第4話   望  郷

文字数 6,629文字

「最近、何か思い出した事はありますか?」
対面したデスクの向こう側から主治医が眼鏡越しに抑揚のない声で尋ねた。
「・・・・」
回答を控えたまま、医師の背後、窓の外に広がる青空へとセルゲイは視線を泳がせた。そろそろ初夏を迎えようとする極東の街はこの日も圧倒的な高気圧の配下にあって、何ら屈託のない爽やかな晴天が広がっている。
「ーいや。新しく思い出した事は特にない。」
とある地方都市に於いて、当時走り慣れていたはずの見通しの良い車道カーブを大きく逸れて中央分離帯に衝突し乗り上げる単独車両事故が発生し、運転していたセルゲイの人生が一変して以来 既に6年を数えていた。当初死亡が確認されたはずの事故から、後にセルゲイ本人による在命が糾弾されると言う 有り得ない展開を受け、意図的且つ周到なる計画に基づく殺意に裏付けされた偽装死亡事故事件として所轄警察による捜査が続行中である。いわゆる所の『替え玉』として葬られた人物の身元についても判明には至っておらず、真実は尚も深く隠蔽されたまま重要となる手掛かりを露呈していない。事故直後、隣接する都市の私立病院へセルゲイを救出して搬送した人物が救命者として存在した事は事実として確認されている。ところが、この人物そのものが偽名を名乗っており 実体と行方が掴み切れていないのである。また、セルゲイを現場の大破した車体内より迅速に救出し得た特異な状況やその目的等についても、発生時刻が夜明け前の交通量の少ない時間帯であった背景もあって目撃情報が乏しく、決め手となる証言を欠くといった経緯を辿らざるを得ていない。何よりセルゲイ本人の運転当日及び過去全般に亘る記憶内の混乱と損傷の後遺症が甚だしく、種々の時系列に沿う 喪失したまま未回復の記憶の断片を依然として複数抱えていた。まず、事故に遭遇した前後の詳細な記憶が皆目見当たらない。よって、車体の辿った異常な軌跡を始め分離帯へ衝突した瞬間の衝撃度や恐怖感に至る記憶も残されてはおらず、足元とハンドルを握る手元に感じた瞬時の違和感のみが意識を失う以前の境界線となっていた。不可解な、或いは皮肉な事に彼自身の最も中枢に在ったはずの記憶の一片が茫洋と霞んでしまっている。深過ぎる眠りの底を手探る作業の中で、しっかりと掌中に握り締めたい記憶の確信部分を未だに掴み切る事が叶わない。この世に唯一人、セルゲイが心から求め続けた女が存在していた。その、心身を灼かれるような恋情の苦悶の記憶は鮮明に息付いている。しかしながら、女の詳細についてが さながらお伽噺を真昼の微睡に垣間見る如くに、何処までもぼんやりと心許ない。狂おしく恋しい面影を追おうにも、現実に逢える手立てが判らない。女と過ごした濃密で特別な時間が確実に存在していた。にも関わらず、その記憶が膨大に欠損してしまっている。夢の名残りほどの記憶の輪郭のみを、遠く辿々しくなぞるかの歯痒さと焦燥にセルゲイは晒され続けて来た。
「何かの些細なきっかけを境に、ふと記憶が戻る事もあると聞いたがー」
特有の眼差しの鋭さに変わりはない。
「ちょっとした突破口さえ掴めれば、何もかもがはっきり見えて来そうな予感はあるんだ。ただ、その手掛かりにどうしても辿り着く事が出来ずにいる。何か効果的な手段を教えてくれないか?」呼応するかのように、医師は一旦デスクより椅子を後方へと緩やかに引き下がった。
「いずれ、機会が訪れるまで焦らない事です。」
「・・・・」
セルゲイは窓外へと今一度悩まし気に視線を逸らした。感傷や恋慕の情が疼いて心を苛み続けると言った事自体が本来、卓越した現実主義者であるこの男にすれば在り得ない心象風景に違いなく、甚だしい違和感に見舞われざるをも得ないのであった。
「ーいっそ、何もかも全てを思い出せなければな。」
