第1話  RESONATER

文字数 11,639文字

 男がタクシーから降り立ったのは、東京の時刻で16時を廻った頃合いであった。
12月最初の週末は あいにくの曇天で、この年末では一番の冷え込みとなった。無意識のうちに上質なブラックギャバジンのコートの襟元を やや引き合わせつつ、男は 眼前に建つマンションを仰いだ。七階建ての中規模な建築で、最上階のみ部屋数が少なく 頂点へスロープを被せたかの外観となっている。灰褐色の外壁には 彩度のくすみが拡がり、全体に陰鬱な雰囲気を醸し出して 築年の経過を顕らさまに露呈していた。
「 ・・・・・ 」
繁華な駅前から さほどは遠ざからない、雑多な建築が密集した角地の路上で 男は取り出した携帯から何処かへの通話を試みた。街路に面したコンビニや飲食店、背後を流れゆく車のヘッドライトは 既に点され始めている。何気の無い習性であるのか、長身の男は 俯き加減に形の好い顎を いくぶん喉元へと引いて応答を待った。東洋系の風貌には見えず、或いは 欧米人種でも無さそうに見受けられた。天然の癖毛らしい豊かな黒髪で ごく無造作に面長な輪郭を覆わせ、前髪は艶やかに その額をすっかり隠している。いかにも 寸分の隙も持ち合わせ無さげな容姿の重厚さとは印象を異にする、さながら半眼に近い眼差しを 男は車道の方へ向けた。年の瀬らしい慌ただしさで足早に往来する雑踏の傍らに在りなから、この男の周囲のみ刻が自在に揺蕩うかのごとく 表情を何ら変えぬままで 男は緩やかに首を傾げた。
「 ・・・・・。」
携帯を内ポケットへ納めた後、やはり考え事をする際の癖なのか 程よく手入れの行き届いた顎髭を右手で撫でて沈思すると、俄かに俊敏な身のこなしで男はエントランスへと向かった。

エレベーターで五階へ昇り、男は通路奥の角部屋の前に立った。インターホンを二度鳴らしたが、室内よりの反応は無い。ドアノブへ慎重に手を伸べ、施錠の解かれている事を男は確認した。
「 ・・・ ー。」
無表情なうちにも 些かの鋭い苛立ちを走らせ、寡黙な溜息とともに 男は玄関のドアを音立てず開いた。
早い黄昏の忍び寄る室内に灯された灯りは無く、暖房器具を使用した温もりや 人の気配は感ぜられない。しばし室内を見渡してから、玄関で靴を脱ぐ事もなく 男は足を踏み入れた。
単身者向けの1LDKで、ベランダに面したリビングには キッチンの窓越しからも名残りの明るさがぼんやり差している。部屋の居住者が外出した後、すでに其れなりの時間が経過しているらしい気配を 男は忽ちのうちに察した。外気と さほどの温度差を感じない 室内に停滞した空気を一つ吸い込んで奥の部屋へ向かうと、こちらの窓はカーテンが閉じられていた。
「 ・・・・ ??」
ほぼ明るさを失った部屋の真ん中あたりで歩を留め、男は周囲の様子へと視線を巡らせた。住居者はおそらく 女であろう。締め切られた出窓のカーテンは ピンクに小花のプリント柄で、壁際に設けられたシングルベッドの寝具は パステルグリーンのアラベスクてある。寝具に乱れは無かった。
「 ー ・・!!」
上掛けと毛布、敷布のすべてを一枚ずつ片手で取り上げては床へ投げ棄て終え、男は やや怒気を帯びた気配で 最後のマットレスを靴先で粗暴に蹴り上げた。その後、徐ろにポケットから取り出したハンディライトを点灯させると、露わとなったベッドのスチール越しに 床面の残留物等を克明に確認し始めた。この間にも 冬の日没は切なげに週末の世界へ擦り寄って、照明を伴わない室内は 一枚の不明瞭な陰影のみの画像へと封じ込められつつあった。
