二十三

文字数 3,929文字

 新宿歌舞伎町にある孫小陽の事務所。徐子仙がいつものように出勤するのを見計らったようにデスクの電話が鳴った。
「孫小陽ハ今、ドコニ居ル? 我々ガ見ツケルノモ時間ノ問題ダ。今、オ前ガ話セバ、オ前ノ命ダケハ見逃シテヤル」
「アナタ誰? 警察ニ通報スルワヨ」
 受話器の向こうで笑い声がする。
「日本ノ警察? オ前達ガ呼ベルノカ? 目黒ノ画商ニ贋作ヲ掴マセタノハ、オ前達ノ方ダロウ? ナア、徐サンヨ」
 すでに名前が知られていることに頭の中が白くなった。下腹に重たいものを感じ、息が詰まった。
「ドウシテ、私ノ名前ヲ?」
 男が鼻を鳴らした。
「目黒ノ画商ガドウナッタカ、知ッテルダロウ? アンタモ早死ニシタクナケレバ、孫小陽ノ居場所ヲ吐ケ」
 徐子仙が言葉を失った。
「少シ時間ヲヤロウ、マタ連絡スル」
 通話が一方的に切れた。椅子に座っていられず、すぐにでも孫小陽が隠れているアトリエに向かいたかったが、今動いては居場所を教えるようなものだ。立ち上がり、事務所の窓のブラインドを降ろし、玄関を施錠した。そしてすぐに電話をかけた。通話の相手は横浜中華街にある台湾料理店『万華楼』だった。台北、白蓮幇の郭正元の店である。孫小陽から最悪の事態に陥った時は、助けを求めるように言われていた。震える指でメモした番号を押す。十回呼び出して諦めかけた時、通じた。相手は名乗らなかった。きっと店ではなく直通電話なのだろう。咄嗟に声が出なかった。頭の中が白く焼け、用意していたはずの言葉が消えた。
「ア、アノ、私、孫小陽ノ遣イノ者。今、先生、大変ナコトニナッテマス、オ、オ願イ助ケテ!」
 しばらく間があり、受話器の向こうで話し声がした。北京語だった。人が入れ替わる気配がした。
「アンタノ名前ハ?」
 男の声だった。
「徐デス、徐子仙。孫小陽ノ秘書ヲシテイマス。先生ハ今、奴ラニ命、狙ワレテマス、助ケテクダサイ」
「奴ラトハ?」
「本国ノ組織ノ連中デス。今、東京ニ来テマス」
「ソレデ、孫サンハ今ドコニ?」
「先生ハ今、歌舞伎町ニイマス」
「ワカッタ。スグニ人ヲヤルカラ、詳シイ話ハ車ノ中デ孫サン本人カラ聞ク。徐サン、アンタニハ申シ訳ナイガ、私ラガ着クマデソコヲ動カナイデ」
「ワカリマシタ、トニカク急イデ」
 通話がブツリと切れた。

 一時間という時間がこんなにも長いと感じられたのは初めてだった。カーテンの隙間から通りを覗った。疑えば通行人すら怪しいと思えてくる。ホスト風の男、サラリーマン風の男、作業着を着た者もいる。車も数台停車している。ハザードランプが点滅する音が聞こえてくるようだ。カーテンをサッと閉めた。一時間程して再び電話が鳴った。
「徐サンカ? 今、ビルノ下ニ車ヲ待機サセテイル。降リテ来レルカ?」
「スグ行キマス」
 社内の必要な書類を鞄に詰め、エレベーターに飛び込んだ。ドアの閉まりが遅く感じられて、何度もボタンを叩いた。ビルの前に駆け出すと、黒いセダンが二台停まっていた。前の車両に二名、後ろの車両に二名。合計四名の男がいた。一人が前の車から降りて、後部座席の扉を開けた。
「先生ハ、スグ近クニ居ルワ」
 サングラスの男が周囲を見渡し、ドライバーの男に車を出すように指示した。

 サワムラジュンが事務所前に黒塗りの車が停まるのを、通りを挟んだビルの陰から見ていた。今飛び出しては車の正面から前方を覗っている男に見られてしまう。車の背後に回って職務質問をかけるべきか迷った。内密の捜査ということもあり応援は呼べない。するとビルから女が飛び出し、一瞬のうちに車の中に消えた。慌てる気持ちを抑えて通りすがりのサラリーマンを装って近づいた。走って近づけば撃たれるとわかっていた。しかし車はサワムラよりも先に動き出した。走り去る車のナンバーを記憶し、スモークガラスの中の人数を確認した。そして緊急配備の無線を入れた。まだ何も起こってはいない。だが、これから何かが起きようとしている。喉が渇き、無線を持つ手が震えた。歌舞伎町自体が動いているような気配を感じる。黒塗りの車が走り去ったというだけなのに、辺りが重苦しい空気に包まれていた。

