 円やかな匂いが 柔らかく趣きを添えている。
「 なにか、手伝います??」
勝手知ったる佐野家の洗面台へ向かいながら、水樹はキッチンの方向へ やや声高に確かめてみた。
チェックのネルシャツの長めの袖を捲りあげる間 待って返答がなく、もう一度そちらへ顔を上げようとした視界を 成未の笑顔が横切った。
「 ううん、大丈夫。 ーて言うか、ごめん。あんまり作れなくて 」
「 ・・・・・・。」
手料理の食器を満載した横長のトレイを恭しげに掲げて過ぎる様の向こう側に、彼は遠くを見遣っていた。五年間近くにもなるのだろうか、この私宅で 主の佐野悠介医師らを囲んでともに過ごした幾多の時が 積み重なって見えた。ただ、何れの場面においても 酒席の中には成未は含まれていなかった。彼女の定席は、キッチンのダイニングテーブルの 向かって右奥の椅子だった。
水樹が やはり リビングテーブルに於ける定位置である、ソファに背を持たせられる向かって左端に腰を下ろすと、成未は 白ワインの蓋を開けた。手土産に受け取ったスパークリングは いま冷やしてるからね、と 並べた二つのグラスへワインを注いだ。
「 じゃ、・・ かんぱーい。」
「 え、とね。」
「 うん??」
両の指で支えたグラスを留めたまま、成未は ふと俯きがちに視線を落として 次ぐべき言葉を言い及んだ。TVのニュースは 今夜の報道内容の要となる数点の話題について、工夫を凝らしたテロップを駆使しつつアナウンサーが解説を始めていた。テーブル中央のIHヒーターの上には、厚手の陶器製の鍋が 満載の具材を調理し終えてセッティングされてある。ヒーターの加熱は 未だ控えてあった。水樹と斜め向かい辺りの位置で 大人しく膝を揃えて正座した成未の睫毛の瞬きが、俄かに多くなった。
「 水樹くん、今日まで ー色々、本当にどうもありがとう。」
「 ??・・・・ 」
むしろ 手にした乾杯のグラスをテーブルへ静かに戻すと、彼は持て余し気味の大きな背を縮めるごとく 胡座を掻いた左膝に頬杖を付いた。そして 少し伸び過ぎてしまった癖の強い前髪越しに、涼やかな眼差しを成未へと注いだ。愛しさと同じ容量で、己れの精神の裡の 経年を経た傷痕に、やはり 忍耐に慣れ過ぎた細やかな傷みを、彼は懐かしく感じ取っている。
倣うようにグラスを置いて、成未は 小作りな両手の掌を顎の前で そっと重ね合わせてみせた。
「 ほんとに・・ 迷惑ばっかり掛けて、本当にごめんねー。」
三つ数えるくらいの間を置いてから、彼は 常に比べれば やや甲高い調子で返答を切り出した。
「 うん?? ーだから、なにが?? その妙な挨拶は・・ 何ゆえに??」
「 ・・・・・。」
緩やかな速度で両手を膝へ戻した前髪を、水樹は瞬がずに見詰めている。伏せた瞼を縁取る艶やかな睫毛の愛らしさを辿る背後で、遠く 慌ただしいパトカーのサイレン音が過ぎって通った。
「 きっと、しばらく帰って来れないと思うからー 」
優しい眉間に不似合いな翳りを そっと装う様を捉えて、水樹は 頬杖を突いた指先の小指を、自らの乾き気味の唇へと充てがった。
「 前から一度、ちゃんとお礼が言いたかったの。」
ようやく心を立て直す きっかけを掴めたのか、成未は 努めて彩度の明るい微笑を添えて顔を上げた。その瞳を直ぐには見返さないまま、彼は 随分と ぼんやりした顔付きでテーブル上へと視線を逸らした。
「 ー 一度、此処から離れてみるのはね、有効だと思いますよ。俺は 」
「 うん。そうだね・・ 」
「 地球の裏とかへ行くんじゃないんだからー なにも、そんな。さ??でしょ??」
一通りの報道予定を完了したニュース番組の進行現場では、そろそろ お定まりの天気予報へと 担当画面を振るところである。水樹の五感は、眼前に於いて なにやら一層 その小柄な体格を小じんまりと纏めた、最愛の年上のひとの緊張を 極々正確に把握している。
ほんと、ごめんね。どうもありがとうー 綻んだ笑顔に紛らせてワイングラスを持ち直すと、成未は 今夜の乾杯を改めて促してみせた。