部屋に備え付けのワードローブ内の状況を確認し終えてから、男は リビングに置かれて在るローテーブルのガラス天板の上へ腰を降ろした。そして 半顔のまま、レースのカーテンを透かして空を見遣った。侵入の目的と思しき拾得物は何ら得られぬ様子ながらも、その厚みのある掌に 一つの物を持ち出した様であった。煌めく街の燈の点描を際立たせる背景色の薄闇へと しだいに埋もれゆく大きな黒い背を、男は 少しく俯き加減にかがめた。
「 ネスリーネ・・・ 」
屈強らしい指の狭間で 訳もなく裂かれて解けそうなシフォンのキャミソールに、男は ふと顔を埋め フレグランスの残り馨を夢中で手繰った。やがて記憶の中枢で 己れの求めている女の香りである事を確かめ得ると、深い溜息とともに 男はシフォンへ唇を押し当てた。
「 ネスリーネ ー!!」
時を隔てて叶えた最愛の恋人との逢瀬を愛しむかのごとく、男は唯一人 空虚な室内で、女の残した微かな皮膚の温もりの名残りへと口づけを重ねた。


 「 !? ーいかんっ、寝過ごした!」
枕元のデジタル液晶が午前7時の10分ほど前を示しているのを目にして、悠介は 反射的に寝台の上へ起き上がった。同時に、出勤先の私立大学までの経路と到着までに要する時間のプランの数種を 短時間の順に脳内がソートした。着替え次第 出発した後の最寄り駅までの最短ルートを想定しつつ寝台を降りてから、ようやく 彼は室内の明るさに違和感を覚えた。
「 ??・・・・。」
身動ぎを止め、クリームベージュのカーテンが朝陽を宿らせている窓辺の方を悠介は見遣った。過ごし慣れた自宅マンションの寝室とは、明らかに様子が異なっている。生前 美穂のお気に入りだったチェスナットの暖色とは違う、無機質なオフホワイトの壁面が家具の無い室内を囲んでいる。
「 ・・・・ああ。」
ふと 気の抜けた声を漏らした自分自身の反応へ、彼は 心から込み上げる自嘲の笑みに破顔しながら 前髪を掻き上げた。同様に、奇妙なほど現実感を伴う錯覚に捉われて 寝起き様に慌てた朝の記憶が 少なくとも先に2回はある。にも関わらず 未だ経験を学習し切れていないらしい己れの精神に対して、悠介は 呆れた口調で皮肉な自問を試みてみた。
「 さすがにそろそろー 療養生活に順応を始めても好い頃合いじゃないかね?? 佐野くん 」
二ヶ月弱の入院治療の後、12月からは 本来の勤務地でもある里中のクリニックで世話になっている。と云うのはー ある意味に於いて、悠介と同等ほどにあたる精神的な混迷を 成未が来たしていた抜き差しならぬ経緯に起因していた。10月末日を以って 株式会社ネオ ソルヴィングに於ける約9年間の勤務に正式なピリオドを打ってからは、身辺整理と里中の個別心療に日々を費やした。この間に成未が辿り着いた当面の結論は、差し当たり 悠介の社会復帰の目処が立つまでの時間を大阪の叔母宅で過ごす事であった。その為には、退院後の悠介の心身両面の療養を 最も信頼し得る里中へ託す必要があり、全てを打ち明けて彼の承諾と協力を取り付けた。
悠介がクリニックへ入室を終えた翌日、午前の新幹線で成未は東京を発った。乗車を控えた道すがら悠介の部屋を訪れたのは9時過ぎで、あいにく 曇天の厚く拡がった雲が 地上を灰褐色ひとつの色合いで閉ざしていた。
自宅から持参した着替えや身辺の小物を 個室備え付けの簡易なクローゼットへ説明しながら起き終えると、ふと 話の継ぎ穂を親娘は失い、沈黙した。
