第3話『風花の聲』

文字数 8,744文字

 

『きさらぎ』とはー 如何に麗しき響きを備えた暦の名称であろうか。その音の成立については、幾通りかに及ぶ由縁の諸説が 遥かより語り継がれているものらしい。この年の二月は四日に立春を迎え、そろそろ春一番の便りも聞かれ始めようかと云う中旬へと差し掛かる頃合いである。
新年に、再び廻り来るべき初々しい生命の息吹と世界の蘇生を地上へ促すべく、大気は敢えて 未だ峻厳たる沈黙を解く気配を漂わせようとはしない。この時候に特有の、ごく個人的な感慨の甦るのを ふと胸の何処かに察した と云う迄の程もなかったのかも知れないー。
都内某所轄署の加藤耕平巡査が、夜更けのコンビニで目に付いた夜食と軽食の類いを両手に抱えたままレジ前に並んだ折である。まったくの何の気無し、店のガラス戸の方を見遣った先に一人の入店者が在った。
「 ー・・・。」
何らかの注意を払って、そちらに目を向けた意識とて特段は無かった。底冷えの厳しさを束の間重げに孕んだ外気と共に、異国人らしい大柄な男がドアを潜った。いいや、或いは異国の血を宿して見えるのみかも知れない。あまり見かけない頭髪の色合いだな 染髪してるだけなのかなー 全くもって極く一般的な、呑気に過ぎぬ反応を示しながら視線を逸らした加藤の傍らを、男は通りすがった。なにか、ひどく冷ややかな閑静な気配が過ぎった気がした。頭ひとつ位は自らに比し長身に感ぜられた。微かに鼻先を翳めた芳香は、パルファンの類いではなくアロマめいた香りらしい。厳粛まではないものの、どちらかと言えば重々しい残り香とともに背を見せると、男は無造作に、外連味もなく店内の反対側へと歩を進めた。更にこの時、次なる入店者が再度ドアを開いた。
「 ー・・・。」
レジ上へ並べた商品から、そのままドアへと視線を注いで見れば 店内に一息遅れて駆け付けた津久井巡査長であった。さり気なく目視して見せた肩先を、ご丁寧にカゴを手に過ぎろうとするのが 何とは無し可笑しい気がし、加藤はつい目を伏せた。
支払いを済ませようとする加藤が、件(くだん)の異国人風の男をやや追う形に後方を仰いで見た様を受け、やはり中々に神経の細かな箇所のある男であって、津久井も些か気に掛けて瞳を見開き見返してみせた。
「??何だ?」
津久井が彼の人物を視界へと捉えた際に、どの様な反応を示すものであろうか 比較的珍しいケースであって、幾らかなりとは加藤は興味を感じ取った。なので、かなり無責任な話ではあるがレジの反対側を極く大まかに一度だけ振り返って見せた。
「??ーは?」
そしてそれなり、足速に慌しく駐車場隅に停車中の車内へと駆け込んでしまった。

加藤が二つ目の惣菜パンの一口目を頬張ったあたりで、津久井が車内へと戻って来た。要領を得ぬままサンドウィッチをかじり、しばし無言で居たのが やがて口を開いて来た。どうやら、例の人物に目が止まったものらしかった。何だかー
「何処かの公国だかの王子」みたいな雰囲気でしたね、と熱々のコーヒーを啜りつつ相変わらず長閑な話題を持ち出したのを、流石に津久井は異なる切り口から返答をした。何らか武術の心得の有る者で在るらしい との意見だった。無論の事、正規の手続きを経た他国籍の武術者が都内に滞在中であろうが 支障のあろうはずもない。
「で?何か気になったのか?」
「いえ、別に・・気になった、と言うほどでもなくー」
冷めないうちのコーヒーを飲み干しながら、加藤は僅かに引っ掛かる事柄の残る際の癖で、ほんの少し首を傾げた。
「一口に武術と言っても、広いでしょうしね」
