文字数 2,398文字

 (二十三年前 広州)

 雨が降り続いていた。

 広州市内のホテルに滞在して一週間が過ぎた。手がかりは無かった。街は灰色に濡れ、水路に海水が流れ込んでいるからだろうか、腐った潮のにおいがする。山の稜線が靄で霞んでいる。雨粒がトタンの屋根を叩いていた。額に汗が滲む。湿気が首筋や腋の下に絡みつく。タザキコウゾウが薄暗いホテルの部屋で、サワムラジュンからの連絡を待っていた。
 どうしてこんなことになってしまったのか・・・・・・。政治家としての信念を貫くことが間違っていたのだろうか? やめていたはずの煙草に手が伸びる。現地で買い求めた煙草は独特の燻したような香りを漂わせた。あの事件があってから、再び煙草を吸うようになってしまった。孫のショウとリュウには、そんな姿を見せたくなかった。あの日、フランス大使館から外務省を通じて事件の知らせを聞いた。頭の中を担当官の言葉だけが虚しく通り抜けた。
「いくらなんでも、やり過ぎだ!」
 憎しみで満たされる前に、心が空になった。中国煙草にライターで火をつける。
「煙草吸わなきゃやってられない仕事なんて辞めちまえ!」
 若い頃、後輩の政治家に向かってよく言っていた台詞だ。思わず苦笑した。現地で調達した中国煙草は少々重い。でも、そのほうが有り難かった。まだ幼かった頃のノボルの笑顔を思い出した。パリのアトリエでタザキノボル、ヨウコ夫妻が殺害されたと知らされ、すぐに現地に向かった。同郷の後輩で、警視庁の警視になったばかりのサワムラジュンを同行させた。世間には公表できない理由があった。周囲は敵だらけだった。
 タザキコウゾウの地元、岩手県に対する大きな利権が絡んでいた。もう五年も前の話になるが、原子力発電施設を一基も所有しない岩手県に、にわかに建設を誘致する話が持ち上がった。当時、国民自由党の中枢にいたハヤシマサオ代議士が中心になって話を進めていた。ハヤシ代議士は電力会社との黒い噂が絶えない男で、現にその資金をバックに成り上がってきた政治家だった。よく国会の裏廊下で彼と交わした会話を思い出す。
「タザキ君、今時原発を持たないのは岩手だけじゃよ、しかも岩手は電力の不足を他県に頼っている。もし電力がこれ以上不足したら、岩手県民はどうするのかね? 危機管理がなってないのは、むしろ君のほうじゃないのかね」
「ハヤシ先生、確かに我が県は電力の自給は追いついていない。けれども住民の生活に不安を及ぼすような原子力は必要ないと考えています。水力と太陽光、それから地熱、岩手にはまだまだ自然が残っている。都会と違って人口も多くない。大企業が集中しているわけでもない。いづれ時代は必ず再生可能なエネルギーを必要とします。過剰なものに国民の税金を投入する意味って、一体何なんでしょうか? 私は岩手県を核廃棄物のゴミで汚染された故郷にはしたくないんですよ」
 ハヤシマサオが眉間にシワを寄せ、苦笑した。
「だから岩手はいつまでたっても田舎者扱いされるんじゃよ。タザキさん、あなたのような頭の固い田舎育ちの政治家がいるから、岩手県は発展しないんだ」
「私は田舎者呼ばわりされたって構わないが、岩手県民を侮辱することは許しませんよ。我が県には誇れる自然がある。穏やかな県民性がある。作らせませんよ原発は。そもそもこんな狭い国土に五十四基もプラントがあること自体、異常なんだ。あんたたちのような一部の政治家や企業にとっては必要なのかもしれないが、国民にとって本当に必要があるものなのか考えたことがありますか?」
 ハヤシは声を上げて笑った。
「必要? だからあんたは田舎政治家かだと言われるのだよ。これは政治なのだよ。本当に必要かどうかなんて知ったことか」
 タザキコウゾウが目を剥いた。
「あなたみたいな政治家がいるから、この国は良くならないんだ」
「でも、タザキさん、かく言う私も選挙で国民に選ばれてこの場にいるんだ。そういう侮辱は国民を馬鹿にしていると思うがね」
「とにかく私は岩手県に原発は作らせない。政治生命を賭けて断固として戦うつもりだ」
「バカな男だ。ところで君のご子息は、海外では知られた画家だそうじゃないか。知り合いのコレクターが欲しがっていたよ。絵画なんてね、私の趣味じゃないがね、親子揃って変わり者だということか」
「貴様!」
 雨が窓を叩く音で我に返った。パリでの事件にハヤシが絡んだ証拠はない。そんな簡単に足がつくようなミスをするはずもなかった。きっと間に黒い影が幾人も入り込んで、辿っても決して行き着くことはないだろう。ハヤシとはそういう男だ。政治的な対立を生んだ自分が、結果的に息子を死なせてしまった。パリのアトリエに押し入った実行犯の唯一の手がかり・・・・・・現場に残された、いや、息子の体内に残された弾丸。旧ソ連軍が使用していたトカレフから発射されたものだった。それが胸に二発、妻のヨウコの胸にも一発。いづれもプロの仕業だった。強盗を装ったスナイパーだったに違いない。自分さえ、政治的な信念を曲げていれば・・・・・・コウゾウが目を閉じた。
 ホテルの部屋の電話が鳴った。サワムラジュンからだった。
「タザキ先生」
「どうだ、何かわかったか?」
「いえ、六月の雨という犯罪組織について色々と聞いてみたんですが、当局の連中も街のゴロツキも、そんな組織は存在しないと」
「何? では六月の雨とは一体何を意味している?」
「ヨーロッパで暗躍する中国系窃盗団の総称のようなものかもしれません。我々は広州マフィアという噂を聞きつけてこちらに乗り込みましたが、この街で『六月の雨』という名を知っている者は誰一人おりません。恐らく、フランスでいつの間にか呼ばれるようになったものかと」
「私は一体、何と戦おうとしているんだ」
 思わず腹の底から言葉が漏れた。雨が降りしきる中、コウゾウの心は一人闇の中を彷徨っていた。
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