覆水(2)

文字数 2,907文字

 客室の準備を終えた瑠偉が駆け寄ってきて慎也に訊ねた。
「今日、二組のバーベキュー予約があったんたんですけど、一組は夕食済ませて来たってことでキャンセルになっちゃいました。一応当日キャンセルはお代を頂くことになってますが、どうしますか?」
「何人分?」
「五人です」
「瑠偉君、キャンセル料は貰わなくて良いよ。私たちで頂いたらどうかな?」慎也は全員を見渡した。
「賛成!」と美彩は手を挙げ、「私も」と奏もそれに続いた。
「僕も参加していいんですか?」と宗一が躊躇していると、麗が腕に手を回して「宗一も一緒に」と言った。
 慎也はキャンプ用のバーベキューセットを準備し、瑠偉はドリンクのカートに食材を載せて運んできた。
「ここは暗いから、あっちの広い駐車場でやりましょう」

 瑠偉が利用客の対応で動き回っている間に、慎也たちは向かいの家族に気遣いながら静かに乾杯した。
 バーベキューの傍らで、宗一は愛車シトロエンDSのドアやボンネットを開いてモーターショーのように披露し、慎也たちがシトロエンを眺めている間に麗の隣に移動した。
「私のポルシェ、その後どうなったの?」
「ちゃんと綺麗に修理されて、去年車検も通したよ。調子が悪くならないように時々走らせてるけど、今度ここに持ってこようか? 麗にも足が必要でしょ?」
「わたしはこんなだし」とお腹を擦った。「慰謝料代わりに宗一にあげる」
「慰謝料は請求しないつもりだったけど……」
「いらないなら瑠偉君にあげちゃおうかな?」
「それはおかしいでしょ?」
「冗談」と笑う麗の顔を見て宗一は安堵の溜息を漏らした。
「まぁでも、こうやってちゃんと話が出来るようになってほんとによかった」

 先にバーベキューを楽しんでいた家族がキャンピングカーの車内に戻り、バーベキュー・スペースの片付けを終えた瑠偉が仲間に加わった。
「お疲れさま」と全員で瑠偉を労い、「瑠偉君、どうぞ」と美彩が缶ビールを手渡す。
「サンキュー!」
「ちゃんと君の分もあるからね」と美彩はペーパープレートに乗せた肉や野菜を渡した。
「うぉー! なんでこんなに温かいんですか!?」
「これこれ」と美彩はポータブルバッテリーに繋いだ保温庫を指さした。麗は身体を冷やさないよう電気毛布で身体を温めていたが、その電源も美彩が持ってきたポータブル・バッテリーから取っている。

「美彩さんも慎也さんと知り合いみたいですけど、どういう関係なんですか?」
 瑠偉が問いかけると、しばらく沈黙が続いた。
「なんかオレ、まずいこと聞いちゃったのかな?」
「そういう言い方もまずいかもしれないよ」と麗が窘めた。「大人には大人の事情があるからね」
「いつか瑠偉君にも話すよ。その大人の事情。でも今はまだ待ってね」と美彩は笑った。

