ラ・カンパネラ(2)

文字数 2,327文字

 奏が中高一貫の女子校に進学した頃から父親の慎也は極端に帰宅が遅くなり、会社に泊まり込んでいるのか翌日まで帰らない日も少なくなかった。そんな朝、一人目覚めた奏は自分で用意した朝食を終えると、正午近くまで寝ている母親のためにブランチを作ってテーブルにセットし、一人でゴミ出しをしてから学校に出かけた。レンジの温め時間をメモしておいても、奏が帰宅すると食事はラップされたまま手を付けられていないか、食べかけのままテーブルに置き去りにされていたことが殆どで、光が完食してくれることはごく希だった。そんな母親だったが、音楽室にいるときだけは生き生きとしていた。そしてピアノの演奏のことになると一切の妥協を許さなかった。
「あなたには表現力が全くない。ロボットじゃないんだからただ音符通りに正確に弾けば良いってものじゃないの」と娘に対しても容赦なく、傷つけるような言葉を平気で口にした。「あなたに奏なんて名前を付けなければよかった」
 そんなとき慎也は母親に代わって頭を下げ、奏を励ましてくれた。
「酷いことを言ってすまなかったね。でも、ママのことを許してあげて欲しい。彼女は奏に期待しすぎていたから、自分の言葉が君を傷つけてしまうことがわからないんだ。でも、奏にはピアノ以外にも得意なことが沢山あるだろう? ママのようなピアニストにならなくても、自分がやりたい道に進めば良いんだからね。お父さんは奏のことをいつも応援しているよ」

 信じていた父親の逮捕を知った時、奏は強いショックを受けた。
 自宅のテレビでニュースを見ていた奏は、生まれて初めて過呼吸の発作を起こして意識を失った。しかし、救急車の担架で意識を取り戻したとき、自分以上にショックを受けて取り乱している母親の姿を目にして奏は自分の使命を覚った。

 奏は長身で体格には恵まれていたが、運動が苦手で性格が大人しかったため、クラスで虐めの対象になっていた。試験休み中に父親の事件は周囲に知れ渡り、休みが明けて久しぶりに登校する奏を待ち受けていたのは容赦ない罵声と残酷な虐めだった。担任から注意を受けてあからさまな虐めは影を潜めたが、陰湿な嫌がらせは続いていた。そんなある日の昼休み、奏を二年先輩の佐藤美彩(みさ)が訪ねてきた。三年になって進学コースに復帰していたが、一二年の時はかなりの問題児だったと噂されていた先輩が突然現れたことで教室は一瞬で鎮まりかえった。
 父親を『被害者』と言ってくれた美彩は奏に一筋の光を与えてくれた。「テレビや週刊誌で言ってることなんて嘘ばっかりだ」と言う美彩の言葉には説得力があった。しかし、同時に不可解でもあった。事件は試験休み中の金曜日に起きていた。美彩は父親と同じ電車に乗り合わせていたというが、なぜ好き好んで混雑する時間帯にその車輌に乗っていたのだろう?
 奏の脳裏に一年前の記憶が蘇った。
 早朝のまだ暗いうちに奏が目を覚ますと、深夜に帰宅した父は書斎のデスクの前でうたた寝していた。奏は風邪をひかないようにと父の背中に毛布を掛けたが、そのときデスクの上の液晶画面にはプライベートチャットのウィンドウが表示されていた。父のプライバシーに踏み込んでしまうことに一瞬躊躇(ためら)いながら画面内のハンドルネームに目を向けると、一方は『フラジャイル』で、もう一方は『シュガー』となっていた。会話の中で『フラ』と呼ばれているのは慎也に違いなく、相手は若い女性のようだったが、会話の中に奏の学校の名前を見つけた。もしその『シュガー』が佐藤先輩とすれば辻褄が合う。二人の間に何があったのだろう? 疑問に思いながらも奏は追求するのを止めた。直接尋ねる勇気は持ち合わせていなかったし、奏は二人とも信じていたかった。

 事件以来、光は音楽室に引き籠もって来る日も来る日もリストの『メフィストワルツ』を演奏し続けた。そんな日々を奏は一人で耐えていたが、担当弁護士が「この事件は冤罪であり容疑者は寧ろ被害者である」と主張してくれたことで、慎也は勾留を解かれることになった。電話で父の帰宅の知らせを聞いた奏は、父親をどんな顔で出迎えたらよいか悩んだ末に、小学生の頃に母親の代わりに料理したのと同じレシピでカレーライスを作ることにした。
 帰宅した慎也は奏の顔を見るなり擦れたような声で「ありがとう」と礼を言ってくれた。受け取った上着は汗や泥でよれよれになっていて、その顔も娘の目にはずいぶんやつれて見えた。
「カレー作ったから一緒に食べよ」と奏は精一杯の笑顔を向け、半開きになっていた音楽室のドアを外から閉めて、母親が来る日も来る日も同じ曲を演奏し続けていることを父に伝えた。きっと母の心は壊れてしまったのだろう。普段からあまり会話を好まなかった光は、奏とも一言二言程度しか会話をしなくなっていたし、一緒に食事することも殆どなかった。そんな様子を伝えると父親はとても悲しそうな顔をした。
「心配かけてごめんね。ほんとうにすまなかった」
 頭を下げる父親の姿を見たら奏は悲しくなってきたが、泣いてはいけないと思い、父に気づかれないように涙を拭った。
「せっかく帰れたんだからもう謝らなくていいよ」と精一杯の笑顔を見せ、父親を励ますつもりで「お父さんは被害者だ」という言葉を先輩から聞いたことを伝えた。奏が弁護士に佐藤先輩のことを話したあと、急に父の勾留が解かれたことは偶然ではないと考えていた。
「そういうことだったのか」と慎也は呟いた。「もしあの子が法廷で証言してくれたら……」
 やはり父親は佐藤美彩を知っていた。真実を知ることが怖くて二人の関係を尋ねる勇気が持てなかったが、奏も先輩が法廷で無実を証明してくれることを心から願っていた。

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