凡そ珍しい事に、ふと自虐的な文言を呟いた自ら自身に彼は遣り切れなさを痛感した。交通事故後の最も重篤たる容体の間に於いてもセルゲイから離れず付き添って励まし続け、その女こそが確かに存在していた。記憶の核心に触れようと手を伸ばすものの、さながら反発し合う電極の如く追えば追うほどに女の面影すらも遠ざかってしまう。こうした自身の心象や記憶との根気強い遣り取りが、果たして何時まで必要とされるものなのかー無論、彼にとっては経験した事のない余りにも漠然とした果てしも無い苦悩であった。彼がかつて少年時代を過ごした養育施設にー 既にその年上の異性は絶対的な庇護者として在り、心寄せ合う暮らしの中で彼を支えていた。名をディアーナと言った。他の誰にも心を開こうとしなかったセルゲイにとって唯一無二の信頼できる同胞であり、掛け値なしの愛情を注いでくれる存在であった。彼女が成人後に他の男に嫁いで施設を去った後も、セルゲイは彼女唯一人を密かに心から愛し求め続けて来た。彼女が事故後に出現したからこそ奇跡的な回復を見る事が叶ったのは間違いない。この特別な異性に纏わる掛け替えのない記憶が、彼の精神の裡にあって深刻な綻びを生じてしまっている。彼にとっては決して受け入れる事の許し難い状況が、解決の目処が立たないまま暗中に悶々と続くのみであった。



 そのささやかなバーは、ウラジオストクの最も繁華な目抜き通りを港湾沿いに東方へやや辿り、世に名高いツァーリ由縁の凱旋門を見遥かせる細い路地裏にひっそりとした佇まいを見せていた。しばらくの間、閉じられていた営業が再開されて未だ3ヶ月ほどである。再開に際してはオーナーが交代したものか、スタッフの顔ぶれと店の趣きが以前と若干異なっている。常駐のピアノ弾きが一名加わり、寡黙なバーテンダーと大柄で柔和な雰囲気のマスターらで店を回しているらしい。ダヴィートと名乗るマスターは見受けるところ40代ほどで、一見してこの業種への就業に些かの違和感を覚えさせなくもない。どちらかと言えば、飲酒サービスや音楽提供などの業種とは縁の薄そうなストイックさとでも呼ぶのがふさわしい独特な雰囲気を全身から醸している。印象的なほど人懐こく良く動く瞳の青は透き通って、会話する相手の心の裡まで透かせそうである。性分なのか、時折り浮かべるひどく少年めいて底抜けに朗らかな微笑は、恵まれた体躯と重厚な存在感に比すると何処かしら不釣り合いであった。店舗の立地にさほど恵まれない割合には、訪れる観光客に事欠く様子はないようである。カウンター席だけのこじんまりした店内奥に一台のアップライトピアノが新たに据えられた。営業中は主にジャズのスタンダードが奏でられているが、客からの依頼によってはリクエストに応じて即興の演奏に応じる場合もあって生演奏は中々の好評を博している。
5月のとある夕刻である。年季を刻んだマホガニーの光沢が重厚なエントランスドアに装飾されたグランドピアノを象ったアイアンチャイムが、ふと鳴らされた。カウンターにいたダヴィートが振り返った視線の先で、一人の女性客がドアを半分ほど開いて店内を覗き込んだ。
(・・・?)
小柄で華奢な体格の上に童顔のせいもあってか、一見して少女めいた印象を受ける。無造作に降ろした豊かな褐色のロングヘアはナチュラルになだらかな波を打って、小造りな頬を柔らかく縁取っている。何かしら問いた気な、或いはまた、その問い掛けこそが憚られるらしい懊悩も隠せない瞳が、深い褐色の底をきらきら揺らめかせてダヴィートを見遣った。店内へ足を踏み入れるのを躊躇ったまま身動がない様子からしても、来店時間を違えた訳でない事は確かなようである。止むを得ず、ダヴィートは先に声を掛けた。
「レディ、何かご用でしたか?営業までは未だ間がありますがー」
「・・・・。」
彼女は するりと敏捷な動きで身体を滑り込ませると同時に後ろ手でドアを閉めた。眼差しは逸らしていない。見上げる瞳に籠められた気配の緊張が俄かに増したのを感じ取ったダヴィートがカウンター席から立ち上がろうとした瞬間、小柄な訪問客が初めて口を開いた。
「マキノにー」
「??」
「逢いたくて来たの。」
引き締まった口元が微かに震えて見えた。其れなりの覚悟を持って口にした名前であったろう。彼女の両手は、背後で固くドアノブを握り締めている。
