第4章

文字数 1,917文字

 大学に入学し早一ヶ月。特に変わったことはなかった、でも、なぜふと不安な気持ちに襲われることが多くなった。
 僕は頭がよく勉強もできる、顔も悪くないし、家も金持ちで家族の中もいい。順調に人生を歩んできているはずなのに、何かが足りないんだ。でも何が足りないんだろう、こんなことも言うのもあれだけど、最近すごく、このまま死んでしまえないかなって気持ちがよぎる。
 最近考えることといえば、過去に起こった問題を問い、なんとなく未来をずっと憂いていた。そんなこと無意味なことはわかっていた。僕が生きているのは、この瞬間、この時だけなのだ。このままだと思い出に殴られ、将来への不安に殺されてしまう。
 
 大学の授業が終わり、いつものように机の上のものを片付けて帰ろうとしていた。
「高緑くん、ちょっといい?」
  大学の石田教授が話しかけきた。
「どうしたんですか?」
「お願いがあるんだけどさ、僕の研究室の机を移動して欲しいんだけど、いい?」
 なんで僕になんかお願いをするんだろうと思ったが、多分僕が一番教授の研究室から近いところにいたからだろう。
「いいですよ。」

 教授の研究室の中は本で山積みだった。まず机の上にある大量の本を全て床に退けてから机を動かす必要があった。そして、この作業が終わったのは初めてから二時間がたった頃だった。こんなに時間がかかるんだったらあんな誘い断ればよかったか。
「高緑くん、今日はありがとう。ごめんね随分と時間がかかっちゃって。」
「全然、大丈夫ですよ、それでは、」
僕は帰ろうとした。早く帰りたかったんだ。
「ちょっと待って、僕のもう帰る時間だからよかったら、車で家まで送っていくよ。君どこ住んでるの?」
「いいんですか、僕は牛込柳町に住んでます」
 
 そして、僕は教授の車に乗った。
「ねぇ、 君はさ、何か悩んでることとかないの?」
いきなり聞いてきた。なんでいきなりそんなことを聞くのだろうか。
「あぁ、あるんですけど、なんて言ったらいいのかな、とりあえず、僕、普通に生きてたら、普通に大人になれるものだと思ってたんですよ。でも、最近そんなことないんだなってやっとわかってきて、、、、、教授にこんな話なんかしてしまって、、」
「う〜ん、でもね君のその悩みは時間が解決してくれると思うんだ。だから、今はそのままでいいと、僕は思うけどね。」
「はぁ、、、」
「だって、現に今だってちゃんと毎日大学に通っているだろう。それだけで十分だよ。それ以上のことなんか、求める必要なんてない。」
  石田教授の言う言葉は、なぜか僕に安心を与えてくれる。この時思った、僕は石田教授のような大人に出会うのを待っていた。
 教授に僕のくだらない人生相談に乗ってくれている間に僕たちを乗せた車は目的地についていた。
「じゃあ、またね。高緑くん。時間が合ったらまた送るよ。」
「ありがとうございます。じゃあ、また明日。」
「また明日。」
 
 こうして僕と石田教授はたまに会い、いろいろな相談をした。多分、この大学で石田教授と一番一緒にいる時間が多いのは僕だろう。
 石田教授の話は僕は大好きだ。彼はとても優しい。僕のことをわかってくれている。両親なんかよりも。

 ある日、石田教授が自宅で脳出血で倒れ、救急車に運ばれ、小一時間後に死亡してしまった。それは9月の下旬のことだった。

「あんないい人も、死ぬときは死ぬんだな」

 僕は教授の葬式に参列した。特に話す人もいないので、帰ろうとしていたところに女の人が話しかけてきた。
「高緑さんですか?」
「はい、、そうですが、」
「あの〜、私、石田の妻です。」
「あ、石田教授の、、この度は、ご愁傷様です。」
「高緑さんのことは、主人がよく私に話してくれていました。夫が普段大学の生徒のことについて話すなんて珍しいと思っていました。うちの主人がお世話になったみたいで、一度礼を言いたかったんです」
 そういう石田教授の奥さんの目は鋭く、怒っているようだった。
「いえ、お世話になったのはこちらの方です。僕は石田教授から大切なものをたくさん教わりましたから。」
「そうですか、、では、これで、、失礼します。」
 僕は早く一人になりたかった。一人になって、感傷に浸りたかった。

 そして僕は近くにあったレトロな喫茶店に入った。たまたまここの店は今では珍しく禁煙可の喫茶店だった。本日のおすすめのコーヒーを注文する。
 タバコを吸いながらコーヒーを飲んでいた。
「あぁ、美味しいなぁ。」  
 僕にとってはこの瞬間が幸せの瞬間なんだ。タバコを吸いながらコーヒーを飲んでいる時間がとても幸せなんだ。そうだ。それだけでいいんだよ。

 それ以上、何もいらないだろう。

      終わり。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み