「 ・・・・ コーヒーでも飲んでくか?」
寝台横の椅子で 幾分 俯きがちに窓の外を見遣って所在の無さを紛らわせた 一人娘の横顔を、悠介は改まった想いで見つめた。そして 何か不可思議なー およそ経験のない違和感に囚われた。
ー この娘は・・ こんなに綺麗になってたんだな。ー
素直な前髪が化粧の薄い眉へ掛かる様の優しさに、さながら 初めて出逢う二十代後半の異性へ思い掛けず注意を惹かれるごとく 彼は眼を見張った。結婚した当時の美穂の面影を写してはいないが、ぽつん とした憂いを隠さず座した佇まいは 艶やかな瑞々しさを湛えていた。
「 いいよ、別にー。」
微かな笑みと共に顔を上げて返すと、成未は暫し眼差しを留めたまま 父へ伝える言葉を探した。
「 お父さん・・・ あたし、」
「 うん??」
常の癖で、悠介は立膝の上に突いた頬杖で頭部を支えながら 娘の方を見遣った。
「 あたしー 本当に酷かったね、 ・・・本当に、ごめんなさいー 」
「 ・・・・・。」
言い終えぬうち、細く傷ましい悲鳴にも似た成未の激しい嗚咽が 不意に込み上げたのを受け止めるべく、彼は寝台の縁へ身を寄せた。膝の上で硬く握り締めている左手を躊躇いがちに包んだ悠介の掌を、成未は懸命に掴んだ。こよなく愛した妻の指先とは異なる感触の 骨格の美しい若い手が、芯まで冷え切っている。
いったいー この娘が幾つの時、最後に手を取ったんだろう??
小学生の3、4年生ぐらいの頃だったろうかー 目眩を誘うまで 脳裏を瞬時に貫いた時の経過を彩る成長の記憶の中を、悠介は駆け惑った。ようやく首が座った乳児の頃から、初めて一人歩きの一歩が出た日、保育園の運動会、小学校の入学式ー 何れに於いても、しかし彼の記憶の中に於けるフォーカスの中心に在り続けていたのは あくまで美穂の姿である事を、悠介は改めて思い知った。そして、言い知れぬ罪悪感に襲われた。
俺は・・・ この娘を、本気で愛して育てたんだろうかー。
美穂に託しっぱなしのままで、真剣に向き合う事から 隠れ続けていただけなんじゃ無いのか。

「 ー俺もあの世に行くまで待っててな、お前だけを愛してるからな って、
奥さんに言ってあげて下さいよ・・・・ 」
「 そんな事が出来るくらいならー 医者なんか要らねえんだよ。」

美穂の回忌の晩、水樹が およそ彼らしからぬ 少年じみた醜態を晒して叫んだ言葉と、それ以上に 心療に携わる立場の者として在るまじき矛盾を露呈させた 自らの発言が、悠介の脳裏を過った。
結局 俺はー 身辺の、取り分けて大切な人すら誰一人、救う事も出来なかったのか。
「 済まんー 成未、済まんかった・・・・ !」
「 ・・??? お父さん??」
娘の手を強く握ったまま深く俯いた彫りの深い顔立ちを、成未は覗き込んだ。幾らか薄くなって感ぜられる父親の大きな肩が 震えている。
「 俺がー 俺が 不甲斐無いせいで・・ 済まん!本当にー。」
「 ・・・・・ 」
少し伸び過ぎた悠介の前髪に煌めく白髪を見ながら、この最も身近な異性へ忍び寄る '老い' と云うものの足音を、成未は生まれて初めて 実感を伴い目の当たりにした。
「 お母さんみたいにー 優しくしてあげれなくて、ごめんね・・ ごめんねー 」
繰り返し 首を横に振ってみせて、彼女は父親へ対する許容と愛情が希薄に過ぎていた事を 詫び続けた。