「ここに来れば逢えると聞いたの。ミスター、お願い。」
「・・・。」
改めてスツールに深く座り直してから、ダヴィートはゆっくりと胸の前で腕を組んだ。店内の照明は営業時に比すれば明るく灯されている。ドアの前に佇む姿を用心深く見守りつつ暫し沈思してから、彼は微笑を左の頬へ浮かべた。
「残念ですが、何処か店をお間違えでしょうー。」
ブロンドの長髪を穏やかに左右に振って否定して見せると、透き通った水色の瞳にやや悪戯めいた微笑を添えた。
「この街には、バーが幾らもありますからね。」
この辺りで話を切り上げる心積もりを抱いたものの、来店客の方では納得できない様子である。依然としてドアを背後に死守する構えを崩そうとしない。やむなく自ら席を外し、ダヴィートは先ず彼女に着席を促した。
「どうぞ。お座りになりませんか?」
促されたスツール席に全くの無防備さで腰を下ろすなり、彼女は上半身を乗り出して懇願した。真剣な表情で見詰める瞳はなお一層冴え冴えと煌めいて、その色合いを鮮明に深くしている。
「ごまかさないで、お願い。」
膝の上で組み合わせた両の指に力が篭もった。初めて間近に見合ってみて、鳶色の瞳が顔立ちの中でアンバランスに大き過ぎる事にダヴィートはふと気付いた。
「『セレム』を探して此処まで来たの。」
「??・・・。」
開店準備のルーティンを始めるべくバーテンダーのボリスが何気もなくドアを開いてから、その場に足を留めた。既に営業用の正装で、タイを小洒落たスタイルに巻いたシャツ姿である。彼の懸念を察したダヴィートは気軽な微笑を浮かべて見せると、気に掛けるなと云う表情で目配せを送った。
「気にせず始めてくれ。こちらのレディは人を探しておいでらしい。」
了解した旨を無言で頷いて返すと、ボリスは平素通りの沈着さで先ずカウンター内の準備作業に取り掛かった。常より口数は少ないが、信頼に足る人物である。
「取り次いでくれるまで、此処から動かないー。」
彼女は椅子に座り直しながら、改めて思い詰めた眼差しで見上げた。その視線を遮るようにカウンターから離れると、ダヴィートは両手を腰ポケットに虚ろに押し込んで横顔を向けた。
「ーその男を、もしも私が知っていたとして・・ どんな用件があるんです??」
「・・・・」
暫し沈黙した後、彼女は声を抑えて呟いた。
「逢いたいの。それだけ。ー彼を愛してるの。」
「ー・・・。」
幅の広い肩を小さくすくめて見せてから、ダヴィートは溜息混じりに苦笑を漏らした。
「実に困ったレディだ。」
言い置くとカウンターの中へ入り、彼はこちらへ背を向けて上着の内ポケットから携帯電話を取り出した。低い声で何事か短い通話のやり取りを行った後、振り向いた表情は様変わりして厳しかった。カウンター奥のドアの方へ視線を送ると、手招きをして見せた。
「ーいらっしゃい。」
忽ち、透明な羽根を備えているかの軽やかな足取りで彼女はカウンターを潜った。店の裏口となっているらしく、ダヴィートが開いたドアの向こうは そろそろ暮れ掛かる街の裏路地である。促されるままドアの外へ出るのを一旦は躊躇って足を留めたのを、彼は苦笑と共に宥めてみせた。
「まさか、ここから追い出したりしませんよ。」
自らも外に出て後ろ手にドアを閉めると、螺旋状の外階段へと彼女を誘って登り始めた。夜の装飾を始めた街灯の煌めきが、未だぼんやりと残る薄闇の狭間で取り取りの色合いに滲んでいる。街の喧噪はこの階段からは遠く遥かに響いて、様々な賑わいの響きが暮れなずむ夕空を舞って聴こえて来る。日没に伴い、気温は随分と下がって感ぜられた。頬を過ぎる微風がひんやりと冷たい。ステップを登り切った先に、一枚のドアが現れた。背後の訪問客を制止すると、ダヴィートはノックを施して室内からの反応に注意を傾けた。暫し沈黙した後、内側からゆっくりとドアが開かれた。滞在者の姿は外から伺う事ができない。何事か低く話し合う男の声が聞こえて来る。
「・・・・。」
やがて振り向いたダヴィートが、ドアの前に隙間を作りながら無言で入室を促した。
「ー!!」