 徐子仙を乗せた車が狭い路地を幾つか曲がり、歌舞伎町の山本ビルの前に停車した。一階にパブが数軒入っている歌舞伎町では見慣れた雑居ビルである。車がハザードランプを出した。徐が辺りを気にしながら降り、後部座席の扉を閉めた。そして、サッとビルに飛び込んだ。いつもなら必ず一度上階に上がってからエレベーターを呼ぶが、今は一分一秒が惜しい。早く孫小陽に危機を伝え、台湾の人たちと共に安全な場所へ逃げてほしい。
 表向き個室型風俗店となっている地下一階に降りると、マネージャーをしている初老の男がカウンターを濡れた雑巾で拭いていた。
「先生ハ?」
 孫小陽という名前を口にする者に対しては、居場所は教えない。「先生」という愛称を知る者以外は身内ではないのだ。
「徐サン、ソンナニ慌テテ、ドウシタンデス?」
「今ハ、説明シテル暇ハナイノ、急イデ」
 鍵を受け取り、個室が並ぶ通路の奥へと入って行った。地下二階に降りるには、通路奥の事務所に入る鍵と、その奥の地下二階へと通じる階段の扉を開ける暗証番号が必要である。普段はコバヤシという男だけが地下に閉じこもり、贋作を描いている。こんな危険なことを自らするなんてどうかしている。でも先生に拾ってもらわなければ、今頃は蛇頭という連中によって家族も自分もこの世にはいなかっただろう。同胞によって利用され死んで行った多くの仲間を思うと、次第に本国の組織への恨みが込み上げてくる。だから先生が組織の命令に背いて密かに贋作を売り捌くことにも協力したし、台湾の郭正元との仲を深めて行くことにも違和感を持たなかった。結果として今、先生と共に本国の組織に追われ、台湾の組織に助けられた。先生には以前から先見の明があると思っていた。先生について行けばいつか幸せになれる。そう信じて徐子仙は地下への扉を開けた。
「ソロソロ君ガ来ル頃ダト思ッテイタヨ」
 孫小陽が頬を緩めた。外出用のジャケットを着て、僅かだが荷がまとめられている。その中に白い布を被せられたキャンバスが目に入った。普段は汚らしい服を着て、髪や髭が伸び放題だったコバヤシも髪を短く切り、彫りの深い骨張った顔は綺麗に髭が剃られてもいた。
「先生、イツ知ッタンデスカ?」
 それには微笑するだけで答えなかった。ハダケンゾウのギャラリーに残された贋作が、紅い月の絵だったと報道された時にピンと来た。元々、贋作ビジネスを企てたのは趙大海だった。ヨーロッパで名画を盗み、贋作を作らせていたのである。
「徐サン、危険ナ目ニ遭ワセテ済マナカッタネ」
 徐子仙が首を横に振った。
「サア、コバヤシ、オ迎エガ来タヨウダ、行クゾ」
 コバヤシは相変わらず誰とも目を合わせず、孫小陽に促がされ重たそうな腰を上げた。徐子仙がまとめられた荷物を持とうと歩み寄ると、
「徐サン、君ハ残リナサイ。奴ラノ狙イハコノ私ダ」
 思わず顔を上げた。
「先生、ソンナ、私モ一緒ニ」
「君ハモウ充分働イテクレタ。少シダガ退職金モ用意シテアル。ソレヲ持ッテ日本ニ残リナサイ」
「先生、私、覚悟ヲ決メテココニ来タンデス」
「謝謝、君ノ性格ナラ、ソウスルト思ッタヨ。ダガネ徐サン、コレヨリ先ハ棘ノ道ダ。我々ハ台湾ニ行キ、日本ニハ二度ト戻レナイダロウ。我々ヲ追ッテイル男ハ非常ニ危険ナ男ナノダヨ。ダガ、奴ラノ狙イハ私デアッテ君ジャナイ。君ガココニ残レバ、君ノ命ダケハ救ッテヤレルト思ウ」
 徐子仙が下を向いた。目から涙が溢れ頬を伝った。
「金ヲ持ッテ故郷ニ帰ルトイイ。年老イタ君ノ両親ガ喜ブダロウ」
「先生」
 その場に泣き崩れた。
「コバヤシ、行クゾ」
 二人が地下室を出て行った。しかし、しばらく経ってから先生が愛用していた金色のライターを忘れていることに気付いた。以前、先生に尋ねたことがある。
「先生、何故イツモ同ジライターナンデスカ?」
 孫小陽はただ微笑するばかりで何も答えなかった。
「先生ハ、先生ナンデスカラ、モット高ソウナライター使ッテクダサイ」
 それが孫小陽という人なのだと改めて思った。徐子仙がライターを手に地下室の階段を駆け上がった。まだ間に合うかもしれない。最後にもう一度、感謝の言葉を伝えたかった。
 地下一階から地上への階段を上がり、外の光が射し込むまで状況はわからなかった。出口のすぐ傍まで来て、一人の男が路上に転がっているのが見えた。それでも足が止まらなかった。乾いた銃声が響き渡り、怒号が聞こえた。車体に銃弾が当たったのか、黒い車のバンパーが耳に突き刺さるような音と共に火花を散らした。
「先生!」
 徐子仙が孫小陽の姿を探した。孫小陽は身体を低く折りながら一台目の車の後部座席に飛び込むところだった。徐子仙の声にハッとして、
「来ルンジャナイッ! 下ガレッ!」
 手の甲で払った。しかし徐子仙は何とかライターを手渡そうと近づいてくる。その時、一発の銃声が響いた。徐子仙の白いブラウスが赤く染まった。孫小陽が声をあげた。徐子仙の手に金色のライターが握られている。それを手に取ると、車のドアが開いたままエンジンがかかった。キッとタイヤが鳴り、白い煙を上げる。続けて二台目の車から男が向かいのビル目がけて銃を放ち、半身の男を乗せ、勢いよくクラクションを鳴らした。コバヤシが車中で頭を抱え体を震わせていた。
「運ノ無イ子ダッタ」
 心の中で呟いた。もう二度と歌舞伎町に戻って来ることはないだろう。遠くでパトカーのサイレンが聞こえる。血のついたライターを握りしめる。まだ暮れかけたばかりの歌舞伎町を後にした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み