 澤村医師の義父に当たる 井上 岳氏が 娘の新居を初めて訪れたのは、同じ日の14時頃の事であった。現役時と同様 機動性に優れた人物で、訪問が可能な日時を週の中ほどに寿々へ電話で問い合わせた。折角であるから 昼食か夕食を共に摂ってほしいと提案を示したのを、何分 所用が多いから その合間に顔を見に寄るだけの事だ と、笑いながら受け流した。
調布市の自宅から愛車を走らせて向かう途中、寿々のお気に入りだった洋菓子店へ立ち寄り 数種選んで手土産用に整えたガレットを持参した。
「 お父さま、ようこそー。」
玄関脇の駐車スペースへ乗り付けて降車した井上を立ち向かえた寿々が、軽やかな声で迎えた。鎌倉市の療養施設を退所する手続きに立ち会った折以来の 娘との再会であった。
「 お越し頂いて、ありがとうございます。」
寿々の傍らに寄り添った澤村が、常通りの爽やかな微笑とともに 丁寧な会釈を見せた。
「 やあ、 澤村君 どうもー。 世話になるね。」

 ガラス越しの曇天を仰げるテラスに面したダイニングテーブルを 3人は囲んだ。暖かい紅茶とコーヒーに、数種類のタルトと井上の好むパルメザンチーズのグリッシーニ、手土産のガレットを添えた。
「 先月のうちに 一度来たかったんだがー 」
艶やかな頭髪に混じった白髪も むしろ燻した銀髪の色合いに近く、贅肉の少ない井上の知的な面差しを縁取っている。慣れた手付きで 一口大に折ったグリッシーニを心地良さげに味わいながら、彼は口の端へ 少しく苦笑を浮かべてみせた。
「 如何せん、出向の身分は 何かと融通が利かせ辛くてね。」
開放的な設計のリビングに揺蕩う遅い午後の刻を セレクトされたラヴェルの楽曲が満たしていたが、イ短調のヴァイオリンソナタが この折しも、会話に彩りを添えた。
長きに及んだ療養生活以外の日常の風景の内に ようやく対面が叶った娘へ、井上は 親娘の間の習慣的な目配せを控え目に送った。
「 お変わり無さそうでー 安心しました。」
細い指先で携えたティーカップの向こうから、寿々は 彩度の明るい微笑を綻ばせた。肩を過ぎていた長さの黒髪を、首周りへ添うミディアムに変えたせいもあってなのか、井上は 娘が若々しさを取り戻した印象を受けた。
「 君こそ。顔色が良いようで 何よりだったよ。」
清潔に手入れの行き届いた室内を、微かなアロマの香が穏やかに包み込んでいる。斜め向かいの席で 愛用らしいコーヒーマグを両の掌で頂いた澤村を視界の片方で眺めつつ、井上は 些かの疲労の翳りを 彼の眼差しに見て取った。彼の実兄である 牧野和智の突然の失踪に纏わる警察捜査等の経過については、逐時 澤村から詳しい報告を聞いていた。甚だ心外ではあるものの、牧野の国内外への逃亡幇助に関する嫌疑すら想定されての上で、澤村はこの日迄に二度 詳細な聞き取りの協力を依頼されている。しかしながら無論の事、兄の牧野からの連絡は 一切途絶えたままであった。何かしらの接触が試みられた折には、即刻 通報するべく、所轄署より通達を受けている。
「 来年 気候の良い季節を選んで、新婚旅行しておくと好い。」
椅子のアームへ預けた左肘で頬杖を突いた視線を、井上は緩やかに 中庭へと遊ばせた。真四角に切り取られた初冬の空は 不透明に白く澱んで、忍び寄る本格的な寒波の訪れを予感させていた。
「 まあ、お父さまー 」
少女の頃と変わらぬ 父を見上げて話し掛ける際の癖で、寿々は その整った顔立ちを ほんの少し右側へ傾けた。頬の輪郭へ はらりと寄り添った髪を 左の指で真白な耳の後ろへ流すと、彼女は晴れやかな笑みを見せた。