一つの空き袋にゴミを一纏めにしてから
「何となく、張り詰めた緊張感を感じただけです。」
この話題は夜食と共に切りにしてから、他の捜査員らと合流するべく 加藤は運転席のシートベルトを装着した。












「成未ちゃんさ、未だしばらく帰って来ない??」
ベランダから、常通りの朗らかさで悠介へ声を掛けてから、里中がマグカップのコーヒーを一口味わった。小春日和とは異なるものの、微かな春の輝きは 既にその煌びやかさを晴天の日曜の青空に明る過ぎるまで無邪気に春めかせて見せている。
「ーあ、済まん。もう通話始めてたか。」
「よお、久しぶり。」
折りしも隣家・黒田家より、何らの違和感も無い滑らかな動きで里中の懐ろまでコタロウが滑り込んだ。
「やっぱりお嬢さんが留守だと、彼も余り気が進まないみたいですよ。」
「うーん、やはり、そうでしょうね。」
リビングの、いつものソファで悠介が関西の美穂方の親戚と会話している。
「またお近いうちに、一度ゆっくりと。」
丁寧な会釈と共に、一旦サッシを緩やかに閉じながら、里中はこの春最も早い春の陽光を笑顔の上に跳ね返した。リビングでは、そも不慣れな関西弁とのやり取りに元来が何かと器用と呼び難い悠介が四苦八苦であるらしい。
「結局、この男が君を最も必要としてるんだよな。申し訳ない事に。」
「あ??成未ちゃん??」
「俺、俺。」
至極当たり前の成り行きに身を任せる他に術の無い如く、あっという間に大きなコタロウが悠介の懐ろ深くに収まってしまっている。
「いや、大丈夫だよ。お隣りの猫ちゃんに、今日のとこは面倒見てもらうんで。」
何とはなし、懐かしいはずの成未の言葉すらも悠介の携帯越しに他人じみて響く気がして、里中は言葉をもう一度重ねて尋ねた。
「順調で過ごしてる?ーそうか。」
「うん。こっちは特に変わった事もないよ。」
最後に、叔母の愛子に通り一遍の挨拶を交わして成未との会話を切りにすると、珍しく悠介が声を掛けた。
「コーヒーでも飲むか?」
恭しくコタロウをキッチンのテーブル上まで両腕で運び終えてから、里中の返答を待つでもなく悠介はコーヒーメーカーのスイッチを作動させた。
「なに、どうした?」
レギュラーコーヒーを、やはり不器用そうに計測し始めた悠介の傍らで、里中はさも愉しげに破顔して見せた。コタロウは早速に、長毛の毛繕いに余念がない。猫舌の感触が音を立てて伝わって来そうである。
「コーヒーって、成未が居ないと自分じゃ中々淹れないからさ・・」
「え、そう?」
テーブル上は、明るく温かな午後の陽射しに満たされている。
「この際せっかくだから、癒やしてもらってさ。」
里中はリビングに漂い始めたコーヒーの香りに身を任せようと、大きな頬杖を突きながらコタロウを眺めている。
「なんかさ、あれはだんだん西に居着いちゃうんじゃないかなー。」
やや大袈裟気味に溜息混じりの苦笑を漏らして見せてから
「なに?成未ちゃんが??」
「春には帰って来るさ。」
里中はそーっと、コタロウの豊かな髭の殊に長い一本を丁寧に指先で撫で上げた。
「何かとさ、あるだろう。時期とか巡り合わせとか。いずれは何もかもが一番良い具合に納まるさ。季節の巡りとかもあるしな。」
「そりゃ、人間誰しも思い通りにならんもんだからな。」
「様々なものがすべて崩れ去ったように思い過ぎるなよ、佐野。」
一足先に、淹れたばかりのコーヒーをカップに酌むと
「物事も人の心の有り様も、常に動き、変化している。だろ??」
悠介は些か悩ましげな表情を横顔に浮かべた。