手軽なオードブルとサラダ、薄めの味付けの筑前煮などから始めて、二人は さながら留守番を託された睦まじい姉弟のように、和やかな会話を過ごした。6月の夜半の雨、ずぶ濡れでいた水樹を悠介が初めて伴い帰宅した日の記憶から紐解いて、話題はおよそ多岐に及んだ。
五年分にちかい容量で流れ去った歳月の面影たちは、其々の脳裏に 各々の彩りで飾られたまま 鮮明に息づいている。また彼らは 或いは実年令以上の礼儀正しさと思慮深さを暗黙に共有し合って、あえて 談笑に伏せる範囲内での切り出し方を守り続けた。
特に視線を向けられでもなく開かれているTVのチャンネルでは、既にゴールデンタイム枠の連続ドラマが 中盤を迎えている。昭和初期の日本の青春群像へ題材を求めたテーマであるらしい。鍋を乗せたヒーターの加熱をオンにして、手土産として預かった冷蔵庫内のロゼワインを用意すべく、成未はこのタイミングで席を立った。
「 ・・・・・・ 」
ローソファのシート部分へ背中の中央を宛てがい、水樹は いったん大きく両腕を真っ直ぐ伸ばして上半身を後方へ反らした。この息継ぎの方法も、佐野家の此の場所において いつしか彼が自ら見出した最適なスタイルなのであった。適度に保温された室内の温度と、直に暖めてはいないが 膝元に伝わる炬燵内の温もりによって、充分に手足の指先までが快適な体温を取り戻している。頭上に翳した両の指を緩やかに組み合わせてみて、彼は その高さで暫し止めたまま キッチンを見遣った。
調理済みであったらしい 小振りな手巻き寿司の類いを和皿へ盛り付けている成未の後ろで、ふと携帯が着信を報らせた。
「 ・・・・・。」
少しく腕のあたりに気怠さと 曖昧なほろ酔いの感覚を覚えて、水樹は両肘を がっくり曲げながらソファへと上半身を乱暴に預けた。しかし 斜めになった彼の視界は揺らぐこと無く、成未の動きを追い続けている。
「 ?? ー・・・ 」
切りの良い間合いで手を止め、無造作な手付きでテーブル上の携帯画面を覗き込んだーが、そこで一息 彼女の呼吸に乱れが生じた。横顔を過ぎる 何かしらの機敏な反応を努めて呑み込む気配を、水樹はやはり 見逃せぬまま見守っている。手に取ろうとはしない電話機を束の間、その大きな瞳を見開き気味に見詰めた後で 成未は静かに電源を落とした。
「 ・・・・・ 」
切れの長い目尻から 頭上の天井方向へ瞳を移動すると、水樹は気怠さの漂う瞼を ゆっくり閉じた。脳裏を席巻しに掛かろうとする暗赤色の情動が蠢めく軋みを 強く感じた。念じるまでに自身の思考を空虚に保つべく 細く長い深呼吸を試みてから、彼は TV番組から発せられている控え目な音声へ聴覚を集中させてみた。
「 ごめんね、お待たせー。」
程なく、トレーを両手に掲げた成未が戻って来た。追加の和皿を中央に配置しながら、成未は温もりのある声で微笑んでみせた。その響きに呼応し眼を見開いた水樹は徐ろに身動いで、ソファと炬燵の狭間へと長い両脚を伸ばし切ったあと 左膝を三角に立てて坐り直した。
「 お土産のロゼ 開けさせてもらうね。」
新しいグラスにワインを注ぐ手元を眺めつつ、水樹は不意に 脈略の無い問いを投げ掛けた。
「 ー何なのかな? 今って、さ・・ どの辺りの事が辛いんだろう??」
「 え。・・・・ 」
ヒーターの加熱温度を調整しながら 食べ頃の具材を取り分けようと手にした小皿の一つを握った成未が、体の動きを止めて眼を上げた。TVでは、21時台の報道特集番組の告知へと進行がスライドされつつあるらしい。右半身のバランスを心持ち取る体勢で テーブルに突いた掌に 所在なく顎を預けると、水樹は 彼に特有の伏し目がちから 成未の眼差しを覗き込んだ。とっさに 向けられた視線を逃ようとする抗いに、愛らしい瞳が ひどく切なげな揺らぎを見せた。
「 本当は、何から逃げたいんです? 貴女はー。」
「 ・・・・・。」
伸ばした左手でヒーターの加熱を停止させてから、頬杖のまま 彼は問いを続けた。まるで虚ろに、成未は手にした食器を 揃えた膝の上で抱えている。
「 "彼から" なんでしょ?? 貴女が放り出して 行方を眩ましたいのは 」
「 ー・・・・。」
