三十二

文字数 1,442文字

 十一月のよく晴れた日曜日、コウゾウは二人の孫を連れて盛岡市内を流れる北上川に来ていた。釣りをする気分になったのは久しぶりだった。鱒類の遊漁は九月末までだったから、あくまで雑魚を釣るという名目だったが、魚など釣れなくても構わなかった。この日は同じく一級河川である中津川と雫石川が北上川に合流する地点、東北新幹線と東北本線の高架橋がかかるポイントの下流に入った。この場所は春先はサクラマスの一級ポイントと知られ、夏以降もニジマスの大型が釣れる有名な場所だった。
「お祖父ちゃん、今日は何を釣るの?」
 孫たちはすっかり元気を取り戻しているようだった。ショウは最近ルアー釣りに興味を持ち、近くを流れる中津川でニジマスを釣ることを覚えたばかりである。リュウはそれほど釣りには興味を示さなかったが、兄と一緒に川に遊びに行くのは嫌いではないようである。この二人の孫をこれ以上危険な目にあわせてはならない。
「お祖父ちゃんはここで見ているから、そこでルアーを投げておいで」
 この時期ルアーで釣れる魚はいないだろうが、もしかしたら深みにニジマスが潜んでいるかもしれない。岩手はもうじき急激に寒くなる。ショウが北上川の流芯に向かってルアーを投げる。それを一定のリズムで巻き上げる。弟のリュウがその様子を身を乗り出して見ている。胸が痛んだ。できることなら兄弟二人を一緒に育てたかった。両親と引き離された彼らに、もうこれ以上離別の寂しさを味あわせたくなかった。けれども、母方の実家であるサエキとは、すでに兄弟を別々に育てると話がついていた。金の問題ではない。サエキも娘を亡くしていたし、家業である商売の都合もあるようだ。大人たちの都合と言ってしまえばそれまでだが、サエキにはサエキの考えと理由があり、タザキにはこの先、兄弟の身を危険に晒す可能性が無いとは言えない。現にサワムラが撃たれた後も、脅迫めいた圧力があった。孫の身を守るという理由で、県への原発誘致を認める訳にはいかない。コウゾウが二人の孫を見ながら、そんなことを考えていた時だった。急に耳の奥に二人の孫の声が帯び込んできた。見ると、ショウのロッドが弓なりに曲がっていて、リールのドラッグが鳴いていた。
「お祖父ちゃん、早く来て!」
 リュウがこちらを見て叫んでいる。ショウは尻餅をついたのか、ジーンズが黒く濡れていた。両手でロッドを握り堪えているが、明らかに腰が引けている。
「鮭だ!」
 コウゾウも駆け出した。
「ショウ、鮭だ、サーモンだ」
 ショウは振り向く余裕も無い。ラインは見る見る出て行く。それこそ大人と子供の力比べだった。この時期、北上川には鮭が上る。宮城県の太平洋から遡上した鮭は北上川を上り中津川、雫石川、梁川とそれぞれの生まれた支流へと遡る。産卵をひかえ、この時期の鮭は餌をとらないが、ルアーがスレ掛かりすることは充分考えられる。ショウのロッドが再び大きく曲がった。すると次の瞬間竿先が弾け、、二人の落胆する声が川原に響いた。
「兄貴、ダセェ!」
 リュウが指を差して笑っている。ショウが顔を真っ赤にしてリールのハンドルをカラカラと回していた。下を向いて戻って来る。
「ショウ、引きはどうだった?」
「凄かった。こんな引きは生まれて初めてだ」
 手がまだ震えている。腕を擦った。
「腕がパンパンだ」
「そうだろうな、魚たちも命がけなんだ。お前に釣られたら死ぬかもしれない。だから全力で逃れようとするんだ」
 ショウが頷いた。そして震える手の平をじっと見つめた。
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