「厄介なものだな。つくづくと」
「よく言うよ。これでどうにかメシ喰って来ておきながら。」
手持ち無沙汰な少年のごとく音立ててカップを啜った視線を、里中は意図して少しく鋭く悠介を見据えた。
「出家して修行に入るとか、夢ゆめ口走るなよ。例の水樹青年にも、お前は必要とされてるんだからな。」
「今夕、史くんが久しぶりに何か美味い惣菜持って来てくれるそうだ。」
陽射しの中で、悠介はコタロウを擬えたのか一つ大きく欠伸と共に両腕を緩やかに伸ばしてみせた。
「そりゃ結構。簡単な鍋でも作るか。」
「そうだな。残り物でなんとかなる。」
コタロウに頬を寄せて耳をそば建てると、喉の響きは引き続き快調そのものである。
「君らが居てくれてるおかげで、どうにかやらせてもらってる。良く判ってるんだ。」
「おいおい。お互い様だろ。しっかり頼むぜ。」
「とりわけこの、存在そのものが謎でしか無い特別な優しさに満ちた生物にも常に支えてもらってる。貰うばかりで、済まんなあ。」
美穂が共に在ったとしたら、こよなく愛したに違いない膨よかな雄猫の呼吸の速度の穏やかさを、悠介は改めて親しく頬を寄せてその速度を確かめた。コタロウの柔らかな息遣いには、気の早い春の到来を感じさせる翳りのない陽光がひどく似つかわしく感ぜられた。









 4月の声を聞いて程もなく、里中は無沙汰していた向井教授を母校に訪ねた。永らく訪問したかったのであるが、悠介と揃って訪れる日時の合致する機会になかなか恵まれぬうちに時ばかりを過ごしてしまっていた。さすがに、本年の首都圏の桜の綻ぶ便りも聞かれ始めようと言う時候を迎えてしまっている。平日の昼下がりである。世間にあっては、いわゆる卒業、入学の節目となる季節を迎えてもいる。母校の校内のそこかしこにでもソメイヨシノの薄紅の華奢な花影がいま正に彩りの盛りを匂わせている。今年も、花の盛りは通年程度の短さであるらしい。例によって、毎学年の通例行事として受け継がれている、部活動やサークル活動への新入部員の参加を呼び掛ける『出店』と呼び習わされ続けている在学生らの人出も、好天にも恵まれて構内各所、平日の割合には中々の賑わいを見せている。血が騒ぐ、とまで言うほどの事もないものの この時期は殊に、何とはなし構内の部活動を中心とする在学生らのこれと言って脈絡もなくやたらと秋日集いがちな独特な熱心な空気感が里中はあいも変わらず好きで仕方がない。意味もなく、なんらかの新たな活動に加わりたい衝動に駆られてしまうのは、今春も変わらない。
「いま昼飯終わった。うん。判る、そっち歩いてくよ。君らのゼミが気に入って良く溜まってた、あの辺りだろ?」
「ありがとうございます。そうです、そうです。あの辺です。」
人々の意識とは不思議なもので、何とは無し会話が弾みやすい、或いは覚えてもらいやすい座席の座り位置なる場所が代々と受け継がれてゆくものらしい。ほどもなく、どちらからともなく向井と里中の師弟二名は申し合わせた如くにほぼ真ん中あたりの緑地でばったりと行き合ってから、やや苦笑を禁じ得ず微笑を漏らし合って濃さを増し始めた芝生の上へ頓着もなく腰を下ろした。視界に入らない構内の学生たちの騒めきすらも、遥かに繰り返しす効果音めいて、未だ止む気配なく活発な響きをを打ち寄せて来る。
「また、すっかりご無沙しましてー 申し訳ありません。」
「はは・・便りがないのが何より無事の便りってやつさ。」