頬杖の中で 顎の位置を気持ち引きぎみに乗せ直したのと、成未のなだらかな両の頬を 前触れなしの大きな涙の粒が零れ落ちたのが、ほぼ同時であった。涙腺の決壊が解放されたか、崩落し続ける涙と嗚咽に堪え兼ね 食器を落とした両手で口元を覆うのが、この時 成未にはやっとだった。
「 例のー "爽やかくん" と付き合ったんですか?」
かつて この部屋の主人である悠介と水樹が、抜き差しもならずに対峙した場面に於いてすら、今ほど 空気の質感が立ち処に張り詰めはしなかったに違いない。また、折に触れ 在室する者同士の微妙な距離感を ぼんやりと和ませてくれた、隣家の飼い猫を象った '救世主=コタロウ' も 此処には居合わせなかった。
「 付き合ったんだ、やっぱり。・・」
彩度の明るいロゼを、彼は一口 ゆっくりと口に含んだ。この瞬間の空気感に全くそぐわない 軽やかで明朗な味わいが、水樹の味覚に於いては認識された。しかし彼の意識は、其の機能を放棄してしまっている。涼やかなコーラルピンクの液体が喉を通り終えると、彼は改めて テーブルの向こうの成未を見遣った。
「 ーで?? それで 全体なんで逃げなきゃならないんです? 」
「 ・・・・ 許せない、から。ー 」
「 なに、?! ー 何て??? 」
俯いた姿勢のまま 辛うじて発した成未の言葉に対し、無意識に返した自分の口調が およそ常ならず尖鋭に過ぎたという違和感に水樹は殆ど蒼ざめた。が、なぜか彼の右手は透かさず ワイングラスを取り戻しざまに口元へと、再び爽やかな葡萄酒を運んでみせた。
「 だってさ?? 好きだから彼と付き合ったんでしょうにー。」
本来の肩幅を半分ほどに小さく感じさせて しょんぼり落とした背中へ、掌を伸べて励ましてやるべき と指摘する声が、水樹の自己の何処かで響いた。だが彼は この折、あえてその声を無視する覚悟を持った。それは 無秩序な嫉妬心と言うよりは むしろ酷く沈着な、事実の認識欲求とでも呼ぶべき要求に基づく判断であった。この、無比に愛らしい年上のひとが 遂には抜け出せないでいる葛藤の実態を、自らの実感を伴って把握しておきたいと感じていた。
「 ずいぶん前からー 貴女が彼を好きなのは、そんなこと俺知ってたし。」
とは言えど、ふと脳内の思いがけない辺りを揺さぶった唐突な酔気が口走らせた、とでも言い訳をすべきか、水樹が続けた文言は無惨に幼く 乱暴に過ぎたものであった。
「 ・・・ごめん、ね。水樹くんー 」
未だ波々と潤いを湛えた瞳を 成未が差し向けた刹那が合図であったかのように、グラスを音立ててテーブルへ置きざま 水樹は敏捷に彼女の傍らへと身を寄せた。衝動的な強い口調が溢れそうになるのを呑み込んで胡座を掻くと、やや忙しない身動ぎで大柄な背を屈め 成未の顔を近く覗き込んだ。
「 だから。ーどうして俺に謝るんです??って。可笑しいでしょうに?!」
「 あたし・・ 都合の良い時だけ水樹くん頼ってー・・ 」
「 ーああ、そう?? それで!? 」
TVから発せられ続けている和やかな雰囲気の音声が、この瞬間に奇妙なほど苛立たしく感じられ、彼はテーブル上のリモコンを無造作に掴むなり スイッチを消した。保たれている程よい暖房の温もりや、並べられてある夕餉の心地好い香りは、何ら変わるところ無く この部屋の空間を満たしている。ただ 互いのぎこちない息遣いが確かめられる距離で対面している二人の、生命を機能させようとする空気の密度のみが 明らかに歪つな不協を醸してみせた。
「 ・・・・・・。」
両膝の上へ無碍に投げ出したままの自分の掌を、水樹はしばし 何の意味もなく虚ろに眺めた。俄かに寄り過ぎた距離感を持て余してか、成未は再び俯いて すべての指を硬らせ じっと重ねている。
おそらくフレグランスでは無い、洗髪料の自然な芳香が ふとその前髪から薫って水樹の鼻先をくすぐった。 ー あれ?? 俺、何しに此処へ来たんだっけ ー
何を以ってしての反応であったかは謎ながら、ここで彼は 滑稽さを瞬時に覚えるまでの唐突な冷静さに精神を貫かれた。否や、夢遊病から脱却すべき如くの真剣な決意とともに 立ちどころに腰を浮かせた。
「 帰りますね、俺。 ーなんか、さ。・・・ごめんなさい。」
「 え、・・・??」