「 泰弘さんはお忙しいんですもの。一緒に居られるだけで、もう充分ですわ。」
「 本当にー 行き届かない事ばかりで 」
テーブルの上に置いた両手の指を真っ直ぐに伸べ、澤村は 真摯な眼差しを義父へ注いだ。井上は ふと、言い知れぬ切なさが込み上げるのを禁じ得なかったー。
愛娘の何気ない癖と違わぬまでに、極めて不幸であった養子時代の澤村の姿を 彼は克明に記憶している。およそ狂気染みた逆境の只中に幾度となく出逢った、何者にも貶めらる事を嫌い続ける 澤村の清冽な魂魄の有り様に、彼は改めて 心打たれる思いがした。
「 ・・ 申し訳ありません。」
深々と首べを垂れ 謝意を示した向かい側で、井上は 後頭部に両腕を預けながら 後ろへ大きく体を逸らした。
「 いや、なにー。君には本当に感謝しているよ。娘を幸せにしてくれているのは 見れば判る。」
最愛の夫となった澤村の傍らで、寿々は 切れの長い瞳に美しく力を込めた。俯きがちのまま 義父へ返すべき言葉を 澤村が見つけあぐねている気配を察し、さながら微風にそよぐ純白のフリージアの佇まいで 彼女は微笑んでみせた。
「 ええ、お父様ー おかげ様で、わたし とても幸せですの。」
張りのある、特徴的なバリトン声域の笑い声を響かせると 井上は次のグリッシーニを手に取った。
「 結構なことだー。」
口の中へ放ろうとした手をふと停めて、彼は 少年めいた人懐こさを醸す瞳で 新婚の夫妻を見遣った。彼らの囲むテーブルとガラス越しに隔てられた外界では、何時しか 風が強くなって来ているらしい。テラスのデッキに置かれた大型のポリシャスが、健やかに茂らせている細やかなリーフたちを 少し肌寒そうに踊らせている。
「 君が中学生くらいの頃か・・? 週末になると 彼をうちへ連れ出したがったから、差し障りのない口実を幾つも見つけるのに 心を砕いたものだ。」
「 ほんとにー お父様にばかり頼っていました。」
彼ら親子のみが共有し得る 苛酷に過ぎた記憶の後ろ影は、永き刻を経て、今日(こんにち)穏やかな週末の午後に彼らが過ごす暖かな歓談の様を、遙かなる静止画像の向こうで見詰めていた。
ぜひ夕食を一緒に、と勧める二人へ謝意を述べつつ 井上は ごく早めの機を選んで腰を上げた。見送りに立った澤村の肩に 自車のドア前で然りげなく腕を伸べると、彼は気軽な口調で告げた。
「 ーお兄さんの件で何かあったら、先ず私に伝えてくれないか。」
「 ーありがとうございます。」
俄かに表情を硬くした義息子の横顔へ、井上は情の深い微笑を湛えて いと間を乞う挨拶に労いの言葉を添えた。
「 君さえ構わんなら、私を親と思って頼ってくれ給えよ。」


 都内城南地区所轄警備課の 久保 恭は、家宅捜査中の手を ふと留めて、姿勢を低く屈み込んだ。
「 ・・・・・。」
改めて 室内を一渡り見渡した後で、彼は徐ろに 上着の内ポケットから複数枚の紙片を取り出した。約2ヶ月前 この雇用促進団地 一室より失踪した 牧野 和智が室内に残した遺留物のリストと、玄関の片隅で採取された 極く微量な残留物についての鑑識捜査の報告書であった。報告によれば、残留物は煙草の葉であり、葉の成分を熟成発酵させた黒色の葉であると断定されている。久保の視点はいま、四角な室内の中央あたりー 玄関脇のキッチン部分と 障子で仕切られた二つの和室が見渡せる位置にあった。A4サイズのリスト2枚に綴られた残留物の 凡その配置場所と内容を目視で追いながら、彼はむしろ 自身の内なる感覚の動向へ神経を研いでいた。今日までに幾度となく捜査で訪れている室内である。捜査の手掛かりが行き詰まった場合には、何度でも出発点へ立ち戻り 既製された概念を破棄した取り組みを試みるのを信条としている。