 六人がそれぞれに身の上話を続けているうちに、全員に共通点があることに気づいた。
「私は妻との離婚を経験したけれど、瑠偉君と美彩ちゃん、それに申し訳ないけれど奏は両親の離婚を経験しているわけだ。宗一さんと麗は両親の離婚と自分自身の離婚の両方になるけれど……」
「そう言えばそうですね」と宗一が言った。「離婚の手続きはこれからですけど」
 突然、瑠偉が立ち上がって宗一に頭を下げた。
「今朝はすみませんでした」
 そのときパーカーの裾が引っかかって飲みかけの缶ビールが音を立ててアスファルトの上に落ちた。
「ごめんなさい!」
「大丈夫? 服は汚れなかった?」と美彩は瑠偉を気遣う。
「大丈夫だけど、これ最後のビールですよね?」と言いながら、瑠偉は空になってしまったそれを拾って空き缶で膨らんだビニール袋に放り込んだ。零れたビールは水溜まりのようになって、少しずつアスファルトの路面に染み込んでいく。
「覆水盆に返らず……って諺、知ってるかな?」と慎也が尋ね、美彩が応えた。
「こぼした水は元に戻せないって意味?」
「中国の『拾遺記』に書かれた故事ですね。周の国の呂尚(りょしょう)馬氏(ばし)という夫婦の話」と説明したのは宗一だったが、その先を続けたのは瑠偉だった。
「呂尚が読書ばかりして働かなかったので、妻の馬氏は愛想をつかして実家に帰ってしまったんですよ。でも、呂尚が大出世して『太公望』と呼ばれるようになると、馬氏は復縁を求めてきた。その時に呂尚はわざと盆の水をこぼして『この水を元に戻せたならば、復縁に応じよう』って言った……そういう話ですよね」
「へぇ」と美彩は人一倍大きな目を更に大きく見開いて瑠偉を見つめた。「瑠偉君すごいね」
「二人とも若いのによく知ってるなぁ。それにしても僕たちが誤解していたことで、宗一さんには随分と辛い思いをさせてしまったね」
「誤解は解けたし、それ以上に麗がちゃんと生きていてよかったです。今は幸せそうだし」
「慎也さん」と美彩が呼びかけた。「私がしてしまったこともその覆水と同じじゃありませんか? 絶対に取り返しのつかないこと。私があんなことをしなければ、慎也さんは離婚もしなかった……」
 慎也は静かに笑みを浮かべている。
「それなのになぜ私のことを許してくれたんですか? 聖書を信じているから?」
「許したと言えるのかな? でもそれを覆水と言うなら僕も同じだよ。あの頃の君はまだ幼かったから」
「私は無知で愚かだっただけ」
 それまでずっと話を聞いていた麗が呟いた。
「愚かって言葉……わたし嫌い」
「あなたのことじゃないよ。私が愚かだったの」
「誰のことでも……」
「さっきの故事の話の続きだけど……」と慎也は語り始めた。「馬氏は零れた水を手で掬おうとしたけれど、泥ばかりで水は掬えなかった。でも、僕はその先を考えてみたんだ。確かに零れた水は盆には返せない。でも、零れて土に染み入った水もいつか蒸発して水蒸気として空に昇り、上空で冷やされて水滴になって雲が生まれる。それが雨になって大地に降り注ぎ、川になってやがては海に流れていく。海は全てを受け容れるからね。だから人も皆んな海のような心を持てばいいんじゃないかな? 許すとか許さないとか、そういうことじゃなくて、海がすべてを受け容れるように、すべてをありのままに受け止めて、受け容れる……自分もそんな人間になれたらいいなってね」
「慎也さんはもうなってると思う」と麗が呟くと、慎也は照れ笑いを浮かべた。
「オレも海みたいな人間になりたいです」と言ったのは瑠偉だった。

 美彩は慎也に耳打ちすると自分のモーターホームに向かい、片手にシャンパンを、もう一方にボルドーの赤ワインを持って戻って来た。
「さっきは瑠偉君がいなかったし、どうだろう? あらためてもう一度みんなで乾杯しては」
「それじゃ、オレが音頭とってもいいですか?」
 異を唱える者はいなかった。慎也は麗のグラスをノンアルコールのスパークリングワインで満たし、美彩が残り五つのグラスにシャンパンを注いだ。全員にグラスが行き渡った様子を確かめると、徐ろに瑠偉が立ち上がる。
「それじゃ、海と、満月と……えーと、オレたちの未来に? 乾杯!」
「乾杯!」
 それぞれの思いを満たした六つのワイングラスが互いに触れ合って和音を奏で、その心地よい響きは月明かりの夜空に融けていった。

       【了】
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み