俄かに彼らの後方で軽音楽部のサークルが三つばかり男女取り混ぜて賑やかしく音声を掻き鳴らし始めた。偶然なのか意識して競っての事か、アコースティックギターと唄声が幾つかのコードとメロディーを付かず離れず途切らせず競演を展開してゆく、何やらスリリングな音感の雰囲気に二人は暫く耳を傾けて時を過ごした。
「澤村君たち兄弟に関して君たちに託させてもらってから、もう一年経つのか。」
「そう言えば、あれからもうそれ位になりますね。」
相変わらず細身の胸元を反らし、出来得る限りの午後の日照の明るさを深呼吸してみせた恩師の特有の爽やかな笑顔に、里中は改めて深く心中を掬い上げられる思いにふんわり包まれた。
「どうだい、佐野はどうにかやってるか?まあ、君が居てくれてるからな。」
額の上で、組み合わせた掌をごしごし擦り合わせると 里中は少しく罰悪げに向かい合った先で二、三度頷いては真顔のまま苦笑した。
「あいつにしてみると、大きな幾つかの出来事が重なった経緯がありましてー。」
「もっともだ。元々が不養生のところへもって来て、何かと佐野の周囲に出入りが続いたからな。」
ふと二人の仰ぎ見た頭上を、一機の航空機が折しも真っ直ぐな稜線を碧空に貫いて過ぎって行く。
「何せ焦らん事だ。来月あたり佐野のとこで一度ゆっくり落ち合うか?」
芝生の上で腰を下ろそうと、物腰の軽やかさにこの日も変わらず向井ならではの温もりと癒しを受け止めながら、里中はつくづくとその存在感の奥深さを痛感している。
「どうもありがとうございます。ぜひ一度、ご案内させて下さい。詳しい日程は我々の方で詰めますので。」
「失われたものは、必然があればいずれ必ず戻って来る。そう信じようー。」




 この年の4月を迎え、極東の美麗なる古都にあっても 増加する世界からの観光客らを歓迎するかの取り取りの花々が、一斉に匂い立つ彩りを街中に賑わせ始めていた。観光の各名所や市街地のそこかしこの花壇はもちろんの事、沿岸地域の自生地などにあってもマンシュウスミレやフデリンドウ、あるいはリュウキンカたちのひときわ朗らかな真黄色の丸い花びら達が愛らしく早春の訪れを謳歌する各色の姿が旅行者の目を楽しませる季節が巡ろうとしている。宵を迎えた後も、街を埋める種々の薔薇の鮮やか過ぎる花影と甘美にして濃厚な芳香が、そぞろに人々の往来を途切らせようとしない。エレーナの住み慣れた倹しい部屋の窓辺にあっても、昇った月光と競って未だ白く咲き匂う白薔薇の密度の濃い芳香が何やら息苦しいまで春宵に華やぐ様に、せめてもの気休めに水を差して花びらを潤してみた。
(今晩はとりわけ香りが強く感じるー)
生死の境を彷徨う負傷を負って以来、慣れ親しんだ勤めは退いている。女性に特有の特別な勘の様な機能が働いたものか、普段であれば明かりを落として就寝する頃合いは過ぎていたが 身体を横たえる気分になれぬままでいた。部屋の照明を一番小さく絞ってみると、窓辺に差し込む月明かりのほの青さが際立って室内を照らし出した。むしろ電化製品による照明等は必要なさそうであった。濃い目のアールグレイを今夜の最後に準備する事に決め、エレーナはケトルに湯を沸かした。ティーポットから立ち上る芳香をゆっくりと愉しみながら、月明かりに浮かぶ大輪の花影を目視で辿ろうとして ふと 窓下の外階段に何らか人影の動いた気配を感じた。
(??)
リヴィンスキーからは、緊急以外の夜間の外出を禁じられていた。が、彼女の本能の反応は無垢な乙女さながらの敏捷さであった。素足に部屋着を纏ったなり、ベランダから外階段へとバレリーナの足取りで音立てぬステップを踏んだ。階段を降り切った刹那である。身体の重心が不意に不自然に大きく傾いだ。
(ー!?)