久保の所属する警備課が 牧野 和智と云う名の 深刻な記憶障害を負った男の周辺の捜査を開始したのは、この年の5月であった。重要な取締りの対象として その動向が長きに亘り注視され続けて来た、とある大規模な極左団体と牧野との関連の立証こそが、最大の主旨であり 命題でもあった。
「 ・・採取地点は室内で無く、玄関のコンクリート ー。」
鑑識報告書の中の資料写真を眼前へ掲げ、彼は一人呟きつつ ゆっくりと視点を玄関へ向けた。捜査着手以降、同署刑事課の現役警官2名が 捜査中に拳銃を使用した襲撃に遭遇し 負傷する重大事件をはじめ、関連性が疑われる数件の事件発生を赦してしまっていた。
「 コンクリート上の ドアに近い一角 ー。」
同じ姿勢を保ったまま上り口へ寄ると、久保は真正面から 褪せた鈍色がいかにも殺風景な鉄扉を見上げた。ドアノブの位置は向かって右側であって、報告に拠れば 採取された微量の煙草葉が泥砂に混じっていたのは 反対側の床の隅である。失踪以前に 極めて周到な清掃と現状回復を施したとみられる牧野と云う男が、殊更な神経を配って 剥き出しの玄関の床を掃き清めたらしい経緯は 容易に察せられた。其れは なぜか。 ー出立前、おそらくは入念に 床に遺された残留物が無い事を牧野に確認させた人物とは、一体誰なのか。
「 此処で揉み合った痕跡や、血痕を拭った痕跡も無いー。」
飽くまで室内へは上げず、1メートル弱四方ほどに限られた狭小な空間内で 牧野は来訪者の足を留めさせた、と推定された。煙草葉の様態からは、一般的な煙草に比べて 芳香度と嗜好性の高い銘柄の残留葉である事は判明している。が、稀少な手掛かりも 現時点に於いては 此処までのストーリーしか語ってはいない。部屋が面する通路上に同様の残留物は発見されず、ごく申し訳程度の管理下に施設されている団地内の共用部分からも 何も挙がっていなかった。
( ・・来やがるんだなぁ、結局。)
駐車場の方角より此方へと コンクリートの通路を辿る特徴的な靴音を右の耳の遠くに捉えると、久保は その贅肉の無い口元を苦笑とともに綻ばせた。同僚で後輩にあたる 長橋 将臣が 別件の捜査中にも関わらず、駆け付けて来た様子であった。身長に比すれば いささか狭い歩幅の、鋭敏過ぎるまでに几帳面な 均一な速度を頑なに崩さぬ聞き慣れた靴音は、程もなくドアの前で歩を止めた。一息の後、同様に 律儀な間合いで小刻みに三つ鉄扉にくれたノックへ呼応して、久保は其方を見も遣らず声を発した。
「 ーおぉ、開いてるぞ。」
「 失礼します。」
慎重な速度でドアを開けながら、長橋が細面の顔を覗かせた。外気の上昇が 午前中の気温のままで頭打ちになっているらしい。どちらかと言えば色白な頬の色味が、寒気を帯びて 少しく くすんで映った。
「 可いのか? お前ー 」
久保が玄関周辺を検分していたらしいのを察し ドアを通路側へ大きく開くと、長橋は同様に屈み込んで 視線をコンクリートへと落とした。久保よりは2学年下だが、本来 童顔と呼んで差し支えのない端正な顔立ちのせいもあってか 5、6ほども歳若に見える佇まいの雰囲気は、学生時代から変わらない。捜査用に着装した手袋の指先で 軽量の眼鏡フレームを正しながら、彼はごく微かな苦笑の笑みを 口の端へ醸してみせた。その眼差しは嬉し気である。