かつて見せた事のない深刻さで張り詰めた表情を 成未は躊躇の猶予もなく上げざるを得なかった。が、その眼差しを受けた水樹の脳裏を克明に過ぎった印象は、6月の雨の夜 悪意を伴った侵入者に彼女が玄関にて遭遇した折の記憶であった。当夜、気紛れに佐野家へ立ち寄った水樹の出現が かろうじて事態を最悪の結果から回避させた後のことである。心身に大いなる不慮の負傷を受けた彼女を介抱する中、成未が水樹のみに見せた 戦慄と畏怖に慄く傷ましい表情があった。其れは例えて言うなら、恰かも『北極か南極で置き去りにされんとする救助犬が、同行を訴えて懸命に観測隊員を見上げるかの 瞳の哀切さ』であった。いま眼前に 再び酷似しきった切実なる円らな瞳と遭遇して、彼は理由も判別しかねる 何やら激烈な憤りにも似た感情に突き動かされた。
「 だからさ!? ー貴女はっっ! 見つめて来るのを止めなさい、って 」
自分の意識が気付く以前に、彼女の両腕を掴むなり 烈しく繰り返し揺さぶっていた。
「 何なんですか、一体全体!? 何がしたいんだ、あんたはー 」
「 ーあ、・・・・ 」
さらに信じ難い事には、叫ぶ途中から途方のない嗚咽が込み上げ すべて言い終えたい前に、ただの鳴き声になってしまった。見開いた瞳で凝視しながら 何らの抵抗を為さず成未は無言で揺られていたが、やがて水樹は首を垂れて動かなくなった。両腕を掴んでいた握力は しだいに弛んで、ついにずるずる 落ちてリビングのフロアを虚ろに握り締めた。
「 ー!! ・・・・・ 」
小刻みな嗚咽を繰り返す 痩せ型の大きな肩を しばらくの間呆けたように見つめてから、成未は その長髪へ自らの頬を寄せた。微かな水樹の体臭と、整髪料の残り香がした。
「 ?! ーもう、俺 帰るんだって!!」
俯いた口元から鋭い声を発したのを標しに 背後へ退こうとした腕の中へ、成未は不意に飛び込んだ。それは存外な勢いを伴った身動ぎで、まったく警戒していなかった水樹は 上半身の均衡を崩し、左を下に斜めの形で横様に倒れ込んだ。咄嗟に、彼は背中へ床面の硬さと 同時にまた胸の上へ成未の体重と温もりを感じた。
「 ?! なにー???」
顎の下で、懸命らしい力で水樹の着衣の襟元へ縋って離れない成未が、左右に頭を振ってみせた。
「 帰らないでー 明日の朝まで。 お願いー!!」
「 ーは????」
思い掛けず かなり遠ざかった、見慣れている天井のシーリングライトを見遣った時、自分の胸の鼓動が著しく乱れるのを彼は感じた。
「 性質が善くないにも 程があるー・・ 」
振り払って起き上がろうとした唇を、前触れのない柔らかさが 唐突に塞いだ。同時に 睫毛に絡んだ成未の前髪が甘やかに薫った。
「 ・・????」
真意を察し兼ねるまま 成未の身体の置き具合を測ろうと瞼を閉じた五感の幾つかは、忽ち過敏な反応をみせて蠢いた。時間に置き換えれば、実際のところは如何ほどの間だったのかー
器用とも言い難い所作で唇を重ね続ける 成未の不可解さから逃れようと、水樹は其れでも それなりの分別と実年齢には不相応な理性に従うべく抗ったのである。
床伝いに カーテンが閉じられた向こうのサッシを冷やす、夜半の気配が伝わった。もはや随分と 世界の夜は更けたらしい様子を、彼は頭上に感じ取った。
「 もう、 ー!!!」
呟きになり得ない深い嘆息と共に 表情を嶮しく曇らせてから、諦めとも 観念とも 或いは何らかの決意とも付かない、厄介極まりない情感が体幹の深くで疼いた。そうして水樹は、とうとう 己れ自身の身体の身動ぎに 何もかもを投げ出す事にしてしまった。
徐ろに 成未を抱えて体勢を反転させた後、彼の意識の中枢が かろうじて感知し得たものと云えば、軋むまでに絡めた成未の指先の冷たさと 初めて重ね合わせた成未の柔らかさぐらいであった。
言葉を探す努力を忘れた振りを装うごとく、次第と彼らは互いの温もりを深く求め続けていった。
























































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