強い腕力がエレーナの腰をしっかりと抱き寄せたのであった。同時に、決して忘れ得ぬ掌の感触が重く口元を塞いでみせた。
(しいっっ)
一旦、身体の動きを止めさせてから無言のまま その掌の持ち主は共に階段を昇り始めた。只ならぬ緊張感を要する足取りであるらしい事は容易に察せられた。負傷などがないものか、自分の口元と後ろ手を固定している人物の気配を エレーナは咄嗟に叶う限り目視で確かめた。大きな流血等は被っていない様に見えた。
(??)
如何なる闇夜であろうと、この人物がエレーナの在り処に迷い見つけあぐねる事はあるまいし、また、エレーナに在っても同様に喩えて言うとするならば 十字架に掛けられようかとまでの強い覚悟と信念と共に彼女の恋情は常にこの唯一人の異性の元にのみ注がれ続けてあった。ベランダの扉を潜り終えるや、身体の自由を奪っていた者の胸へと彼女は深く吸い込まれた。その再会の瞬間に言語は無用であった。
(ー!!)
(怪我はない?無事だった?)
(エレーナ・・!)
市民病院に彼女を残し単身この街を後にして以来、幾たび逢瀬を夢見た事であろう。居間の中央で力の限り抱き締めたまま、ハヤトは微動だに動く事も嗚咽を漏らす事も叶わずに立ち尽くしている。やがて、辛うじてもう一度だけ窓の下を遠目に見遣るためエレーナの身体ごと微かに身を乗り出した。
(ハヤト??)
(あんたに迷惑は掛けん。大丈夫だ。ただ・・誰にも打ち明けずに来ちまったー。すまない。妹のとこへ行ってやる前に、どうしても会いたかったんだ。)
(逢いたかったー。)
縋り付いた両腕を決して解かれぬ様、強く組み合わせる華奢な指先をしっかりと握ってから、白い花影越しにハヤトは窓下のとある方角へ向け目配せを示して見せた。
(夜が明けたら、あの男と発たなけりゃならなんー。)
(いや。じゃ、私も一緒に行く。)
改めて首に縋ろうとする腰をふんわりと抱き上げると、口付けてハヤトは言葉の続きを止めた。
(なにか美味いものを喰わしてくれないか?)
頷きざま、騎士を導く美姫さながらキッチンの方へと腕を延べ、エレーナは前へと身体を乗り出した。
(貴方のお気に入りのシチューがあるの。温めさせて。)
キッチンに共に立ったものの、片時とても身を離す事を嫌ったまま幾つかの食材の準備を進めようとする間にも口付けを深く重ね合った。
(少し痩せたろう?)
部屋着の上から細い腰回りを愛おしげに撫でて、ハヤトは少しく表情に険しさを浮かべた。
(だって・・ 貴方に逢えなかったから。)
腕の中からするりと床へ降り立とうと身動ぎするのを押し留められ、エレーナはハヤトの頑丈な首筋に縋りつきながら頬擦りをして返した。ようやく温め終えた二皿をミトンを使って両手で促し、そのままテーブルへと誘ってみせた。膝の上で食材の温まり具合を確かめつつ、ハヤトの口へとスプーンで運んでゆく。
(食べてもらえて嬉しいわ。ー待っていたの、ずっと。貴方が来てくれるのを。)
似つかわしくない従順さで差し出している口元へ、絶妙な容量の良さで食事を進めながら さながら養母の微笑を浮かべて見せる。この瞬間へ辿り着くに至るまでの詳細な経緯等は耳にしたくなかった。ただ、地上にたった一人だけ存在する愛おしい男の無事が確かであれば 他に聞きたい事は何も無い。食事を終えた後に、少し暑めの湯でバスを使って欲しいとエレーナは懇願した。夜半の冷気に晒され長い距離の移動と緊張を辿った身体は思いの外、芯まで冷え切っているに違いなかった。
(ゆっくりと時間をかけて温かいお湯で全身を洗わせて。それから、私に出来る限りの全てで貴方を愛させて。ーお願い、許して?)