「 可いも何もー 久保さんこそ、また休出じゃないですか。」
まあ、な。 一言呟いて、厚みのある背を壁へ添わせると 久保は膝の上へ資料の紙片を無造作に放った。ドアと敷居の狭間に居る長橋と ちょうど差し向かった位置より、彼は一つの問いを投げ掛けた。
「 俺らは喫煙せんがー もしも この狭いスペース内で煙草を吸うとしたら、お前なら どんな姿勢になる??」
黒い煙草葉が採取された一角を凝視してから、長橋は 音立てずドアを閉めて玄関の中央に立った。
「 おそらくは 2、3分の立ち話で済む要件でないから、来訪者は 深刻な会話の途中で気休めに喫煙したくなったー。」
「 或いは、そうとも推察できる。」
「 しゃがむ姿勢では一般には寛ぎにくいから、 已むを得ず 胡座を掻くかー 」
鋭敏な身動ぎで 不意にその場に姿勢を低く屈めてみせ、次には 壁面へ背を寄せて久保と視線を並べた。
「 壁にもたれて、可能な限り足を伸ばすかー でしょうか。」
この部屋の両隣と上階の部屋は ともに空室でもあり、中規模の集合住宅でありながら 周囲を取り巻く空気は 寂(しん)と鎮まって淋しい。
「 お前、身長どの位あったっけ?」
狭小なコンクリートの四角の上で 試しに対角線の形へ両脚を投げ出させてみて、久保は確かめた。
「 180弱、くらいですか。」
長橋の足元近くへ体を移動させると、久保は 自身の背面方向へ1メートルほど下がってみせた。
「 訪問者が打ち解けん相手だとしてー 牧野が距離を保つにしても、大体はこの辺りか。」
「 ・・・・。」
彼らは暫しの間 無言のまま対面して、互いの感覚が示した率直な反応について確かめ合った。
「 緊張を要する会話であるなら、来訪者はやはりドアノブに手の届くこの辺りで 逃走路も確保しておきたいところでしょう。」
揃えて並べた黒靴の爪先が 室内の床面へ届かぬよう、律儀な姿勢を保持したままで 長橋は鋭い視線を投げ掛けた。久保らが追い続けている組織に関する夥しい量の情報に基づき、この部屋を訪れた可能性のある人物のリストアップが行われた。個別の捜査は続行中であって、現在のところ 有力な成果は得られていない。
「 失踪当日に 弟の澤村医師を職場まで訪ねているのはー 今生の別れくらいな覚悟なんだろう。」
徐ろに立ち上がり、久保は あくまで沈着な表情を もう一度、寒々しい室内へと向けた。同じくして立ち上がった長橋が、右手を伸べ 捜査資料の紙片ひと通りを無言で受け取った。
「 ー例の、和室に遺留されていた 牧野の私物の紙片ですが 」
「 おお。何か出て来たか?」
失踪時、室内の卓上に さながら置き手紙のごとく、色褪せて劣化の著しい縦18センチ横12センチほどの紙片が置かれてあった。それは即ち、牧野と云うおよそ謎に満ち満ちた人物が 本年3月末、頭部重傷に伴う意識混濁に拠り市中にて救急搬送された折 唯一身に付けていた私物でもあった。手にした資料を 今更ながらに見るともなく虚しく捲りつつ、長橋は俄かに表情を硬くした。
無表情を装ってみせる割合には さも不服げな感情の機微が 手に取れるほど素直に滲んでしまう後輩の様を、久保は心中で 少しく愉しんでも居る。
「 刑事課の津久井巡査長から、詳しい報告がありました。」
「 なんでまた、津久井なんだー?」
捲り終えた資料の四隅を 潔癖な手付きで整え終えてから、長橋は 眼鏡フレームの中央を指先で擦り上げた。