さながら舞い降りた天使の足取りで、彼女は最後のステップを駆け登った。ドアを潜るや、照明を落としたワンルームの室内の様子だけが先ず飛び込んで来た。簡素なテーブルと椅子、ベッド、ルームランプ、二つの窓にはブラインドが降ろされている。室内からは仄かな人の気配が感じ取られた。
「マキノー?」
期待と緊張で激しく乱れ打つ鼓動が声を震わせた。探し求め続けた名を反射的に呼んだ時、背後から力強い両腕が不意に彼女の腰を抱き寄せた。同時に、外側からドアは静かに閉じられた。
「ネスリーネ。なぜ来たー?」
紛れ無い牧野の声が、彼女の耳元で響いた。敏捷に向き直りざま男の面差しを確かめようと、彼女は牧野の胸へ懸命に縋り付いた。地上にたった一人の、その男に違いなかった。
「やっと逢えたー!マキノ。」
忘れ得ぬ温もりの中に自らの全てを預け、牧野の存在を確かめんと必死に顔を埋めようとする。
今再び唐突に、まったく無防備に飛び込んで来た女の愛らしさを、牧野は否応もなく指先に辿り始めている。思いも掛けない愛おしさのあまり、無心に縋る手を振り解く事が叶わない。この華奢な身体一つで如何にして自分の居場所までを手繰り当てたのかー。懐かしい筋肉の感触が彼女の全身を受け止め、次第に壊れるほど強く抱き締めた。
「あの日からずっと探していたの、貴方を。」
「ネスリーネ・・・。」


六月の宵である。暮れなずむ空に低く三日月が白く昇った時分、ダヴィートの店では通常通りの賑わいを醸していた。今宵もほぼ満席の客の入りで、ピアノの響きに混じって観光客の様々な言語が店内の空間を和やかに彩っている。会話を楽しむ人々の騒めきが、流麗なメロウバラードと一体となってしめやかな波を打ち寄せ続けた。所用を済ませたダヴィートがカウンター裏のドアを外側から開いた時、スローだった曲調がアップテンポなナンバーへ変わった。この変化に呼応したかのように店内にも俄かな活況が加わり、そこ此処より朗らかな笑い声も聞かれた。賑わいに後押しされたものか、入口寄りのカウンター端の男性客がふと顔を上げた。淡い褐色の長めの前髪を無造作に掻き上げると、一つゆっくり溜息を漏らした。グラスのドリンクを飲み干した悩まし気な眼差しは、捉え所のない虚ろをぼんやり見遥かしている。とは言え、青ざめてすら見える表情に酔気はまるで感じ取れない。傍らを横切ろうとしたダヴィートを半ば遣り過ごしながら、ジャケットの内ポケットから携帯電話を取り出した。
「失礼、マスター。」
呼び止める形で声を掛けると、彼は唐突に手元の画像をかざして見せた。
「近頃、この客を見掛けなかったか?」
「ー??」
眼前に掲示された女性の姿には見覚えがあった。若干幼い印象を受けるが、先ごろ人を尋ねて店を訪れた小柄なレディと同一人物に違いなかった。
「警察の方?」
表情を変える事なく、ダヴィートは鋭い視線を男に注いで返した。この瞬間、二名の狭間にのみ俄かな緊張が生じた。周囲では引き続き、ピアニストの指先が巧みに弾き出すメロディとリズムが活発に満たしている。
「いや・・個人的に探しているだけだ。」
携帯をしまいながら男が呟いた。一息、間を置いてからダヴィートは口の端へ軽妙な微笑を浮かべてみせた。
「ーさあ・・・記憶に無いな。美人の事は忘れない主義なんだが。」
「・・・。」
男の眼差しが一度強い煌めきを見せたが、次第に輝きを失い やがて静かに沈黙した。
「ー事情は明かせないが、婚約者を探している。」
「ほう?」
ダヴィートは腕組みをすると、明らかな落胆の様子を隠さない男の表情を覗き込んだ。40代前半ほどの年齢か、伏し目がちが印象的な瞳に独特の深い憂いが宿っている。どこか青年めいた繊細さが、実年齢に比すれば若々しい雰囲気を醸し出しているように感ぜられた。
「ー残念だが、役に立てなくて済まない。」
「・・・」
ダヴィートの反応に無言で精算を済ませると、男は名乗る事もせずに店を去って行った。
















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