(エレーナ。)
再び深く抱き寄せた逞しく懐かしい筋肉の感触は、やはり未だ温もりを取り戻し切ってはいない。
(二度と離したくはないんだーだが、あんたの安全のためにはリヴィンスキーとの約束を破る訳にはいかん・・くそっっ!)
溢れるばかりに、唯々汚れなく真摯に募り来たる想いを 華奢な骨格が壊れそうなまでに強く抱き締める事でしか表す術の無さに苛立ちを露わにして、ハヤトは舌打ちを漏らした。
(あんたの離婚が正式に認められるまでは、とにかくリヴィンスキーの選んだ弁護士に任せるほか俺には出来る事がないー。)
食事を切りにしてエレーナを再び抱き上げると、ハヤトはバスへと運んでタブの湯の蛇口をもどかし気に捻った。


 唯ひたむきに求め合う夜半は、二人にとって無慈悲なほどの早さで黎明を迎えた。些かの睡魔に襲われ掛け、ハヤトは敢えて静かに起き上がり エレーナの寝顔を見詰めた。
なぜ出逢ったー。なぜ愛さずにいられなかった?いっそあんたを知らなければ・・
自身の背負うべき禍々しい過去にもまして、かの亡夫セルゲイが在命していたとは如何なる運命の狂い様であろうか。やや線の細くなった真白な顎にそっと口付けた刹那、稀なる涙がハヤトの頬を伝って落ちた。地上に降ろされた天界の使いさながら、浄らかなるプラチナブロンドに埋もれながら愛おしい女(ひと)は無心に美しく眠っている。その健やかな寝息を守り抜くため、夜明けを待たずに一人発たねばならず 決して明かす事なく向かわねばならぬ場所がハヤトを待っている。
いつか一緒に暮らせる時まで・・ 無事で居てくれ、エレーナ。頼む。俺にはあんた以外女は居ないんだ。そして、あんた以外には この生命を生かしてくれる理由も目的も残されちゃいない。
エレーナの眠りを妨げぬよう慎重に身繕いを整えると、一つ大きな深呼吸と共に想いを絶ってベランダから外へ出た。新しい日の夜明けを待つ外界は未だしめやかに、東から滲み始めた透明なる薄明の冷ややかさに凍て付いている。朝露を芳醇に湛えた樹木や花々の全てが、薄青と暗灰色の濃淡の仄かな影のみを浮かび上がらせている世界の中を、舗道の端に停車中のとあるクーペを目指して歩いて行く。名を知らぬ野鳥たちが随分と気の早い早朝の訪れを告げるべく、そこかしこの梢で既に囀りを始めている。ハヤトの訪れを先んじて車内から察したものらしい。彼がドアをノックしてみせる以前に、助手席のドアは乗車を誘うべく内側より自ずと開かれた。淡い花々の香と樹木の含んだ夜露の湿り気を今一度深く吸い込んだ後に、ハヤトは上衣を脱いで車内へと乗り込んだ。運転席で控えていたのは白系の欧州人らしい大柄な男である。
「・・・何処まで行けば良い。」
前方を見遣ったままハヤトはシートベルトを引いた。比較的コンパクトな車内設計であって、座席を後方へとリクライニングさせるとやや窮屈そうに脚の置き場を確かめ始めた。豊かなブロンドで長髪の男は発車の準備を進めながら、極く淡々とした表情と口調を返してみせた。
「ー『セレム』が待ってる。まずは、俺が其処まで連れて行く。」
「わかった。ー悪いが、少し寝かせてもらう。」
上衣を上半身に纏うと、ハヤトは可能な限り両脚を伸ばし胸の前で両腕を組み合わせて仮眠を取り得る低目の体勢に身体を収めた。聞くなり、黒い車体は滑らかな発進を見せると港湾方面へ向け静かな運行でエレーナの住む集合住宅より走り去って行った。












































































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