「 ー我々が動く以前に、極秘裏に牧野の生い立ちの詳細を調べたそうで・・ ただし、飽くまでも元宮さんの指示では無く です。」
「 ふん、 ・・それで??」
壁面に背を寄せ ネクタイの結び目をやや緩めると、込み上げる苦笑を噛み締めて 久保は左手を腰ポケットへ突っ込んだ。
牧野兄弟が幼少時に預けられていた 函館市内の児童養護施設のあらまし、弟の現澤村医師のみが東京都下の里親宅へ養子縁組の成立に基づき引き取られた経緯、加えて 思春期を施設で一人過ごした牧野が 件(くだん)の紙片と出会うに至った いきさつの詳細について、久保は長橋からの報告に耳を傾けた。
「 ー3月に搬送された際ですら、肌身に付けていた 例えるなら護り替わりの品を、」
聞き終えて、彼は 紙片が置き去られてあったと云う 奥の和室のテーブルを見遣った。今日 久保がベランダの再見を行ったため、サッシに掛けられたカーテンは開かれてある。初冬の鈍い陽が、幾重にも重なり合って遮る白雲のごく微細な隙間より、淡淡と室内を暖めている。
「 此れ見よがしに、捨てて行ったー 」
「 ええ。」
ー 失踪当日の朝、牧野が 自身の立てた予定に則り 沈着周到に身辺の始末を済ませてゆく様を、刑事らは同時に 空虚な室内空間の向こう側で追い続けた。この 極めて数奇な人生を課せられた男が 如何なる心情を託し、彼の半生を見守り続けて来た 謂わば己れの心身の一部を放棄したのか。

ー「 お前は、彼女を幸せにする事だけ考えてろ。俺は何とでもなる。」ー
去り際に澤村の勤務先を訪ねた牧野が言い置いたのは、弟と その妻となった掛け替えのない女性の行手を気遣う言葉のみであった。
ー「 二人きりの・・・ 兄弟ですから。」ー
今年6月、牧野が入院治療中の個室病室で何者かの襲撃を受けた際ー 聴き取りで対峙した その鮮明な面影を、長橋と久保は脳裏に辿っている。当日、梅雨の晴れ間の空の輝きとは真逆の対を為すごとき、明ける刻を知らぬ 常闇(とこやみ)の漆黒の水面を湛えた牧野の佇まいは、忘れ難い印象を彼らに灼き付けた。

子どもの頃、親から暴力を受けていた。
弟と二人でいたが、途中で弟はどこかへ連れて行かれた。
海の近くで暮らしていた。
人がたくさん集まっている所にいた。
格闘のような訓練をしていた。
大きくて真っ暗な所に閉じ込められた。
暴力を受け、死んでしまうと感じた。

当日、敢えて牧野へ記述を要請した 残された記憶の断片たちを綴った自筆の覚え書きのコピーを、長橋は手帳内に保管して携帯している。取り出した手帳の巻末を掌の中で開くと、彼は 'そら'で筆跡を似せて擬え得るほどに 熟視して来た牧野の特徴的な字体を、改めて目で追った。
達筆とは言い難いが 強い筆圧を以って記された角張った文字が、やや 癇性な気配で 均一に並んでいる。漢字の 'ハネ' や '払い' の部分に、一種独特な、おそらくは この男に特有の律儀な勁さが込められて在った。
「 いずれにせよ 」
壁際から体を起こして襟元を引き締めつつ、久保は 腕時計の示す時刻を確認した。
「 深谷の組織が安泰である限りは、牧野に逃げ場が無い事だけは確かだろうー。」
いい加減 持ち場へ戻れよ と、苦笑を浮かべた眼差しで覗き込んでから、彼は長橋の手元から資料の紙片を掴み取った。






















 
















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